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キリスト教徒のヨブ記の読み方は?

関根正雄訳 ヨブ記第15章 第14節 人はどうして清くあり得よう、 女から生まれた者はどうして義しくあり得よう。 1 無信仰な者がこれを読むとマリアは女性で、イエスはマリアの子だからイエスは人で、よってイエスは清くもないし義しくもないのだと受け取れます。キリスト教の各宗派のうち、比較的旧約聖書を重視しているのは、どの派ですか。その派ではヨブ記第15章 第14節をどう捉えているのでしょう。言わば敵対感情をもつのですか。それとも、言わば大人の対応で読み流すことができるのですか。 2 そもそも、キリスト教徒はイエスをどう認識しているのですか。人で、預言者で、救い主で、神の子という理解でよいですか。 よろしくお願いします。

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  • Big-Baby
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回答No.5

専門家ではありませんが、1について、カトリックでは「無原罪の御宿り」という教義があります。日本語のWikiはお話にならないのですが、次のサイトを読めばどういうものかわかると思います。要するに、イエスは100%清く、100%義しいというものです。 http://salveregina.dyndns.org/avemaria/special/imaculate.html 何万と宗派が別れるプロテスタントの見解については知りませんが、精霊によって身ごもったのだから清いと考えているのでしょうね、ヨブ記の記述などまったく関心がないでしょう。  キリスト教徒とユダヤ教徒の違いがおわかりですか?旧約の律法を断固として守るのがユダヤ教徒、旧約の律法はイエスの出現により取り消され、新たに神と人間の間に契約が結ばれたとするのがキリスト教徒。ユダヤ教徒にとって新約聖書など何の意味も持たず、キリスト教徒にとって旧約聖書など象徴的な意味を持つだけです。  カトリックもプロテスタントも東方教会もニケーア信条を信ずる点では共通しています。精霊、イエス、父なる神、この三者は位格においてまったく同一という三位一体の教義です。なかなかやさしくないですよ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A2%E4%BF%A1%E7%B5%8C

sono-higurashi
質問者

お礼

ご紹介のあった二つのページは読んでおきました。「無原罪の御宿り」、この知識があれば今回の質問は出なかったと思います。キリスト教徒に、こういう考え方があればヨブ記 第15章 第14節なんぞ、あっさり克服できてしまい、というよりは眼中におくべき記述でないことが判ります。 2000年に亘り、ありとあらゆる正論、曲論と論争を繰り返してきたのでしょうから、何かしら彼らの納得の仕方があるのだと思っていました。昨今の生命科学の観点から出るであろう疑問に、どう応じるのかも知りたいところですが、これは別の問題です。 知らぬが仏で井戸端会議と同じ感覚で質問していますが、質問の2は実はキリスト教の本質に絡んでいるのではないでしょうか。 キリスト教徒にとってのイエスが何ものであるかを理解する際のキーワードは、どうやら「三位一体」らしいと思えてきました。折角でしたが、この疑問はきょう、あしたに解ける性質のものではない気がします。ワカランチンが分かりたければ、心掛けておいて長期戦で解いていくべき問題みたいです。 毎度、有り難うございます。またの機会にもよろしくお願いします。今後、どちら様からも特段の寄稿がなければ28日(金)の夜間に締め切る予定です。

その他の回答 (8)

