§ 59 生きること。存在。
★ まさに脳を洗うと書いて洗脳しなければ。
☆ いままさにしているぢゃないですか。
★ まさに「ゴミ」に穢されていない「聖なる」「清らかな」存在だったことでしょう。
☆ 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前だという或る種の仕方で特殊な時期をあつかっています。
きよらかなおそれは そのような赤子の状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがつく》という事件をはさんで前後の違いがあります。したがって 後の段階では 聖なる甘えと同じ状態をこそ言うために しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを持っている状態》と呼びます。
聖なる甘えは きよらかなおそれすら――おそれすら――まだ持てない状態です。
《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無根拠にて受け容れているという意味です)。
そうしてこの共同主観に立つわたしは 基本主観の動態として生きる。その文体としての自己表現をおこなうにあたっては だからけっきょくその共同主観から逸れることはないかという――あのやましさ反応と何らかのかたちで相携えてはたらくかのような――《きよらかなおそれ》を持つ。自然に持つようになる。
言いかえると 主観の共同性への言わば《愛》を持つのが 基本主観の動態である。この《愛》をもたないなら きよらかなおそれをも持たない。ということになります。
このきよらかなおそれを持つ主観の動態は むしろ――その段階はすでに上級であって むしろ――《飾りであれゴミであれ 人びとの・社会関係におけるシガラミの中へ すすんで入って行く》のをつねとします。それが 基本主観にとっては そのまま《生きる》ということを意味します。それよりほかの生き方は 見い出しがたいでしょう。
そうして あえて言うならば この生は《「ゴミ」に穢されていない「聖なる」「清らかな」存在》と言うよりも どれだけ《ゴミをアース役として浴びようとも あなたの言う〈洗脳〉のためには そのシガラミに中にあって生きる》ということになります。
要するに《けがれ》がどうだこうだは どうでもよい。これです。
次のご理解は 成りません。
★ フマニタスとアニマリタス、健康と病気、主観と基本主観、さらには聖(無垢)とゴミ(垢)、ゴミを漁る人間とゴミを漁らない人間。二項対立の古典的な形而上学がボロボロでてきましたね。
§ 60 生きること。存在。(つづき)
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「《飾り》によって友情やじんるいの仲間であることを共同化するならば、それこそ《何億人かいる人びとの中に同化吸収されてしまう》ものでしょう」
なぜ?・・・飾りによってとか言いますが私は飾りだと思いませんし
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☆ ぢゃあ 《洗脳》あるいはマインドコントロールによってでしょうか?
★ 自然主義的態度
☆ が飾りの一種です。
★ 「普通の」判断力をもってるのは誰でしょう?
☆ 《純粋意識》とて 樅の木本体ではなく 飾りだと言っています。そのように見るのが ふつうの判断力だと考えます。
★ なぜ基礎理論は疚しさのみを大々的に取り上げるんですか?
☆ 《本質直観》が 形而上学でしかないからです。
★ なぜ生きることに疚しさを感じないんですか? 〔生きることにやましさを感じるとそれが〕なぜ悪いゴミなんですか?
☆ 存在は もう問い求めてもそれ自体が行き止まりだというあたえられた条件のもとにあるからです。それ以上あるいはそれ以外の場をもとめてもそれは すでにもう飾りであり 形而上学のゴミであるからです。
★ 「基礎理論」のどこがどう「新しい」んですか?
☆ 《わたしがわたしである》という自己表現の動態を――つまり文体を――打ち出したところです。
★ つまり「飾り」という覆いvealを除いたreことで、あなたは基礎理論を見出したre-vealと言う。あらかじめpreそこに在るものensを自分は見出した。まさか。
☆ とは まさか!
★ 人間がまさに傷つく、不正in-juryを被ることは多々あります。PTSDなどありえないということですか? PTSDはつまり仮病だと?
☆ 基本主観の理論としては みづからがやましさ反応をかいくぐってわが心にさからう負の善を思惟し行動することをしないならば 決して心が傷つくことはない。と見ます。
それでは 言わばやましさ反応によって判定するしないにかかわらないところで みづからの意志が踏みにじられ身としてにせよ社会的な生命としてにせよ 傷をこうむることがあったとしたら それは どういうことか?
