• ベストアンサー

芸術の重さ

littlekissの回答

回答No.6

こんばんは、noname002さん。 ●「人一人の心は芸術より軽い」と言えるんだろうか???と。 ↑ 言えるんじゃないですか? たとえば、朝からTVをつければワイドショー番組こぞって倖田來未ちゃんの発言をきいたリスナーから抗議の声がどうたらこうたらと騒がしいこと。取り立てて倖田來未ちゃんに限ったことではなく、誰それがどう言ったこう言ったという話は発言者は変われど、こと何かに障るのかして泡立つ。なんなんでしょう?波動エネルギーの作用か?と。

noname002
質問者

お礼

さて コミュニケーションにおいて書き手或いは発信側と受け手とは双方向性のものであるはずです。基本的に、どちらか一方にだけ多大な犠牲を強いるべきものでないと思います。 「身の内の言葉の蓄積」とやらが人も自分も豊かにしないとしたら 「身の内の言葉の蓄えが、しんどく思える状況を回避」できずに、かえって壁を積み上げ、いたずらに人も自分自身さえも追い込んでいくとしたら あちらこちらで何の非もない人たちを不快にし『リアルで出会ってたら殺してた』と言われてしまうほど自分の品位までも貶めてしまったりするとしたら 長年親しんできた人が徐々に離れ、何も言わず或る日突然去って行くとしたら 何故なのでしょうか。 「言葉を覚える」のが、ただ羅列や小賢しいカムフラージュや奇を衒うことのため、自分自身をも欺くためなら、いやがうえにも虚しいことです。単に商売のためのコピーとしてすらも。 また「本歌取り」というものも、他人を抹殺するための技術ではないはずです。 他人の発言など構うな、と言うのは実は自分自身がそうありたいと強く願っていることなのに、その自分をすり抜け、他人に対して、そのようであれと強要する人は、真実の姿を映す鏡というものがあったなら、そこに映る自分の姿を直視することができないでしょう。こういう人に哲学は無理だと思います。 根本的に何かが分かっていない分かることができない。仕方のないことだけれど。放棄してしまって、どんどんとズレていき、その先で辛うじて生き延びようとするのだが。 意味など全くないなら黙っていればいいものを何故か黙っていられない。もはや醜悪によってしか人目を引けない。 「…中身のないことばは、聞き手が内心で期待していることと共鳴する場合に最も魅力的なものとなるようだ。だとすれば、そういう言説は弱い人々もしくは弱いと感じている人々に最もウケが良いだろう。本当に力を持った人々は他人に立場を保証してもらう必要はないからだ。」グレアム 受け手側の「身の内の言葉の蓄積」が貧困であろうと、発された豊かな言葉は、そういう受け手をも富ませます。ほんとうの豊かな言葉は、拙くとも、たとえ厳しいものであっても、空虚としか呼べない結果を齎しはしないものです。 ――と、このように思っています。 なお 一たび返事をして質問を閉じるまで来られてはスペースと時間の浪費なので最後に廻させていただきました。

