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東京は「正統派の首都京都」からの略奪首都?

g27anatoの回答

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  • g27anato
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回答No.1

時代の流れが国民の認識を変えてしまったようですが、 日本の「都」は今でも「京」です。 だから「京都府」なのであり御苑に御所が有るのです。 「東京都」とは「東の京都」でしかなく、 国政は確かに東京で行ってますが、徳川時代から江戸城が施政の中心だった事を考えれば不思議な事でも何でもありません。 その江戸城は明治維新から「東の京」で天皇が元首として施政に携わる為の居場所、つまり「皇居」として徳川家が明け渡しています。 時代が変って戦後昭和になっても「日本の象徴」という名目で行動を政府の判断に委ねている事から、「東の京」なる都に在所を続けているという解釈になります。 つまり「天皇の本家」は京都の府である事に違いはなく、その意味での首都の地位が放棄された訳でもなく京都から遷都された事実も有りません。 ただ、 国政の場は天皇が政治を委ねた武士の時代から始まり、明治時代を経た令和の現在でも国民が選出した議員による議事堂での議会決定に委ねられているので、 東京は「国政の中心」という意味での首都という扱いになります。 現代の国民や世界が認識している首都とは、 天皇が支配した時代の「天皇の本拠地」である「京の都」を指す意味では全くなく、 あくまでも江戸から続き明治維新で「東の京」として名付けた「政治の中心地」という意味合いでしかありません。

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