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一番好きな、江戸幕末期のエピソード!

eroero4649の回答

  • eroero4649
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回答No.7

いやー、私も林忠崇の話は好きなのだけれど、先に取られてしまいました・笑。当時彼はハタチくらいの青年だったんですよね。若者らしい真っすぐさですよね。しかも幕末のお殿様の中では最も長生きし、九十を過ぎて大往生。亡くなるときに辞世の句を聞かれて「二十歳のときにやったから、ない」と答えたというのもシビれます。 じゃあしょうがないないなあ、「面白き こともなき世を 面白く」の辞世の句を残した高杉晋作・・・あ!こっちもとられた! というわけで、まだ誰も出していない「幕末で超イケてる」といったらあの人の、土方歳三さんでも。 私が歳三さんにシビれるのは、鳥羽伏見の戦い以降ですね。鳥羽伏見の戦いに新撰組一行は刀と槍で参戦するわけですが、当然鉄砲相手にいくさにもなりません。それで「鉄砲には勝てねえよなあ」と痛感したと思うのですが、その後の切り替えが早い。 江戸に戻った歳三さんは千葉から宇都宮城の戦いにかけて連戦していくわけですが、そこでどこで鉄砲の戦い方のコツをつかんだのか、みるみるうちに「野戦の鬼」になっていくんですね。刀と槍で突撃するのと鉄砲で戦うのでは、小売店とネット販売くらい勝手が違うと思うのですがね。 会津で戦っているときに、恐怖にかられた兵士が逃亡しようとしたので、歳三さんはその場で斬り殺し「逃げようとするやつは、みなこうだ!」といったというのですね。おそらくそのときは皆な恐怖にかられていて誰もが「逃げたい」と思っていたと思うんですね。そこをピシャリとやって「もう戦うしかない。逃げ場はないんだ」と兵士の気持ちを引き締めたのはさすが「鬼の副長」だと思います。 けれどその後、部下に「あのときはああするしかなかったが、あの兵士には可哀想なことをした。あいつはちゃんと墓に葬ってやれ」といってお金を渡したといいます。イケメン! その後函館戦争まで転戦を続けますが、少なくとも歳三さんが率いた場所では決して負けることがありませんでした。 その函館戦争であるとき、旧幕府軍の兵士が新政府軍の兵士の戦死体を辱めたということが起きました。もう旧幕府側も追い詰められていますから「もう俺らは殺されるしかない」と気が立ってるんですね。しかし当然味方の兵士からも「だからといって遺体を辱めるのは人でなしだ」という批判も起きる。どちらも気が立っていますから、一触即発の状況になりました。 そこに歳三さんが「遺体にそういうことをやるとは肝が据わっているし、しかし遺体を辱めるなという意見ももっともだ」というと、双方が「歳三さんがそういうなら」と納得したというのですね。デキる上司! もし歳三さんが生き残って日清戦争などで戦ったらどんな名指揮官でいただろうかと思いますが、立場上「俺は死なねえと収まらねえだろうなあ」と自覚していたと思います。薩長からすれば近藤勇と土方歳三は絶対に許せなかったでしょう。しかも武士じゃないし。 それで遺髪と遺影を実家に送るのですが、その役目を身の回りの世話をしていた少年に託すんですよね。当然少年は「僕も一緒に歳三さんと死にます!」といってきかないわけですが、オトナの歳三さんからすれば「将来がある若い子をこんなところで死なせるわけにはいかない」となる。それで「俺の命令に従わないなら、俺がこの場でお前を斬る!」と凄んで少年を安全な多摩の実家に送るのです。 それで残ったのがあの有名な写真ですけれどもさ。すごいと思いませんか、その姿はざんばら髪に洋装、ブーツ姿です。ついこないだまで袴姿で日本刀を振り回していて「ザ・武士」をやってた人です。後に明治政府がちょんまげ禁止令を出したら日本中から反発されたくらい日本人が愛着があったちょんまげも「もうちょんまげじゃねえよな」とあっさり切ってしまっている。ブーツなんてどこから手に入れたの?って思います。 結局旧体制側に殉じた人ですけれども、実は誰よりも時代の先端を行ってたんですよね。きっと新しい時代も見えていたんじゃないかなと思います。戊辰戦争の段階で「もうこれからはざんばら髪の時代だぜ」と思っていたのですから、5年前に「これからビットコインの時代だぜ」って言い出すくらいの先見性ですよ。

chacha0035
質問者

お礼

こんばんは。 >いやー、私も林忠崇の話は好きなのだけれど そんなに有名な方だったんですね! 恥ずかしながら私は知らなかったっスw >「面白き こともなき世を 面白く」の辞世の句を残した高杉晋作 しまった!この辞世の句、書かれてたんですね! 先に高杉さんを書かれた方のとこで、うっかりこの辞世の句を書いちゃいましたw いや、パクったわけじゃないんすよ!マジです!マジです!ww >まだ誰も出していない「幕末で超イケてる」といったらあの人 ふふw ズバリあの人ですね?w お互い、せーので言いましょうか? せーの!・・・村田新ぱ・・・ >土方歳三さんでも。 あ、そっち?w 失礼しましたww 冗談はさておき、歳三さんはかっけぇっすよね! 農家の出なのに、蝦夷共和国の選挙ではそこそこの票を獲得するから、一定の人望もあったんでしょうし。 世が世なら、もっと歴史に名を残した人物になったんでしょうねぇ。 榎本武揚みたいに、新政府に助命されてればという思いもありますが、やっぱ歳三さんはこの戦で死ぬ運命だったんでしょうね。その方が歳三さんらしいですし。 >「遺体にそういうことをやるとは肝が据わっているし、しかし遺体を辱めるなという意見ももっともだ」 個人的には・・・ 遺体にそういうことをした奴は、歳三さんにはぶん殴って欲しかたっす!ww >それで残ったのがあの有名な写真 あっ、あの写真にはそんな逸話があったんですね。 いや、勉強になりました~w >5年前に「これからビットコインの時代だぜ」って言い出すくらいの先見性 ふははw その例えは分かりやすい!w 信長級の先見性はあったのかもしれませんね! 回答ありがとうございました。

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