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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:普通名詞が概念として使われる時、なぜ働きを表すのか)

普通名詞が概念として使われる時、なぜ働きを表すのか

このQ&Aのポイント
  • 普通名詞が概念として使われる場合、働きや役割を表すことがあります。
  • 具体的な例として、armが部位を表し、trainが交通手段を表すことがあります。
  • 普通名詞が概念として使われる場合、それは他の概念との関係性を持っており、言語使用者が関心や興味に応じて特定の関係性を見る傾向があります。

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  • Nakay702
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回答No.4

(その2:たわごとかも知れませんが、引き続き主観を述べさせていただきます。) @以前Nakayさんに説明させて頂いた個所を確認しているうちに、大変な記述ミスを発見しましたので、ここに報告しておきます。<protection of nature にthe?>というthreadの中の一節です。--アポリアに陥ることを回避し、「神頼み的言表」を行ったデカルトのやり方を、もちろんハイデッガーは批判しています。アポリアに陥ることを回避しようとしたハイデッガーは世界内存在の最終的根拠を<根源の時間性>においています。私のは「神頼み的言表」に近いものがあるように感じます。共感を取り扱うことをしなかったのは空間性より時間性の方に優先権を与えたためだと私には(個人的見解ですが)思われます。 ---<私のは>だとまるで私自身の考えだと、と言うふうに聞こえます。<私のは>でなくて、<私には(ハイデッガーのやり方は)>と言いたかったのです。記述ミスにすぎませんが内容的に大きく違ってきます。 ⇒わざわざ恐縮です。ただ、私も最初から「私には」の誤植と思いましたので、そう読み換えていました。確かに、「アポリアに陥ることを回避しようとして世界内存在の最終的根拠を<根源の時間性>においた」ことは「神頼み的言表」に近い感じで、このあたりにも、恣意性というか、カントの呪縛「認識を統御する理性がアプリオリに備わっているとする考え方」を無意識に引きずっている節があるように思われます。 @ドイツ観念論の哲学者達に共通していたのは、この世の客体的な状況に生きる人間がいかにして非客体的性を手に入れるかということでした。それに対し、ハイデッガーは非客体的な状況が人間がもともと生きてある場所だととらえ、客体的な状況を例外的な状況としました。その点でドイツ観念論とは大きく異なります。/これを今回の私の議論に即して言うと、ドイツ観念論はgo by carではなく、go in a carという時のa carを対象にして、a carの奥にある本質を探り手に入れようとすることに近いように思います。むしろ、プラトンとその亜流の考えに通じるものがあるように思います。本質を探ろうとする時点で、主体はa carを客体的にとらえています。私の論はそれとは異なります。a carではなく無冠詞のcarを対象にして、それと主体との関係性を探り、その関係がどういう本質のものであるかを問題にするわけです。carは概念ですから、主体とcarとの関係は客体的なものではありません。また、当然のことですが、概念それ自体を対象物とすることはできません。非客体的なありかたにおいては、対象物そのものではなく対象物との関係性が問題になります。ですから、無冠詞のcarや無冠詞のinterpreterと言語主体との関係を、さらに言うと、それらの概念が言語主体に対してどのような意味を持つのかということが問題になるわけです。「働き、機能、役割、場」といったものを一括して「働き」としようとしたのはもちろん論理的な手続きとは無縁のことです。<事象そのものへ>はフッサールが掲げたスローガンでしたが、それは様々な思いこみを排することから始めようということでした。思いこみを排した後、今度は対象物の本質を見抜かなければなりません。それを可能にするのは直感です。当然のことですが、論証などといったことが及ばない場所の話です。私としては、自分なりの本質直感を行ったつもりだったわけです。ただし、直感によるわけですから、とんでもない思い違いがありえます。世界内存在は本質直感がうまくいった好例です。斉一性だってそうです。ドウルーズのリゾームもそうです。もちろん論理によって確認されることはありません。論理は合理性を背景にして客体的な思考において用いられる便利な道具ですが、非客体的なことに対しては無力です。ハイデッガーは世界の中に存在するモノを2種類に分けました。人間にとって客体的なものと非客体的なものです。非客体的なものを説明する時、彼はそれを人間にとって有用なモノとしました。(非客体的なものは概念的なものですから、モノ同士が、およびモノが人間と、必ず何らかの結びつき-関係を持ちます。)その関係におけるあり方をハイデッガーは有用性としました。ここまでは、私も同感なのですが、彼はそうした文脈で、人間と関わりを持つモノを道具(das Zeug)だとしました。そして、道具存在-手許存在(Zurhanden-Sein)と呼びました。彼にとって、モノは文字通りの道具でした。私にはこのような考えにはついていけません。例えば、一輪の花が言語主体に与える感動とかは、彼の著述(存在と時間)にはありません。また、モノについての記述はありますが、人については有用性の話は一切書かれていません。言語主体と同じ共同存在者であることが書かれているだけです。もちろん100年前の哲学者の言にけちをつけるつもりはありませんが、私なりに本質直感を試みようと思い立ったわけです。/私としては、冠詞の解説書にあるような「働き、機能、役割、場」とかでなく、すぱっと一括してしまいたかったというだけのことなのです。 ⇒実は前便で、「feeders仮説」は面白いと思いますが、心なしかドイツ観念論にも似た匂い・感触があって…云々」と申しましたのもこのことと関係があります。お説では、観念的・先験的に大前提(と目標)を置いて、それに見合いそうな仮説・解釈・用例をあとで付加する手順にも似たところがあるように思います。ベクトルが逆向き、と言いますか、因果の時系列が逆転しているようにも感じられるのです。非客体的なものを説明する時でも、それを前提として始めるのは、いわば抽象をもって抽象を説明するようなもので、その全体が空中楼閣になってしまう恐れがあるように思います。経験的具象から始めるなり、少なくとも要所要所で関連づけをしなければ、説得力を持たないのではないかと懸念されます。  そこで、本件の問題は、①goes to the churchの通常の意味。→①′普通名詞の質的な意味。→②goes to the churchの意味。→②′go to churchとgoes to the churchの(通常の)意味の確定。→③同一言語共同体で、goes to the churchにおいてgo to churchと同じ意味を検出。→③′その理由の考察・検証。→④go to churchとgoes to the churchをモデルとする普通名詞の抽象化に関するまとめ(ここで始めて「すぱっと一括」)、といった手順で探究を進めるのがより自然だと考えます。ところが、「feeders仮説」は、(少なくとも前回の所説では)突然③や③′の提示に始まり、②や①′に戻る…といった手順のように思えて、私のただでさえ弱い頭が混乱してしまいました。  とはいえ、このたびは、goes to the church、go to churchを始めとする、つまり、go to the Xとgo to X のアメリカ語法や、上位概念としての「自然環境」や「暮らしの場の公共施設」とそれに属する要素(部位)としての{sea, forest, mountains, desert, plains}とか{church, market, college, hospital}などに関する詳細をうかがいました。前便と今回の説明を加えれば、必要最小限の要項は揃ったと言えるかも知れませんね。ということは、これを①~④の順にうまく並べ替え、不連続部があれば適宜これをつなぎ、説明や接続詞を補えば、十分説得できる所論になるものと存じます。以上、独断を怖じず、ゴタクを開陳させていただきました。