noname#80116
noname#80116
回答No.9

 No.6です。三位一体について 説明します。  《考える》を超えて《信じる》の領域(もしくは 非領域)のことですから 一般的に言えば おとぎ話のようになります。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。  父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は 子である権能にも等しく存在する。  父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。聖霊と呼ばれる。  子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛(聖霊)を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。  第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神がやって来て 人間の言葉でこれらの神のみ心を 告知したのであると。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。  この父と子と聖霊の三つの位格(ペルソナ)のしかも一体性は 光にたとえられる。光の 光源(父)と発耀(子)とその明るさ・暖かさ(聖霊)の一体性にたとえられる。三位一体とは 位格の各個が各個に等しく 各個が全体に 全体が各個に それぞれ等しい存在である。つまり 真実の光なる神は 一つなる本質(存在)でいましたまうが 三つのペルソナを持ちたまう。父とか子とかその交わりである聖霊とか これらの表現は 関係として言われるのである。言いかえると 子の父も 父の子も そして聖霊も それぞれ本質として 聖であり霊であり愛である。  人間は この三位一体なる神に似せて造られた存在であると考えられた。  神は 光であり そのうちに関係として三つのペルソナを持ちたまう一つなる真実の神であると 人間は記憶する。この記憶は 記憶が記憶に帰るとき つまりあるいは 人間がその記憶に尋ねるとき そのようにその一定の記憶内容を知解する。つまり 記憶がこの知解を生む。そして なぜなら 記憶し知解するとき そこに これら言わば父のような記憶と言わば子のような知解とを結び合わせる第三の行為能力である意志を持っており この意志は 人間が神の愛を分有させられてのように 記憶と知解の行為の初めに はたらいたと 記憶され知解される。それゆえ この人間の 記憶と知解と意志の一体性(ただし 時間的な間隔あり)は 神の三位一体の似像(にすがた)なのであると考えられた。  人間の 記憶は いわば精神の秩序であり 知解(知識)の宝庫である。記憶の宝庫から精神が知解するとき 意志が発出されていると考えられ この意志は人間の持つことが出来る愛である。自己の記憶と知解と意志なる三一性は 他者のこれらの三一性に 同じものであると考えられる。このとき 自己の意志 自己の愛は 他者の愛――他者への自己の愛 および 他者じしんの自己の愛――と同じであると考えられる。  人間は 三位一体の似像なる存在として 人格(ペルソナ)をかたちづくり 一つの本質(存在) 一つの生命である。  概念図として。 * * * * * * * * * 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・(↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [市民/市民社会] 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  [公民/公民圏] ・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 ) * * * * * * * * * * * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

sono-higurashi
質問者

お礼

ANo.5、ANo.6でニケーア信条、アウグスティヌスなどのキーワードを頂戴しています。キーワードが突破口になって、望めば好きなだけ芋づる式に資料に出会えそうです。 また、ANo.6のお礼の欄を、よってまたANo.5のお礼の欄を読んで下さったこととも思います。関心が続けば手始めにアウグスティヌスの著作物を手にしてみることになりそうです。将来、このANo.9の価値に気付くかもしれないし気付かないかもしれません。頼りないお礼で張り合いがないでしょうが、私にとっては多分そういう領域の話だと思います。 何度も回答を寄せて下さって有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

