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因果応報説は 共同主観にはならない。

 1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でしたと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親の胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

みんなの回答

  • kurinal
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回答No.11

B様、こんばんは。 >「因果律とは別です」 これが、ズルいのでは?

bragelonne
質問者

お礼

 いえ これは 《ただしい》認識です。  なぜなら 価値判断が入る(因果応報説)か入らない(因果律)かで分かれますから。  K さま こんばんは。どうでしょう?  ご回答をありがとうございます。

回答No.10

いま、目の前に、水に溺れていた子供がいるとします。 そして、助けました。 これは、世間的に、善として賞賛されます。 「しかし」と、仏教は立ち止まって考えます。 本当にそうなのか? 利己的な気持ちが、そこにいっぺんも混じっていなかったか? 混じっていたとしたら、輪廻生死の悪業を作ったことになるのではないか? あったならば、この利己的な気持ちをなくすよう努力しよう。 大変結構な教えではないですか。 そして、仏教において、善悪が発生するのは、意識の分別作用が加わった段階です。同時発生的な、様々な心のハタラキに善悪の根拠を置きます。 心のハタラキが善悪を作るんですよ。 たとえば、 無慙・無愧、忿・覆・慳・嫉etc. bragelonneさんの言うところの善性のヘソ曲りですよ、これらは。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうとございます。  一たん 質問としては 答えを捉えたことと思います。  通念としての因果応報説とブディズムとは 何の関係もない。これです。  その上でですが 今回のお話に対してなら まづ基本の方程式をかかげます。  人間の意志行為のつづく過程については けっきょくそのまま   ○ 意志行為の全体(基本は生きる善+そのへそ曲がりとしての悪)が たえず瞬間ごとに推移して行くのだ。  これです。  その意味は いちいちその中の要素を分割して取り出すことはしないということ。  すなわち 善因⇒善果(あるいは楽果)とも悪因⇒悪果(苦果)とも そのような《善か悪か》に区別しては 人格ないし存在の動態を見ない。これです。つねに 全体⇒全体 という過程をとおる。   ○ 子供が溺れている⇒助ける の過程についても われなる人格の全体の時々刻々なる推移である。  と見ます。  もしブディズムにも触れて説明しようと思えば たとえ  ◇ 利己的な気持ちが、そこに・・・混じってい・・・た  ☆ としても 何ら構わない。すでにつねに 存在の全体としての動態を見るわけです。なぜなら 感性にしても理性にしても それらは限りある能力であり思惟であり行為であると見るとき わが心なる非思考の庭では 自性清浄心がはたらいている。と思っているからです。  わが存在のほとんど全部が では仮りに利己心におおわれたとしたら どうか? 何のもんだいもありません。ブッダターは ちょっとやそっとで減るものでもなければ 傷つくものでもなく つねにそのハタラキをおよぼしている。そういう信仰動態のもとにあると心得ているからです。  ひとつに《要素分析的な認識》は それだけでは 人間論を見失います。木を見て森を見ずになります。  ひとつに ましてや 要素還元論では 人間論を成さなくなります。森を捨ててしまっています。    ひとつに それらの要素を 善悪や聖俗あるいは浄穢といった二項対立において捉える認識とその理論 これは きわめて低俗な思想にしかならない。  一方の要素に対する他方の優位を けっきょくどこまでも・延々と限りなく追求するだけに終わるからです。これが 三途の川での石積みです。  程度問題を 要素どうしの均衡だとかせめぎ合いだとかにおいて捉える見方は やはり木を見て森を見ずになるばかりか 森の破壊につながります。  劣等視した一方の要素たる木をチカラにまかせて伐って行くだけの作業におわるからです。けれども 利己心などは 死ぬまでつづきます。次から次へと湧いて来ますから。  ことほどかように ブディズムは  ◇ 大変結構な教えではない  ☆ のです。どこから見ても 低俗思想です。むろん 共同自治の当事者にとって 自分たちの支配のためには 永遠にさとりをもとめてさまよう人間を作り出すことにおいて 自分たちの地位が安泰になるゆえ 持ってこいのシュウキョウです。

