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一番好きな、江戸幕末期のエピソード!

日本史好きの方に質問!PART2w 幕末期には色んな事件がありましたが・・・ 御自身が一番好きな、幕末期のエピソードを回答願います♪ 例>私は・・・寺田屋事件! 龍馬襲撃の方じゃなくて、薩摩藩の志士粛清事件の方です! 有馬新七の「オイごと刺せ!」は、胸が熱くなりますw

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  • kamejrou
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回答No.8

こんにちはchachaさん 少し良くなりましたので 調子に乗って プチ 快気祝 また 頭痛がしまして 馬鹿は死ななきゃ治らないようです   > 一番好きな 江戸幕末期の エピソード その前に 仰る 有馬新七の話しを少し 寺田屋騒動に至るまでの 経緯はchachaさん よくご存知でしょうから触れません 有馬新七と言う人は 純粋で無欲 かつ 激烈な人、 そうであったようです 「わいごと刺せ!」 この共に 串刺しにされたのが討手の 道島五郎兵衛 示現流の 達人であったと言われておりますが 誠忠組と言う 志を同じくした 同志を 殺し合わせる 薩摩の 幕末維新史において 大汚点と 言われるのも むべなるかなでしょうね 豆を煮るに豆がらをもってする 知らせを聞いた 西郷さんが こう呟いたそうです 薩摩は 二度と 勤王の 二文字を 口にはできん とんと 今までの芝居であった さて本題ですが 私の好きなエピソードは 少し明治にかかってしまいますが 天璋院篤姫と 皇女和宮 あのお二人が 江戸城を出てからですが 勝海舟の 別邸だったのでしょうか? 勝海舟の もてなしで 馳走をいただく 互いに仲睦まじく 給仕 しあったと言います 万感の思いもあったでしょうね? 互いに 楽しそうに笑い合っている姿を想像するだけで 私などは涙が出る思いです まあ、 この二人の女性のことは いずれ又どこかで chachaさんと 話してみたいものです 最後にもう一つ 私の好きなエピソードを ただこれも 明治に 少し入っておりますし 舞台は北海道小樽です 永倉新八と言う 新撰組一の 使い手と言われた人がおり 新撰組のほとんどが討ち死にする中 北海道小樽で 天寿を全うしました 永倉新八さんには お孫さんがおられて ある日に二人で 芝居見物に行ったそうです 新八さん もう腰が曲がって 歩くのもようやくの風情 木戸のあたりで 地廻りのゴロツキに絡まれて 転ばされたそうです ゴロツキのやる事など 昔も今も同じです 転んだ 新八さんを 蹴飛ばしたかもしれません? そうしましたら 新八さん ゆっくり立ち上がったそうです それを見ていた お孫さんによりますと 背筋がピンと伸びて そのゴロツキどもを睨め回したそう その気迫に怯んだのか? そのゴロツキどもは 蜘蛛の子を散らすように逃げさった お孫さんが、 幾度も 死線の迫力とはああであるか? 私の好きなエピソードです ここいらにしましょうか

chacha0035
質問者

お礼

kamejrouさん、こんばんは。 >馬鹿は死ななきゃ治らない いやいや、男はちょっとくらいバカな方が良いんですって!w 役割分担じゃないけど、その分をカカアがバランス取ってくれるように出来てるんです。 なんなら、カカアの教育の為に、我々男子はバカの役割を引き受けてるわけですからww こんな事書いたら、ミチヨさんに怒られるかしら?ww >示現流 細かい話で恐縮ですが、 薩摩には、東郷の示現流と、薬丸の自顕流とがありまして、 例えるなら、土佐で言う所の上士が学ぶのが示現流で、下士が学ぶのが自顕流なんス。 >天璋院篤姫と 皇女和宮 へぇ~、勝海舟の別邸で? これは知りませんでした。 篤姫と言ったら、斉彬の養女となって、家定だかに政略結婚させられたくらいのイメージしかありませんでしたが、明治維新後の人生も幸せそうだったんですねぇ。 >永倉新八 おおっ!凄い!w 2番隊隊長、老いてもなお!ってエピソードですね♪ そこらのゴロツキ程度じゃ、潜り抜けた修羅場が雲泥の差だったんでしょうね! 関係ないけど、新選組といえば私的に好きなエピソードといえば、油小路事件! 八番隊組長の藤堂平助や、二刀流の天才・服部武雄が粛清されちゃうんすよねぇ~。 龍馬を暗殺した疑いのある、人斬り鍬次郎こと大石鍬次郎なんかも魅力的ですが、 そんな集団でトップを張ってた永倉新八さんは凄ぇっすね!w 回答ありがとうございました。