  • puregrape
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回答No.8

ヨブ記15:14「人が何であって清いでしょうか。女から産まれた者が義があるようになれるでしょうか。」                                                                              自分は清い、自分は罪が無い、自分は罪を犯した覚えが無いという人が多いです。しかし、御言葉は「義人はいない。一人もいない」と言われます。即ち、全ての人は罪人なのです。                                                                                                                もし、自分は罪が無いと言うならば、彼は神様の恵みを受けません。神様は義人の為に来られたのでは無く、罪人の為に来られたからです。                                                                                                  最初の人であるアダムとエバは神様を模って作られました。即ち、人間も肉体と霊と魂の3位1体なのです。しかし、罪を犯す事によって神様の姿を失ってしまいました。                                                                                                                罪がもたらした結果、霊は神様との交わりが出来なくなり、肉体は滅びるようになり、魂は堕落した肉的な考えのままに生きています。                                                                                                    神様の似姿を失った人を聖書は死んだ人だと言われます。何故、肉体が生きて動いているのに死んだと言うのでしょうか?霊が死んだ事を指して死んだ人だと言うのです。                                                                                  御言葉は聖霊の感動によって書かれた霊の字です。ですから、霊が死んだ人は聖書を読んでもその意味を分からないのです。神様はヨハネ福音3章で生まれ変わらなければ、決して神様の国を見る事が出来ないと言われました。                                                                                          誰でも女から産まれます。即ち、神様の似姿を失ったアダムに模られて産まれるのです。即ち、全ての人は霊が死んだまま生まれるのです。                                                                                                このように霊が死んだまま生まれた人の霊が蘇る事を生まれ変わりと言います。誰も、生まれ変わって無いヤゴをトンボだとは言いません。このように、人も生まれ変わら無いと霊が死んでいるのです。                                                                                                         罪がある人は神様との交わりが出来ません。貴方の質問は、生まれ変わった人には極めて単純で、基本的な質問です。イエスキリストは私達の罪の身代わりになられ、十字架に掛けられ、貴い血を流され、死なれ、3日後に復活されました「コリント前15:3~4」。神様は貴方の罪の身代わりになられ、貴方の罪を完璧に無くして下さいました。この事実を心から信じるならば、貴方の霊は生まれ変わったのです。頭で理解するだけでは生まれ変わりません。心から少しも疑い無しに信じ無ければ生まれ変わりません。                                                                                                                 7年前に3人の人が居ました。一人は私が話を掛ける前にこれを先に私に言いました。もう一人はいつも祈りながら正しく神様の事を教えてくれる人を求めて居たそうです。もう一人は神様の事は聞いた事も無かった人です。2人は生まれ変わり、聖書の深い知識まで至っていますが、自分から言った人は未だに生まれか変わらずに居ます。勿論、聖書については何も分かりません。彼は心では信じられないと苦しがってました。                                                                                                                             神様は一人であり、信心も一つであり、聖書も一つです。真の神様を信じる人は、聖書に書かれた通りに信じる人です。                                                                                                     長老教はカルビンと言う人の「予定説」に信心の土台を置いています。カトリックは聖書にも無い教皇、神父、マリア偶像などを土台にしています。マルコ福音7:14は「貴方達は貴方達が伝授した伝統によって神様の御言葉を廃棄するのである。また、このような多くの事を行っている」と聖書は指摘されました。                                                                                                             世の中の支配者は悪魔です。ヨハネ一書3:8は「罪を犯す者は悪魔に属します。それは、悪魔が初めから罪を犯すからです。~」と言われます。ですから、生まれ変わった人は神様の3位1体であり、生まれ変わって無い人は悪魔の3位1体なのです。                                                                                                                 貴方は、通り魔とか自爆する人とか保険金目当てに自分の子供を殺す人は、貴方とは全然種類が違う人々だと思いますか?そう考えるならば、貴方は聖書が言われる義人なのですよ。

sono-higurashi
質問者

お礼

細部がきちんと分かった訳ではありませんが信徒の方から寄せられる場合の結論は、このご回答に集約されるであろうかと納得できます。 非信徒には分からないのは当然で止むを得ない事だろうと思います。 有り難うございました。

  • nacam
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回答No.7

2番です。 >サンプルとして模範となる質問文を例示して下さいませ。 質問者の方が、具体的にどんな事を聞きたいのか理解できませんので、事例として、「カトリックでは、キリストをどのように認識しているのか」というように教派を限定した質問と、「キリスト教では、キリストをどの教派がどのように認識してきたのか、主なところを教えてください」とというように、歴史的経緯を質問するか、「なぜキリスト教では、教派によりキリストの認識が異なるのでしょうか」といったように、キリスト教の根本的システムを質問するのかなどにより、回答が全くかわってしまいます。 質問者の方が、聞きたいことむを具体的に示せばしめすほど、価値有る回答が得られますが、あやふやであればあるほど、無価値な情報が多く集まるだけです。 よって、質問者の方の意図が全く読めない状況であれば、模範的な質問が、こちらで作れるわけがありません。 まず聞きたいことを具体的に示してください。 質問者が例に挙げた桜の場合でも、場所の特定が細かいほど、時期(年代など)が規定されているほど、桜の種類が特定されているほど、得られる情報量は少なくなりますが、情報の質はあがってきます。 質問者の方の過去の質問と回答に対する返答を読みますと、キリスト教、ユダヤ教に関しての基礎的理解が不足しているにもかかわらず、どこかで読みかじった知識だけで対処しようとしているように思えます。 それは、九九も理解できない人が、三角関数の本を見て質問しているようなものです。 キリスト教やユダヤ教の基本的な事を学びなおす事をお勧めします。 でないと、質問者の方の一連の質問と回答を理解する事(知る事ではありません)は、永久にできないでしょう。