回答No.9

こんばんは。 ☆☆ 《無原罪》の意味がよく分からないのですが。・・・ ◇《白紙》状態と言っていもいいですよ。善悪に色付けられていない状態。 生まれること、あるいは生まれ変わることによって、リセットされるんです。 善に転ぶか、悪に転ぶか、それはその後の本人次第。 ただ、前世の行いによって、どこに行くかが決まる。 ひょっとしたら、地獄にゆくかもしれない。 しかし、地獄に生まれたとしても、誰一人、罪を有する存在として生まれるわけではない。 地獄には、おっかない鬼がいますから、鬼にイジメられますけれども(笑い)。 でも、絶えず鬼にイジメられるから、悪いことをする時間的余裕はない。 あるのは、上昇のみ。 こういうメリットもある(笑い)。 救いがある。 能力の違いはある。障碍を有して生まれることもあるでしょう。 お金持ちのところに生まれるヒトもいれば、お金に不自由なオウチに生まれることもある。 先天的に、寿命の短い、長いもある。 でも、能力の違いや障碍などは、善でも悪でもないでしょう。 そして、善を行う、悪を行うことにも、関係しない。 生まれによって、バラモンになるわけではない。(今の)行いによってバラモンになる。 貧乏なオウチに生まれることは悪ですかい?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 生まれること、あるいは生まれ変わることによって、リセットされるんです。  ☆ 自然のからだ(つまり 身と心)があって 霊のからだもある。そして そのことと《復活》が関係しているかに見られている。という場合の復活ですが そうは言っても これも とんでも話です。  けれども  ◇ 生まれ変わること  ☆ これは あり得ないと分かっています。文学としての物語としてのみ通用します。  わたしは 受け付けません。  前提がおかしいと考えますが  ◇ 善に転ぶか、悪に転ぶか、それはその後の本人次第。  ☆ というのも 認めがたいところです。なぜなら 自然本性は 言うとすれば 善です。  そしてこの善から 自由意志の自由によって その善なる心(たとえば 自然本性の存続として生きること・生きつづけること)にさからって負の善としても 現われる。これが 名称として悪と呼ぶ。  生まれるのは つねに 善としてです。その中から 善と負の善(すなわち悪)とが 現象します。  つまり 《悪》というコトは そのものとして 存在しない。という考えです。  ◇ でも、能力の違いや障碍などは、善でも悪でもないでしょう。  ☆ 能力がある・ない(少ない) あるいは 障碍がある・ないについては ふつう《よい・わるい》の概念で捉えます。  ふつうに善因善果・悪因悪果というときには この能力の有る無し・障碍の有る無しは 善と悪とに分けられるはずです。  ということは 要するに ふつうの通念としての因果応報説は 人びとが――ブディズムとは何ら関係なく――勝手に思い込んでいる。のみ。ということになるようです。  ◇ 貧乏なオウチに生まれることは悪ですかい?  ☆ 通念では その人が 《わるい》に分類したなら 悪となるでしょう。  要するに 一般に言う因果応報説は ブディズムとは何の関係もない。  これを ひとつの結論としたいと考えます。どうでしょう。

noname#195588
noname#195588
回答No.8

釈迦の生涯を比較するか 縁起説の思想史・成立史に絞るか 中村元みたいに、さとりを心の安らぎにするか。 宗派などのコミュニティの見解にまかせるか その他 どれがいいのか。もうわからない。

bragelonne
質問者

お礼

 意味が取れません。    質問への回答ですよね?  ご回答をありがとうございます。

回答No.7

異熟が無意味? 本当に? 異熟は、我々は無原罪だ、と言っているんですよ。 たとえ地獄に落ちようが、そこに生まれる者は、生まれたからには無原罪だといっているんですよ。 本当に無意味?

