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信じると判断するの違い

noname#80116の回答

noname#80116
noname#80116
回答No.2

世界がどのように始まったか どのようなもので出来ているか あるいは 人間存在も どのように生まれてくるのか どのようなもので出来ているのか こういったことは 経験合理性で分かるものです。(分かるようになると考えられています)。 ビッグバン宇宙で時間の世界が始まったとか 基礎粒子などで出来ているとかと《判断》します。 ただし 生命がDNAで出来ていると判断し分かっても なぜそうなのかは 分かりません。時間の始まる前のことは 分かりません。おそらく 分かるか分からないかが 分からないのだと判断します。 分かるかどうかが判断できないことがらは 絶対の領域です。この領域のことについて あると仮りに言ってみるとき それは あると判断するという要素も伴なっているかも知れないのですが そもそもは あると《信じる》というかたちになります。ないと仮りに言ってみる場合も 同じです。無いと信じる あるいは あるとは信じないのように言い表わすという決まりです。 絶対の世界については 信じないと信じる場合を含めて 一般に《信じる》という態度を採ります。その他の世界については 経験思考によって《判断する》です。 いま 経験世界について 判断するというとき まだ未知の部分が残っているとき 方便として 《「人間が石油を燃やしているから、温暖化が進行していると私は信じています。」》というふうに 《信じる》という言葉を使う場合も出て来ます。一般に 強調する場合です。 逆に 信じる対象(もしくは 非対象)である絶対の世界について 何を思ったか 《神を見た》とか《私が神である》とかいうふうに《判断する》かたちで表現する人が出たりします。超経験を経験した(???)のだと言おうとしている場合のようです。 このような表現の問題だと考えます。

spitzer3
質問者

お礼

 経験世界について 判断するというとき まだ未知の部分が残っているとき「信じる」を使ったり、信じる対象のものでも「判断する」とすることがあるんですね。  分かりやすい説明ありがとうございました。

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