sono-higurashi
質問者

お礼

1 >>質問者の方が、具体的にどんな事を聞きたいのか理解できませんので、 >>質問者の方の意図が全く読めない状況 なるほどトンチンカンな、お願いをしたものだと恥じています。ANo.1として、いの一番にご回答を寄せて下さっているので「聞きたい事を理解できず、意図が全く読めない状況」に居られるとは思ってもいませんでした。「聞きたい事を理解できず、意図が全く読めない状況」で、回答を作れる器用な方は存在しないとばかり思っていました。それではサンプルの件は取り下げます。無理をいって済みませんでした。 なお、この質問は「聞きたい事を理解でき、意図が読める」方々のご回答によって、解決しています。 2 >>聞きたいことむを具体的に示せばしめすほど、価値有る回答が得られますが、あやふやであればあるほど、無価値な情報が多く集まるだけです。 全くその通りだと思います。ANo.3、ANo.4、ANo.5、ANo.6と質疑が噛み合い、質のよい価値有る回答が得られて有り難く思っています。 3 >>キリスト教、ユダヤ教に関しての基礎的理解が不足しているにもかかわらず、どこかで読みかじった知識だけで対処しようとしているように思えます。 社交辞令とはいえ、そんなに買い被らないで下さいませ。基礎的理解が不足どころか皆無です。読み齧ったどころかヨブ記を第15章 第14節まで読んだだけです。読み齧った部類には到底入りません。 4 >>キリスト教やユダヤ教の基本的な事を学びなおす事をお勧めします。 でないと、質問者の方の一連の質問と回答を理解する事(知る事ではありません)は、永久にできないでしょう。<< こちらも勘違いをされています。過去に学んだことのない者は「学びなおす事」ができません。 ここから先はとても大事なことです。条件付きにもせよ、私に「一連の質問と回答を理解する事」が可能なときが来るなんて、誰も思ってはいません。私の質問に答えて下さる方々は誰しもそんなことは見抜いています。回答が無駄になるであろうことを承知の上で答えてくれているのです。それを善意と呼ぶのです。 有り難うございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.6

 No.3です。  1.  回答内容はすべて わたし個人の考えです。  アウグスティヌスに わたしの解釈によって もとづいています。ただし アウグスティヌス見解が 教会において どういうふうに捉えられているのか 残念ながら よくは分かりません。  2.~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1の見解の下に、イエスは 1)《女から生まれた》人であり 2)「この世に属さない神」であり 3)《父の子》即ち《神の子》であり 4)《預言者》であると見られたところもあり 5)《キリスト(メシア)》にも喩えられ、これを意訳して《救い主》と呼ばれる 1)~5)を同時に兼ね添えた存在と考えてよいですか。こんな括り方をしてはいけませんか。いけなければ訂正して下さいませ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1)は 人であるなら 当然です。  2)は 要するに 絶対者を想定しているという意味です。  3)は 神なる絶対者について 三位一体の神という説明をつけたものです。  4)の《預言者》は どうでもよいと考えます。要するに 神だと言うのですから。  5)の《キリスト(メシア)》は ある意味で《預言者》と同じように ユダヤの伝統に合わせて 認識しようとしたかたちです。《神イエス / 神の子イエス / ヤハウェー・イエス》などと表現するのも 《キリスト・イエス》と言うのと 同じようなことだと考えます。  1)から5)までを まとめて《兼ね備える》とか《括る》とかは 特別には する必要がないと思います。視点が ちがっているはづです。  3.~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1の立場でいうと、ヨブ記第15章 第14節には、どう反応するのですか。言わば敵対感情をもつのですか。それとも、言わば大人の対応で読み流すことができるのですか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  このヨブ記の一句は ヨブの対手である者の語ったことばです。その説が支持されているというものでもありません。わたしは 一般論として通用すると思ったので そのまま設問に従いましたが 特にどうという反応をすることもないと思いますが。  どうしても 矛盾が生じるとすれば 人間イエスが では アダムの子孫として 原罪を持っているのか・いないのかをめぐってではないでしょうか。(母マリアについてのおとぎ話は 総じて そういう表現の仕方であると採ってください)。イエスについて もし原罪を帯びているとしても 他面で 神の貌として それ(原罪)から自由な存在であるという想定ですから それほど問題になるとは思えないのですが。たぶん そうだとすると むしろ三位一体の説のほうで 議論が出るかも知れないとは思いますが。

