• ベストアンサー

一番好きな、江戸幕末期のエピソード!

isokenの回答

  • isoken
  • ベストアンサー率32% (595/1823)
回答No.5

chacha 師匠、こんにちは。 > 一番好きな、江戸幕末期のエピソード! 「 真があるなら、今月今宵。 あけて正月、だれも来る 」 安倍元総理 の 好きな都都逸らしいですね、作者は無論 安倍さんが尊敬し、私が 幕末で 一番カッコいい男だと 勝手に思ってる 高杉 の 晋 ちゃん。 時は 元治 元年 の暮れ、舞台は 「 功山寺の挙兵 」 、 無粋な説明は不要でしょうが、 禁門の変 と それに続く 第一次長州征伐 に依り、 8割方 佐幕に傾いていた 長州 の藩論を引っくり返した クーデター であります。 個人的には、あの 桶狭間 にも比肩し得る、 日本史上の快挙だと思っているのです、何故なら その精強を以ってしても、 長州 抜き・・ 薩摩 単独での討幕は難しかったと考えるから。 ところが 当時の 長州 は、名立たる 勤王の大物が 非業に倒れ、唯一 生き残った 桂小五郎 も 禁門の変 での敗戦に依り 幕吏 追われて、確か 但馬 辺りに潜伏していた頃、彼がやらねばどうにもならなかった、当初 彼に付き従ったのは 僅か 80人程度だったでしょうか。 頭が高い ・ 料簡が狭い 他 確かに欠点はたくさんありましたが、それを補って余りある良さが、 長州 の名家に生まれ付いた 高杉晋作 にはあった。 苦労人 西郷隆盛 が持つ 重厚感も、盟友 桂小五郎 が持つ 安定感もなく、凡そ 大将の器ではなかった ・・ その点は 認めましょう、その代りと言っちゃなんですが、彼には お坊ちゃま君の良さが 全て備わっていた気がします。 他方 生涯を書生で終えた人でした、そして 良い時に現れ 良い時に死んでいった、何故なら 維新政府に 彼が嵌る場所は無かったでしょうから。 そもそも 剣術も学問も 全て中途半端、依って 新生日本の青写真が描ける人ではなかった、勿論 政治家 タイプでもない、彼の本質は 明らかに 革命児 。 尚 功山寺 挙兵 の際、当時 長州落ちしていた 三条実美 他の公卿に放った 啖呵・・、 「 これより 長州男児の 肝っ玉を お目にかける ! 」 、 痺れるのですよ。

chacha0035
質問者

お礼

isoken先生、こんばんは。 いや~、結局は岸田さんでしたね~w 例えるなら・・・日本人は、うな重の松・竹・梅があると、「竹」を注文するみたいな、そんなイメージですw 色んな政局も絡んだんでしょうけど・・・まぁ、無難なんでしょうねw >功山寺の挙兵 高杉さんも流石の無茶っぷりだけど、力士隊引き連れて一番に参戦する伊藤博文も流石っす!ww 関係ないけど、以前にお話しされてた赤禰武人はちょっと可哀想でしたね。彼もまた、長州の行く末を案じてた志士だったんでしょうけど・・・ 高杉さんの事、大っ嫌いだったんでしょうねw >8割方 佐幕に傾いていた 長州 の藩論 正義派と俗論派に二分されてたんですよね。 それにしても、このネーミングセンスは後世のものでしょうねw 山形有朋あたりがクサいなぁw >名立たる 勤王の大物が 非業に倒れ 個人的には、久坂玄瑞の死が惜しいっス。 それにしても、長州は魅力的な人が多いですが、吉田 松陰先生は偉大ですよね♪ 藩主の毛利敬親の影響も大きいのかもですが。 >苦労人 西郷隆盛 が持つ 重厚感も、盟友 桂小五郎 が持つ 安定感もなく、凡そ 大将の器ではなかった ・・ 個人的には、 この人には、人を惹きつける魅力みたいなのがあったんじゃないかと思います。 で、この人を好きな人にはとことん惚れられるけど、嫌いな奴にはとことん嫌われるみたいなw 関係ない話ですけど、 高杉晋作の最期を看取った、野村 望東尼なんかも、晋作の人柄に惚れてたんでしょうねぇ。 「おもしろき 事もなき世に おもしろく」は、一番好きな辞世の句です♪ >「 これより 長州男児の 肝っ玉を お目にかける ! 」 かっけぇ~♪w 回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 幕末薩長同盟について、

    幕末薩長同盟について、 いずれも、桂小五郎の日記に依ります。 (1)薩摩藩名義での武器購入は、長崎で桂小五郎自身が薩摩藩の某氏に依頼した。 (2)同盟締結前夜、龍馬来訪翌日陪席。 と有ります。 (1)龍馬が斡旋した資料? (2)龍馬が夜半隆盛説得した資料? 正誤問いませんが、 小説以外の資料お願いします。

  • 江戸時代の国と藩への帰属意識:大隅出身の人に質問

    NHKの大河ドラマ、龍馬伝が人気ですね。 そこでは薩摩藩とか長州藩とかの名前が出てきます。薩摩藩の支配する地域は薩摩の国と大隅の国を合わせた領域だと思いますが、大隅の国に生まれ育った人は自分が薩摩藩の人間であるという帰属意識があるのでしょうか?島津藩、と言われればそれに対する帰属意識はあると想像しますが・・・・ だから幕末に活躍した南九州の藩は本来「島津藩」と呼ぶべきで「薩摩藩」と呼んだら大隅の国の人に失礼ではないか、と思うのですがどうでしょう。 先日岩国の出身者に同じ質問をしました。国としては防府の国なのですが、長州への帰属意識はあるとの事でした。こちらは長門藩でなく長州藩といっているからなのかな、と思いました。