bragelonne
質問者

お礼

 (あ) 《さとり・解脱・ニルワーナ》がどういうことであるかを 一般の人びとに分かるように――つまりこの場合は 認識としてでいいわけです――説明しないかぎり 善・悪を明らかにし得ないわけですから このような曖昧性なる障害は どこまでも立ちはだかります。  (い) 楽と苦とは 無記であるから 善と悪とは種類が違うと言っても 楽も苦も 人による判断であり 善悪と同じく 主観の問題であるとなります。  (う) 楽は 苦の消滅した状態であり さとりの境地だということになるのでは? と予測されます。つまり 用語・術語のたらい回しになっているかと考えられます。  ☆ これらの疑いを晴らしてください。  ねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  △ (ヰキダルマ:異熟) ~~~~~~~~~~~~~~   http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%8F  (え) 旧訳の「果報」    (お) 過去の善悪によって得た果報の総名。  (か) 果が因の性質とは異なって成熟することを言う。  (き) 善業によって楽果を感じ、悪業によって苦果を感じるように、楽果は善性ではなく無記性である。これによって、善性と無記性とは類を異にしているので、善性の業に対して異類と言うべきである。  苦果を悪業に対する場合も、苦果は悪性ではなく無記性であるから、因と果との性質を異にしている。これによって異熟果と言う。  (く) また、因と果とが必ず時間を隔て、異時に於いて熟するから、異熟と言う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~   異熟は、我々は無原罪だ、と言っているんですよ。  たとえ地獄に落ちようが、そこに生まれる者は、生まれたからには無原罪だといっているんですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《無原罪》の意味がよく分からないのですが。・・・  (け) 果報としての楽も苦も 善悪無記である。ゆえに 殊に悪から自由である。――これが 《無原罪》ということでしょうか?  (こ) けれども――《楽》は 苦から自由なかぎりで 一般に《よい》と感じると思うのですが―― 《苦》は ものごとがおのれの思うようにならないことであるならば 一般に《わるい》ことだと受け取るはずです。《原罪》という問題にまで行かなくとも 大きく《悪》と地続きである。と考えられます。  (さ) ◇ たとえ地獄に落ちようが、そこに生まれる者は、生まれたからには無原罪だといっているんですよ。  ☆ 《地獄に落ちる》も けっきょく《さとり》と同じように それは じっさいにどういう事態であるか? これが 分からないことには 議論は始まりません。    (し) ◇ 生まれたからには無原罪だ  ☆ この意味が読み取れません。地獄がわるいところであるなら 善悪無記ではないように思われます。

回答No.6

弱ったな、も~。 では、 ネコ流・アビダルマ解釈、 善因善果、善因楽果、因果応報の新たな解釈を提示します(笑い)。 善因善果・悪因悪果:これは因と果が同類・等流の関係にあるので、善心(悪心)は善心(悪心)を生む、繋がるということを表わしている。 善因楽果・悪因苦果:楽・苦は感覚(感受)であり、感覚に善悪はない。楽・苦は無記である。因と果では類が異なっており、この関係は異熟・応報の関係となる。 因果応報:因に応じて果が生ずるという意味ではない。漢語として、これはありえない。応報はサンスクリットのvipakaの翻訳語で一語であって、因果は応報(異熟)の意味。 異熟・応報・vipakaとは?  1 因と果が異時  2 因と果の類が異なる。応報の関係にある因は善悪のいずれであるが、その果は無記性(善でも悪でもない)。 よって、 一般に信じられている善因善果や因果応報の解釈、理解が間違っている。 アビダルマによってこそ、これらの真義が解き明かされる(笑い)。 唯識をやれば、さらなる秘密を解き明かすことが可能である(ポリポリ)。 自業自得は、自身の行為の結果は自身がすべて負う、引き受けるというのは、行為主体として当たり前のことであり、そのことを示したにすぎない。 ──────────── The Samyutta Nikaya states: According to the seed that’s sown, So is the fruit you reap therefrom, Doer of good will gather good, Doer of evil, evil reaps, Down is the seed and thou shalt taste the fruit thereof. http://en.wikipedia.org/wiki/Vip%C4%81ka ──────────── これと似たような言葉が、聖書にあったような気が・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 ですから  △ ~~~~~~~~~~~~~~  Doer of good will gather good,  Doer of evil, evil reaps,  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このような因果応報を説くことが きわめて安易な思想であり けっきょく思想という体を成すとは言えないとさえ言わなければならない。という問題です。  こんにちは。ご回答をありがとうございます。  あるいはつまり  ◇ 自業自得は、自身の行為の結果は自身がすべて負う、引き受けるというのは、行為主体として当たり前のことであり、そのことを示したにすぎない。  ☆ とすれば これも因果応報の説とは別の問題である。こうなります。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  よって、  一般に信じられている善因善果や因果応報の解釈、理解が間違っている。  アビダルマによってこそ、これらの真義が解き明かされる(笑い)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《真義》は ご随意にどうぞとなります。  つまり 《因果応報の説》と言われている思想は 何の意味もない。です。  これで 満足です。たいへん満足です。  ◇ ・・・これと似たような言葉が、聖書にあったような気が・・・。  ☆ 聖書では ヨブ記において 因果応報説は 根本的に捨てられています。  また 善を成し善を目指すなら すくわれるといった言い方が見かけられるかも分かりませんが この場合も 基本は 因果応報とはまるで違います。  なぜなら 結果というのは 人間にあっては あくまで非思考の庭における元気であり よろこびであるからです。結果は 復活という問題にまで行くなら それも 霊の次元のことです。  さらに善を為すということは それとして人間の意志行為にもあると見られますが もし《すくわれる》にかかあるところの善だとするのなら それは あくまですでにその時において 聖霊によるハタラキを受けてそういう行動をするということになっています。  よって 経験思想としての善因善果とは 何の関係もない。こうなります。  この質問のまとめとして:   ○ ブディズムは 輪廻転生なる説は言うに及ばず 因果応報なる説についても なんら世間に対して説くべき内容を 持たないか または 持っていてもそれを一般に理解しうるかたちで明らかにはしていない。  こうなると考えます。  ねこさん たいへんありがとうございます。