sono-higurashi
質問者

お礼

ANo.5を戴いた今は、とても見通しが良くなりました。2に関しては「三位一体」の概念を掴む事が先決のようです(?多分)。ANo.5のお礼の欄は、このご回答へのお礼でもあります。ご覧下さいませ。 丁寧に返信を下さり、有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.4

キリスト教徒のヨブの読み方 ということですが、、、、 まず、キリスト教は今は違うでしょうけど、長い間、女性を悪魔だと信じていたんです。 どうしてかというと、ことの起こりは聖書を編纂する時代まで遡ります。 沢山ある話の中から、どれを聖典に入れるかと選んだ人たちが、新約聖書を作ったのですが、その人たちがどいつもこいつも女性嫌いだった。 キリスト教の初期の教父たちは、全ての責任を女性に押し付けたんです。 エヴァがアダムを堕落させた という教義を持っていた。 だからエヴァの属性を持つ女性を嫌悪していたが、子供は神が女性を通して自分達の与えるという教えも持っていたので、生かさず殺さずの思想を持っていたんですね。 で、イエスもマリアを通して人類に遣わしたとしているので、女性であるマリアも悪魔ってしてしまうと困るわけです。 だってイエスは全くの善という前提なので。 それで、女は男を堕落させたが、マリアだけは無原罪だという教義を打ち立てた。 マリアは男と性交なしにイエスを生んだ という教えを作ったんです。 これは仏教から拝借したようです。 確か、釈迦の母親も性交なしに釈迦を生んだという話になっていると思います。 さて、その一方で、マリア信仰はかつてあった地母神信仰の名残にすぎない ということもキリスト教は知っていた。 しかし、男神のみを崇拝しろといっくら教えても、信者のイエスではなく、マリアに対して信仰することを止めることはできず、結局、マリア崇拝を利用して、キリスト教は大きくなっていったわけです。 つまり信者の地母神信仰を利用して、大きくなっていったってわけです。 アヴェ・マリア。 マリアはミリアムのことで、モーセじゃなく、民をエジプトから赤い海を渡らせたのはミリアムだという説がある。 海を渡る月の女神、月の経血により、人々は生命を授かる という信仰があったわけで、これも地母神信仰の一部。 では、アヴェとはなんでしょう。 めでたいことをアヴェとラテン語では示すらしいです。 万歳マリア みたいな意味に隠された意味。  エヴァ ミリアム。 AVEを逆にするとエヴァですよね。 EVAはエウアからきていると思え、その意味は生命だったと思います。 女神崇拝をしたものは、キリスト教の殺されていた時代だったので、人々は、自分の本当の信仰を隠す必要があったわけです。 だから逆にした。 それほどキリスト教は人々にとって恐怖の大王だった。 で、女性は2種類あった。 一般の女性と、メシア つまり 聖別されたものに、子供を授ける役割を持つもの。 アダムを誘惑して堕落させた元凶は女である という教義が初期のキリスト教にはあった。 しかし、マリアがヨセフスを選んだくだりを読むと、ヨセフスを聖別している内容なわけです。 ただものじゃないマリア、一体何者だったのか。 つまり、、信仰上においてマリアを襲名したものは、メシアに祝福を与える者なわけで、その権威を持つ女性は、ユダヤ教の秘儀において、確かににいたようです。 で、大祭司の直系の者は、大祭司の家系の女性と結婚していたが、大祭司の家系じゃないラビは、民間の女性と結婚していたのだそうです。 当然、そのような権威を持っていない女性と結婚するわけですから、権力は得られないわけです。 マリアというのは肩書きのことだと思います。 ミリアム・アロン・モーセという三位一体が存在しており、アロンはユダヤ教の宗教的リーダーで、モーセは政治的リーダー。 