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恐ろしいほどの自由

kigurumiの回答

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.14

No.11です。 >例えば、人を殺せないことは不自由でしょうか。 普通はそういう欲望は起こりませんよね。 欲望が起こっていながら、それを満たせないのが不自由な状態ですよね。 ではどういった時、殺したいができないと思うのか。 事件ありましたよね。 奥さんをレイプされ絞め殺され、赤ん坊を床にたたきつけ殺されたという事件。 裁判中も不真面目な犯人を、ご主人は直接殺したいほど犯人が憎かったでしょう。 でも、あくまで法による裁きにゆだねた。 もし、自分の手で殺したら、相手と同等になってしまうじゃないですか。 >それとも殺さずに生きていけることが自由でしょうか。 では、我々は他者を滅することで生きながらえる存在ですが、この状態でも我々は自由と言えるでしょうか。 >私たちが意識している”檻”は実は私たち自身が作ったかもしれないとしたらどうでしょうか。 意識しないと存在を認識しづらいですよね。 意識したとき、檻の存在に気づき、意識しないと存在すら無い。 >檻には不自由がありますが、ゾウと同じように安定した生活があるのではないでしょうか。 不自由の上に存在する安定ですよね。 とことん自由ではないが、我々はその不自由を容認するから、その中にいるわけで、容認できないほどのレベルの不自由さなら、退避したり、別のルートを探しますよね。 子供が家庭内暴力にあっても、逃げ出さず、結局親に殺される事件ありますよね。 逃げるということを知らないのと、頼っているので、たとえ自分にタバコを押し付ける親でも、依存しなければ生きていかれないとう立場にあるので、逃げないのではないかと思います。 富山だったか忘れましたが、10年間監禁された少女が何故逃げれたのに逃げなかったのか って問題になりましたよね。 一歩間違えば餓死のきわどい生活でしたよね。 完全に犯人に生命を託していた。 他の選択肢を考えるより、不自由な中でのサバイバルを選んだ事件でしたよね。 >故に私たちは檻から出ようとしないのかもしれません。 ただし、火の手が迫ったら、我々はどこに行くのか予定が立たなくても、とにかく逃げますよね。 地震が起こったときもそうです。 「まだ 大丈夫」と私は思い、外に飛び出しません。 でも、もし 本当に大きな地震が来たとき、経験上「まだ大丈夫」と思ったら、崩壊して下敷きになり「逃げとけばよかった」と思うのかもしれません。 まだ 大丈夫 が 実は全然大丈夫じゃないことってありますよね。 それで会社や学校で堪えて堪えて堪えて堪えて、まだ耐えられると思って、精神が崩壊してしまう人もいるわけです。 本当に大丈夫なのか、逃げないと危険な状態なのか判断できないほど、弱っている場合。 これは心が弱っている状態なわけで、実は不自由な状態。 だが、本人が自由だと思っていれば、本人にとっては自由であったことになるのかもしれません。 後では「不自由な状態だった」と思えたことであっても。 自由かそうでないのかは、結局 本人次第ってことでしょうか。 他人が「不自由でしょう」と手を貸そうとしても、本人が不自由だと感じていなければ、不自由ではない。 ってことでしょうか。 幸せや価値観と一緒ですよね。 決められるのは本人のみ。

shift-2007
質問者

お礼

>幸せや価値観と一緒ですよね。決められるのは本人のみ。 仰るとおりですね。 ただ、果てしなく突き詰めていけば個人的な差はなくなり、ある点にたどり着くのではないだろうかとも思うのです。 それが私たちが期待していたものとは違うものだとしても。 ご回答ありがとうございました。

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