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自己責任が快く思える境界
前提から正しいかどうか、確信はありません。 巷に言う「自己責任」のことです。 人間さびしすぎたり、不安すぎたり、自信喪失状態だったすると「自己責任」というものに共感できなくなる気がします。 「もっとかまってほしい、そんな突き放されたような感覚いやだ」 という気持ちがあると思う。ある程度の社会的欲求が満たされ、精神的安定が得られると、これが逆に快く思えまた意義あることに感ずるようになるのではないでしょうか。実際社会的存在として、うまく生きるためには有意義であるということも言えるのでしょう。 どのような感じになると、「自己責任」が快く共感できるようになるのでしょうか。
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質問者が選んだベストアンサー
つまり質問者さんが述べているとおりのことです。「自己決定」が不安なら、わざわざそれを選択しないというのも重要な「自己決定」です。 自己責任というと「自分が好きなようにやる代わりに、何か問題が起きたときに責任を取れ。」というようなことだとおもいますが、一般的には、その人の人としての能力や自立している度合いなどが高ければ高いほど、それによるメリットが大きくなるのではないでしょうか?快く感じるか?という点については「自己責任」の「責任」という点をキチンと考えない場合も快く感じる人も要るので一概にいえません。 社会のルールや一般的な人の通るルート(大学に入って就職等)というのは、あくまで一般的な人にガイドラインを立てているに過ぎないということです。あくまで多種の人にとって問題のないように作ってある道に過ぎないので、中にはそれが自分にとっては「無駄」と感じる点が出てくることもあります。たとえば「大学に行く」という「社会的保険」を得ないでも、自分を他のより有意義な方法で昇華させ社会に認めさせることが出来るという自信や根拠がある人にとっては、他人に対してとやかくいわれない「自己責任」というのは快いものです。ただ、多くの人にとってはそこまでの自信がないのである程度の世の中での社会的保険があったほうがいいというわけです。「自己責任」というのは極端な話「安楽死」や「脳死」等の意思表明などの問題のように自分の生死にかかわる問題にもあり、「どこまで深いレベルで考えた上で最終的に良い決断できるか」ということでもよしあしが変わってくるもので、それにはその人の考えの深さが重要になってくるでしょう。「自分にとって本当の意味でよい点」というのは本人にしかわからないのですが、それは正直な話その人の教育レベルによっても左右されます。浅はかな考えで単純に決断されて満足されても後々困りますし、だからといってどこからが高い教育レベルなのか?といわれると難しいとしか言いようがないでしょう。 私は、「自己責任を快く感じる」ことが必ずしも本人にとってプラスで優れていることとは思いません。なぜなら、深くかんがえれば考えるほど選択に悩むのは当然だからです。中には、キチンと考えないで良い面だけみてあとあと後悔することも多々あるでしょう。もっと重要なのは、どの点についてどこまで「自己責任」を主張し、またどの点で「自己責任」を一定量放棄する代わりに「保護」してもらうことを望むのかを的確に判断できることです。そして、その判断について自分が他人に対して十分に説明できるだけの根拠があることです。そうすれば自然と「自己決定」というものに快く感じるのではないでしょうか?あなたが、「他人と一緒にいたい」というのもそれが貴方にとって精神的安定を得る為に必要だと思えば、それも重要なことで、それを放棄する「自己決定」は出来ないという選択も尊重されるべきです。そもそも、質問者さんのようにそういう視点からも考えてみることで、大きな決断をする前に考えを深めていくことが大切だと思います。 長々と失礼しました。
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民主主義などと言っても、結局は、管理社会の中で生きている(上司が居たり、何らかの形で取り仕切るやつが居たり)訳で、管理側が自分の責任を放棄して、失敗は個に押し付ける、都合の言い言葉です。 ----- 自己責任が快く思える境界? 目的が達成出来て、上から威圧を受けずに済む喜びを、快感と錯覚(勘違いして)する事。
お礼
本当に都合のいい言葉がはやってますよね。私も嫌悪感を感じています。
>どのような感じになると、「自己責任」が快く共感できるようになるのでしょうか。 「自分は自立していて、自分の力で生きていけると確信できる瞬間。」 だと私は思います。 でもこれって「自分の足で歩いていけない甘ちゃん」と ある意味他人を見下すような表現でもあるんですよね。 調子のいいときは、何もかもがうまく行くような気がするし、 自分の力で周りを変えていけると思うのに、 ちょっとつまずくと、全てが自分にとって負の方向に動いてると思えて、 もう何をしようが全部だめ、どうしようもないという不安。 欲求と精神安定はかなり密接です。 No.4の方がおっしゃる欲求段階層も含めて。 逆にいうと、フラストレーションが与えるストレスは多大なものです。 心に与える影響も、体に与える影響も。 だから気分次第で180度感じることも変わってくるんですね。 なんか答えになってませんが、質問者さんがおっしゃる >ある程度の社会的欲求が満たされ、精神的安定が得られると、これが逆に快く思えまた意義あることに感ずるようになるのではないでしょうか。 その通りだと思います。
お礼
そうなのでしょうかね。やはり精神的安定感がキーかもしれません。
- hifumiyo
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マズローの欲求段階説というのがあります。 安全→親和→自我→自己実現だったか…? 自己責任が心地よくなるには親和以下の欲求が満たされてればOKな気がします。
お礼
そうですね。なかなか満たせれないようですね。親和より高次のものまでみたせれる必要がある気もします。
- hamakkotarou
- ベストアンサー率24% (222/908)
>人間さびしすぎたり、不安すぎたり、自信喪失状態だったすると「自己責任」というものに共感できなくなる気がします。 孤独を感じたり、不安を感じたり、自己喪失したりすることは普通に起こってしまうことだと思います。 それにどう向き合うかを決めるのは自分自身ですよね。 孤独を感じることがいけないことと決めれば自分にとって解決しなければならない問題になり、孤独を感じることは普通のことと決めれば特に解決しなければならない問題とはなりません。 つまり自分が決めたことで問題になったりならなかったりするのだと思います。 自分で決めたことで引き起こされた問題は誰かが解決できるものではなく自分自身でしか解決できないと思います。 ただし、解決するために誰かに協力してもらうことは十分に可能だと思います。
お礼
そうですね。論理的につめていくとそうなっていって、なにか究極の自己責任を負っていくしかないような思考法になってしまいます。
- lookfor
- ベストアンサー率25% (52/205)
自己責任という単語は、選択と結果の責任は自分で負うということで、急速に言われだしましたね。 小泉改革が始まって、加速されたように思います。 私など、旧世代は、もたれあいが好きで戸惑いばかりでしたが、最近こう考え出しました。 孤独、不安という感情も自分のものとして、負っていくことは、人の宿命のようなものである。しかし、そうならないよう、人と節度ある付き合いをする、友人をつくる、信頼を得るという選択肢もある。 自分の人生の責任を自分で負うということだ。と。 どういう人生にしたいか、どういう感情で過ごしたいかということも 自分で決め、そういう風に生きていく、そして結果は全て自分にあるという風に腹をきめていくと共感できるのではないですか? そんな域まで達しませんが…。
お礼
しかし、そこまで「自己責任」といわれると、途方にくれてしまいますよね。孤独不安を本当に自分の意思で解消できるのでしょうか。その選択肢が本当に手に入るものなのかと言う疑問が常にあります。
お礼
難しい問題なのですね。そのように論理的に考えていくと、見えてくるものもありますけども、なかなか感情レヴェルの問題では、生かすのが難しそうです。