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国家が「自己責任論」を掲げる場合について

国家が「自己責任論」を掲げる場合、その背景には、すべての責任を個人に解消することで、社会的責任を放棄・隠蔽しようとする意図が存在していることが多いのでしょうか? 皆さんのご意見をお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

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  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.2

そうですね。 国家が「自己責任」と規定する事例においては、 個人の自由意思に基づく権利行使と判断され、 社会の「意図」とする範疇から外れる場合には、 社会の「責任」とする対象からも外れてしまうという、 「意図」というよりも至極当然な「論理」の下に在るんでしょうね。

その他の回答 (1)

回答No.1

日本国内での話だと、国は、注意・警告・説得を行うなどして、果たすべき社会的責任を果たしてるって事が多いと思います。 例えば、危険な登山とか、紛争地域に遊びに行こうとしてる人に対してだとか。 憲法なんかでも認められている自由を制限するのは難しいです。

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