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必要(大切)なものはひとつだけ?

tokytimeの回答

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.12

随分遅い回答になってしまいましたが、読んで頂ければ、幸いです。 イエスは当時の「物質中心主義」に陥っていた「ユダヤ教」に霊性を吹き込むため、降臨されたのだと思います。 当時のユダヤ教には「死後の世界観」といったはっきりしたものが無く、ましてや霊魂の不滅に対する考えもありませんでした。 イエスの使命は「霊魂の不滅」を説き、ドグマ主義に陥っていた当時のユダヤ教に対し、霊魂にとって最も大切なシンプルな普遍的な教え、 「霊魂は不滅であり、死後も存在し続ける」 「他者に対して己が欲するごとく為せ」 「隣人を己を愛するごとく愛せ」 を説いたのだと思います。 霊魂は不滅で常に向上を求め、他者に尽くすことにより限りなく「神」に近づけるよう成長していくものだ、という教えだと思います。 イエスの言葉は「霊的に準備が出来ている人の魂」に土に浸み込む水のように吸収され魂の糧となっていきます。 「霊的準備が出来ている」とは常に魂が霊性の向上を願い、次にもたらされるであろう霊的な言葉、文字、インスピレーションを待っている状態のことです。 さて、マルタとマリアですが、 マルタは心よりイエスをもてなそうとしました。その為に心を配り、献身的に働きました。 マルタにとっては歓待することがイエスに対する最高の心尽くしだったのでしょう。 ところが妹のマリアは手伝うどころか、イエスの話に聞き入るばかりで動こうともしません。 マルタにとっては、マリアの、イエスのために何もせず、ただ話しを聞いているだけという行為がとても怠慢で身勝手に感じられたのではないでしょうか。 イエスにはこの世に霊的真理を広め、少しでも多くの人々を悩み、苦しみ、迷いから救い出すという大きな使命がありました。 でも、この真理は誰が語ろうと、霊的に準備の出来た人にしか伝わらないのです。 魂に準備が出来ていて、いつでも受け入れられる状態のときに、初めて霊的真理は降り注ぐ太陽の光のように魂の中に注ぎ込まれるのだと思います。 マリアの状態がまさにそのような状態だったのではないでしょうか。 霊的真理を欲しているときには魂の底からそれを希求しているので、その他の物質的欲求や願望は二の次になってしまいます。 イエスの言葉は普通の言葉ではなく「霊的真理」を語っているのであり、マリアにとってはまさに何にも代え難い「魂の糧」であり、心底求めていた「霊的向上の鍵」となるものであり、「全身全霊の喜び」となるものだったのでしょう。 姉のマルタはこの事を理解していません。 マルタにはまだそこまでの魂の準備が出来ていなかったのかもしれません。でも、彼女は自分に出来る最高の方法でイエスに真心を尽くしたのですからそれはそれで素晴らしいことなのです。 イエスもきっと喜ばれていたでしょう。 ただ、マリアのようにイエスによって霊性が開かれ霊的向上を遂げるほうをもっと喜ばれるでしょう。 なぜなら、それがイエスの使命であり、喜びだからです。 イエスがマリアによって癒されたのではなく、マリアの魂がイエスの尊い言葉によって癒されたのです。 そしてそのことをイエスは何より喜ばれているのです。 だから、「奪ってはならない」といったのです。 マルタには霊的真理に触れたときの例えようもない喜びが理解できず、邪魔するようなことを言ってしまい、イエスに諭されてしまったのです。 マルタが思い悩み、心を乱している多くのこととは「この世的」な「物質的」な悩みです。 「ただひとつの必要なこと」とは「霊的真理を求める心」です。 そしてマリアはそのただひとつの真理を選んでいるのです。 イエスは決してマルタを責めているのではありません。 やさしく諭しているだけです。 マルタに悪気はないのですから。 この一説は人の魂にとってなにが一番大切なのかを例え話的に語っているのでしょうね。 この世で生活していると、ついつい世間的なことや、本当は大したことではない日常的なことばかりに気がとられ心が一杯になりがちです。 きっとイエスはそのことを諌め、人が自分自身は霊的存在であり、常に霊性の向上を求めるものだということを忘れないようにと教え諭したんだと思います。

noname#31063
質問者

お礼

tokytimeさん。綺麗な詩を読むようで、霊的に納得させられました。回答ありがとうございます。質問者として回答を貰うのは嬉しい限り、愛の告白でも(ない、ない)叱咤激励、誹謗中傷であろうが弟子として師に光を注がれるように嬉しいです。師匠は回答を下さる方全て。霊的に自分の投稿の確認を怠らず(暇だから)態度が無礼で無謀で無知~という変な奴です。 >霊魂にとって最も大切なシンプルな普遍的な教え、 真理よりも、現実の苦悩を作り出すのが人は得意・嗜好傾向があるせいかもしれないからでしょうか。マリアのように素直になれたら幸せに感じることの方が多く、そして幸せを無意識に太陽の光のように振り注いでいるようなですね。 素直に信じれるのも、良い師、良い協力者があってこそ、今のご時世では必ずしも霊性を高めてくれるのが宗教家ではないように思えるのですが、 >「他者に対して己が欲するごとく為せ」 「隣人を己を愛するごとく愛せ」 これは真理!ですよね。立場が変わったら主張も変えるズルの滅し方、嫉妬や恨み辛み、諸悪の根源(そこまで言えないかな)であるのに、人類は依然変えません。変えられません。私も自己中が治せません。 マルタもイエスを癒そうとしているのに、マリアと、イエスにまでも嫉妬したから「取り上げてはならない」と諭されたのでしょうね。 マリアが身勝手に思えても霊性が高いと癒された魂が、次の可能性をもっと引き出すことまで考えることが出来るなら、そうなればマルタもきっと嫉妬せずとも楽しめるのになぁ。やはりそこまでの想像力って感情だけでは難しいですね。いつも冷静で霊性が高いイエスは物質よりも精神の豊かさって喜び多いものなのしょうね。 >「ただひとつの必要なこと」とは「霊的真理を求める心」です。 マルタよりもマリアの方が器が大きいような、大人にも見えてきました。マルタのように献身を惜しみなくしっかりした大人がいなくては物質世界も秩序がなくなりそうなのも判るのですが。 まだまだある事情から(気分で)この質問を引き伸ばしてますけれど、回答者様全ての真心の弟子になります。だからといって何の特典もないです(爆)に立ち寄って頂き勉強になりました。ありがとうございます。

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