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必要(大切)なものはひとつだけ?

kobareroの回答

  • kobarero
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回答No.11

#10です。 こんばんは。 「マルタとマリア」、まだ、途中ですが、回答させていただきます。実は、少し読んでいると、わからないことにぶつかり、調べていると、関連したおもしろい本が見つかって、そちらを読んで、また、戻って、調べていると、また、おもしろい本が見つかって、また、それを読んで......なんてことをやっていまして、いつまでたっても終わりませーん。でも、お陰で、色々本が読めたので、まずは、miko-desiさんに感謝感謝です。 「マルタとマリア」を読むと、2人ともイエスに愛された重要な弟子だったことがわかります。例えば、新約聖書に登場するイエスの「晩餐」は、有名な「最後の晩餐」とベタニアでマルタやマリアの家で行った晩餐(ヨハ12:2)の2回だけです。また、マルタはお兄さんのラザロをイエスが生き返らせる前に、イエスの力を信じて信仰告白をします(ヨハ11:27)。これに対し、弟子のトマスは、イエスが死んで蘇った後でも、指の釘跡やわき腹の穴を確認するまでは信じないと言った(ヨハ20:25)ので、「見てから信じるトマス。見ないで信じるマルタ。」と言われ、マルタの信仰心の厚さが高く評価されています。さらに、miko-desiさんが引用した「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している(ルカ10:41)」については、「マルタ、マルタ」と2度続けて名前を呼ぶのは、聖書の中では限られた用法で、イエスが、特に信頼して宣教奉仕を行うことを指示するときの言い方だそうです。ここまで来ると、「うーん、そういうもんですか」としか言いようがないのですが、とにかく、マルタはイエスから信頼された重要な弟子だったようです。一方、マリアも、イエス復活後、イエスが最初に会ったほどですから、当然大切な人でした。 ところが、ここから段々話がおかしくなるのですが、それほど重要視されていたマルタとマリアが、その後の初期キリスト教共同体の中で、段々と地位を落とされてしまうのです。聖書自体はイエスが直接書いたわけではなく、イエスの死後一番早くて20年後、一番遅くて150年くらい後に書かれたので、その間に、初期キリスト教共同体の考え方や宗派の影響を強く受けたと思われます。そして、最終的に正統派キリスト教が、たくさんあったその他の宗派を異端として排除することで、内容が一本化されます。最初期キリスト教の時代には、男女の差別はなく、女性でも、宣教活動をしたり、司祭になったり、洗礼を施す人もいましたが、段々、女性は人の前で教えたりせずに静かにしていることを求められるようになりました(テモ2:11)。また、最初期に伝承されていたイエスの教えについても、異端と断定されたものに関しては、徹底的に排除し、その関連文書も処分されました。ところが、その一方で、正統派キリスト教の中でも、100%考えが統一されていたわけではなく、現在の新約聖書の中にも、考え方が統一仕切れなくて、異なった見方が混在していると見られています。例えば、miko-desiさんが引用した部分(ルカ10:40)も、そのおもしろい例として挙げられています。この部分は、マルタを評価している面を残しながら、一方で、女性蔑視の著者が、女性を軽蔑するために脚色しているというのです。どういうことかと言うと、ここでは、女は所詮つまらないことでけんかばかりしていて、しかも、自分では問題解決できず、イエスに頼っているというのです。どうでしょう? なかなか複雑な見方ですけどね。 「マルタとマリア」を読んでいて思ったんですが、イエスは人を差別しないんですね。まず、男女差別も全然していません。それから、miko-desiさんが引用したマルタとマリアの箇所の直前に「善いサマリア人」というのがあります(ルカ10:25-37)。ここに出てくるサマリア人というのは、ユダヤ人と仲が悪く、ユダヤ人は敵視していたようです。でも、ユダヤ人が追いはぎに遭って困っているとき、助けてくれたのは、同じ仲間のユダヤの祭司でもレビ人でもなく、サマリア人だったわけです。イエスが隣人愛の例として示したものです。イエスは、敵味方で差別しないし、人種でも差別しないです。イエスは、男女愛も大切だと思っていたとは思いますが、新約聖書の全体とトーンとしては、miko-desiさんには、申し訳ないですが、やはり、隣人愛ではないでしょうか? 隣人愛の中には、当然、男女愛も含まれると思いますから、悲観することはないと思いますが......。 要するに、イエスは、人と人の間に線を引いて差別するということがないように思います。誰に対しても区別せず愛することを説いているように思います。 ところが非常に不思議なことに、キリスト教の伝統的な行動を見ると、人と人の間に線を引いてひどい差別をすることがあるんですね。男と女の間に線を引く。正統派と異端の間に線を引く。キリスト教徒と異教徒の間に線を引く。そして、教会の指導者層から女性を排除したり、異端を殺したり、魔女を殺したり、十字軍でイスラム教徒を殺したりします。そういう側面が、かなり目立つので、とても不思議なことだと思っていました。そんなことを考えていたとき、寄り道して、「キリスト教を問い直す」というのを読みました。その中で、同じような問題が議論されていました。答えは、「キリスト教とキリスト教徒は違う」という話でした。「えー? そんなのずるくない?」と思ったのですが、後で考えると、結構説得力があるように思えてきました。 で、さらに、寄り道して、エレーヌ・ペイゲレスの「ナグ・ハマディ写本」を読んでみました。「えー!初期のキリスト教にそんな近代的な考え方もあったのか」とびっくりです。なにしろ、イエスが処女から生まれたとか、磔刑後に復活したとかいうのは、譬えであって事実ではないと初めから認めているのです。一番、感心したのは、人は神の似姿に造られているのだから、一人一人の人間には、「罪」ではなく、「神の光」が宿っているという考え方です。どんな人間でも、敵であっても、「神の光」が宿っているからこそ、愛する意味があり、愛する必要があるのだという考えです。これだと、たとえ異端でも、イスラム教徒でも、殺して良いという発想は生まれなくなるので、妙に納得です。もう少し、異端を研究してみたくなりました。 ということで、寄り道ばかりしてしまいましたが、ご質問のマルタとマリアの件の答えは、「ルカ福音書の著者によって、ちょっと馬鹿にされたマルタとマリアですが、イエスの気持ちとしては、マリアには、これからさらに神の教えを学んで欲しいし、マルタには、つまらないことに気を煩わせずに、宣教に励んで欲しいと思ったのではないでしょうか?

