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回向について教えてください

1、まず、善悪は存在するんでしょうか? 2、回向とは何ですか? 3、基本的に自業自得だと思うのですが、業と回向との関係はどうなっているのでしょうか? よろしくお願いします。

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回答No.5

もうすでに皆さんの回答で納得されているかもしれませんが、教学的な扱いについて少しお話させていただきます。 >>1、まず、善悪は存在するんでしょうか?  仏教における善と悪とは何かということについて、まず悪とは「無明」という観念において捉えられています。「無明」とは何かといえば、根本的には物事の真理に対しての無知を意味しています。仏教における「苦」を日本語に意訳すると「思い通りにならないこと」と訳すそうですが、仏教に説かれる縁起の法則を知らずに自分勝手な行動で何か思い通りにしようとしたとしても、思い通りになるわけもなく、人間は苦しみます。ですから、人間の苦しみの根本にあるのは「無明」という理に対する無知が原因となるわけです。この「無明」を滅することが仏教の根本的な目的となります。  仏教用語としての「悪」の語が用いられる場合、当然のことながら「無明」と関連して捉えられます。この「無明」を滅するための仏教の理法(教義)にしたがって仏道修行の実践そのものが「善」の実践であるのに対して、このような仏教の説く縁起の法則に対する無知に基づく行動を「悪」と捉えることができます。それは、『大乗義章』のなかで、 「理に順ずるを善と名づけ、理に違するを悪と名づく」 と説かれていますし、『法界次第初門』のなかでは 「悪はこれ理にそむくなるが故、現在将来に苦を招くと知らば、すなわち必ず悪をやめて善を行ずべし」 と説かれています。そういった、善悪観を基に具体的な悪として「十悪」というものがあげることができます。  仏教では行為(業)を三つに分けることが出来るとしています。一つ目が体の行動(身業)、二つ目が口から出る言葉(口業)。三つ目が心の思い(意業)、この三つです。この三つの行為(業)をもって行う「悪」として十悪が説かれます。 ●身業 殺生(殺す)・偸盗(盗む)・邪淫(淫らな性交渉) ●口業 妄語(うそ)・綺語(お世辞)・悪口(わるぐち)・両舌(二枚舌) ●意業 貪欲(欲しがりの心)・瞋恚(怒り)・愚痴(理解しようともしない) 後ろの()は私なりの解釈ですからご自身で調べるのもよいと思いますが、こういったことを「悪」として、こういったことをしないのが「善」ということにもなるでしょう。 >>2、回向とは何ですか?  回向とは廻向とも書きますが、「廻転趣向」の略語です。自分がなした功徳善根が自分自身を悟りへと導くと同時に、他者にまで悟りを得さしめようという意味になります。初期仏教においては『餓鬼事経』において、 「慈恵(めぐみ)をなし、慈悲を与えて我等のために献げよ。汝の恵により、施与によって、悲惨なる中生命を保つなり。」 と慈悲による布施を強調します。その流れを組んで、大乗仏教の菩薩思想は展開していきますが、そもそも菩薩はbodhi-sattvaの訳語です。bodhiは悟り、sattvaは衆生、両語を結合して「悟りを求める人々」となります。「悟りを備える者」という意味でも使われますが、sattva自体が執着する者という意味を持ち合わせるので、「悟りを備えている」という表現はおかしくなりますので、「悟りを求める者」として使われることが多いですね。こういった菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、全ての仏・菩薩に共通する願いでもあります。それは、 1、衆生無辺誓願度・地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するぞ 2、煩悩無量誓願断・煩悩は無量だが、すべて断つぞ 3、法門無尽誓願智・法門は無尽だが、すべて知るぞ 4、仏道無上誓願・成仏の道は無上だが、かならず成仏するぞ 「廻向」ということを中心に考えたとき、この一番目の誓願が注目すべき点になります。この四弘誓願を踏まえて菩薩というものを考えると、菩薩とは「すべての者とともに、悟りを目指す者」という言い方が出来るかもしれません。このことは『華厳経』の中には 「この菩薩摩訶薩は一切の諸々の功徳を修するとき、かの善根をもってかくのごとく廻向し、この善根功徳の力をして一切の処を至たらしむ」 と説かれています。この「菩薩摩訶薩は一切の諸々の功徳を修する」ものが自分ひとりが悟ろうとするのではなく、自分のつんだ善根をもって「一切の処を(悟りへと)至たらしむ」働きかけを廻向と呼ぶことが出来るでしょう。 >>3、基本的に自業自得だと思うのですが、業と回向との関係はどうなっているのでしょうか? 多分ここが最も中心となる質問になるでしょう。仏教は「自業自得・因縁因果・因果応報・自因自果」が基本にあります。他者の善根で自分が悟る縁というものが生まれるのか??ということになるかと思います。これに関しては、浄土真宗の節談『大原問答』このような質問がなされています。そこでどのような回答がなされたかといえば、このような例え話がされています。 ある病気がちな息子をを持った両親が、息子はまじめであるが病気がちのためなかなか仕事が出来ずに年末に毎年お金を借りに来る。そのときのために、一年間「金の亡者、強欲者」とののしられながらも、年末には息子の安心する笑顔が見たいと、切り詰め切り詰め、働き働きすごしておりました。 早く一年間ためたお金を見せて安心させてやりたいと待っては見るものの、その年に限っては、28日になっても来ない。29日になっても来ない。ついに大晦日の夜になっても来ない。そのときおばぁさんは、 「じいさんや、息子がこうまで来ないということは、毎年まいときお金を借りるのが申し訳なくて自殺してはいないか。来年は正月早々死体の掃除かもしれん。」 と心配そうに申しますと、じいさんいても立ってもおられず、息子の家まで急いで向いますというと、中では丁度その息子は 「おっとう、おっかあ、申し訳ない」 といろんなところに謝り果てて、首をくくろうとしているところでした。それを見たじいさんは、中へ駆け込んで、 「何をする馬鹿息子が、親の気もしらんで首をくくろうなど何たることか。この一年間金の亡者・強欲者と罵られながらも、最後にお前の安心したかをが見たいと働き続けた親心も知らんと馬鹿もんが」 たしかに、そのお金は他者が作った因であるかも知れません。けれども、息子がいただけば息子の因。また、それをいただかぬは、親不孝、親泣かせの仕打ちであるぞ。仏の大悲もまた親心のように深いもの、すべての者を悟らして安心する顔が見たいぞといつでも、自分の善根功徳を振り向けてくださっている。それに気づかぬは、やはり親不孝、親泣かせの諸行でござる。・・・ というような、お話です。確かに仏教の基本的な思想は「自業自得・因縁因果・因果応報・自因自果」ですが、その行為の結果によって得たものを独り占めにせずに、すべての者とともに分かち合うというのもまた仏教のようです。 長々書き連ねました。支離滅裂な駄文のため読みにくいところ多々あるかと思いますが、文意を読み取っていただきたく思います。お答えになっているかどうかは分かりませんが、参考にしていただければ幸いです。 合掌 南無阿弥陀佛