その肩書きをもらうってことは、権力を継承するってことだと思えます。 で、ミリアムの肩書きを持つマリアは、人々の中から選び(聖別し)、祝福を与えるという役割を持つわけです。 で、その権力を持っていたミリアムの名を継承した女性が、ヨセフを聖別し、祝福を与えてヨシュアが誕生した と。 そういう神話だと思います。 確かに秘儀はあったが、ユダヤ教側はミリアムを継承した女性がヨセフを祝福し、生まれた子供が神だった というのを認めていない。 ユダヤ教ではどんなことがあっても神は1つ。 生まれた子供が神になるなど冒涜もいいところなわけですし、ユダヤ教の秘儀において確かに聖別されたものに巫女的な役割を持つアロンの直系の女性が祝福を与えるというのはあるが、その生まれた子供が神になるなどそのような教義は無い。 たとえ聖別する権利を持つ女性がヨセフを聖別(メシア)としたところで、二人の間に生まれた子供が神になるはずなど無い。 それで、ユダヤ教はイエスが神だということを認めていないわけです。 既存の神殺して新しい神を作りその偶像を設置し信者に拝ませる行為をするキリスト教を認めることにはいかないわけです。 それはバビロニアの宗教であって、ユダヤ教の宗教じゃない。 バビロニアではエルは古い神とされ、実質的な権力を持つのは子供のバアルの方だとしていた。 ユダヤ戦争が何故起こったのか知っています? ローマ帝国から派遣されていた総督が、エルサレム神殿にユピテルの偶像を設置しようとしたから。 ローマ帝国の初代皇帝となった人だったと思いますが、彼は集団に勝利をもたらしたので、神ユピテルの子とされたんです。 それ以降、ローマ皇帝は、集団に勝利をもたらした救世主ユピテルの子とされたんです。 ユピテル 別の名前はデウス(神)、そのデウスの像をエルサレム神殿に設置しようとしたとき、派遣された総督の暴政に我慢に我慢を重ねて耐えてきたユダヤ人がキレたわけです。 尚、キリスト教は神をデウスと呼ぶ。 というわけで、とうとうローマ帝国から派遣されていた提督が、人々にユピテル信仰をさせようとしたことが実現したわけです。 キリスト教はローマ帝国の宗教の血筋を持つので偶像崇拝ですが、ユダヤ教は偶像崇拝しませんので、いくら偶像を設置して信者に拝ませようとしても、そもそも神に偶像など無いので、拝まないわけです。 それで頭にきたキリスト教は、ユダヤ教を捨てキリスト教徒になれなければ とユダヤ教徒を迫害し続けたわけです。 偶像を崇拝しろ デウスにひざまずけ さもなければ殺すぞ とやったわけで、その暴政に観念したユダヤ教徒の中には、神を捨てキリスト教の偶像に口づけをして、しまったものもいた。 暴力に屈して信仰を捨ててしまったわけです。 そのような人々にも神は救いを差し伸べているのか、アヴェ・マリアが高らかに歌われるわけです。 アヴェ・マリアの歌は、マリアの部分がイエスより一番高い音になっているのは、そういうことらしいです。 表向きはイエスの足にひれふし口づけをしているが、心までは奪われないぞ ってわけです。 体は犯されて穢れても心までは汚すことはできない ってわけですね。 というわけで、こうやってみると、結局悲しみにくれる人々を救うのは男神じゃないってわけですね。 人々は男神に救いを期待していない。 そのような力が男神にあるなど少しも思っていないわけです。 実際無いことは歴史で証明されたわけです。 と、ザーッと流れ書いてみましたが、、、直接の回答じゃなくてすいません。 極点を見てもわからなくても、もっと距離をおいて全体を見ると、見えてくる映像があると思います。 信仰していると見えないが、信仰しないと見える映像。 面白いですよね。 近目じゃなく、遠くから眺めると、見えますよ。