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回答No.10

chachaさん、こんばんワンチャンス! (´▽`*) そ、それはあの…『上意である!』で始まった寺田屋騒動ですか?頭を斬られて眼球が飛び出したというのに、重傷だったのですね、後に切腹になったそうですね。 『我がごと斬れ!』それしかなかったのでしょうけれど、覚悟のいる言葉です。言われた方も、暗いし動いているし、難しいです。でも考えている間は無いのですよね。 最後の上洛の時に家茂がお土産にと用意していた西陣織の反物がその訃報と共に江戸城にいる和宮親子内親王のところへ届いたそうです。夫を偲んで詠んだ歌が 『空蝉の 唐織衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ』 胸が詰まります。 綺麗な反物が欲しいわけで無し。 それで仕立てた着物に袖を通した姿を見てほしい人がいないなんて、意味の無い事です。 会津若松には白虎隊の悲劇と共に家老の西郷頼母邸一族21人の自刃がありました。 薩摩藩士が西郷邸に入ると自刃した女性が、息も絶え絶えに『敵か、味方か』と尋ねると『味方だ、味方だ』と言ったと。 少し、救われます。 kKamejrouさんへのお礼を拝見して、油小路事件で暗殺された伊東甲子太郎の遺体は御陵衛士をおびき出す囮として使われ… これが罠であると分かっていても先生のご遺体を放置してはおけないとやって来た藤堂平助らは漢だ、と。 日本を今一度せんたくいたし候 の龍馬とおりょうさんが日本初の新婚旅行をした、というのはほっこりします。 それから、西郷さんの銅像の除幕式で奥さまの糸さんが仰った『こげなお人ではなかったような…』用心深い方で、写真が無いからですが、もっとスラッとした方だったそうですね。 よく分からないお人の像が上野には立っているのですね。犬はツンといいます。 松下塾の門下生になる前の吉田松陰先生と 久坂玄瑞との手紙のやり取りも熱くて好きです。 吉田松陰先生は享年30歳 久坂玄瑞は25歳。 安政の大獄、 そして桜田門外の変へと続く。 幕末は優秀な若い命が散り、切ないです。 だがしかし 殿方は幕末がお好きですね。 ひとつなのに欲張りだから色々、出しちまっただー、お許しを~ じゃあね~(^ー^)ノ

chacha0035
質問者

お礼

jellyさん、こんばんWANDS! 「時のぉ~ 扉ぁ~叩いて~♪」 >『我がごと斬れ!』 この表現ってwikipediaですよね? 「我が」って言い回しは、な~んか違うんですよねぇ~。 薩摩人的にはやっぱ「おいごと」ですよ! 「わいがおいにわいちゆうで、おいもわいにわいちゆうたっど!」みたいな感じですww つっても、jellyさんも詳しいですね! 私なんか、ミーハーな知識しかないもんだから、お礼に四苦八苦ですw 家茂の話は知りませんでした。いい話っすね~! 私は慶喜の方が好きなんですけど、鳥羽・伏見で退却する話が非難されるじゃないすか? 水戸の人間が錦の御旗を掲げられたら、そりゃ退却するしかないっすよ!w >会津若松 関係ないけど、会津地方はいまだに鹿児島に対して不満をもってるって聞きますw 一方、岐阜と鹿児島は治水の関係で今でも友好的らしいですね♪ 庄内藩なんかもw >Kamejrouさんへのお礼 やっちまいました・・・酒飲んで酔った勢いで、ずいぶんなれなれしいお礼を書いちまいましたw 後で謝っとこw つか、他にもたくさん回答頂いてるけど、私も書きたいんじゃっ!w 先ずは、お由羅騒動! だいたい、島津斉彬の親父の斉興がつまらん! 斉興の祖父、蘭癖の島津重豪こそ、斉彬の礎! アホみたいな権力争いのせいで、薩摩の優秀な人材がつまらん死を迎えますた・・・残念! 桜田門外もそうっす。 有村兄弟が可哀想! でも、井伊直弼も可哀想!w 現代では安政の大獄なんかは井伊の極悪非道の所業のように語られてますが、そもそも孝明天皇が水戸藩にいらんことしたのが原因だったらしいですし・・・ 大東亜戦争の戦後もそうですが、作られた歴史観って怖いですよねぇ・・・ >殿方は幕末がお好きですね ぶへへ♪w  戦国と幕末と近現代の戦争&ムチムチ女子が大好物でごわす♪ 回答ありがとうございました。