noname002
質問者

補足

以下 あなたに御理解可能か甚だ心もとないですが 「社会や集団というものは、一旦その個人が異質な言動をとった途端その個人の言葉づかいのどんな細部にも異質なものを発見しようとするものなのだ。ムルソーはそのことによって異邦人にさせられたのだった。」カミュ『異邦人』松岡正剛/千夜千冊 「社会や集団というものは」という部分に「或いは内部の各人において」と続けてください。 「言語が正常に機能しなくなり自身の無に気づいた瞬間、人は精神を病む」ラカン 「認識するとは現実に対し然りを言うことだが、これが強者にとって止むにやまれぬまでに必要であるのと同様に弱者にとっては、弱さのインスピレーションに触れるや否や現実に対する臆病さと現実からの逃避が―即ち「理想」が、止むにやまれぬまでに必要となって来るのである。」 「もしも自分がそれをして平気でいられるだけの豊饒さを備えているとしたなら不当なことを実行するのも一つのいいことですらある。」 であれば「それをして平気でいられるだけの豊穣さを備えて」いないゆえ小細工や言い訳が必要になる。 「悪意というものは他人の苦痛自体を目的とするのではなく我々自身の享楽を目的とする。」ニーチェ 「キャンプ趣味とは何よりも享楽乃至享楽の仕方であって、判断の仕方ではない。キャンプは寛容なのだ。それは快楽を欲している。」 「キャンプ趣味とは一種の愛情─人間性に対する愛情─である。」ソンタグ 「何がトリックなのだろうか。おおざっぱに言えば、観客をナメているものだ。」グレアム 「世界の組織のなかでは他者は無きに等しい。だが他者は私に闘いを挑むことができる、つまり他者を打つ力に対して、抵抗力によってではなく、その反応の予見不可能性そのものによって対抗しうる。他者が私に対抗するのは、より大きな力によってではない。即ち、算定不可能であり、したがって全体の一部分をなすかのようなエネルギーによってではなく、この全体に対する他者の存在の超越そのものによってなのである。この超越は何らかの権力の最上級ではなく、まさしく他者が超越することの無限性である。この無限が、殺人よりも強く、他者の顔においてすでに我々に抵抗している。この無限こそが他者の顔であり根源的な表出であり《なんじ殺すなかれ》という最初のことばなのである。」レヴィナス『全体性と無限』  今様の事どもの珍しきを言ひ広め、もてなすこそ、またうけられね。世にこと古りたるまで知らぬ人は心にくし。  いまさらの人などのある時、こゝもとに言ひつけたることぐさ、物の名など、心得たるどち片端言ひ交し、目見合はせ、笑ひなどして、心知らぬ人に心得ず思はする事、世慣れず、よからぬ人の必ずある事なり。 『徒然草』七十八段 ○さんはそこに存在するのだけれど●さんには頭の中で認識されていない状態なのだろうか、はたまた●さんは初対面の人間に接する仕方を知らないのか、または知らないでも済む環境で生きてきたのか定かではないが○さんにとっては迷惑な話だし「何という失礼な人だ!」と思うのは当然だ。 人は認めてもらいたいという欲求があって、認められて初めてその欲求を満たすことができるわけだが、このようなのはそれ以前の話だろう。 これは実際にあった話だが、こういう人とは二度と会いたくないと思ってしまう。 会ってもメリットが全くないし、ただ単に時間を無駄にするだけだからだ。 やはりこういう場合はグループを良く見極めて自分にとって無益なものと感じたら、さっさと見切りを付けるのがいい。 付き合うなら、より質のいい人達と付き合いたいものだ。 そして初対面の人には出来るだけ親切に接したいものである。 何故なら初対面というだけで相手は不安を感じているのだから。(Vivere様) 『贖罪の 羊立てねば 仲の良さ 示せぬならば 友は持たずや』(鵺娘様) >「人一人の心は芸術より軽い」と言えるんだろうか???と。   ↑ 言えるんじゃないですか? 倖田來未ちゃんの発言を云々から、どのようにして、こう帰結されるのですか。それとも単に質問返しでしょうか。 >こと何かに障るのかして泡立つ。なんなんでしょう?波動エネルギーの作用か?と。 そうですね当初から頻りに泡立っておられるらしくて、いったい何に障っているためなのか?と思ってました。 抗議に一切耳を貸せないほど硬直しきった態度に、せっぱ詰まった穏やかならぬものを感じさせられたのは「波動エネルギーの作用」とやらのせいだったのでしょうか? 相手が、自分に不利益を齎すに違いない「波動エネルギー」だと判断したらしいその結果どんな感情を抱き、どう考えたか、その後の言動・行動を観察していれば自ずと窺えるもののようです。 そういえば、いつぞや「ずば抜けた翻訳力」などとコソッと呟いておられましたっけ笑

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