feeders
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございました。 <フッサール(現象論)やハイデッガー(被投企・世界内存在)でさえ、私の目には、経験論にこだわり、あるいはこれを無視しながら、結局はカントの呪縛から脱却しきれていない面があるように思えてなりません。>  -フッサールについて言うと、<カントの呪縛から脱却しきれていない>のではなく、<カントの呪縛から脱却しようとするあまり>存在論的に無理のある方法を採用しました。そのことで、ハイデッガーから痛烈な批判を浴びています。ハイデッガーの場合は、カントの主張するアプリオリが存在論的な基盤を持っていない(客体的な考え方を残しています)ことをつき、世界内存在という基盤でもってカント哲学を基礎づけしようとしました(それはそれでよいと思うのですが、されに根源の時間性でもってさらに根拠づけようとしました。世界内存在だけで根拠として十分なのに、はっきりやりすぎと私には思えるものでした)。ハイデッガーは合理論者というよりむしろ経験論者と言うべきだと思います。世界と自己との関係把握は経験によってなされるわけですから。 <キルケゴールやマルクスは別の問題に心奪われてこれに関知しなかったように見える> とのことですが、私もそう思います。彼らにとって真っ先にやり玉に挙げなければならなかったのはカントではなくへ-ゲルの思想でした。 <不連続な形而下と形而上とを無理につなぐ、あるいは、形而上の概念や術語を何の条件・吟味もなしに形而下に持ち込み(あるいはその逆)、ご都合主義風に利用しているという疑惑を抱いてしまうからかも知れません。>  -だからこそ、フッサールもハイデッガーも論を進めるにあたって苦労したわけです。特に、ハイデッガーはそうした批判に対応するために、人間の日常的な生き様を分析の出発点としました。彼の議論はただ一つを除いてすべていわゆる形而下の事柄に属します。人間が現実に経験することについての分析に終始します。ただ、根源の時間についての説明にはそう言い切れない部分があるように思います。  ところで、<不連続な形而下と形而上>という言い方は論理実証主義を始めとする言語哲学や分析哲学から批判的に発せられたものだと思いますが、実際、ドイツ観念論にはそうした批判があたっていると思います。彼らのせいでカントまでもが形而上者であるかのごとく扱われました。カントにしても迷惑だったと思います。先ほども言ったように、主観-客観の対立図式を強めたのは彼らですから。  現象学はそういう見方を排除しようということから始まりました。ただ、初期のフッサールの方法が試行錯誤的なものにすぎず、合理論的な立場と見まがわれるような説を展開したために、合理論側の最後の論客と見られましたが、彼の思惑はそうしたところにはありませんでした。晩年の著作を読めばそのことがわかるはずです。  なお、<不連続な形而下と形而上>についてですが、ある時期から形而上学は侮蔑的な意味合いを込めて使われるようになりました。形而上学という言葉を出しただけで評判を損ねてしまうという風潮になったので、ハイデッガーさえもがある時期からこの言葉を使わなくなりました。  <連続的な形而下と形而上>であれば問題ないわけですね。形而上学に対する哲学界の態度について言うと、以前とは状況が変わってきてます。 論理実証主義が形而上学を批判するきっかけとなったのは、ヘーゲルそのものではなく、イギリスにおけるヘーゲル学派に対する反発からだと聞いています。でも、彼らが形而上学批判の際に掲げた検証原理には大きな問題がありました。それは、「検証可能な命題だけが有意味だ」という原理だったけですが、検証原理そのものが検証可能なものなのかという疑念が表明されました。さらに、検証原理の「厳密な定式化が困難だ」という問題もありました。検証原理は科学理論を含む経験的命題をも排除してしまうものでした。 クワインは人間の知識はネットワークをなしていて、周縁部にそって経験と接しているような集合体だと言っています。ところが、高度な理論的対象は観察による検証が不可能なのにネットワークの中に組み込まれています。彼によれば、神話の神々が検証できないのに知識のネットワークに組み込まれているのと同じことだそうです。 その後、クリプキの登場によって、それまでの既存の概念(アプリオリとアポステリオリ / 分析と総合)の読み替えが行われました。こうした概念にまとわりついていた固定観念が取り払われたわけです。詳述は避けます。 こうして分析哲学内部において(クワインもクリプキも分析哲学者です)形而上学の復興が実現しました。形而上学と形而下学の区別に意味がなくなってしまったわけです。その後、分析形而上学が登場し、さらにメタ形而上学が登場したとのことです。詳述はひかえます。もしかしたら、このようなことはNalayさんもご存じだったかも知れませんが、一応私なりの理解として記しておきました。 <非客体的なものを説明する時でも、それを前提として始めるのは、いわば抽象をもって抽象を説明するようなもので、その全体が空中楼閣になってしまう恐れがあるように思います。経験的具象から始めるなり、少なくとも要所要所で関連づけをしなければ、説得力を持たないのではないかと懸念されます。> -たしかにそうですね。これは肝念論的と言うより、私自身が短気な性質を持っているためという面が大きいと思います。<経験的具象から始めるなり、少なくとも要所要所で関連づける>ことはまさにハイデッガーが「存在と時間」で行ったことですが、今回の私はつい面倒だと思えてしまいました。それに、経験的具象から始めるとき、推論に一切のバイアスがかからないことがありうるかという疑問もあります。でも、少なくとも、私の論を読んで頂く人を当惑させてはならないことに留意すべきでした。以後、気をつけます。  <そこで、本件の問題は、①goes to the churchの通常の意味。→①′普通名詞の質的な意味。→②goes to the churchの意味。→②′go to churchとgoes to the churchの(通常の)意味の確定。→③同一言語共同体で、goes to the churchにおいてgo to churchと同じ意味を検出。→③′その理由の考察・検証。→④go to churchとgoes to the churchをモデルとする普通名詞の抽象化に関するまとめ(ここで始めて「すぱっと一括」)、といった手順で探究を進めるのがより自然だと考えます。> -ありがとうございました。   実は、今回の質問投稿のメインテーマは概念が持つ<働き・機能・役割・場>を<働き>という語に一括することができるかということでした。これは、私自身の指導の簡略化という意味もありますが、実は生徒達にとってもありがたいことなのです。冠詞の習得は生徒達にとって労多くして報われることが少ないものなので、こちらとしては少しでも負担を軽減させたいと考えるわけです。 今回も長文の回答ありがとうございました。次回は連想照応に関してです。よろしければまたご意見をお聞かせ下さい。

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その他の回答 (3)