回答No.9

回答者の皆さんも、リキ入ってますね。小松帯刀のエピソードなんてどうでしょうか。幕松の様々なことのお膳立てをした人ですね。 西郷隆盛が、家老小松帯刀の屋敷を訪れた時のエピソードです。来るのが遅いので、西郷さんが横になって寝てしまった。家老職で多忙な小松さんが戻ってくると、下級武士めと騒がず、静かに枕を出して差し上げよと命じたとか。 寝てしまった西郷さんも豪胆ですが、小松さんも「薩摩の小松か、小松の薩摩か」と言われるだけの家老ですね。彼が居なければ、坂本龍馬の活躍なんてなかったわけですから。 興味あれば、下記のURLも参照してください。大河ドラマで、何故取り上げないのかなぁ。 http://www.fukiage.co.jp/hero/komatsu.html

chacha0035
質問者

お礼

こんばんは。 >西郷隆盛が、家老小松帯刀の屋敷を訪れた時のエピソード 一説には、西郷さんはわざと寝たふりをして、小松帯刀の反応を試したとも言われてますよね。 それがホントだったら、西郷さんって、やらしい性格してますね~w >大河ドラマで、何故取り上げないのかなぁ。 あまりにも早い死でしたよね! この人がもう少し長生きしてれば、明治新政府でもそれなりのポジションで名を残したかもしれませんね。 ただ、ちょっと性格的に、真面目過ぎたかもしれませんけど・・・ 貼り付け頂いたURLは吹上酒造っスね! 「小松帯刀」って商品名の芋焼酎は鹿児島でも有名ですが、私も一度だけ飲んだかなぁ・・・美味かったっスよ♪ 回答ありがとうございました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11127/34633)
回答No.7