回答No.5

> そうしますと こうなりますか?  ○ なぜ生きないか? という問いに対する答えが出ていても そのみづからの心にさからう意志をつらぬくことのほうが おもしろいという限りで 悪の論理は栄える。 これは掘り下げればまた先に進めると思うよ。 その限りでは結論じゃない。

bragelonne
質問者

お礼

 承知しました。相槌のひとつということで。  ご回答をありがとうございます。  いまここでは 保留とします。

回答No.4

やり取りを読んでみろとはきつい宿題だねー。苦手なんだよ。 誰かさんのエコひいきとは、誰かが誰かをワルだと言った。 ってことかい。 それならば、分解してみると、誰かが誰かに死んでしかるべきと言った。 それに逆らって自ら生きようとした。 その生きる意思が悪である。 これが仮面ライダーの正義の源だ。 おそらく人を産んだ神様が、人の生きることに喜んだ。 ところが人は、「なぜですか」と問うた。 その答えが見つかるまで、悪の論理は栄える。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 誰かさんのエコひいきとは、誰かが誰かをワルだと言った。 / ってことかい。  ☆ エコヒイキのもんだいは 単に人びとのいまの状態についてもし互いのあいだに差があるとするなら それは 生まれなら生まれの時にさかのぼって何か差をもたらす要因があったと――想定して――見ようとするものです。また それに過ぎません。  そして 必ずしも そのように初期の条件としての差――つまり エコヒイキ――の問題だけで ことを判断し切ってしまおうとしてもいません。それは ひとつの説明であるということになります。  エコヒイキとは別様に もし  ★ 誰かが誰かをワルだと言った  ☆ という事態になったとき  ★ それならば、・・・それに逆らって自ら生きようとした。 / その生きる意思が悪である。  ☆ ということは 考えられるでしょうね。  そしてその《生きる意志》は 悪ではなく どちらかと言うと 善でしょうね。生きることが 心のおもむくところであるなら これは そのまま善の部類に入ると思います。  ちょっとさからって言うとすれば   ★ これが仮面ライダーの正義の源だ。  ☆ というまでの大げさなものではなく ひとが生きるというときに ふつうに・まともに・まじめにあゆむかたちであると捉えています。そういう意味での 善です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  おそらく人を産んだ神様が、人の生きることに喜んだ。  ところが人は、「なぜですか」と問うた。  その答えが見つかるまで、悪の論理は栄える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。自然にさからっているというわけですね。自然とは ふつうに人間の心であると。  ただし じつはこの答えは とっくに出ています。  ひとが その自由意志によって ヘソを曲げた。これです。エワとアダムとが 善と悪とを知る木から採って食べたという話です。  ウソ・イツワリと言ってもよいと思います。おのれの心にさからって ものを欲しことをおこなうそういうヘソ曲がりの意志行為です。善を傷つける意志行為です。  そうしますと こうなりますか?  ○ なぜ生きないか? という問いに対する答えが出ていても そのみづからの心にさからう意志をつらぬくことのほうが おもしろいという限りで 悪の論理は栄える。

回答No.3

思考実験として、 仮面ライダーの俺様は常に正しい。 私の意思行為の全ては善である。 悪因は無い。 私全ては正義であり、それでこそ戦う仮面ライダーだ。 このように一般にキチガイとされる事を言うと、前提が崩れるのかい?

