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因果応報説は 共同主観にはならない。

 1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら因果応報説のほうには 原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因善果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でした 責任はひとえにわたしにありますと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親レベッカの胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

みんなの回答

回答No.4

我が意思が事として働きかける、それがどのように影響を及ぼすか、それを観念上で目視することが縁起だ。構造は簡単だが、人知の範疇を超えた現象まで加味しなければ、認識が出来ない、かなりの高等な知性的資質で、私も縁起経過は完全じゃない。占い手法は助けになる。 この縁起と、因果応報は何か違うところがあるのかい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  因果律という場合には 誰が見ても原因と結果との関係が明らかな場合である。  もし常総市で鬼怒川の堤防が決壊したのは 太陽光発電のために堤防の部分を削ったのが原因だと分かれば この場合 人間の意志行為をも巻き込んで 因果律として判明することになる。  そのように人間の意志行為がからんでいる場合に その行為内容について 良し悪しを判断して その結果についてもやはし良し悪しを判定する。としたとき 善因から善果が 悪因から悪果が みちびかれたと分かったのなら 因果応報説が当てはまることになります。  つまり 良し悪しの判定は 人それぞれである要素が大きいし強いので 経験法則として打ち出すのは 無理であろう。という問いです。  縁起は 直接の原因のほかに 環境や背景としての情況が間接的に原因を成す場合をふくめて言っているものと思います。  その場合も やはり良し悪しの判断が入ってくると 法則性を取り出すのは むつかしい。  と思うんですけれど。・・・

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

B様、こんばんは。 >「わが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。」 信教の自由を逸脱しては、なりません。 (というか、逸脱して、初めて、それと知る?) ・・・それでは、「宗教とは厄介なものかな」ということでしょう。 問題は、「契約」ですか。 ・・・では、なんで、それが「血縁」などに縛られるのか?

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.2

>11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね? ・キリスト教の世界は分かりません(知りません)けれども、、、、 仏教では『法』というものがあって、それは変えられません。 しかし、その因果を知り、自己の行動を改める、もしくは宿業を転換することは可能です。 >12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。 良いです。 しかし、何が良くて、何が悪いかといった基準をどこに求めるかで、違いが出てくるでしょう。 例えば、『日蓮大聖人御書全集』 立正安国論にありまが、これは同時の鎌倉時代の世の中で、大災害・飢饉・疫病などの起きる原因を仏教に求め、平安の世を望み時の実質的権力者である北条時頼にあてたものです。そこには、それらの禍が民衆が正しい『法』を行じないことで起こるという事が書かれています。そして、幕府自らが改めなければ“自界叛逆の難”、“他国侵逼の難”が起こることを言われています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 仏教では『法』というものがあって、それは変えられません。  ☆ というふうに自分たちが規定している。ということですよね。  だから 一般的に普遍性を問い求める哲学としては その法=ダルマは けっきょく神としてなら ブラフマン神と内容において同じであり 哲学としてなら 《絶対=無限=真理》のことだと捉えます。  ★ しかし、その因果を知り、自己の行動を改める、もしくは宿業を転換することは可能です。  ☆ いいえ。 《ダルマ:絶対》は たしかに不可変的であるのですが それゆえにもこの経験世界における経験事象としての《因果関係》から自由である。と言わねばなりません。  ブラフマン=アートマンなる《非知 また 非思考の庭》は 因果関係を超えています。左右されません。    もしそうだとすれば そのように《ひとり満ち足りている独立存在のチカラ》ゆえに《宿業を転換することは可能です》となるのだと考えています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  例えば、『日蓮大聖人御書全集』 立正安国論にありまが、これは同時の鎌倉時代の世の中で、大災害・飢饉・疫病などの起きる原因を仏教に求め、平安の世を望み時の実質的権力者である北条時頼にあてたものです。そこには、それらの禍が民衆が正しい『法』を行じないことで起こるという事が書かれています。そして、幕府自らが改めなければ“自界叛逆の難”、“他国侵逼の難”が起こることを言われています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしわたしが 天皇や首相が ダルマを信じないゆえ いづれ死を死んでしまうであろうと直言した場合 たぶんその理由がどうであるかの部分は別として その予言は当たるでしょう。

回答No.1

そもそもポスト・アニミズムの、為政者と結託して 庶民に社会性を持たせるための、強力な教義(日常的 モラル)を持つ一神教は、個人の意識の自己チューさ に対して、社会全体への貢献=善を付与するための 「短絡的利己の発露に対抗する利他(長期的には社会的 繁栄を通じて利己につながる)」を、(プロセスの見え ない)因果応報として、拘束衣としての機能がある。 もちろん、自律的社会行動=自己存在の本質的必要の 自覚による、生きること自体(その深い意識)による 精神的充足に比べれば、充足量で劣るが。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ところで あなたもその《拘束衣》を必要として実際に着ているのですか?  つまり 自己チューなる庶民のひとりですか?