いやー、私も林忠崇の話は好きなのだけれど、先に取られてしまいました・笑。当時彼はハタチくらいの青年だったんですよね。若者らしい真っすぐさですよね。しかも幕末のお殿様の中では最も長生きし、九十を過ぎて大往生。亡くなるときに辞世の句を聞かれて「二十歳のときにやったから、ない」と答えたというのもシビれます。 じゃあしょうがないないなあ、「面白き こともなき世を 面白く」の辞世の句を残した高杉晋作・・・あ!こっちもとられた! というわけで、まだ誰も出していない「幕末で超イケてる」といったらあの人の、土方歳三さんでも。 私が歳三さんにシビれるのは、鳥羽伏見の戦い以降ですね。鳥羽伏見の戦いに新撰組一行は刀と槍で参戦するわけですが、当然鉄砲相手にいくさにもなりません。それで「鉄砲には勝てねえよなあ」と痛感したと思うのですが、その後の切り替えが早い。 江戸に戻った歳三さんは千葉から宇都宮城の戦いにかけて連戦していくわけですが、そこでどこで鉄砲の戦い方のコツをつかんだのか、みるみるうちに「野戦の鬼」になっていくんですね。刀と槍で突撃するのと鉄砲で戦うのでは、小売店とネット販売くらい勝手が違うと思うのですがね。 会津で戦っているときに、恐怖にかられた兵士が逃亡しようとしたので、歳三さんはその場で斬り殺し「逃げようとするやつは、みなこうだ!」といったというのですね。おそらくそのときは皆な恐怖にかられていて誰もが「逃げたい」と思っていたと思うんですね。そこをピシャリとやって「もう戦うしかない。逃げ場はないんだ」と兵士の気持ちを引き締めたのはさすが「鬼の副長」だと思います。 けれどその後、部下に「あのときはああするしかなかったが、あの兵士には可哀想なことをした。あいつはちゃんと墓に葬ってやれ」といってお金を渡したといいます。イケメン! その後函館戦争まで転戦を続けますが、少なくとも歳三さんが率いた場所では決して負けることがありませんでした。 その函館戦争であるとき、旧幕府軍の兵士が新政府軍の兵士の戦死体を辱めたということが起きました。もう旧幕府側も追い詰められていますから「もう俺らは殺されるしかない」と気が立ってるんですね。しかし当然味方の兵士からも「だからといって遺体を辱めるのは人でなしだ」という批判も起きる。どちらも気が立っていますから、一触即発の状況になりました。 そこに歳三さんが「遺体にそういうことをやるとは肝が据わっているし、しかし遺体を辱めるなという意見ももっともだ」というと、双方が「歳三さんがそういうなら」と納得したというのですね。デキる上司! もし歳三さんが生き残って日清戦争などで戦ったらどんな名指揮官でいただろうかと思いますが、立場上「俺は死なねえと収まらねえだろうなあ」と自覚していたと思います。薩長からすれば近藤勇と土方歳三は絶対に許せなかったでしょう。しかも武士じゃないし。 それで遺髪と遺影を実家に送るのですが、その役目を身の回りの世話をしていた少年に託すんですよね。当然少年は「僕も一緒に歳三さんと死にます!」といってきかないわけですが、オトナの歳三さんからすれば「将来がある若い子をこんなところで死なせるわけにはいかない」となる。それで「俺の命令に従わないなら、俺がこの場でお前を斬る!」と凄んで少年を安全な多摩の実家に送るのです。 それで残ったのがあの有名な写真ですけれどもさ。すごいと思いませんか、その姿はざんばら髪に洋装、ブーツ姿です。ついこないだまで袴姿で日本刀を振り回していて「ザ・武士」をやってた人です。後に明治政府がちょんまげ禁止令を出したら日本中から反発されたくらい日本人が愛着があったちょんまげも「もうちょんまげじゃねえよな」とあっさり切ってしまっている。ブーツなんてどこから手に入れたの?って思います。 結局旧体制側に殉じた人ですけれども、実は誰よりも時代の先端を行ってたんですよね。きっと新しい時代も見えていたんじゃないかなと思います。戊辰戦争の段階で「もうこれからはざんばら髪の時代だぜ」と思っていたのですから、5年前に「これからビットコインの時代だぜ」って言い出すくらいの先見性ですよ。

chacha0035
質問者

お礼

こんばんは。 >いやー、私も林忠崇の話は好きなのだけれど そんなに有名な方だったんですね! 恥ずかしながら私は知らなかったっスw >「面白き こともなき世を 面白く」の辞世の句を残した高杉晋作 しまった!この辞世の句、書かれてたんですね! 先に高杉さんを書かれた方のとこで、うっかりこの辞世の句を書いちゃいましたw いや、パクったわけじゃないんすよ!マジです!マジです!ww >まだ誰も出していない「幕末で超イケてる」といったらあの人 ふふw ズバリあの人ですね?w お互い、せーので言いましょうか? せーの!・・・村田新ぱ・・・ >土方歳三さんでも。 あ、そっち?w 失礼しましたww 冗談はさておき、歳三さんはかっけぇっすよね! 農家の出なのに、蝦夷共和国の選挙ではそこそこの票を獲得するから、一定の人望もあったんでしょうし。 世が世なら、もっと歴史に名を残した人物になったんでしょうねぇ。 榎本武揚みたいに、新政府に助命されてればという思いもありますが、やっぱ歳三さんはこの戦で死ぬ運命だったんでしょうね。その方が歳三さんらしいですし。 >「遺体にそういうことをやるとは肝が据わっているし、しかし遺体を辱めるなという意見ももっともだ」 個人的には・・・ 遺体にそういうことをした奴は、歳三さんにはぶん殴って欲しかたっす!ww >それで残ったのがあの有名な写真 あっ、あの写真にはそんな逸話があったんですね。 いや、勉強になりました~w >5年前に「これからビットコインの時代だぜ」って言い出すくらいの先見性 ふははw その例えは分かりやすい!w 信長級の先見性はあったのかもしれませんね! 回答ありがとうございました。