これは 《ウソをつきイツワリをおこなったこと》の後遺症です。すでにそのような《過去における負の善と それによる傷》は癒されているわけですが その――単純に言って――後遺症が出ることがあります。
これは 遠い過去に負った傷であっても 出ることがあります。それは 人間の心や意志行為が 傷が有る無しについて全か無かで割り切ることのできないかたちに成っている部分があるからだと考えられます。
言いかえると またまたたとえですが 母斑がまだ残っている状態だと考えられます。あざ・しみ・そばかす・ほくろなどのように 過去の傷跡がかすかに残る。またその傷跡が疼く場合があるのだと考えます。
§ 61 存在
★ 人間本性は本性naturaであり本性は本質でしょう。
☆ 自然本性は 身と心だと言いました。心が 記憶・知解および意志の三つの行為能力から成る精神だと。
《本質》は むしろこれら自然本性がいのちのもとにあるという存在のことを言うのでしょう。あるいはつまり その存在はさらに何から成っているのかという問い求めの答えでしょう。
自然本性は 現実存在です。
★ 「ゴミ」や「飾り」は偶有であり、実有は「命としての存在」。
☆ 《本体》たる樅の木は むしろ偶有性――応用領域――の世界においてこそ生きる。これは すでに言って来ています。
★ 本質substantia, essense→xがxであると云いうるために最低限持たなければいけない性質(命としての存在)
☆ 《本質》という用語には 何かを規定するという意味合いがつきまといます。《最低限持たなければいけない》という規定になります。
微妙ですが やはりそうではなく 誰もが持つ《主観》から出発します。それは互いに違っているが しかも共通のものがあるかも知れない。それが いのち・存在・それのとうとさうんぬんだということです。
つまり 現実存在について捉えたまでの認識です。
そこから 同じ生命存在であっても その中でも 種差があると捉える区別もある。うんぬんとつづきます。それだけです。
そのとき
★ 言語が「人間に」生得的innateであり動物はそうではないという生得論nativismをとるなら、それは本質論と不可分です。
☆ とおっしゃいますが 言語能力ないし言語活動――つまり ヒトに見られる文体なる動態――という基準で判定したのが 動物との種差です。
種差が見られるということは 一方に生得的であり 他方にそうでない。という見方をするというものです。これも 現実存在について認識したというのみです。
§ 62 いのち。
★ なら人命を神聖化しない主観があってもなんら問題ではないでしょう。
☆ 《神聖化》しなくても 《とうとぶ》つまり命をまもることはおこないます。後者は ひと一般に共通だと見るというものです。
★ 「ちゃんと」「ひとりで」考えたら誰でも人格や能力を「ゴミ」や「飾り」だと断定する「基礎理論」という独断論を採用するのでしょうか?
☆ そのとおりです。
★ なら私は「ちゃんと」しておらず、基礎理論を採用しているあなたは「ちゃんと」していることになりますね。
☆ やましさ反応を突破する意志行為は いくらでもあります。
★ そしてあなたみたいになってしまうなら、私はすくなくともあなたの言う「ちゃんとしたいい子ちゃん」にはなりたくないし、なれません。
☆ 自由です。そして 《洗脳》することも――互いの自由な批判をまじえての対話――も自由です。
★ PTSDや虐待による脳の萎縮が「えぽけー」で一発ですか?
☆ 本人の主観が それを知ったらそのとおりです。
そして 確かに母斑の残滓という問題もあります。
そして こればっかりは 言っても聞かないでしょうがそれでも言いますが 人間の社会と歴史は たしかに命がけの跳躍を結果的におこなったということもあるのでしょうが あくまで全体として自然史過程をたどります。人びとが意志行為をおこなって社会の改革や人間の前史から後史への回転をおこなっても その進み具合いはゆるやかな自然史過程にしたがいます。
つまり なにごとにも ときがあります。ときにかなうこと これも必要です。歴史は一足飛びにすすむことは むつかしいでしょう。
けれども 《 PTSD や虐待による脳の萎縮が「えぽけー」で一発です》。本人の主観内面におけるその自己表現の過程としてです。
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