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必要(大切)なものはひとつだけ?

kobareroの回答

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.10

#6です。 どうやら、マルタも隅におけない重要人物だったみたいです。 キリスト教について調べていると、マルタとマリアの話は、意外に多く取り上げられているので、びっくりしています。昨日も、街を歩いていると、偶然、その名もズバリ「マルタとマリア」という本を発見してしまいました。 この本によると、初期キリスト教時代には、マルタはマリアと並んで非常に重要な役割をしたようです。ローマ教会が正統派としての地位を確立すると、女性蔑視の思想が定着して、マルタとマリアは格下げされてしまいますが、それまでは、男性使徒と同等か、場合によってはそれ以上の役割をしていたと見られていたようです。この本の特徴は、そのあたりの事情を、異端の聖書を中心に分析するのではなく、できるだけ正統派の聖書の中から読み取ろうとしています。そのため、少ない証拠物件から必死になって推理している感じです。 例えば、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(ヨハネ11-5)という箇所から、イエスとマルタ&マリアへの特別な関係を読み取り、「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。」(ヨハネ11-19)から、マルタ&マリアが、当時のユダヤ人から信望を集めていたことを読み取り、また、「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベアタニア出身で、ラザロといった。」(ヨハネ11-1)では、女性の名によって男性ラザロを説明するという聖書ではまれな方法なので、このことから、如何にマルタ&マリアが当時重要な役割を担っていたかを逆に推測するといった具合です。 まだ、読み始めたばかりなので、全体像がつかめていませんが、#5で回答させていただいた内容とはかなり異なった結論になりそうなので、あらかじめご連絡させていただきました。読み終わった段階で、あらためて、補足回答させていただこうかと思っていますが、読み終わるのに1週間くらいはかかりそうです。 なお、「マルタとマリア」は、エンタメ度ゼロ、くそ真面目の硬い本なので、よっぽどのオタク精神がない人には、お勧めではありません。特に、男女の愛については、ほとんど関心を示していませんので、「乞うご期待」では全然ありませんので、あらかじめご了承ください。ただ、私自身は、以前に質問したキリスト教に関する疑問の回答にも繋がり、大変興味のあるところです。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1482803 

noname#31063
質問者

お礼

kobareroさん。再来ありがとうございます。お世話になります。嫌いにならないで欲しいのですが…まだダヴィンチコードの真実を3/4ぐらい読んだだけです。あ~情けない。 搭乗人物の名前がややこしくて(←外人は皆同じに見えるという人)苦心してます。もっとお待ち下さい(大汗)。 イエスがユダヤ人であったことや初期キリスト教はユダヤ教に近かったこと、って兄弟ケンカって感じですね。知の最高峰だった宗教も科学が発展すると異端化していくとは親子ケンカ。ついでに、個人的に別カテで質問出してます。現代の日本十字軍(医界)にも謎なんですが。「医師と患者の権限」 閉鎖的な社会では周囲からの評価認識が優位で、開放的な社会では注目認識が優位になるということを人類は猿の時から相互にやってきてるそう。それがもう価値観が多様化して収束不全になるとケンカ。 その「マルタとマリア」の感じで行くとマルタの方が強かなような~、女心は永遠に謎ですたい!(誰やねん) 話題が膨らんで面白いです。ありがとうございます。

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