回答No.6

chachaどんおやっとさぁ! ギリ江戸時代、会津戦争若松城の戦いで、女ながらに従軍した山本八重がスペンサー銃で大山巌の足を狙撃したことですね。確定ではないけどかなり確率高いみたいです。たびたびこのエピソードは話してますよねw。私の中では完全に綾瀬はるかと反町隆史のイメージになっちゃってますが、名もない女戦士が敵の大物を狙撃したというのが痛快です。だけど大山はここで死んでいい人物ではなかった。 若松城には山川捨松が籠城していて、後に大山の妻となり留学した国際経験を生かして大山を支えます。不思議な運命の巡り合わせ。 会津戦争で大山が射殺されていたら日本の運命はどうなっていたんでしょうね。大山がいなかったら乃木も二百三高地を落とせなかったかもしれず、そしたらバルチック艦隊に旅順艦隊が加わり日露戦争も勝てなかったかも?

chacha0035
質問者

お礼

mikasaどん、おやっとさぁ。 おいは薩摩のポコチン侍こと、chachaでごわんど。 まっこて、オナゴはムチムチのパイパンが一番でごわす♪ >山本八重がスペンサー銃で大山巌の足を狙撃したこと 八重の桜、観てないんすよねぇ~w 巌と捨松の西洋かぶれは有名ですが、ぶっちゃけ捨松には女としての魅力を全く感じないっス!w なんか、森泉に通じるものがあるんすよね~w >会津戦争で大山が射殺されていたら日本の運命はどうなっていた どうなんすかねぇ~。 個人的には、薩摩の陸軍軍人には、クロキンスキーとか野津道貫とか、優秀な人材はたくさんいたので、あんま影響は無かったのかもとか思ったりもw 関係ない話で恐縮ですが、 当時、クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフが国債を買ってくれたお陰で、日本は戦費を調達出来ましたが、その費用を完済したのが1986年?馬鹿げてますよね!w もちろん負けたら地獄でしたが、結局は勝っても国際金融資本にカモにされちゃって・・・ 結局、日露戦争で負けた影響でロマノフ朝が崩壊して、レーニン・スターリンの流れになって、日本は後々痛い目に合うわけでしょ?痛し痒しっスわw 回答ありがとうございました。

  • isoken
  • ベストアンサー率32% (596/1825)
回答No.5

chacha 師匠、こんにちは。 > 一番好きな、江戸幕末期のエピソード! 「 真があるなら、今月今宵。 あけて正月、だれも来る 」 安倍元総理 の 好きな都都逸らしいですね、作者は無論 安倍さんが尊敬し、私が 幕末で 一番カッコいい男だと 勝手に思ってる 高杉 の 晋 ちゃん。 時は 元治 元年 の暮れ、舞台は 「 功山寺の挙兵 」 、 無粋な説明は不要でしょうが、 禁門の変 と それに続く 第一次長州征伐 に依り、 8割方 佐幕に傾いていた 長州 の藩論を引っくり返した クーデター であります。 個人的には、あの 桶狭間 にも比肩し得る、 日本史上の快挙だと思っているのです、何故なら その精強を以ってしても、 長州 抜き・・ 薩摩 単独での討幕は難しかったと考えるから。 ところが 当時の 長州 は、名立たる 勤王の大物が 非業に倒れ、唯一 生き残った 桂小五郎 も 禁門の変 での敗戦に依り 幕吏 追われて、確か 但馬 辺りに潜伏していた頃、彼がやらねばどうにもならなかった、当初 彼に付き従ったのは 僅か 80人程度だったでしょうか。 頭が高い ・ 料簡が狭い 他 確かに欠点はたくさんありましたが、それを補って余りある良さが、 長州 の名家に生まれ付いた 高杉晋作 にはあった。 苦労人 西郷隆盛 が持つ 重厚感も、盟友 桂小五郎 が持つ 安定感もなく、凡そ 大将の器ではなかった ・・ その点は 認めましょう、その代りと言っちゃなんですが、彼には お坊ちゃま君の良さが 全て備わっていた気がします。 他方 生涯を書生で終えた人でした、そして 良い時に現れ 良い時に死んでいった、何故なら 維新政府に 彼が嵌る場所は無かったでしょうから。 そもそも 剣術も学問も 全て中途半端、依って 新生日本の青写真が描ける人ではなかった、勿論 政治家 タイプでもない、彼の本質は 明らかに 革命児 。 尚 功山寺 挙兵 の際、当時 長州落ちしていた 三条実美 他の公卿に放った 啖呵・・、 「 これより 長州男児の 肝っ玉を お目にかける ! 」 、 痺れるのですよ。