sono-higurashi
質問者

お礼

>>直接の回答じゃなくてすいません。 こういう認識であれば、こちらも気楽に読めます。 ご回答の内容は、手元のメモによれば、将来質問することになるかもしれない事柄に際どく触れている様にも見えます。しかし、私には知識の蓄積がないので今日只今の関心に直接接続した話題でないと受け入れる余裕がありません。 将来何か質問をしたときに以前答えたであろうに、とおっしゃらないように願っておきます。 有り難うございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.3

 わたしは どこかのキリスト教会の徒ではありませんが 信仰をもっている者です。その立ち場でよろしければ 次のように読んで認識しています。つまり 《キリスト教》の教義としては それほど違っているとは思いませんが その《各宗派》のことについては よく知りません。(ただし 《教義》を信じるのではありません。教義は 認識の対象です。神は 表象することができません)。  簡略に述べますが イエスは 人であり神であるという想定です。  人間の貌(かたち・かお)としては 《女から生まれた》ナザレのイエスであり 神の貌としては この世に属さないその神という表現で呼ぶ存在(はたらき)です。  神が三位一体として捉えられるというやはり想定の限りでは 第一の位格である《子の父》に対して 第二の位格である《父の子》でありますから 《神の子》とも呼びます。  ユダヤの伝統に従って ひとりの《預言者》であると見られたところもありました。  神の貌としての存在を やはりユダヤの伝統の中での表現として 《キリスト(メシア)》にも喩えられることにもとづき その意訳としての《救い主》と呼ばれることもあります。  母のマリアが 処女のまま 聖霊によって身ごもったという話は 《人間の貌であると同時に 神の貌である》という存在のあり方を 縮めて表現したものと考えます。  初めにお断わりしたように 宗派ごとの対応については 分かりません。

sono-higurashi
質問者

補足

ご回答、有り難うございます。 1 念のために伺います。末尾の「宗派ごとの対応については 分かりません。」から判断して、ご回答は全くのbrageloneさん個人の見解と考えるべきですか。それとも宗派ごとには不明にもせよキリスト教徒のうちの何割かを代表する見解と受け取るべきですか。 2 1の見解の下に、イエスは 1)《女から生まれた》人であり 2)「この世に属さない神」であり 3)《父の子》即ち《神の子》であり 4)《預言者》であると見られたところもあり 5)《キリスト(メシア)》にも喩えられ、これを意訳して《救い主》と呼ばれる 1)~5)を同時に兼ね添えた存在と考えてよいですか。こんな括り方をしてはいけませんか。いけなければ訂正して下さいませ。 3 1の立場でいうと、ヨブ記第15章 第14節には、どう反応するのですか。言わば敵対感情をもつのですか。それとも、言わば大人の対応で読み流すことができるのですか。 事情が許せばご返事を下さいませ。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.2

