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必要(大切)なものはひとつだけ?

flashprimの回答

  • flashprim
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回答No.9

信仰>異性愛>師弟愛となります。イエスは異性愛や師弟愛を伝えていません。 ナザレのイエスは「福音」の言葉を発するために降臨されたのです。死ぬことも知っています。 恋愛は彼の計画に入っていません。 何よりも神を愛す信仰をもつ人間は大変少ないです。理解も出来ません。ですからこの部類は意識的に省いて話します。すなわち恋愛に結び付けて考えたいようですので恋愛の話をします。 この世で一番美しいのは恋愛愛です。すなわち結婚愛です。人に惹かれるというのはどういうことでしょうか。自己の心が打たれることです。自己の心が打たれ、その人の心に入りたい、融合したいという希求のもとでその人を求めます。その人の心には誇りと謙遜と畏れと、共に立つ夢と歓びがあふれます。万難(条件と低次的なプライドが傷つく恐れ)を排してその人に近づきます。 愛する人が傷つく振る舞いを大変畏れます。針先ほどでもゆるせません。かといって卑屈にはならず誇りが高いです。自己が相手を愛しているのかと疑ったり、確かめたりすることもありません。愛しているからです。男女の性差は関係ありません。相手を守ることが筆頭の思いです。二人の関係が周りの人々から与えられる祝福が似合うために社会性を大変重んじます。合う回数や距離は関係ありません。まず社会的責務を果たし、条件が合えば二人の時間を取ります。目に見える愛情表現はあまりしません。それより二人して家族、友人、知人対しての親切を心がけます。それらの共同あるいは単独の役立ちから二人の関係を確かめます。二人は愛で結ばれているため、プライドが高いのです。"男女愛のプライド"イコール"徳"です。それぞれ他の異性とも仲良く付き合います。ただ恋愛的に「良い」とは思わないだけです。片方が異性の友人を持たないと片方は心配します。自分が、二人の愛が、その人の人生を縛っているのではないかと。二人が「合わない」ことが分かれば潔く別れます。早いです。思い出しても心がゆれることないように忘れます。いつしかあるいは初めから人生を共に過ごしたいという欲求が生まれます。独りで生きていくほうが楽だと分かっています。しかし、双方が相手の苦労を余計に背負ってでも二人で暮らしたいと願うようになります。片方が納得できなければよく話し合います。子供は二人の愛の結実です。愛から生まれたものです。子供に溺愛はしません。子供が出来ると社会の子として、二人の子として育てます。ですから二人の愛的関係は変わりません。ですから子供は至上の愛を目の当たりにして育つのでまっとうな精神をはぐみつつ育ちます。 二人の心には片方の姿が常に存在します。どちらが自分でどれが相手なのかわからなくなります。愛する人が傷つく振る舞いを畏れる気持ちから自分の思いに大変気をつけるようになります。 他人が彼氏、彼女を持っているから、恋人を持ってないと罰が悪いから、かっこ悪いから、楽しくないから、性に興味があるから、食べさせて欲しいから、身の回りの世話をして欲しいから、社会人として認められないから、お金が欲しいから、寂しいから、電流が走ったから(性欲)、かっこいいから、かわいいから、困らせてやりたいから、子供が欲しいから、結婚するのが当然だから、無意識に異性を求めてしまうから、相手のいいところを学びたいから、これらは恋愛(結婚愛)ではありません。破綻します。目に見えての破綻がなくとも、時につれてこころは離れて相手を憎むようになります。表面は普通でも心の奥底で憎むというたぐいです。一番美しいもののはずが最下等の醜い部類に陥りる可能性があります。 恋愛は双方の心の属性によりその質が決定されます。後天的なものもありますが、先天的な属性がより決定します。金持ちが金を持たない者を相手にしないように、人間性に魅力あるものは無い者に興味を持ちません。恋愛を形成するのが困難だとも知っているからです。年頃になると恋愛に備えます。すなわち、男らしくなること、女らしくなることです。 普通の恋愛像をこれより導き出したわけではありませんが、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読むことをお薦めします。そしてキティーとレーヴィンを見てください。「マグダラのマリアと聖杯」と「ダ・ヴィンチ・コードの真実」というのを信じるよりは、小説ですが「このような恋愛像もありうるかもしれない」と信じるほうが、ずっと有益です。

noname#31063
質問者

お礼

flashprimさん。ありがとうございます。凄いです!大変学ぶところがありました。これは以外な(?)豊作でした。何度も読み直ししました。 私も平然と存在している訳ですが、flashprimさんや他の英知溢れる回答者の方々が平然と存在していて、縁があったということは奇跡なのでしょうか? 【神の愛は最高の知性】であることが理解できました。 私は愛について一日に何度となく考えるのです。愛は趣味なんです(笑)でもそれは私が愛を実践しているのではなく、愛を眺めて楽しんでいるのが好きなだけなんですけどね。愛された経験は少ないですし(号泣)。 >  信仰>異性愛>師弟愛となります。 これについては信仰のない私にはまだ実感ができません。 私が現時点で思う 人間の完全性から出来る唯一の愛は【母子愛】 だと思っていますので、神は性を超越した存在なのでしょうけれど、イエスはブッダに比べても男性的に見えます。そういうところの思慮が欠落しているのではないかと思えます。つまり男性は異性をどんなに愛しても完全体に帰属出来ない寂しい性があり、その羨望を父に向けるのかな?って想像しています。 遺伝には優性と劣勢がありますが、優性ばかりが役に立つのではなく、害がある有用でないとされていた遺伝子でも全体(種族~自然)にとっては一つの可能性として団体戦で存在しうるのであり、乗り合わせが良ければ無能者でもゴールするし、いくら全知全能の神であっても乗り合わせが良くなければ途中で挫折しうる。ということを神は身をもって知って証明したのだと思います。 >この世で一番美しいのは恋愛愛です。すなわち結婚愛です 太古では、恋愛=結婚で通用することに思いますが、情報が溢れ選択肢が無数に用意された現代に置いてはどうでしょう?結婚という概念も神が用意し人間に与えたものとは思いません。いや、何なら 結婚という契約をなくしてもらっても構わん! と思ってたりします。男女の徳と理想が重なり、社会の子を慈しみ立派に育てられ、みんなを守れるなら…遊牧民的発想ですが真剣に思ってます。 >トルストイの「アンナ・カレーニナ」の紹介ありがとうございます。是非拝読いたします。愛を知る為に…(←本当しつこい)読後感想も補足に入れますので、機会を見て覗いて下さいね。 ありがとうございました。

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