bragelonne
質問者

お礼

 と言うよりも 因果応報なる説は 成っていないということではないでしょうか。  まったく要らん 知らん で済む問題であるという意味です。  ★ ・・・前提が崩れるのかい?  ☆ ということは 多少とも 相手のオシエの中に入って行って 良心的に問うています。  ただ わたしの言おうとしていることは その必要がなく 思想としての体を成していない。という批判です。  直前のNo.1およびNo.2でのやり取りをごらんください。  ご回答をありがとうございます。  どうでしょう?

回答No.2

思わず、 「う~ん」と唸ってしまう。 ~~~~~~~  なぜなら 自業自得というときの《自業》の業には それは とうぜん基本としてはおのれ一人の意志行為を言うはずですが 《自得》する結果は その自業に相手や情況などの環界からの縁をもふくめた因縁たる原因を捉えてのことだと考えられるからです。  つまり 共業は 言わなくても自業なる原因にふくまれるかたちになっている。のではないでしょうか? ~~~~~~~ とならざるを得ない・・・。 《共業》を《増上縁》としてとらえると、《増上縁》は《自業》・《親因縁》の生起を妨げないもの。まったく果を生まないわけではないのですが、果を生むのは、あくまで《自業》。 ですから、 ~~~~~~~  そして よく例に出すのは 拉致被害者のばあいです。  その事件は むろん悪果(苦果)であるはずですが 本人や家族の人たちにとって それでは どういう悪なる自業があったというのか?   本人が 悪因を否定すれば その場で もう因果応報説は成り立たない。のではないでしょうか。 ~~~~~~~ に対しては、 被害者に落ち度があったとなってしまう。 海岸に行くという選択をした、あなたが悪い。 もちろん、人攫いも悪いのですが、こうなってしまいます。 行為主体として、みずから選択した行為の責任はすべて自身が引き受けなければない、 と徹底していると言えば徹底しているのですが、 非常に冷たいものになってしまう。 《自業》というのは、そういう思想です。 冷たい、ヒトの血が通っていない、ヒトのぬくもりなどが感じられないオシエ・・・。 この批判は、甘んじて受けないといけません。 ☆本人が 悪因を否定すれば その場で もう因果応報説は成り立たない。のではないでしょうか。 ◇仏教の《善・悪》は、解脱・涅槃目的に基づくものなので、本人が《悪(因)》と認めようが認めまいが、関係しない、となりますかね。 あくまで、これは仏教内部の論理になりますけれども。 さらに、善悪を、心作用・こころのハタラキ、機能に還元してしまいます。 たとえば、有名な『倶舎論』ですと、善(なる心作用)は ───────── 信(しん)・勤(ごん)・捨(しゃ)・慚(ざん)・愧(き)・無貪(むとん)・無瞋(むしん)・不害(ふがい)・軽安(きょうあん)・不放逸(ふほういつ) ───────── ですから、世間でいう善とはまったく違う。 たとえば、《慙・愧》、「慙愧にたえない」という慙愧ですけれど、この恥じ入る心自体は善なんですよ。 では、 殺人を犯し、そのことをのちに慙愧し、改心して仏道修行の道に入ったら、 殺人という悪なる行為・カルマが、仏道修行という善に結びついているではないか? 悪因悪果の鉄則に反するではないか? みたいな議論が仏教の内部で、大昔に行われた。 そこで例の《異熟》という非常に難しい概念が出てきます。 殺人という行為・カルマの結果は出ていないなんだ、今は、この果を生む段階ではないのだ・・・。 ───ヒトを殺せば、死んだのち、無条件で地獄行きです(ポリポリ)。例外は、あることはあるのですが・・・─── ヒトを殺したことを深く後悔しているので、その苦果は受けているのかもしれませんが。 主観的な善悪ではないから、 世間の感覚などから、ずれているんですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーむ。まづは ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  《自業》というのは、そういう思想です。  冷たい、ヒトの血が通っていない、ヒトのぬくもりなどが感じられないオシエ・・・。  