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必要(大切)なものはひとつだけ?

benderの回答

  • bender
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回答No.7

『マリア は 良い 方を 選んだ』というイエスの言葉についていえば、質問された方の書いておられること(「家を守って…癒されていたいんだよ」)を読むと、「マリアは自分(イエス)にとって良い方を選んだ」とイエスが言ったように解釈されたということでしょうか。 イエスは先の言葉に続けて、『彼女からそれを取り上げてはいけません』(日本聖書刊行会新改訳聖書より)と言っているわけですから、イエスが意図した意味は、「マリアはマリアにとって良い方を選んだ」と考えた方が自然ではないかと感じました。というのも、仮にイエスが「癒されたい」のであったならば、「私からそれを取り上げてはいけません」と言うのではないかと考えたからです。 またイエスは、マリアは「良い方」を選んだとは言っていますが、マルタがしたことを「悪い」と言ったとは聖書に書いてありません。因みにマルタは聖書の他の箇所にもでてくるのですが(マルタとマリアの兄弟であるラザロが亡くなった場面(ヨハネによる福音書11章))、このときマルタは、イエスが神の子メシヤ(救世主)であると言った、と聖書に書いてあるので、マルタの家での出来事が、特に、誰が天国にいくかといった問題を扱っているようには私は感じませんでした。 ところでイエスは、例えば、水をぶどう酒に変えて(ヨハネによる福音書2章1-12節)、いくつかのパンや魚で数千人を満腹にした(ヨハネによる福音書6章1-15節、ルカによる福音書9章12-17節)と聖書にあるので、(それらの奇跡を個人的に信じるかどうかは別にして、聖書に一貫性があるとするならば)イエスがマルタの家で言った言葉の意味を考える上で彼が空腹であるかどうかが問題になるとは、むしろ考え難いように私は思います。 「ダ・ヴィンチ・コード」に関して言えば、アメリカではその内容の誤りについて指摘した本が何冊か出版され(例、参考URL。私はこの本を読んでいませんが、参考URLページでカスタマーレビューを読みました)、またその内容を検証するようなテレビ番組も放映されたようですが、これらの本の邦訳が日本で出版されることはないのではないでしょうか、日本では「ダ・ヴィンチ・コード」的に面白くないと売れないのかもしれないし。いずれにせよ、片一方の情報しか日本に伝わってこない状況というのは残念なことだと思います。 以下のサイトにも「ダ・ヴィンチ・コード」の内容を検証する本がリストアップされているようです。 http://www.greek-language.com/davinci/bibliography.html 私は、以上のリストの一番目の本の著者である大学教授がインタビューに答えている記事を以下のサイトで斜めに読みました。 http://www.beliefnet.com/story/167/story_16783_1.html

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1586170341/249-7444510-4972361
noname#31063
質問者

お礼

benderさん。ありがとうございます。流石gooです!色んな方向性・見解が知れて、改めて質問を出して良かったと思いました。普段は自分で調べることが好きですし、検索すれば聖書もザクザク出てくるのですが(失笑)個人では興味の範囲を越えれなく、人的協力で色んな見解が知れたことは参考以上な可能性の模索に浮かれてしまうのですが、感謝感謝でございます。しかし、本当に紹介して頂いた本の翻訳を心から待たれます・・。 私としてはイエスとマリアが愛で(←しつこい)結ばれていて欲しいです!でもその後の世界を大きく変える一つのきっかけとして自然な選択をしたマリアと意識的に親しみを訴えたマルタのどちらもその時は、イエスは平等な接し方をしてくれていたと思います。

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