  • Nakay702
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回答No.3

お礼と補足を拝見しました。 字数制限超過のため、例によって2つに分けて書きます。 (その1) @<前後関係でも示されない限り、どちらかと決めつけるのは尚早に過ぎるように思います。>-Going to the church always makes me feel gloomy. I'd rather go to the cinema instead. これだったら、「例の・いつもの教会へ行く」という意味は出にくいと思います。/私の普段の授業では、go to churchは礼拝にゆく、goes to the churchは教会という建物にゆく、と教えています。/goes to the churchは礼拝にゆく、つまりgo to churchと同じ意味で使うのだと言う人(アメリカ人)もいます。冠詞の解説書でそのことを記述しているものもありますが、なぜgoes to the churchがgo to churchと同じ意味で使われるのか説明したものはありません。/アメリカ英語では、go to the Xはgo to X の意味と、その場所又はいつもの場所に行く、の意味の両方があるようです。/churchもmarketもcollegeもhospitalも<町での暮らしにおいて、人がおおぜい集まる場所>という上位概念を構成するデフォルト要素として人々に認められているので定冠詞がつくと言えそうな気がするわけです。 ⇒新しい情報をありがとうございます。「Going to the church always makes me feel gloomy. I'd rather go to the cinema instead.なら『例の・いつもの教会へ行く』という意味は出にくいと思います」について「出にくい」ことは納得ですが、絶対出ないわけでもない、ということですね。また、「アメリカ英語では、go to the Xはgo to X の意味と、その場所又はいつもの場所に行く、の意味の両方がある」とのこと、私もそれを考えていました。前便でのご提案(同一言語共同体での用法を比較すべき)はそれゆえでした。なぜ定冠詞がつくのかという疑問に対する説明のための補助線として、sea, forest, mountainsなどを取り上げ、上位概念を構成する自然環境を想定すると、各語はその下にぶら下がるデフォルト要素として認められるので定冠詞がつく。それと同様、churchもmarketもcollegeもhospitalも公共的施設という上位概念を構成する典型的な範例要素として人々に認められているので定冠詞がつくと見たことについては納得できます。 @カントが登場した当時の時代背景ですが、自然科学がニュートンの物理学を基礎に据えて自らの正しさを標榜していました。ところが、経験論的な素朴な発想のものでしかなかったために、その正しさを示す原理が存在しないも同然でした。/一方、合理論的な発想だと経験で得られたものの正しさをきちんとくみ取れない、あるいはくみ取ろうとしないということがありました。そこで、カントは経験論的な発想を大幅に取り入れた形で、かつ、経験で得られたものを統御するのは理性であるとする合理論的な発想を残しました。/カントの功績を認めない反動的な勢力がいました。一方の勢力は経験論者達です。彼らは人間の側に認識を統御する理性がアプリオリに備わっているとするカントの考えを受け入れようとしませんでした。/合理論者の方でもカントに不満を持ちました。カントは、人間は本質(絶対の確実性を持つ真理-カントの言葉では物自体)を把握することはできない、本質から現象してくるものを理性によってとらえることができるだけだとしました。でも、その考えによって、理性が窮屈な場所に閉じこめられてしまったように感じた人たちがいたようです。彼らは理性は強力な力を持つものであって、理性の働きによって本質にたどり着けると主張しました。/ドイツ観念論に共通して言えることですが、カントの説にあった経験論的な傾向を排除しようとするあまり、理性に比重をかけすぎたため、客体性がさらに強いものになりました。人間はもともと主体と客体とに分離されていて、そこから非客体的状況へと向かわなければならないとするわけですが、最初の出発点で主体と客体との対立状況が前提されるために、論理的にはどうしても矛盾が残るものになります。ヘーゲルの理性とは、カントの設定した経験論的な制約を取り払って、絶対精神として社会や歴史を創造してゆくというダイナミックなものでした。彼の論法はほとんど詭弁のように私には聞こえます。彼よりより少し前に活躍したシェリングの場合は、主体自身が本質に合一することを目指すもので、宗教的色彩の濃いものになりました。ヘーゲル哲学においては精神とか理性とかが喧伝され、人間の主体性は無視されたので、そのことがキルケゴールやマルクスの批判を呼び起こしました。でも、彼ら二人は主体と客体の対立を克服しようとはしましたが、出発点でそうした対立状況を前提としていたため、結局、矛盾を解消することはできませんでした。 ⇒分かりやすいドイツ観念論史をありがとうございました。私は、「人間の側に認識を統御する理性がアプリオリに備わっているとするカントの考えを受け入れようとしなかった」という経験論者達に共感します。もっと言えば、哲学史上のドイツ観念論者の各派が一様にカントの呪縛とでも言うべきアプリオリという桎梏に絡め取られているような気がしてなりません。私の勘違いがあるかも知れませんが、ヘーゲル(絶対精神論)も彼の周辺のシェリング(直観論)やヘルダーリン(汎神論)はこの問題に向き合うことを無視したし、キルケゴール(実存論)やマルクス(経済論)は別の問題への関心に心奪われてこれに関知しなかったのではないかと推測されます。変な喩えですが、陣地を飛び立って敵地に降り立った落下傘部隊が、その着地点から自陣へ向って陣地を拡大していって、自陣につなげようとする場面を考えます。ドイツ観念論者の立てる前提は、落下傘部隊の着地点に似ています。戦いの場面なら戦略の1つとしてよい作戦かも知れませんが、我々が当面する探求のための仮説の設定(立地)としては、つぶさに一考を要することだと思います。なぜなら、その仮説の設定の根拠に信憑性が備わっていなければ、それを元にした演繹も、正しい推論も成り立ちません。そもそもの有り様を無視して、自分のお気に入りの虚構を据え、そこから出発して自前の問題解明に取りかかるという、根本原理を無視したようなやり方はどこか嘘っぽい机上の空論のような感じがしてなりません。ゲームの前に絶対的ルールを一方的に提示し、しかもそれがなぜ絶対かなどの説明が一切なく、ただ「そういうものとする」という金科玉条として与えられる絶対的前提とも見えます。「人間はもともと主体と客体とに分離されていて、そこから非客体的状況へと向かわなければならないとするわけですが、最初の出発点で主体と客体との対立状況が前提されるために、論理的にはどうしても矛盾が残る」との表白にもその片鱗が見える、と言えるかも知れませんね。私としては、そこに困惑の元凶があるように思うわけです。実は前便で、「feeders仮説」は面白いと思いますが、ただ、懸念されることは、心なしかドイツ観念論にも似た匂い・感触があって云々…と申しましたのもまさにこのことと関係があります。(後述) @このようにドイツ観念論は欠陥の多いものでしたが、その欠陥を修正するためには、カントにまでさかのぼって主観-客観図式にメスを入れるしかありません。そこに登場するのが現象学です。フッサールは、主観-客観図式を解消するためにある実験的な操作を行いますが、うまくいきませんでした。その後、紆余曲折があって、晩年になって生活世界というものを提唱します。これは世の中の一切の知識や経験や生活を支えている基盤のようなものです。もちろん非客体的な場所です。ただ、彼は、それが具体的にどのような働きのものであるかを分析することはしませんでした。同じものをハイデッガーも提唱しました。それが世界内存在という存在体勢です。ハイデッガーはその場所がどのような場所であるかについて詳しい分析を行いました。/ハイデッガーはドイツ観念論の批判的継承(ただしかなり異なります)という面も持ち合わせているとも言えそうです。 ⇒先の段落で、哲学史上のドイツ観念論者の各派が一様にカントの呪縛とでも言うべき先験性という「拘束衣」に絡め取られているような気がするということ、キルケゴールやマルクスは別の問題に心奪われてこれに関知しなかったように見えることなどを縷々述べました。さらに加えれば、フッサール(現象論)やハイデッガー(被投企・世界内存在)でさえ、私の目には、経験論にこだわり、あるいはこれを無視しながら、結局はカントの呪縛から脱却しきれていない面があるように思えてなりません。不連続な形而下と形而上とを無理につなぐ、あるいは、形而上の概念や術語を何の条件・吟味もなしに形而下に持ち込み(あるいはその逆)、ご都合主義風に利用しているという疑惑を抱いてしまうからかも知れません。私には分かりませんが、哲人はこの不連続をつなぐ方法を持ち合わせているに違いありません(オルテガは「天才は単純化の名人」と言いました)。持ち合わせないとしても、少なくとも、意識に留めておくことは必要だと思います。

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  • Nakay702
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回答No.2