この批判は、甘んじて受けないといけません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このような批判をも甘んじて受けて なお説を維持しようというのは 次のような事情からなのでしょう。  すなわち  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 本人が 悪因を否定すれば その場で もう因果応報説は成り立たない。のではないでしょうか。   ◇ 仏教の《善・悪》は、解脱・涅槃目的に基づくものなので、本人が《悪(因)》と認めようが認めまいが、関係しない、となりますかね。   あくまで、これは仏教内部の論理になりますけれども。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問題は はっきりしています。  いかに《内部の論理》に過ぎないとしても その善悪の概念がしっかりはっきりしているなら・そしてそれに妥当性があるなら かまわないわけです。    ところが  ◇ 仏教の《善・悪》は、解脱・涅槃目的に基づくものなので  ☆ だそうです。つまり けっきょく《さとり》とは何か? の問いに戻ってしまいます。    ◇ 解脱・涅槃目的に基づくもの  ☆ として 善および悪が はっきりと概念規定されているなら 問題はありません。内部論理に過ぎないとしても だいじょうぶでしょう。  これほど いい加減なオシエはないのではないでしょうか。  つまり 拉致被害者やその家族の人たちは その論理による善悪観を 要らないよと言えば 話はおしまいです。  すなわち 因果応報説は じつは  ◇ 冷たい、ヒトの血が通っていない、ヒトのぬくもりなどが感じられないオシエ  ☆ などではなく 断じてそうなのではなく ただただ自分の議論の中へひとを引っ張り込むためだけにある仮説である。こうなります。  ひとは 要らないよと言えば それで済みます。  これほど自分勝手な思想は 考えられません。さとりが何であるかが分からずにでも まづ中に入って 因果応報説にしたがってくださいと言っているわけです。  さとりが分かるようになったら 自業自得の循環が 好転しますよ それまで頑張りましょうと言うだけであって いったい何をおこなっているのかは さっぱり人に説明しうるようにはなっていません。  これぢゃぁ それこそ《強制連行》になります。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  たとえば、有名な『倶舎論』ですと、善(なる心作用)は   ─────────   信(しん)・勤(ごん)・捨(しゃ)・慚(ざん)・愧(き)・無貪(むとん)・無瞋(むしん)・不害(ふがい)・軽安(きょうあん)・不放逸(ふほういつ)   ─────────  ですから、世間でいう善とはまったく違う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こんな思想は要りませんと言えば おしまいです。  それに この善悪観は  ◇ 主観的な善悪ではない  ☆ わけはないと思いますよ。規定がはっきりしているからと言って その中身が実際に人それぞれにどのように当てはまるか。これは その人の主観に俟つよりほかにないのではないでしょうか。  ◇ 殺人を犯し  ☆ たからと言って 《自性清浄心》が無くなったわけではない。  ◇ そのことをのちに慙愧し  ☆ ようと しまいと ブッダターがつねに起動しようとしているその自然本性に違いはありません。  ◇ 改心して仏道修行の道に入ったら   ☆ の場合も 修行とは関係ない場合も 人間存在としての《ときにヘソを曲げることがあるけれども つねにアートマン(霊我)がそのハタラキをおよぼしうる状態にあること》に変わりはない。と言うべきではないでしょうか。    わざわざ独自の概念として善悪を規定して 善因善果と悪因悪果に二分する見方を どうして採らねばならないか? むろん自由勝手にどうぞですが それにしても 普遍的な意義は皆無。ではないでしょうか。  さとりを得たという人間をつれて来て しめすのでなければ 説得力もなければ そもそも思想として成っているという段階にも来ていません。  放っといてくれ 自分たちで 修行していくから。というのであれば 放っておきます。  世界宗教ではない。という結論です。