noname#52670
質問者

お礼

大変専門的で丁寧な解説ありがとうございます! 読んで理解するのも難しいですが ゆっくり調べて理解していきたいと思います!! ありがとうございました。

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その他の回答 (4)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

2、回向とは何ですか? わかりやすくいえば、 回向(えこう)というのは光をたむけることです。例えば、漆黒の闇にいる人物にライトを当てることですね。その光により周りや手向けられた方が自身を見ることができますね。だから回向をするということは光が強い人でないとできないんですね。この光を愛と呼んだり慈悲と呼んだりもしますが、照らすことに他なりません。だから、心が光を強く発していない人、あるいは暗い場合は回向になりません。そういうものです。光自体は仏神よりきますから回向するというのは回向する人がよくその光を反射できるということですね。よくその光を反射できる人は仏神によく愛される人と同義語ですね。だから回向(えこう)は安易にすべきものではないですね。回向というのは身内への愛念をおくるというよりもっと救済力のある宗教的な力ということです。 参考までに

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >回向(えこう)というのは光をたむけることです。 なるほど。光にたとえるのはとてもわかりやすかったです。 >だから回向(えこう)は安易にすべきものではないですね。 ここが興味深いなと思いました。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.3

<<1、まず、善悪は存在するんでしょうか?>> 仏教での善悪は「心」で判断します。 簡単に言えば。「欲」「怒り」がはいていれば悪業。慈悲喜捨などが入っていれば善業。といえると思います。 自分で評価しなければなりません しかし完璧に評価するのは困難です。 今の油の温度を180度だと評価しても170度かも知れませんw だから経験から精度を上げていくしかないんじゃないかと。 もちろんいろいろな方々の意見も参考にしつつね。 何でも鵜呑みにすると危険ですから。注意。 <<2、回向とは何ですか?>> 回向ですが、言葉を変えれば「随喜」です。 本当に分け合えるのかは知りません。 しかし怒った人がいるとその部屋中にピリピリした空気が流れるように、善い感情も回りに多大な影響を与えることもあるでしょう。 それが「随喜」です。 生きとし生けるものに届いてるかは僕の能力では確認できませんが、届いてほしいなと思う事で、さらに慈悲喜捨の心が広大に広がっていきます。し功徳に対する余計な執着を取り除くのにも一役買っていると感じています。 <<3、基本的に自業自得だと思うのですが、業と回向との関係はどうなっているのでしょうか?>> 僕も基本的に自業自得だと思いますが、上記どうり、の理解です。 周りの人が楽しそうに明るく笑っているとこっちも楽しくなる。 その延長上に回向があるきがします。 お役に立てれば幸いです。