「質問者からの補足」ありがとうございました。 @<「普通名詞が概念として使われる時、なぜ働きを表すのか」(…)>-<意味論的なつながりの線上にある質的な意味(働き・機能・役割・場面…)を獲得するからである>とのことですが、私としては、そもそも質的な意味がなぜ(働き・機能・役割・場)なのかということを問題にしたかったわけです。 ⇒すみませんが、私は逆向きのベクトルで考えていました。つまり、「働き・機能・役割・場」などの質的な意味を目指して転義したわけでなく、転義の結果を集約してみたら、それがたまたま「働き・機能・役割・場面…」などであった、ということではないでしょうか。実体語を質的な意味に転義する際、人間原理的な主観が作用するからかも知れませんが、大方の語のそれがこのあたりに収斂するのだと思います。例えば、flowerが「元気、盛り」に、hingeが「要点」に、journeyが「人生」に転義される、という具合です。 @普通名詞は一つの客体物です。そこには個別のものが見て取れます。これを抽象化すると、あるいは脱客体化すると、おそらく個別性が消え、他のものとのつながりが見て取れるようになると思います。その時に見えてくるつながりは、その都度の場面や文脈に応じて、働きだったり機能だったり役割だったりするのではないかと思うのです。そのつながりを見て取るのは言語使用者ですから、働き・機能・役割は言語使用者から見てそのように判断したものだと言えるはずです。ということは、つながりは言語使用者にとって何らかの有意義なつながりを意味すると思います。ものが言語使用者(人間)に対して持つつながりは言語使用者の生活において有意義なものであるはずです。だとすると、その有意義性は第一義的に働き・機能・役割だろうと思うのですが、この考えはどうでしょうか。 ⇒はい、そのように推察することは不可能ではないと思います。転義の操作をする際に、人間にとって都合のよい方向に向ける主観的な働きかけが行われることはあり得ることだと思います。そしてその結果は、上で見たように、働き・機能・役割・場面…などに自然収斂する傾向があるということであり、それらの語義が、構造組織内の意味場に取り込まれることによって、それらが相互にあるいは他の語義の間とのつながりを持つことになる、という仕儀ではないでしょうか。ただし、言語は「第2の自然」とも言われます。我々は常に本能的に人間原理に立った自己中心的解釈や誘導をするものであるのに対し、第2の自然とも言われる言語の側から言わせれば、「自然はそういう解釈を否定もしなければ加担もしないよ」と言うかも知れませんが。 @一般に普通名詞はこの世に(生命体として)もともと存在するものであるか、あるいは何らかの意図の元に人間によって作られたものであるかのどちらかだと思いますが、これらはすべて人間の生活のために存在していると考えることが可能です。(…)その時、人間にとってどのような存在意義・価値を持つかということが優先的に内包の核をなしたと思われます。核をなすものとしては、人間にとって有用であることや、逆に有害であることや、快不快をもたらすものとかが優先的に取り込まれたものと思われます。有用・有害であることや、快不快をもたらすことを一括して<働きを持つこと>と言えそうな気がします。働き・機能・役割・場のどれでもいいのでしょうけど、有意義性を一つにまとめるには<働き>がよさそうな気がします。いかがでしょうか。 ⇒自分では着想できない立論を裁定するのもおこがましいですが、「働き・機能・役割・場」のうち、有意義性の観点から一つに集約するとしたら、仰せのように「働き」が最もよく全体を代表し、包括するように思います。その意味で「feeders仮説」(と勝手に呼ばせていただきます)は面白いと思いますが、ただ、懸念されることは、心なしかドイツ観念論にも似た匂い・感触があって、それが簡単には払拭されそうもないことです。せめて…、いやこれはあとで申します。 @D: Tom goes to church every Sunday. において、アメリカ英語だとgoes to the churchとなります。もちろん特定の教会を指すわけではありません。イギリス英語だとtheはつきません。このことは、go to market, hospital, college, universityについて同じ現象が存在します。イギリス英語だと無冠詞なのにアメリカ英語だとなぜtheがつくのかということを考えてみたことがあります。この用法におけるイギリス英語のchurch とアメリカ英語のthe churchはどちらも概念的な使われ方をしています。この問題を考察するための補助線的なものとして部位の表現-A: My brother took me by the arm.-を振り返ってみます。それと、前回の質問投稿<a corner か the corner>で話題にしたThe boy was made to stand, as punishment, in the corner of the classroom. におけるthe corner も参照したいと思います。この場合のcornerも部位のarmと同じく概念的なものです。armは部位を構成する要素としてデフォルト的なものなのでtheがつきます。cornerは教室内の場所を構成する要素のうちでデフォルト的なものなのでtheがつきます。両者の共通点は場所的な意味を持つことです。by trainのtrainには場所的な意味はありません。前置詞byによって手段または働きの意味が明確に出ています。as interpreterにおけるinterpreterもas(~として)によって役割または働きの意味が明確に出ています。 ⇒下記以外は賛同できます。「イギリス英語のchurch とアメリカ英語のthe churchはどちらも概念的な使われ方をしています」とのお説には若干違和感があります(大した裏づけもなしに反発してすみません)。前者の場合はともかく、後者つまりアメリカ英語のgoes to the churchは、「特定の教会を指すわけではありません」とのことですが、私はむしろ「例の・いつもの教会へ行く」というthe本来の限定用法である可能性のほうが高いのではないかと思います。少なくとも、前後関係でも示されない限り、どちらかと決めつけるのは尚早に過ぎるように思います。まして、アメリカでは、哲学のみならず、一般にもpragmatic的傾向があることを考え合わせると、ますます早計な判断が危惧される気がしてきます。コーパスの統計にでも準拠して立証するという方法をとれば、少し説得力がつくと思いますが、いかがでしょうか。 @このことから仮説を提示してみます。go to church というイギリス用法においては働きの意味が強く出て、go to the churchというアメリカ用法においては場所的な意味合いが強く出ているのではないか思います。では、場所的な意味が強くなるとなぜ定冠詞がつきやすいかということを考察しなければなりません。部位の場合は、身体を構成する場所として数が固定されたものになっています。cornerの場合もof以下の名詞に応じて数が決まります。通常は4つです。位置も変わることはありません。もちろんデフォルト要素です。もしかしたら、church, market, hospital, college, universityなどは、人々が普段の生活においてよく出向く場所を構成する要素としてデフォルト的なものだとする(心理的な)暗黙の了解があるのではないかという気がします。一般に場所を表す名詞が概念的な使われ方をする時、上位概念との関係においてデフォルト要素と認められやすいように思います。例えば、自然環境という上位概念を構成する要素としてsea, forest, mountains, desert, plains---などはデフォルト要素として認められているのではないかと思います。 私の仮説についてご意見を頂けるとうれしいです。 ⇒「go to church というイギリス用法においては働きの意味が強く出て、go to the churchというアメリカ用法においては場所的な意味合いが強く出ている」であろうことは、上述のとおりアメリカのpragmatismへの偏向とも符合しますので、考えやすいように思います。このように、アメリカの国民性と釣り合いそうに見えるということでは、ある種の有意性の感触を抱きます。ただ、ここでもやはりドイツ観念論にも似た雰囲気があることは払拭できそうもありません。もしも、語法という観点から論じるなら、「むしろ同じ人・方言・国の発話でゼロ冠詞と冠詞つきとを比較するなどして、然る後に結論を出すという手でも遅くはない」と言えるかも知れません。ここもやはり、コーパスの統計的手法を援用するという手立てを取ればより説得力がつくと思います。  全体を通して申しますと、「feeders仮説」の内容は私などにはない洞察力の賜物だと思いますし、原理的な考え方としては興味深く、大方賛同できます。しかし、僭越ながら、より精緻にして説得力を伴う所論とするためには、思考実験も必要だと思いますが、同時に仮説の設定、同一地域・国民・方言内での両者の比較、コーパス的統計、集約結果と仮説との突合せなどが重要武器となることでしょうね。(過分な放言、失礼しました。)

feeders
質問者

お礼

残りです。 ------------------------------------- この点に関して、以前Nakayさんに説明させて頂いた個所を確認しているうちに、大変な記述ミスを発見しましたので、ここに報告しておきます。 <protection of nature にthe?>というthreadの中の一節です。--- ---アポリアに陥ることを回避し、「神頼み的言表」を行ったデカルトのやり方を、もちろんハイデッガーは批判しています。アポリアに陥ることを回避しようとしたハイデッガーは世界内存在の最終的根拠を<根源の時間性>においています。私のは「神頼み的言表」に近いものがあるように感じます。共感を取り扱うことをしなかったのは空間性より時間性の方に優先権を与えたためだと私には(個人的見解ですが)思われます。 ---<私のは>だとまるで私自身の考えだと、と言うふうに聞こえます。<私のは>でなくて、<私には(ハイデッガーのやり方は)>と言いたかったのです。記述ミスにすぎませんが内容的に大きく違ってきます。以上、失礼しました。 話を戻します。-------------------------  ドイツ観念論の哲学者達に共通していたのは、この世の客体的な状況に生きる人間がいかにして非客体的性を手に入れるかということでした。それに対し、ハイデッガーは非客体的な状況が人間がもともと生きてある場所だととらえ、客体的な状況を例外的な状況としました。その点でドイツ観念論とは大きく異なります。 Nakayさんが私の投稿文をご覧になって、どういう点でドイツ観念論っぽいと思われたのかわかりません。これを今回の私の議論に即して言うと、ドイツ観念論はgo by carではなく、go in a carという時のa carを対象にして、a carの奥にある本質を探り手に入れようとすることに近いように思います。むしろ、プラトンとその亜流の考えに通じるものがあるように思います。本質を探ろうとする時点で、主体はa carを客体的にとらえています。 私の論はそれとは異なります。a carではなく無冠詞のcarを対象にして、それと主体との関係性を探り、その関係がどういう本質のものであるかを問題にするわけです。carは概念ですから、主体とcarとの関係は客体的なものではありません。また、当然のことですが、概念それ自体を対象物とすることはできません。非客体的なありかたにおいては、対象物そのものではなく対象物との関係性が問題になります。 ですから、無冠詞のcarや無冠詞のinterpreterと言語主体との関係を、さらに言うと、それらの概念が言語主体に対してどのような意味を持つのかということが問題になるわけです。「働き、機能、役割、場」といったものを一括して「働き」としようとしたのはもちろん論理的な手続きとは無縁のことです。 <事象そのものへ>はフッサールが掲げたスローガンでしたが、それは様々な思いこみを排することから始めようということでした。思いこみを排した後、今度は対象物の本質を見抜かなければなりません。それを可能にするのは直感です。当然のことですが、論証などといったことが及ばない場所の話です。私としては、自分なりの本質直感を行ったつもりだったわけです。ただし、直感によるわけですから、とんでもない思い違いがありえます。 世界内存在は本質直感がうまくいった好例です。斉一性だってそうです。ドウルーズのリゾームもそうです。もちろん論理によって確認されることはありません。論理は合理性を背景にして客体的な思考において用いられる便利な道具ですが、非客体的なことに対しては無力です。 ハイデッガーは世界の中に存在するモノを2種類に分けました。人間にとって客体的なものと非客体的なものです。非客体的なものを説明する時、彼はそれを人間にとって有用なモノとしました。(非客体的なものは概念的なものですから、モノ同士が、およびモノが人間と、必ず何らかの結びつき-関係を持ちます。)その関係におけるあり方をハイデッガーは有用性としました。ここまでは、私も同感なのですが、彼はそうした文脈で、人間と関わりを持つモノを道具(das Zeug)だとしました。そして、道具存在-手許存在(Zurhanden-Sein)と呼びました。彼にとって、モノは文字通りの道具でした。  私にはこのような考えにはついていけません。例えば、一輪の花が言語主体に与える感動とかは、彼の著述(存在と時間)にはありません。また、モノについての記述はありますが、人については有用性の話は一切書かれていません。言語主体と同じ共同存在者であることが書かれているだけです。 もちろん100年前の哲学者の言にけちをつけるつもりはありませんが、私なりに本質直感を試みようと思い立ったわけです。哲学的な色彩の濃い質問になるかなとは思いつつ、投稿しました。よろしかったらご意見を頂きたいと思います。  私としては、冠詞の解説書にあるような 「働き、機能、役割、場」とかでなく、すぱっと一括してしまいたかったというだけのことなのです。なお、<働き>という言い方はドウルーズ流に言えば生成変化ということになると思います。もちろん、私の議論においては小規模のものですが。よろしければNakayさんの直感的判断を頂ければと思いました。以上です。