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     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は・という意味は 善悪を主観が判断するのだから けっきょく自業自得という考え方は ゆえに 主観の範囲を出ない。  4. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  ものごとが自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから そう(自業自得として)規定することはできない。    なら 初期条件は ナゾの何ものかによるエコヒイキである。  5. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  7. ただし 主観の問題としてわが心の内なる善行の道は捨て去ることはない。と考えてよいか?  善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 《因果の道理》は 道理ではない。

     つぎのヰキぺの記事にかんする限り それは 何も言ったことにはならない。これを問います。  ▲ (ヰキぺ:因果の道理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86  § まえがき  (あ) 因果の道理は仏教の根本的な教理である。「因果律」・「因果論」とも言われ、釈迦が発見した「大宇宙の真理」とされる。日本をはじめ東洋諸国では倫理や道徳の根拠にもなっている。  § 概説  (い) 釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。  (う) そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。  (え) 釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上「縁起説」と呼ぶこともある。  (お) 仏教において因果は次のように説かれる。   善因善果…善を行うことが新たな善を促す   悪因悪果…悪を行うことが新たな悪を促す   善因楽果…善を行うことが自分にとって望ましい結果を招く   悪因苦果…悪を行うことが自分にとって望ましくない結果を招く  (か) 例えば最初は嫌々ながら行なっていた人助けでも、何度か繰り返すうちにそれが習慣となったり、それが褒められることで自ら進んで行うようになる。  (き) 逆に最初は躊躇していた犯罪が一度成功すると、また罪を犯すことに抵抗を感じなくなったり、一度嘘をつくとその嘘を隠すために更なる嘘を重ねる様になる。  (く) これが「善因善果」「悪因悪果」の具体例であり、両者は原因と結果の性質が同じであるため、《同類〈因〉・等流〈果〉〔なる因と果との関係〕》と呼ぶ。  (け) 一方、善いことを行えばそのことで満足感・達成感が得られるのに対して、悪いことを行うと良心の呵責や罪が露見することへの恐怖が起こる。 これが「善因楽果」「悪因苦果」の具体例である。   (こ) 「善因善果」「悪因悪果」とは異なり、この場合の結果は一概に善か悪かを判断できない。  (さ) 例えば、善い事を行った自分を誇って他人を軽蔑したり、一度の善行に満足して善行を止めることがあれば、それは善行が悪い結果を招いたことになる。  (し) 逆に悪を行った事による心の苦しみが、その人を反省・更生へと導くならば、それは悪行が良い結果を招いたことになる。  (す) 両者は原因と結果の性質が異なるため、《異熟因・異熟果》と呼ぶ。  (せ) 「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、これは「善因善果・悪因悪果」と「善因楽果・悪因苦果」の混同を招きかねない不正確な説明である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで記事の全部です。  (そ) この記事内容についてはすでに 出典を明らかにすべきだとか 中立的な観点が必要だとかのクレームがついているようです。  (た) ですが いまはそのような疑問点をもわたしたちが洗い出すかたちで問い求めて行きたいと考えます。  (ち) 出典の問題をのぞけば かんたんな形ながら (お)から(せ)までの説明は ふつうに中立的な内容ではないかと考えるのですが どうでしょう?  (つ) 一つ目の問いは こうです。    善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか?  (て) しかもいま――因縁の縁すなわち間接的な原因は措いておきますが―― 原因にしても結果にしても いづれもそのワタシにとって 善もあれば悪もあるということでないわけがない。(どちらでもない無記の場合もありましょうが それは当然のこととしてこれも特には触れません)。    * 因縁の縁をいま問わないのは それもけっきょく因と同じように 善をも悪をもふくむのがつねであると見られるからです。その議論は 以下に追ってすすめて行きます。    (と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。  (な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。  (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。  (ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。  (ね) ただし・もっとも 成功したひとたちは その原因を みなさんのおかげですと言って 因縁の縁のほうを重んじた見方で表現してはいます。そのあたりについても 考えるところがありましたら 回答の書き込みをどうぞ。    (の) (つまり 日本人は現実の実践では 好ましい世界観にもとづいていると思われるのに  ブディズムの理論だけは 成っていない。こういうことでしょうか)。  (は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。  (しかも そのブディズムに対して・またゴータマ何たらという人間に対して へーこらへーこら ありがたやありがたやと おもねっている〔ように見える〕。日本人のこの状態は どうしたものなのでしょう)。  (ひ) ゴータマは ペテン師であり 屁の河童なりと どうして言わないのでしょう。