noname#31063
質問者

お礼

こんにちは、(挨拶忘れてました)。 >助けてくれたのは、同じ仲間のユダヤの祭司でもレビ人でもなく、サマリア人だったわけです。イエスが隣人愛の例として示したものです。 似た例はいくらでもありそうですね。北朝鮮では日米を非難する教育と報道が強制的になされてますが、本当に戦うべきはそっちの内政なんですけど!!って。日本への内政干渉より、自国の教育と汚染報道改善が先だろっ!韓国や中国もしかり。でもそれで特する日本人がいるので益々煽ってますよね。この日本政府はどこの政府なのかと…。こんなに親切な味方を仮想敵国にして何の訓練・試練なのでしょ?本当に戦うべきは悪意を咎めることも出来ない人が良いだけ同情をするだけの味方だった。それなら触発して色々気付かせる異色な敵の存在を、実はこっそり大事に愛玩愛人のように格別なものにしておきたいのかもしれませぬ。マリアとマルタ…どんどん関係なくなってしまったようで、実は正妻と愛人の心理と重なるかもしれない。かもしれない。マルタは世間体を気にする潔癖な正妻で、マリアは自由奔放な愛人て感じもします。 >人は神の似姿に造られているのだから、一人一人の人間には、「罪」ではなく、「神の光」が宿っているという考え方です。 う~ん。神って人間の素晴らしい想像力・英知が生んだのだと確実に思うのですが、「神の光」というのは判ります。それは「誇り」ではなかろうかと。悪いことをすれば罰を受けるのはしょうがないことで当然というか、そうなって欲しいのが人情なんで、それでも善いことをしても罰を受けることが少なくないのに人を生かしたいが為にそうすることが美談であり、悲劇であり、でもそれでその人がつまらない死に方と、誇りを知っている人なら馬鹿にしない。人にだけにある(神もある)「誇り」が肉体の死を超えても精神の存在を確信していれるからですよね。 復活したイエスも誇りの精神の存在を顕著に表した例だと思います。でも実際に食事したりもしたらしい。 精神だけで食事が出来るものなのかどうか?(意味不明)

noname#31063
質問者

補足

ありがとうございます♪本は興味が連鎖してカテゴリーを越えて、最後自分の中で一つの重要が見つかり、その時間も有意義だったと満足出来たり、新たな掛け橋になる醍醐味ってありますね。kobareroさんはもうその辺のクリスチャンより博学ではないですかね。それだけイエスは魅力ある「人間」だったのですね。その光に敏感になることが出来るのもkobareroさんに同じ光があるからだと思います。信仰の種を播いても収穫出来るのはその人なりの土壌との相性があると思います。kobareroさんはどういう風貌をされているのかなと思いますよ。私は「仲間ゆきえか加納美香どちら似か?」と聞かれたら、加納美香です(笑) >イエスは人を差別しないんですね。 miko-desiも人を(全く)差別しませんよ~。嫉妬や人を恨むこともしません。出来ません。それは最初から偉くないからで~す。頭回らないからでーす。Oh、 my got!!(笑)で、kobareroさんにお礼飛ばしされたことも、何か?それだけkobareroさんに切迫した理由があるからに違いないと思って全然気にしてませんから本当大丈夫ですから。こうやって勉強になりお話楽しいです。もう、お礼飛ばしなれちゃってるしそれって相手の事情だけならいいのですが、私は何か?いけない事を回答してしまっているのかも少しは気にしようかな~頭カキカキ(笑)いやしろよ!?スマン(反省修了)。 本は積ん読です。通勤時間が短縮したので(←言い訳だぁ)兎に角それでは質問者様にも申し訳ないと思い、パッションを以前観ました、昨夜「ジーザス」を観てみけど全然マルタは出て来ません。それに女子供に対する差別、女性の貞操観念って凄くあった酷い時代ですね。今こうして平和なのが不思議なくらい過去の人類は淘汰されています。でも酷い時代を乗り越え生き延びた子孫の私達が、それほど弱いはずがもうありません! それは今の男性が一番実感しているかな?(笑) >「見てから信じるトマス。見ないで信じるマルタ。」 ですが、「信じる」ことが大事だとおっしゃるイエスにの「おごり」を感じます。そんな不粋な私なのでございます。「信じる」については後日述べます。

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