feeders
質問者

補足

 再度の回答ありがとうございました。 <アメリカ英語のgoes to the churchは、「特定の教会を指すわけではありません」とのことですが、私はむしろ「例の・いつもの教会へ行く」というthe本来の限定用法である可能性のほうが高いのではないかと思います。少なくとも、前後関係でも示されない限り、どちらかと決めつけるのは尚早に過ぎるように思います。> -たしかにその通りですね。そういう可能性の方が高いと思います。特に、一般的な意味や習慣的な意味が出ない文の中ではなおのことそう言えると思います。ですから、私の方で、文脈に支えられたまとまりとりのある例文を提示すべきでした。早速作ってみます。 Going to the church always makes me feel gloomy. I'd rather go to the cinema instead. これだったら、「例の・いつもの教会へ行く」という意味は出にくいと思います。Going to the church makes meを検索するとかなりの数でヒットします。最初の2,3ページの検索結果のほとんどが「例の・いつもの教会へ行く」ではなく「教会に(お祈りに行く)」の意味で使われているように読めます。 私の普段の授業では、go to churchは礼拝にゆく、goes to the churchは教会という建物にゆく、と教えています。いつもの教会(の建物)または、すでに話題に出ている「その教会」という意味です。そういうふうに説明するネイティブも多いのですが、the churchが実際の建物を表しているのではなく、goes to the churchは礼拝にゆく、つまりgo to churchと同じ意味で使うのだと言う人(アメリカ人)もいます。冠詞の解説書でそのことを記述しているものもありますが、なぜgoes to the churchがgo to churchと同じ意味で使われるのか説明したものはありません。ネイティブに聞いても無駄です。なお、アメリカではgo to churchはあまり使わないとのことですが、実際には使う人もいるようです。 go to the hospitalやgo to the collegeやgo to the marketにも同じことが言えます。アメリカ英語では、go to the Xはgo to X の意味と、その場所又はいつもの場所に行く、の意味の両方があるようです。具体的に言うと、アメリカ英語ではgo to the hospitalが病院という建物/医療機関だけではなく医療(の場)も表し、go to the universityは大学という建物や教育機関だけではなく授業・学習(の場)も表すわけです。 とは言え、churchもmarketもcollegeもhospitalも場所概念を含んでいます。では、なぜ定冠詞がつくのかという問いに対する説明のための補助線的なものとして、sea, forest, mountains, desert, plains---を取り上げたわけです。これらは、<自然環境>という上位概念を構成するデフォルト要素として認められているから定冠詞がつくと言えそうな気がします。 同様に、churchもmarketもcollegeもhospitalも<町での暮らしにおいて、人がおおぜい集まる場所>という上位概念を構成するデフォルト要素として人々に認められているので定冠詞がつくと言えそうな気がするわけです。いかがでしょうか。 ドイツ観念論っぽいとのことですが、おそらく誤解があると思います。そこで、ドイツ観念論についての私なりの理解の仕方を披瀝させて頂きます。ドイツ観念論は私にとってそれほどの重要性が感じられなかった哲学なので、深い読み込みは行っていませんが、一応の私なりの理解はなされていると思います。これから私の繰り広げる論が正しいかどうかの判定はお任せします。とりあえず私の考えを述べます。 ドイツ観念論と言ってもいろいろあります。代表的な哲学者はシェリングとヘーゲルですが、 彼らについて述べるより、哲学史的な流れを述べた方がよいと思います。  ことはカントに始まります。カントが登場した当時の時代背景ですが、自然科学がニュートンの物理学を基礎に据えて自らの正しさを標榜していました。ところが、経験論的な素朴な発想のものでしかなかったために、その正しさを示す原理が存在しないも同然でした。経験論的な発想を推し進めると、経験・感覚によって取り込まれた知識が何のまとまりもなく、ただ乱雑に集められるだけです。それらがなぜニュートン物理学を作り出すに至るかを説明することはできません。  一方、合理論的な発想だと経験で得られたものの正しさをきとんとくみ取れない、あるいはくみ取ろうとしないということがありました。そこで、カントは経験論的な発想を大幅に取り入れた形で、かつ、経験で得られたものを統御するのは理性であるとする合理論的な発想を残しました。経験論と合理論の両方の顔を立てたわけですから、絶妙なバランス感覚というべきです。当時の時代背景を考えればこの考えがベストでした。ただし、根本的な欠陥として言えることですが、デカルトが持っていたような主観-客観の図式は姿こそ変わりましたが、結局解消されずに残ってしまいました。ということは、論理的矛盾がどこかに残るわけです。 その矛盾をつくのではなく、そもそもカントの功績を認めない反動的な勢力がいました。一方の勢力は経験論者達です。彼らは人間の側に認識を統御する理性がアプリオリに備わっているとするカントの考えを受け入れようとしませんでした。でも、経験論的な考えだけだと、そもそもきちんとした認識が不可能です。でもそうした考えはなかなかなくなりませんでした。手を変え品を変え新手が登場しました。その後の論理実証主義がその一つです。 一方、合理論者の方でもカントに不満を持ちました。カントは、人間は本質(絶対の確実性を持つ真理-カントの言葉では物自体)を把握することはできない、本質から現象してくるものを理性によってとらえることができるだけだとしました。でも、その考えによって、理性が窮屈な場所に閉じこめられてしまったように感じた人たちがいたようです。彼らは理性は強力な力を持つものであって、理性の働きによって本質にたどり着けると主張しました。認識の次元に留まらず存在の次元においてもそのように考えていたようです。もちろん不可能なことです。 ドイツ観念論に共通して言えることですが、カントの説にあった経験論的な傾向を排除しようとするあまり、理性に比重をかけすぎたため、客体性がさらに強いものになりました。人間はもともと主体と客体とに分離されていて、そこから非客体的状況へと向かわなければならないとするわけですが、最初の出発点で主体と客体との対立状況が前提されるために、論理的にはどうしても矛盾が残るものになります。 ヘーゲルの理性とは、カントの設定した経験論的な制約を取り払って、絶対精神として社会や歴史を創造してゆくというダイナミックなものでした。彼の論法はほとんど詭弁のように私には聞こえます。彼よりより少し前に活躍したシェリングの場合は、主体自身が本質に合一することを目指すもので、宗教的色彩の濃いものになりました。 ヘーゲル哲学においては精神とか理性とかが喧伝され、人間の主体性は無視されたので、そのことがキルケゴールやマルクスの批判を呼び起こしました。でも、彼ら二人は主体と客体の対立を克服しようとはしましたが、出発点でそうした対立状況を前提としていたため、結局、矛盾を解消することはできませんでした。 このようにドイツ観念論は欠陥の多いものでしたが、その欠陥を修正するためには、カントにまでさかのぼって主観-客観図式にメスを入れるしかありません。そこに登場するのが現象学です。フッサールは、主観-客観図式を解消するためにある実験的な操作を行いますが、うまくいきませんでした。その後、紆余曲折があって、晩年になって生活世界というものを提唱します。これは世の中の一切の知識や経験や生活を支えている基盤のようなものです。もちろん非客体的な場所です。ただ、彼は、それが具体的にどのような働きのものであるかを分析することはしませんでした。  同じものをハイデッガーも提唱しました。それが世界内存在という存在体勢です。ハイデッガーはその場所がどのような場所であるかについて詳しい分析を行いました。シェリングの行ったような心的なものへの接近について言うと、フッサールにはそのような志向はまったくありませんでしたが、ハイデッガーにはありました。根源の時間性という時、ハイデッガーの頭にあったのはおそらくプロテスタント的なまたは仏教的な回心という状況があったのではないかと思います。死を強く意識した人間は自分の人生を反省し新たな決意でもって生きるようになる、というのがおそらくハイデッガーの考えにあったものと思われます。これはシェリングの場合と同質のものだと考えられますから、ハイデッガーはドイツ観念論の批判的継承(ただしかなり異なります)という面も持ち合わせているとも言えそうです。ただし、これは私の個人的な解釈にすぎません。 語数制限のため、残りはお礼に回します。

