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必要(大切)なものはひとつだけ?

kobareroの回答

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.6

#5です。 『 私の視点は薀蓄や暗号ではなく、【愛】なので(笑)いつ二人が出会い、どんな会話をし、性儀をし(笑)、..... 』ということでしたら、ティービングの書棚の本を一冊借りてくれば良かったのにと思います。「ダ・ヴィンチ・コード(下)p26」で、ソフイーが首をひねって見た3冊の本の1冊に「マグダラのマリアと聖杯」というのがあります。もし、借りるのが無理でしたら、7月に英知出版から翻訳が出ましたよ(まだ、売れると踏んだようです)。 イエスとマリアの出会いのこと、マルタに食事の準備をさせたが、実は内心後ろめたかったこと、「その夜、イエスはマリアを抱いた」こと、妊娠したこと、イエスの死体を譲り受けたアリマタヤのヨセフに守られてアレキサンドリアに亡命し、そこで、イエスの子を出産したこと、そのあと、子供を抱いてフランス(昔のガリア)へ渡り、やがて、イエスの血脈がメロヴィング朝に伝えられたことなどが書かれています。 性儀については、残念ながら詳しく書かれていませんが、関連事項はあります。マリアはイエスの頭から香油をぶっかけた(マルコ14-3)のですが、この行為は、当時の宗教的背景では、イエスが王であることを示す意味があり、政治的にかなり危険な行為だったようです。それはそれとして、この行為には、もう一つ性愛関係上の意味があります。それは、香油を、わざわざ頭からかけるという行為は、花嫁と花婿の結合をスムースにするため、男根の頭にかけることを暗示していたそうです。だから、ルカ7-38にように足に香油をかけるのと、マルコ14-3のように頭からかけるのでは、意味が違う見たいですね。 それから、レオナルドの話は、恐ろしい恐ろしい「異端」の話を抜きには考えれないと思います。イスラム教のような他宗教なら、これは異教ですが、異端というのは、あくまで同じキリスト教の中で正統派と称するグループから認められなかった宗派のことです。異端審問所の存在によって、非常に多くの異端者がバーベキューにされたり、股裂かれたということは、如何に根強い異端宗派があったかの裏返しでもあります。レオナルドは異端の思想を持っていたと思われています。恐らく、マグダラのマリアによるイエスの血脈の伝承も承知していたと思います。しかし、決して決して口に出すわけにはいかなかったのです。口に出せないが、なんとか後世に伝えたい、ウーンウーンと悩み、よしっ、絵の中に暗号として入れてしまえと考えた。レオナルドが、「最後の晩餐」や「岩窟の聖母」などの中に如何に異端の思想を隠し込んだかなどについては、ご興味があれば、「ダ・ヴィンチ・コードの真実」(竹書房)に載ってます。それにしても、最近、モナリザの顔を見ると、おじ様の顔が彷彿としてきてしまい、真面目に味わえなくなってしまいました。余計な知識も考えものですね。 異端の話は、マリアによる福音書とか、マグハマディ文書(1)とかが出てきて、だんだん明らかになって来たみたいですが、やはり、マグダラのマリアの地位の問題が大きいみたいですね。これは、即女性の地位の問題でもあります。キリスト教が正式にローマ帝国の国教として認められる以前の初期キリスト教では、マグダラのマリアを初め多くの女性が自ら福音の伝道を行い、教会の中でも司祭などの高い地位についていました。また、性愛に関しても男女の共生を賛美する古代ギリシャのおおらかさがありました。ところが、いわゆる正統派がその力をつけると同時に、女性の先祖はイヴであり、男性を堕落させるものであるという考え方や、性愛は抑圧すべきものだという思想がはびこってきました。聖書の中でも1コリ9-5では、奥さんと一緒に伝道していましたが、1デモ2-11になると、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません、むしろ静かにしているべきです」などと言い出す始末です。こう考えると、初期キリスト教が、もし、正統派になっていれば、今頃は、livedoorの社長は、堀江貴子で、日本の首相も野田聖子さんだったかも知れません。 マグダラのギリシャ語は、マドレーヌだそうです(2)。お菓子のマドレーヌもマグダラのマリアにちなんで付けられたという言い伝えもあります。また、マグダラのマリアによるイエスの血脈を引き継いだというメロヴィング朝は、パリを初めて首都に決めました(3)。今、我々がルイ・ヴィトン、エルメス、シャンネルの商品を買えるのも、元はと言えば、マグダラのマリアのお陰と思うと、やはり感謝感謝じゃないですか? やはり、「嘘は大きい程信じれる/ヒットラー」かな? (1)ナグハマディ文書 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/gzmgzm/article/02/03.html (2)マドレーヌ http://www.doctormana.com/e/e_text66.html (3)ダ・ヴィンチ・コードを読み解く その5:イエスの子孫=メロヴィング朝? http://www.actv.ne.jp/~yappi/new-baksisi/nb06-davinchcode.htm

noname#31063
質問者

補足

凄いです!(感嘆・驚愕)。多大な資料と貴重なお時間を割いて頂けたことに感謝します。紹介して頂いた図書も即急に入手しなければと思い、補足にしました。 こんなに歴史が深いものとは・・。今ある平和の尊さって、先人の苦悩苦戦の歴史と、楽な隷属社会を選択した上で成り立っていたのですね。 それに「哲学カテにピッタンコな見解でしょ、実は深い哲学なのよ。私カテいい質問していた」ってkobareroさんの詳しい(ネタバレ)解説のお陰で思えてます。 努力を重ね偉くなった方の学問を固定化・区別化しようとする技量が私にはありません。常識にも諸手をあげて従えません。高校すらまともに出てません。なのに良いとこ取りしたいのです。 モナリザを自由に鑑賞できなくなってしまった知識も残念ではありますが、芸術とは、つまり執着の証明の他何物にもなり得ない訳で、知識を得るのも、鑑賞する側からしたら迷惑なものかもですね。 そういった意味(意味不明)でドラクロアの「民衆を導く自由の女神」を彷彿させるのですが、あの絵も謎が・・もしかしてマダグラのマリアなのかもと勝手に思い始めているのですが。 知識は歴史・科学・宗教・芸術全て人間活動を示す手がかりではないでしょうか?それが統計・実験で証明され完結したものなら学問の進退はなくなります。思考錯誤する学問の体系から外れた哲学だと思うので哲学のカテに質問をしました。 「バカは都合の良いほうに解釈する異端な才能である/ミコ」(笑) 紹介された図書は一見の価値ありですね。【愛】を知るためなら惜しくないです。なぜ、私が愛に拘っているかは、愛というものが能力なのか目的なのか過程なのか、それとも物質主義なのかを人生のテーマにしているからです。 マリアの愛は、マルタの善より神に受け入れられた。愛か善か?能力と目的、どちらが世界を導くのか? これは哲学でしょ?

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