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 因果応報を信じている人に聞きたい

    yahooの辞書で調べてみると 「仏語。前世あるいは過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされること。」 他の辞書でも似たようなものでした。 なぜ前世の責任を負わなければならないのか?俺には意味が分かりません。もし責任を負う必要があるのならばなぜ前世の記憶はなくなってしまうのでしょう?? 記憶が無く、責任は残る。こんなことを信じる人の気持ちが分かりません。 また、「悪の行為」とは、所詮人の決めた身勝手な「悪の定義」ですよね? 牛は殺しても良いが人は殺してはいけない。 虫は殺しても良いがペットは殺してはいけない。等。 それでは人を殺したクマは来世ではとんでもない苦労をすることになる?ものを盗ったサルも? 「悪」と言う定義は人間が勝手に作った定義であり、所詮人間の手に及ぶ範囲にしか及ぼさない者のはずです。 それが「因果応報」と言う人間の手には及ばないものに対してまで作用するものと言うのはありえないと思います。(人間の手に負えない理由は、前世が誰だかわかる人が居ない、仮に分かったとしてもそれを裁く法律は無い) 仏教と言うすごく古い教え、今でもたくさんの人が信じている。 それにしては何かしょぼい気がします。UFO(宇宙人)、つちのこ、雪男の方が全然現実的です。 仏教の修行をしたわけではないし、真理を知っているわけでもないので「本当の因果応報」とはもっと別なものなのかも知れませんが。 なんなんでしょうか?この因果応報、前世の観念。 ただの「教え」だから、真実かどうか分からないにしてもお粗末だと思います。 こんなことを教えている人の気持ちも知りたいし、こんなことを言っている人から教えられて信じている人にも聞きたいです。 矛盾は感じませんか?なぜこんな教えを信じるんですか?

  • 輪廻と業の説は 無用ではないか

    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • キリスト教で言う『神は愛なり』について

    キリスト教では『神は愛なり』と言っていますが、何故そう言えるのか、実感が湧きません。 神が愛であるということが実感できるような具体的な事柄を教えて戴きたいと思います。 人間の罪を購うために、父なる神がその子イエスをこの世に遣わし、イエスが十字架上の死をとげることによって、人間の罪を許したのが、神の愛の証拠だと言われても、信じる人には有難い話かも知れませんが、普通の人間にとっては、全く馬鹿馬鹿しい荒唐無稽の話としか思えません。 もし、神が全能であって、人間の罪を許そうと思うなら、なにもイエスを地上に派遣してイエスを死なせるなどとややこしい小細工をしなくても、いくらでも許せるのではないでしょうか? しかも、この話を信じた者は救われるが、信じない者は救われない、と言うのでは、なおさら、神はえこひいきの神としか思えません。 クリスチャンの方々から見れば、とんでもない、不遜な質問ですが、真面目に悩んでますので、信者さんの信仰告白的な話ではなく、信者でなくても、普通の人間でも神の愛を感じざるを得ないような、具体的な「事実・事柄」を教えて欲しいと思います。 勿論、人によって感じ方の差はあると思いますが、具体的な「事実・事柄」を教えて戴ければ、それを神の愛の表れだと感じられるような人間になれれば幸せだと思っています。

  • 《神は有る》のみや《神は無い》のみは アホバカ教

     神は 《神は有る》なる表現も《神は無い》なる表現をも 許容する。《有無や善悪を超えている》のだから。  どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にそのように神を規定し創ったに過ぎない。  あるいはつまり その人間たる人が 神は何であるかが分かったと言っていることになる。  つまりは その人は神になったか もしくは神と同等の存在になったことを意味する。  ――あり得ない。  あり得るのは 神をその人自身のいだく人間という見方に引き下ろして来たというだけである。  《かみ》は 言葉でもあるから いかようにも想像し作文することが出来る。  《神は存在する。これを信じないのはバカだ》派も 《神などはいない。いるというのは阿呆だ》派もいづれも ひとしくアホバカ教である。  人間が神になったつもりでいる。  なんで神の心が人間に分かるのか。  ちっとはへりくだったら どうなのか。  という問いです。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • 因果応報ってありますか?

    質問はタイトルまんまになります。 めっちゃ性格悪いのはわかってるんですが、 最初はちゃんと好きやったけど、 段々と気持ちが冷めてきたので、 散々都合のいいように彼女(彼氏)を扱い 責任転嫁して こっ酷く振って、 他の人を捕まえて、あっさり結婚する人が しあわせになってるなんて 不公平だと思ってしまいます。 なんで人の気持ちを蔑ろにした人が 要領よければ、あっさり幸せを掴めるんですか? 因果応報があるなら、信じたいです。 こっ酷く振られた方は負けじと幸せになる!って立ち上がった瞬間に、新しい人とラブラブなんて情報が入ったら なんて不公平なんだと思ってしまいました。 ※ただ罵倒するようなレスは求めてないです!