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  • Nakay702
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回答No.1

以下のとおりお答えします。 @数えられる名詞が無冠詞で使われる時、働きや役割を表すことがあると冠詞の解説書に書いてあります。実例をあたると、たしかにそのような使われ方をしているものがあるように見えます。 A: My brother took me by the arm. B: John went to Tokyo by train. C: Mary works as interpreter of the conference. 普通の解説書などでは、Aにおけるarmは部位を表し、Bにおけるtrainは電車という乗り物ではなく交通手段を表す。そして、Cにおけるinterpreterは役職を表すと記述されています。 これらを一括して、働き・機能や役割・場を表すものと言えそうです。こうした現象は普通名詞が概念として使われる場合に見られることのようですが、では、こうした場合に、なぜ働き・機能・場・役割を表すのでしょうか。まず、私の考えを提示しますのでコメントを頂ければありがたいです。 ⇒面白い視点の問題ですね。《一語または簡単な表現に一元化》できれば愉快ですね。 @<いかなる概念であっても必ず他の概念との間に大なり小なりの無数のつながりがあって、関係の網の目のようなものが存在するのではないかと思います。そうした関係のネットワークの中で、言語使用者がその都度の関心・興味に応じて、特定の関係性を一意的・優先的に見てとろうとするのではないかと思います> 概念は必ず他の概念との結びつきを持っているという言い方に対して(私が思いつく)根拠は次の通りです。 概念は他の概念との結びつきを持たなければ、単独で存在しうる、すなわち個別のものと見なされます。個別のものは概念ではなく実体と見なされます。概念は実体ではないわけだから、概念は他の概念との結びつきを持つということになります。 また、概念は心の中に存在するものなので、言語使用者が客体的に扱う-概念同士の間に切り目を入れて分断する-ことのできないものです。よって、いかなる概念であっても必ず他の概念との間に大なり小なりの無数のつながりがあると言えます。また、ある事柄に関心を持ちそれについて考えをめぐらそうとする時、その関心内容に応じて一定数のものやことが概念として思い浮かびますが、そのことを<言語使用者がその都度の関心・興味に応じて、特定の関係性を一意的・優先的に見てとろうとする>というふうに言いました。 ⇒忘れていましたが、確かに拝読した記憶があります。片や「実体に関する言語的分節」であり、片や「概念に関する意味構造論的シナプス」とでも解釈、または言い換えできるかも知れませんね。 @ここでBのJohn went to Tokyo by train. について考えてみます。a trainだと一つの乗り物を表しますが、ここでは(話者にとっては)交通手段を表しているように見えます。byは通信手段を表す場合にも使われるようです(by car, by bus, by telephone, by mail, -----)。手段という意味合いは前置詞byに引きずられて出たものと思います。私としてはbyの後に続くものは手段というより、働きや機能と言う方がふさわしいように思います。 D: Tom goes to church every Sunday. churchの代わりにmarket, university, hospital なども使えます。ここでのchurch, market, university, hospital は建物や施設ではなく、(話者にとっては)ある働きや役割が実行される場のようなものです。CのMary works as interpreter of the conference. についても考えてみます。interpreterは概念を表していますが、(話者にとっては)特定の働き、あるいは特定の役職を表しているように思えます。interpreterは会議参加者にとって、特に外国人とのやりとりが必要な者にとって重宝な存在であると話者に、あるいは匿名の言語主体によって見なされていると思います。Aにおけるarmも働き(…)あるいは役目を担っています。ただし、身体全体との関係においてのことです。Cのinterpreterも会議というイベント全体との兼ね合いにおいて働きや役目を担っています。 ⇒やや「文体論的意味論」のような感触がありますが、おっしゃりたいことはだいたい分かります。要約すれば、本来、具体的個体を表す普通名詞が、無冠詞で用いることによって《抽象的非個体(質)を表すことの妙》ですね。 @例えばCharles is king of England. においても同じことが言えます。国家の営み全体との兼ね合いにおける働きや役目を担うのがkingだと思います。言語使用者にとって自分の国を治めてくれる者であり、また自分たちに対して権力をふるう者です。こうした考えが正しければBもある全体との関係において働きをなすと言えるはずです。  では、B: John went to Tokyo by train. においてtrainを含む全体とは何かということですが、(…)一つの可能性として、Tokyoにゆくという用事全体との関係においてtrainが働き・役目を担っているのではないかと思います。すなわち移動手段としての働きです。 D: Tom goes to church every Sunday. においては、この場合も確たることは言えませんが、一つの可能性として、Tomが日曜日に行うルーティーン全体との関係においてchurchが働き・役目を(礼拝の場)担っているのではないかと思います。 ⇒この場合のking, train, churchは、かつてどこかで私も申しましたように、be at home, go to schoolのhome, schoolと同じですね。これらは、個体的な量でなく没個体的な「質」を表している例だと思います。これをまとめて一語で要約すれば、「普通名詞の抽象化」と言えるかも知れません。 @こうした関心が数えられるものに向けられる時、数えられる以前の段階では、そのものが働きや役目をもつものととらえられるのではないかと思います。もちろん、数えられるものと見なされた時点で概念であることを止めるので、そうした働きや役目は、それ相応の文脈に支えられる場合でなければ表現できなくなります。  随分哲学的な話題になりましたが、おおざっぱでいいのでご意見を頂ければありがたいです。要は、A~Dにおける無冠詞名詞に対して、それは役職や身分だとか、機能だとか、あるいは何かが行われる場だとかいろいろな説明がありますが、それらを統括できるものならそうしたいという意図があるわけです。 ⇒「普通名詞が概念として使われる時、なぜ働きを表すのか」、それは《普通名詞を抽象化することによって転義を計り、意味論的なつながりの線上にある質的な意味(働き・機能・役割・場面…)を獲得するからである》と要約できるのではないかと思います。そう考えれば、「無冠詞名詞に対して、役職・身分、機能、場といった意味機能を統括的に説明できるのではないか」、と考える次第です。