chacha0035
質問者

お礼

isoken先生、こんばんは。 いや~、結局は岸田さんでしたね~w 例えるなら・・・日本人は、うな重の松・竹・梅があると、「竹」を注文するみたいな、そんなイメージですw 色んな政局も絡んだんでしょうけど・・・まぁ、無難なんでしょうねw >功山寺の挙兵 高杉さんも流石の無茶っぷりだけど、力士隊引き連れて一番に参戦する伊藤博文も流石っす!ww 関係ないけど、以前にお話しされてた赤禰武人はちょっと可哀想でしたね。彼もまた、長州の行く末を案じてた志士だったんでしょうけど・・・ 高杉さんの事、大っ嫌いだったんでしょうねw >8割方 佐幕に傾いていた 長州 の藩論 正義派と俗論派に二分されてたんですよね。 それにしても、このネーミングセンスは後世のものでしょうねw 山形有朋あたりがクサいなぁw >名立たる 勤王の大物が 非業に倒れ 個人的には、久坂玄瑞の死が惜しいっス。 それにしても、長州は魅力的な人が多いですが、吉田 松陰先生は偉大ですよね♪ 藩主の毛利敬親の影響も大きいのかもですが。 >苦労人 西郷隆盛 が持つ 重厚感も、盟友 桂小五郎 が持つ 安定感もなく、凡そ 大将の器ではなかった ・・ 個人的には、 この人には、人を惹きつける魅力みたいなのがあったんじゃないかと思います。 で、この人を好きな人にはとことん惚れられるけど、嫌いな奴にはとことん嫌われるみたいなw 関係ない話ですけど、 高杉晋作の最期を看取った、野村 望東尼なんかも、晋作の人柄に惚れてたんでしょうねぇ。 「おもしろき 事もなき世に おもしろく」は、一番好きな辞世の句です♪ >「 これより 長州男児の 肝っ玉を お目にかける ! 」 かっけぇ~♪w 回答ありがとうございました。

  • 5mm2
  • ベストアンサー率9% (331/3317)
回答No.4

こんにちは。 先日の質問では、茶々入れて失礼しました(笑)。 評価できる事件と言えば「生麦事件」から「薩英戦争」の終結までの、薩摩藩の毅然とした態度ですね。 幕府の弱腰の態度のままでは、明治維新も上手く行ってなかったのではと思います。 ドラマ「西郷どん」では殆ど描かれてなかったので、ネットで調べたくらいの知識ですが、当時世界最強と言われた英国海軍を撤退させたのですから、大したものですね。 更に評価するのは、その後の英国との終結条件の交渉力です。 どちらも簡単に非を認めづらい事件だけに難しい交渉だったのでしょう。 その中で、毅然とした態度で理路整然に意見をぶつける薩摩藩士の態度に、英国紳士も敬意を示したのでしょう。 お互い納得のいく条件で折り合い、信頼し合う仲にまでなったというから、正に雨降って地固まるという事ですね。 その時英国から購入を決めた戦艦が、ロシアのバルチック艦隊を撃沈したのではないでしょうか。 今また、中国をけん制するためにやってきた空母「Q.エリザベス号」見ると、皇室を頂点とした日英の絆を感じます。