  • 日本の歴史認識についてお願い致します。幕末期に活躍した藩は、薩摩 長州

    日本の歴史認識についてお願い致します。幕末期に活躍した藩は、薩摩 長州 土佐でした。 この三つの藩はなぜいろんな多彩な人材を輩出する事ができたのでしょうか? 現代では、この三つの藩つまり鹿児島県 山口県 高知県はたいした産業も無くて 現代文明から取り残された典型的なダメポ♪地方の代表ですが どうしてあの幕末期には幕府(国)を動かすような大それた事ができたのでしょうか? 今でも鹿児島は、警視庁には鹿児島閥のなごりがありますし、山口は多くの首相を 排出しています、土佐は自由党が根強い基盤をきづいています。 これらは幕末期のなごりであります。 でもお金儲けの産業やビジネスではさっぱりアカン券でもあります。 幕末期の最大の謎をしりたいので よろしくお願いします。

  • 脱藩って?

    この前幕末ドラマを見て脱藩というのを見ましたが、脱藩とはなんですか? 藩というのは、あくまで通称や今の世界で言ってる呼称ですよね。 てことは、たとえば薩摩藩を脱藩というと島津家に離縁状みたいなのを提出するということですか? それとも藩外に出て命令をいっさい聞かないとか? あと、脱藩した主な志士をおしえてください。

  • 幕末志士の少年時代のエピソード

    以前、ラジオで幕末志士の少年時代(高杉晋作か桂小五郎だったと思うのですが)のエピソードとして、 神様の存在を確かめるため、神様の象徴でもある神社の御札を、便所の床において踏みつけて、 バチが当たれば、神様がいるし、バチが当たらなければ、神様なんていないと、実行して見て、 何も起こらなかったので、神様はいないことを確認したというようなことを聞いた覚えがあるのですが、 くわしくわかる方いませんか?

  • 20数年前の幕末が舞台の漫画

    今から約25年ぐらい前、少年誌に幕末の薩摩藩(土佐藩だったか?)を舞台にしたストーリギャグマンガが連載されていたのですが、その題名と作者を教えていただけませんでしょうか。少年誌は、サンデーかマガジンだったように思います。ジャンプではありません。内容は、幕末の薩摩藩の少年藩士と飄々としたヒゲ面の藩士が出てくるものです。その藩士がアルファベット柄の着流しを着ており、時には覆面を着てホワイト頭巾などと名乗り、佐幕派をおちょくっていたのが印象的です。画風が小山ゆうに似ていたような記憶があり、ずっと小山ゆうだと思っていましたが、おーい竜馬と記憶がごっちゃになっているようです。情報が少なく恐縮ですが、お分かりの方お願いいたします。

  • 龍馬が脱藩後に薩摩や長州、兵庫、大阪、京都、越前と行き来していた事に疑

    龍馬が脱藩後に薩摩や長州、兵庫、大阪、京都、越前と行き来していた事に疑問を持ちました。 幕末期土佐の坂本龍馬達が脱藩していく際に県境にある関所を避けたり、関所の人間を酒で酔わせて不意を付いたとかして脱藩したと聞いています。 彼らは藩から許可された正式な通行手形が無いからそういう形を採っていたんだと思うのですが、同じような関所は他の藩には無かったのでしょうか? 他の藩の者や他の藩から入ってくる者の通行手形等は検閲しなかったのでしょうか?

  • 幕末の幕府と藩の関係

    幕末には長州藩は幕府と戦争したり、幕府の権威も失墜していたと思いますが、だからといって幕府には藩を取り潰したり、処分を下したりする力までなくなっていたのでしょうか。だとしたら参勤交代なんてみんな拒否しそうですが、ちゃんとやってたから生麦事件が起きたわけですよね。それにいくら薩摩長州が強くても親藩譜代大名がみんな幕府側なら、かなうはずないような気がするのですが。そのあたりの当時の状況について教えていただけませんか?

  • 生麦事件

    幕末に薩摩藩が起こした生麦事件の賠償金をなぜ幕府が払わなければいけなくなったのですか?結構高額でしたよね。

  • 京都寺田屋は本物か?

    幕末の「寺田屋事件」で有名な京都の船宿「寺田屋」。 僕も司馬さんの「竜馬がゆく」を読んで、10年くらい前に行きました。 刀やピストルの跡が残っていたり、おりょうが入っていた風呂なども見ることができて感激しました。 ただ、最近Wikipediaなどにも書いてあるのですが、今ある寺田屋は偽物であるという話。実際は鳥羽・伏見の戦いで全焼しているはず、とか。また登記年月日が明治後期になっている等、本物ではないと記載されています。 これは本当なのでしょうか?? たしかに、先週の大河ドラマ「篤姫」のエンディングで寺田屋について説明していたのですが、「現存する」とは一言もふれず、隣の敷地にある薩摩九烈士の碑や志士の墓がある大黒寺の方を取り上げておりました。 やはり、あの寺田屋は偽物なのでしょうか?