feeders
質問者

お礼

ありがとうございました。

feeders
質問者

補足

回答ありがとうございました。 <⇒「普通名詞が概念として使われる時、なぜ働きを表すのか」、それは《普通名詞を抽象化することによって転義を計り、意味論的なつながりの線上にある質的な意味(働き・機能・役割・場面…)を獲得するからである》と要約できるのではないかと思います。そう考えれば、「無冠詞名詞に対して、役職・身分、機能、場といった意味機能を統括的に説明できるのではないか」、と考える次第です。> -<意味論的なつながりの線上にある質的な意味(働き・機能・役割・場面…)を獲得するからである>とのことですが、私としては、そもそも質的な意味がなぜ(働き・機能・役割・場)なのかということを問題にしたかったわけです。 普通名詞は一つの客体物です。そこには個別のものが見て取れます。これを抽象化すると、あるいは脱客体化すると、おそらく個別性が消え、他のものとのつながりが見て取れるようになると思います。その時に見えてくるつながりは、その都度の場面や文脈に応じて、働きだったり機能だったり役割だったりするのではないかと思うのです。 そのつながりを見て取るのは言語使用者ですから、働き・機能・役割は言語使用者から見てそのように判断したものだと言えるはずです。ということは、つながりは言語使用者にとって何らかの有意義なつながりを意味すると思います。ものが言語使用者(人間)に対して持つつながりは言語使用者の生活において有意義なものであるはずです。だとすると、その有意義性は第一義的に働き・機能・役割だろうと思うのですが、この考えはどうでしょうか。  一般に普通名詞はこの世に(生命体として)もともと存在するものであるか、あるいは何らかの意図の元に人間によって作られたものであるかのどちらかだと思いますが、これらはすべて人間の生活のために存在していると考えることが可能です。 例えば、armは人間が生活するために必要なものです。trainも生活の便宜のために作られました。interpreterは生活の都合のために生まれた役割だと言えます。 でも、人間が何かを見て、それを概念としてとらえ名をつけるとき、当初はそうした行為は選択的に行われたものと思われます。どうしても覚えておく必要があるものに対象が絞られたのではないかとと思います。その時、人間にとってどのような存在意義・価値を持つかということが優先的に内包の核をなしたと思われます。核をなすものとしては、人間にとって有用であることや、逆に有害であることや、快不快をもたらすものとかが優先的に取り込まれたものと思われます。有用・有害であることや、快不快をもたらすことを一括して<働きを持つこと>と言えそうな気がします。働き・機能・役割・場のどれでもいいのでしょうけど、有意義性を一つにまとめるには<働き>がよさそうな気がします。いかがでしょうか。  この問題と関連してもう一つ伺いたいことがあります。 D: Tom goes to church every Sunday. において、アメリカ英語だとgoes to the churchとなります。もちろん特定の教会を指すわけではありません。イギリス英語だとtheはつきません。このことは、go to market, hospital, college, universityについて同じ現象が存在します。 イギリス英語だと無冠詞なのにアメリカ英語だとなぜtheがつくのかということを考えてみたことがあります。この用法におけるイギリス英語のchurch とアメリカ英語のthe churchはどちらも概念的な使われ方をしています。 この問題を考察するための補助線的なものとして部位の表現-A: My brother took me by the arm.-を振り返ってみます。それと、前回の質問投稿<a corner か the corner>で話題にしたThe boy was made to stand, as punishment, in the corner of the classroom. におけるthe corner も参照したいと思います。この場合のcornerも部位のarmと同じく概念的なものです。armは部位を構成する要素としてデフォルト的なものなのでtheがつきます。cornerは教室内の場所を構成する要素のうちでデフォルト的なものなのでtheがつきます。両者の共通点は場所的な意味を持つことです。 by trainのtrainには場所的な意味はありません。前置詞byによって手段または働きの意味が明確に出ています。as interpreterにおけるinterpreterもas(~として)によって役割または働きの意味が明確に出ています。 このことから仮説を提示してみます。 go to church というイギリス用法においては働きの意味が強く出て、go to the churchというアメリカ用法においては場所的な意味合いが強く出ているのではないか思います。では、場所的な意味が強くなるとなぜ定冠詞がつきやすいかということを考察しなければなりません。  部位の場合は、身体を構成する場所として数が固定されたものになっています。cornerの場合もof以下の名詞に応じて数が決まります。通常は4つです。位置も変わることはありません。もちろんデフォルト要素です。  もしかしたら、church, market, hospital, college, universityなどは、人々が普段の生活においてよく出向く場所を構成する要素としてデフォルト的なものだとする(心理的な)暗黙の了解があるのではないかという気がします。 一般に場所を表す名詞が概念的な使われ方をする時、上位概念との関係においてデフォルト要素と認められやすいように思います。 例えば、自然環境という上位概念を構成する要素としてsea, forest, mountains, desert, plains---などはデフォルト要素として認められているのではないかと思います。 私の仮説についてご意見を頂けるとうれしいです。

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    日本人です。英語とドイツ語を学んだことがあります。 ヨーロッパの言語と違って日本語は関係代名詞が存在しませんが、これは日本語だけなのでしょうか? 関係代名詞の存在しない言語は、他にもありそうな気がします。

  • 名詞を一切グループ分けしない言語はあるか?

    新年初めての質問はこちらのカテゴリーに致しました。 趣味的な意図で質問しておりますので肩肘張らずのお答えをお待ちしています。 世界には数多くの言語がありますが、どの言語にもまず必ず名詞という品詞があります。 多くの言語ではその名詞をさらになんらかの方法で分類しているように見受けられます。 たとえば、アフリカの多くの言語では「名詞クラス」により名詞を十数種類に区分していると聞き及んでおります。 またヨーロッパの大部分の言語やアラビア語などでは名詞の性別を文法に取り入れていることは周知のとおり。 こういった名詞の性区分を持たない日本語や中国語、韓国語、ビルマ語などでも、助数詞・量数詞といった概念があります。これも名詞を区分するシステムのひとつといえますよね。さらに日本語では、活動体(と呼んでいいのやら?)に「いる」、不活動体には「ある」というように動詞でもって区分を行います。(韓国語でも同様の区分をすると聞いたことがある気がしますが記憶に定かではありません。) こういったグループ分けが弱いとみられる英語でも(印欧語のくせに名詞の文法的性別はほとんど残ってませんよね)量数詞に似た用語、たとえば「a sheet of paper」の「sheet」や「a loaf of bread」の「loaf」といった語が見られます。また、可算名詞と不可算名詞があったりします(一般の話者がどこまで意識しているかはわかりませんが)。 こういった、名詞をその概念や意味からというよりも、文法も絡めて幾つかのグループに区分するというのは、かなり広くみられる言語文化のように受け止めているのですが、逆にこんな類別をしない言語というのはあるのでしょうか? 自然言語ではまるきり分かりません。ここには述べませんでしたがチュルク語系なんかも気になりますし、シベリアだの中南米先住民族だのオセアニア諸民族だのの言語ではどうなっているのやら。 人工言語(エスペラントやロジバンなど)はグループ分けをしないようにも思えますし、逆にきっちりグループ分けをして語形から意味を容易に図れるようにしていそうにも思えます。 とりあえずウィキペディアは読んでいます。 「類別詞」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%9E%E5%88%A5%E8%A9%9E 「性 (文法)」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7_(%E6%96%87%E6%B3%95) 「Classifier (linguistics)」https://en.wikipedia.org/wiki/Classifier_(linguistics)

  • 前置詞atの働きについて

     atは点を表す、あるいは狭い場所を表すと、学習参考書に書いてありました。例えばat noonは正午という時点で、at the officeは狭い場所を表すのだそうです。  ところが、ではat nightは夜という時点を表すのかという疑問が生じます。それについていろいろ説明がなされています。例えば、夜の間は眠っている時間だからあっという間に過ぎ去るので点と同じだとか。珍説としか思えません。仮に、それが本当の理由だとしても、そのような説明を生徒達にする気にはなりません。説明というものはある程度、理のかなったものであってほしいと思うのです。そこで、私なりにatの働きについて考察して見ました。ご一読の上、間違いや怪しそうなところがあればご指摘下さい。 では分析を始めます。 (1) atび後続する目的語が数えられる名詞で、冠詞やその他の限定詞が付加される場合は時 間や空間において最小限度の伸び広がりしか表現できない、つまり点に近いものになります。  I waited at the station. やThe train arrived at Tokyo. において、実際に問題にされる場所は、それぞれstation内のある場所であったり、Tokyoのどこかの駅のホームだったりします。 I got up at 7 (o'clock). はI got up at the hour of 7. と同じです。瞬間を表します。 My grandfather passed away at 90. はMy grandfather passed away at the age of 90. と同じで す。もちろん、90才の年のある日のある瞬間を表します。 Look at the blackboard. においては、黒板の方に視線を向けよと言ってるわけで、視線の向 かう方向を狭い範囲におさめようという意図があるはずです。  aim at ---も同様です。目標を狭い範囲におさめようとするものだと思われます。 He drove the car at the rate / speed of 60 kilometers per hour. においては、速度を(振れ幅 の小さな)一定のものであることが示されているように見えます。  at some distance / angle ---なども同様。 (2) atび後続する目的語が数えられる・数えられないと関係なく、冠詞やその他の限定詞が続か ない場合は概念または概念に近い働きを行うと考えられます。  この場合は時間や空間の伸び広がりを表現できません。ただし、点に近いものだと言えません。そもそも、概念や概念に酷似した働きを行うものは時間・空間形式において制約を与えられないので、実体として扱われません。実体として見なされないものが文中、あるいは談話中で実際に使われるためには何らかの限定詞が必要だとする観点に立てば、見えない限定詞つまりゼロ冠詞が使われていると考えるしかないと思います(<冠詞がなくても、概念はそのまま文中でフリーパスで使用できる>としても構わないと思いますが、ゼロ冠詞という考え方の方が、概念と冠詞の関係を統一的に説明できるので有益だと思います)。 ---この点に関しても、ご意見を頂ければありがたいです。 at work, at table, at flight --- at workにおいてworkは概念です。ということは、workの持つ働きが表現されているように思えます。また、概念だということは一つ、または一回の出来事と意識されない、つまり状態の表現であるとも考えられます。どちらの解釈でも「仕事中」の意味が出ます。at flight やat tableも同様だと思われます。 at noon やat dawnやat midnightは文法書などではある時点の表現だとされていますが、そうではないと思います。noon やdawnやmidnightは概念なので、時間・空間形式によって具体化される(具体的な時間を持つに至る)ものではないと思います。 noonは点(瞬間)を表すものではなく、太陽の南中を表すものだと思われます。ところが、南中時には時計の時間が12時を指すこともあって、at noon =at '12 o'clockという図式が流布した結果、noonが時刻を表すものと錯覚されるに至ったのではないかと思います(私の仮説です)。  dawnやmidnightはそれぞれ夜明けと真夜中です。時刻を表すことはありません。これらの表現は時間幅を想定しないものなので、点(時間幅が最小)の表現だと誤解されたのではないかと思います。  このように考えると、at nightを点を表すものと考えることが筋違いのものであるように思われます。そもそも問題設定を間違えているという気がします。nightは黒々とした闇の深さを表しているに過ぎないと思います。at nightは「夜の暗い時に」の意味だと思います。 at homeも同様に考えられると思います。非常に狭い場所なのではなく、家庭という親密さを備えた場所を意味するのではないかと思います。 その他、at sea, at liberty, at random ---なども同じように説明可能だと思われます。 (3) 動名詞が続く場合 He's very good at swimming. ここでのswimは原形ですから概念を表します。 原形動詞を活用させることは、その動詞の持つ概念が時間的な制限を与えられて具体化され る(時制を表現する)ということだと思います。  ---ingは名詞につく限定詞のようなものだと思います。---ということは、(1)のヴァリエーションだ と言うことになります。 ここでのswimmingは外延ではあるものの、一般論的な文脈に組み込まれてたために内包に 近い働きをしているように見えます。 swimmingは<泳ぐこと>を一般的に表していると思います。 <総括> 以上の3つのパターンを分析しましたが、その共通点を探ってみました。 冠詞やその他の限定詞(---ingを含む)が続く場合は最小限度の伸び広がりしか表現できない、つまり点に近いものになります。冠詞やその他の限定詞が続かない場合は概念の働きを行うので、そもそも時間や空間の伸び広がりを表現できません。  つまり、双方共に、時間・空間という形式において一定の十分な伸び広がりを表現できないということが共通点かと思います。でも、そもそも位相の異なるものだと思います。 以上ですがいかがでしょうか。