chacha0035
質問者

お礼

5mm2さん、こんばんは。 >「生麦事件」から「薩英戦争」 私もいつイギリスと事を構えてもいいように、日々「西瓜売り商人」の練習をしております。なんつってw ちなみに、薩英戦争に関しては、薩摩の判定勝ちと思ってますw >幕府の弱腰の態度のままでは、 私の解釈は、幕府は列強相手に結構したたかに立ち振る舞ってたと思うんですよね。 江戸幕府もオランダから情報を得てたはずなので、アヘン戦争なんかのイギリスの鬼畜っぷり情報も仕入れてた事でしょう。 安易に通商条約を結ばないように、のらりくらりと上手くかわして、当時中堅国のアメリカなんかと先に和親条約を結んだり、当時最強最悪のイギリスを警戒してたのかなぁって。 結局、イギリスが薩摩と手を結んだのも、薩摩に武器を売りつけるための商売だったんじゃないかな?と。 個人的には、薩摩に幕府を倒さして、彼らに都合のいい国づくりをさせたんじゃないかと思います。 清でアヘンで儲かった、ジャーディン・マセソン商会のトーマス・グラバーが長崎に来たのも、その辺が目的なんじゃないかと思うんすよねぇ。 >英国から購入を決めた戦艦が、ロシアのバルチック艦隊を撃沈 仰る通り、スケベのmikasaさん・・・じゃなかった!w 戦艦三笠なんかも製造元はイギリスでしたよね。 日露戦争では、ドッガーバンク事件なんかをロシアが起こしてくれたから、イギリスが怒って嫌がらせしてくれたことで、ヘロヘロに疲弊したバルチック艦隊を日本海海戦で打ち破れました。 でも、個人的には、信頼し合う仲かって言うと、正直眉唾ですw 回答ありがとうございました。

回答No.3

エロ巨匠お邪魔します 1853年、ペリー来航 1868年、戊辰戦争 薄っぺらい知識を並べてみました(._.)

chacha0035
質問者

お礼

姐さん、こんばんは。 ペリーと言ったら、こいつの版画が西郷さんみたいで笑えますw https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2f/Matthewperry.jpg/330px-Matthewperry.jpg 回答ありがとうございました。

回答No.2

無血開城  です。 寺田屋事件も好きですよ 京都に行った時、寺田屋に行きました。 お龍さんの入っていたお風呂なんてありましたね。

chacha0035
質問者

お礼

こんばんは。 >無血開城 勝海舟と西郷隆盛ばかりがクローズアップされますが、山岡 鉄舟の存在がデカかったですよね! >京都に行った時、寺田屋に いつか私も行ってみたいっス!w 回答ありがとうございました。

noname#252332
noname#252332
回答No.1

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BF%A0%E5%B4%87  藩主脱藩事件。譜代の請西藩主林 忠崇。文武両道で幕閣の覚えめでたく将来閣老と嘱望された。戊辰戦争で藩論が恭順派と抗戦派に分かれたが、旧幕軍から助勢を要請されるや藩主自ら同志70名と脱藩して幕軍に身を投じた。徳川家存続が決まると戦争の大義名分が果たされたと仙台で新政府軍に降伏するが、藩主の脱藩を反逆と看做され、徳川氏も会津藩も存続した中で全国でただ請西藩だけが改易された。その後、農民をしたり下級役人や商家の番頭を務めたりして平民として困窮した。明治26年に旧藩士による嘆願が認められ華族になる。昭和16年に亡くなる時は存命する最後の元大名でした。ご本人はさぞ満足な人生だったことと思います。

chacha0035
質問者

お礼

こんばんは。 >藩主脱藩事件。譜代の請西藩主林 忠崇。 おおっ!このエピソードは知りませんでした! 林 忠崇、熱い人物っすね! つか、このときに助力を嘆願したのが、伊庭八郎なんすねぇ。 隻腕の伊庭八郎は大好きなんス。武骨なサムライってイメージでw 回答ありがとうございました。

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