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一番好きな、江戸幕末期のエピソード!

そら(@sora_iro1881)の回答

回答No.10

chachaさん、こんばんワンチャンス! (´▽`*) そ、それはあの…『上意である!』で始まった寺田屋騒動ですか?頭を斬られて眼球が飛び出したというのに、重傷だったのですね、後に切腹になったそうですね。 『我がごと斬れ!』それしかなかったのでしょうけれど、覚悟のいる言葉です。言われた方も、暗いし動いているし、難しいです。でも考えている間は無いのですよね。 最後の上洛の時に家茂がお土産にと用意していた西陣織の反物がその訃報と共に江戸城にいる和宮親子内親王のところへ届いたそうです。夫を偲んで詠んだ歌が 『空蝉の 唐織衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ』 胸が詰まります。 綺麗な反物が欲しいわけで無し。 それで仕立てた着物に袖を通した姿を見てほしい人がいないなんて、意味の無い事です。 会津若松には白虎隊の悲劇と共に家老の西郷頼母邸一族21人の自刃がありました。 薩摩藩士が西郷邸に入ると自刃した女性が、息も絶え絶えに『敵か、味方か』と尋ねると『味方だ、味方だ』と言ったと。 少し、救われます。 kKamejrouさんへのお礼を拝見して、油小路事件で暗殺された伊東甲子太郎の遺体は御陵衛士をおびき出す囮として使われ… これが罠であると分かっていても先生のご遺体を放置してはおけないとやって来た藤堂平助らは漢だ、と。 日本を今一度せんたくいたし候 の龍馬とおりょうさんが日本初の新婚旅行をした、というのはほっこりします。 それから、西郷さんの銅像の除幕式で奥さまの糸さんが仰った『こげなお人ではなかったような…』用心深い方で、写真が無いからですが、もっとスラッとした方だったそうですね。 よく分からないお人の像が上野には立っているのですね。犬はツンといいます。 松下塾の門下生になる前の吉田松陰先生と 久坂玄瑞との手紙のやり取りも熱くて好きです。 吉田松陰先生は享年30歳 久坂玄瑞は25歳。 安政の大獄、 そして桜田門外の変へと続く。 幕末は優秀な若い命が散り、切ないです。 だがしかし 殿方は幕末がお好きですね。 ひとつなのに欲張りだから色々、出しちまっただー、お許しを~ じゃあね~(^ー^)ノ

chacha0035
質問者

お礼

jellyさん、こんばんWANDS! 「時のぉ~ 扉ぁ~叩いて~♪」 >『我がごと斬れ!』 この表現ってwikipediaですよね? 「我が」って言い回しは、な~んか違うんですよねぇ~。 薩摩人的にはやっぱ「おいごと」ですよ! 「わいがおいにわいちゆうで、おいもわいにわいちゆうたっど!」みたいな感じですww つっても、jellyさんも詳しいですね! 私なんか、ミーハーな知識しかないもんだから、お礼に四苦八苦ですw 家茂の話は知りませんでした。いい話っすね~! 私は慶喜の方が好きなんですけど、鳥羽・伏見で退却する話が非難されるじゃないすか? 水戸の人間が錦の御旗を掲げられたら、そりゃ退却するしかないっすよ!w >会津若松 関係ないけど、会津地方はいまだに鹿児島に対して不満をもってるって聞きますw 一方、岐阜と鹿児島は治水の関係で今でも友好的らしいですね♪ 庄内藩なんかもw >Kamejrouさんへのお礼 やっちまいました・・・酒飲んで酔った勢いで、ずいぶんなれなれしいお礼を書いちまいましたw 後で謝っとこw つか、他にもたくさん回答頂いてるけど、私も書きたいんじゃっ!w 先ずは、お由羅騒動! だいたい、島津斉彬の親父の斉興がつまらん! 斉興の祖父、蘭癖の島津重豪こそ、斉彬の礎! アホみたいな権力争いのせいで、薩摩の優秀な人材がつまらん死を迎えますた・・・残念! 桜田門外もそうっす。 有村兄弟が可哀想! でも、井伊直弼も可哀想!w 現代では安政の大獄なんかは井伊の極悪非道の所業のように語られてますが、そもそも孝明天皇が水戸藩にいらんことしたのが原因だったらしいですし・・・ 大東亜戦争の戦後もそうですが、作られた歴史観って怖いですよねぇ・・・ >殿方は幕末がお好きですね ぶへへ♪w  戦国と幕末と近現代の戦争&ムチムチ女子が大好物でごわす♪ 回答ありがとうございました。

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