1番です。 >これらの教派でも旧約聖書は価値を認めたところを活用するだけで、その他の箇所には何が書いてあろうと無関心ということでよいでしょうか。 このような質問をしているようでは、各教派について理解しているとは思えませんし、そのような状況では、誤解が広まるだけです。 アメリカで発展したフリーチャーチのグループは、上部管理組織を持ちません。 そのため各教会は、基本的な考え方が共通しているだけで、各教会は完全に独立しています。 つまり、教義内容に関しましては、個々の教会内の問題であり、他の教会がどうのこうの言うべき事ではないのです。 聖書のどこをどのように解釈するかは、その教会の牧師にまかされており、教派によるものよりも、牧師の考え方や信者の考え方によるものなのです。 バプテストにおいては、信徒が自分達の考え方に合う牧師を選びます。 ペンテコステにおいては、各牧師が自分の考え方を述べて、それに共感した人が信者となります。 そのため、福音派といいましても、内容には千差万別があり、「この教派は、○○」と言う事はできません。 >全くこの通りなのでしょうが、情報としての価値はありません。 この件に関しての反論なのですが、回答としての価値が無いのは、質問者の質問のしかたが悪いのです。 質問内容が、「キリスト教徒はイエスをどう認識しているのですか」ですから、桜の開花の問いでは、「桜は何月に咲きますか?」という質問に相当し、「東京」という地域を指定したような言葉が入っていない事を理解してください。 (私の地区では、4月後半から5月の連休中が見ごろとなります) たとえば、「カトリックは、キリストをどのように認識しているのですか?」であれば、詳細な回答ができますが、キリスト教全体であれば、ここでの回答は不可能なほどの規模となってしまいます。 (日本中の桜の開花時期を、この掲示板で示す事は不可能です) 情報としての価値が無い回答が出てくる場合、そのほとんどが質問のしかたが悪いのだと思ってください。

sono-higurashi
質問者

補足

ご回答、拝見しました。 1 「そもそも、キリスト教徒はイエスをどう認識しているのですか。人で、預言者で、救い主で、神の子という理解でよいですか。」 この質問に >>教派により異なります。 このご回答の価値が理解できずに済みませんでした。桜の件は、とてもよい喩えだと自画自賛していましたが、そうではなかったのが分かりました。独りよがりで済まないことでした。 2 >>質問者の質問のしかたが悪いのです。 >>価値が無い回答が出てくる場合、そのほとんどが質問のしかたが悪いのだと思ってください。 よく分かりました。日頃から文章力に欠けているのは痛感していますから、その可能性は十分あります。反省し努力してみます。 今回の質問は幸いにして大変短いので、サンプルとして模範となる質問文を例示して下さいませ。暫時、締め切らずにお待ちしています。 3 瓢箪から駒とでも言いましょうか、これまでの遣り取りを通じてnacamさんには質問の意図が完全に伝わったものと思います。序でといっては何ですが、2によって完璧な質問文ができるでしょうから、これまでのご回答に必要があれば手入れをして下さいませ。暫時、締め切らずにお待ちしています。 よろしくお願いします。3/24(月)21時22分記。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.1

>比較的旧約聖書を重視しているのは、どの派ですか。 キリスト教においては、旧約聖書は参考程度の扱いで、新約聖書に比べ、比重は格段に軽くなります。 その仲で、比較的聖書を重視する人達を、「福音派」(エバンジェリカル)と称する人達です。 この「福音派」は、特定の教派はなく、聖書を絶対視する人々、または重視する人々の事(自称する人々)を指します。 主にアメリカで発展したプロテスタントの人々です。 教派的には、バプテスト、メソジストの人が多いのですが、最強硬派は、ペンテコステ派系になります。 日本では、「日本福音同盟」に加入する教会が該当します。 >キリスト教徒はイエスをどう認識しているのですか。 教派により異なります。 初期のキリスト教派の分裂は、キリストをどう認識するかによって起こったといえます。

sono-higurashi
質問者

お礼

1に関して キーワードとなるであろう「福音派、バプテスト、メソジスト、ペンテコステ派、日本福音同盟」の5件はwikipediaの記事を読んでおきました(頭に何が定着するかは不明)。 これらの教派でも旧約聖書は価値を認めたところを活用するだけで、その他の箇所には何が書いてあろうと無関心ということでよいでしょうか。 2に関して >>教派により異なります。 全くこの通りなのでしょうが、情報としての価値はありません。 「東京では、いつ桜が咲きますか。」 「年によって異なります。」・・・正しいですが情報としての価値は全くありません。 「4月初旬です。」・・・・・・・・・・3月に咲く年もあるので嘘っぱちで正しくありませんが、情報としての価値は高いです。 引き続き他の方々の見解もお訊きしたいです。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

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