noname#52670
質問者

お礼

こちらのほうにも回答ありがとうございます。 善悪に関しては相当、心が重視されるのですね 確かに感情は他人に影響を与えますね。そうやって伝わるものもあると。 様々な要素が組みあわってできているわけですよね。 私の質問の仕方が相変わらず、どちらか一つ。みたい なのは反省する必要を感じました(汗) 仏教に関してよかったら、またご教授ください。

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noname#80116
noname#80116
回答No.2

 No.1です。     たしかに 回向はお分かりだと踏んでいました。そして じつは わたしは 回向について 知りません。愛の行為に包括されると思っています。  存在が 善です。存在が存在であるという自同律も 善だという想定になります。  この存在の維持 あるいは 存在の宿すもろもろの能力の発揮 つまり存在の存在たることを保持するための能力の発揮 これらも 善です。要するに 生命とその維持(愛)が 善です。  行為・業・功徳・そして善悪の価値判断 すべては この定義から出てくると思います。  ただし 実際に具体的な一つひとつの考えや行為について 価値判断するというのは こんどは 一般に経験合理性に照らしたその妥当性が 言論として争われます。  この価値判断を明らかにして 思想(生活態度)を確かなものにしていくことは それを ただ自分ひとりでおこなっているものでも すでに 回向であると わたしは理解しています。  (そうとう 説教調になりました)。

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私も慌てて仏教辞典引いたくらいの理解ですので なにもわかってないようなものです。 結構、善悪の問題が重要だなって感じはしました。 アウグスティヌスも悪はどこから来るか相当に悩みましたものね。

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noname#80116
noname#80116
回答No.1

 被造物は最も高く善でもなければ 互いに等しく善でもなく また変わることなく善でもないが それにもかかわらず ひとつひとつが善である。しかも同時に全体としても 《はなはだ善である》(創世記1・31)。というのは 全体の驚嘆すべき美は万物から成り立っているからである。  ・・・  だが悪と言われているものは 善の欠如以外の何であるか。  事実 動物の肉体にとって 病気や傷によって害を受けることは 健康を奪われることにほかならない。(* その意味でも 善の欠如だと言おうとしている)。・・・  そのように精神の悪徳はすべて自然的善の欠如なのである。この欠如がいやされると それらの悪徳は他の所に移されるのではなくて かつてそこにあったものが 全然なくなってしまうのである。というのは 健康状態においては それらの悪徳は存在しないからである。  § すべての被造物は善である しかし最高に善ではないから朽ちる  すべて存在するものは・・・その創造者と同じように最高に善であるのではないから その中で〔存在する〕善が減少することも増加することもあり得る。  しかし善が減少することは悪である。だがいかに善が減少しても(もしまだそこに存在者が存在するのであれば)何かが残らざるを得ない。そしてそこから存在者が生じてくるのである。・・・  ・・・  存在するものに 朽ちることのできない或るものが残存するとすれば その存在するものは明らかに朽ちないものとなり 〔一部分が〕朽ちることによって 〔かえって〕大きな善に到達することになるであろう。  (アウグスティヌス:『信仰・希望・愛』赤木義光訳 第一部 創造論 第二章 悪) * 切りがないようなので この辺で とめます。  yukiyama20さん 意外と 基本的なことがらを通って来ておられないようですね。(えらそうに言いました)。

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 どうも私、仏教苦手で…(汗) 善業、悪業と明確に存在するなら別に悩まないんですが 業というのは行為なわけで。善悪の区別が無いと思われるのです。 そして、善悪がその実、同一のものであって単に現れ方に過ぎない 全ては善だった。もしくは何も価値判断なんてないんだ。 ってことになりますと 回向というのは功徳を他者に振り向けることなわけで。 もしかしたら善悪なんて無いのに回向が成り立つの? というか業は基本的に自分自身でどうにかするしかないのに 自力系の仏教が回向っていえるのかな?と。

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