  • 言語/英語

    言語全体の中で 英語は最も支配的な言語だと思うので このカテゴリーで質問させてください 言語の代名詞という感じで 社会学などで使われる概念で「疎外」というのがあるんですが 言語についても「言語の疎外」のようにつかわれています 定義はたぶん 「人が作った言語が 人を離れて  その言語の枠組みに 支配される感覚」 こんな感じだと思います 言語/英語について考えるとき 言語/英語教育について考える場合にも なにかヒントになる概念だと思うのですが 専門家の方や 英語が好きで得意な方は このような「疎外」の感覚について どう思われるでしょうか?

  • 概念が情感を喚起することがあるか

    概念が情感を喚起することがあるかというテーマで質問させて頂きます。 前々回と前回の質問の際に少しだけ話題に出しましたが、ヘレン・ケラーの話を再度取り上げます。たしか、前々回の回答者の方からも話題にして頂きました。その時の回答者の方は、「概念のwaterは心の中に存在するものなのに、どういうわけか文中(談話中)で使われる」という話と関係して紹介なされたように記憶しております。  その時の文を厚かましいのは承知の上で使わせて頂きます。(ご無礼でなければいいのですが)  <ヘレン・ケラーに、初めてwaterと言うときの唇の動きと現物の水との対応を教えようとしたサリバン先生のことが脳裡に浮かんだのです。きっとご存知と思いますが、ヘレンの頭から井戸水をザアザアかけながらサリバン先生がヘレンの手の指を自分の唇に当てて、"Water! Water, water, water! Water, water, waterrr!! ....." と何度も何度も叫ぶのでした。「私の唇の動きを感じて、これがwaterというものであることを知りなさい! そして言ってみなさい! 発音してみなさい!言ってみなさい!!」>---以上引用文 実に感動的な場面でした。映画「奇跡の人」のあの場面をみて感極まらない人はなかなかいないと思います。さて、ヘレン・ケラーがモノにはすべて名前があることを知ったのはwaterのみずみずしさに触れた時でした。Water! Water! と叫んだ時、waterは彼女にとってカテゴリーの名でもあったし、同時に手で触って確認できるみずみずしさや冷たさを感じさせる実体でもあったわけです。 では、なぜ、Water!という言葉が感動を与えたのでしょうか。そもそも言葉に感動を与える働きがあるのでしょうか。確かにあるとしか言えません。もし、あの場面が無声映画で字幕もついていなかったとしたら感動はあったとしてもさほどのものではなかっただろうと思われますから。  感動は、言葉そのものが持つ意味と文脈の相互作用によるものだと思えますが、今回の議論においては、文脈(状況)という要素を極力排除して、言葉そのものが持つ意味だけを問題にすることとします。文脈(状況)という要素については後で(つけたし程度ですが)言及することにします。  ここで、名詞が限定詞を伴う場合とそうでない場合とで感動の仕方(情感の感じ方)に違いがあるのかをwaterを例にとって考察してみたいと思います。 Water is a clear pure liquid. におけるwaterはカテゴリーであって、話者によって客体的(傍観者的に)とらえられるものなので情感を表すことはできません。カテゴリーの機能は整理と秩序づけだと思われますが、こうしたものを志向するときはどうしても客体的な見方が必要とされて、言語主体と対象との間に隔たりが生じます。隔たりのあるところに情感の行き来はありません。  I drank some water. におけるwaterは実体ですが、空間的限定が与えられている(客体化されている)ので言語使用者との間に隔たりを持ちます。隔たりによって情感の行き来は阻まれます。隔たりが消失するか、または隔たりが生じる前の段階でなければ情感が生まれることはないはずです。 Water, water, waterrr!! ....." の場面において、<水>の冷たさやさわやかさをヘレンは実感として感じ取っていますが、同時に、それを観客も実感しています。ヘレンだけでなく、観客も画面を通じて<水>の冷たさやさわやかさを実感しているわけです。  ただし、うれしさや驚きまでといったような情感までも、実体としてのwaterが生じさせることはないと思います。では、そうした情感はどこから生まれるのでしょうか。実体としての<水>には実感を引き出す力はあっても、情感を喚起する力を持っているとは思えません。なぜなら、情感がわくということは言語使用者が自分の心の中の何かと関わるからだとしか考えられませんから。そうした力があるとしたら実体ではなくカテゴリーの方だと思われます。  ということは、カテゴリーに2種類あると考えるしかありません。一つは定義文に見られるような客体的に言い表されたカテゴリー(意味)です。もう一つは言語主体との間に隔たりが存在しない前客体的なカテゴリー(意味)です。前者のカテゴリーの働きはその属性を表わすことだけです。一方、後者のカテゴリーには人間に情感を生じさせる力があると考えるしかありません。 でも、情感を実際に感じ取るためには、I feel fear now. におけるように、概念がカテゴリーでもあるし、同時に実体である(ただし、空間的制約が与えられず、量が明確に意識されない)という状況が必要とされるはずです。  ということは、Water! という実体が冷たさやさわやかさを実感させ、同時にwaterという前客体的なカテゴリーである<水>の意味と相まって、嫌だな、とか驚いたとか気持ちいいとかいった情感的反応が観客の心の中に生じるのではないかと思います。 (文脈・状況的なことには触れないつもりでしたが、少しだけ触れておきます。おそらく、我々観客が映像がかもし出す雰囲気の中に浸り込み、自分が観客であることを忘れてしまう時、前客体的なカテゴリーによって情感が引き起こされるのではないかと思います。)  結局、Waterの持つ前客体的なカテゴリーと<水>という実体とが相補的に影響しあって情感を引き起こすとしか言いようがありません。もちろん、私の仮説にすぎませんが一応の合理的な整合性を持っているように思われます。いかがでしょうか。  では、なぜその時に情感が生まれるのかということですが、情感が発生するのではなく、もともと認知行為の最初の時点において情感が存在していたのではないかと思います。そもそも認知行為の最初の時点において、知覚相だけでなく情感相も働いていたのだと考えるしかなさそうです。前々回の私の投稿でも述べましたが、一般に認知(認識)は知覚作業が主体になりますが、情動・情感の働きを常に伴っています。情感的な認知が必ず行われているはずです。そもそも言葉は心的な経験でもあるので、そうした経験に情動・情感的相がかかわらないわけがありません。知覚的相と情感的相は相互補完的なものであるはずです。 これは、私の仮説ですが、言語主体が何か(例えば水)を認知する時、まず訪れるのはカテゴリーと実体に分化する以前の状態だろうと思います。"Water!" も"Summer (has come)." も"(I feel) fear (now)."も、カテゴリーと実体に分化する以前の状態だと考えれば、言語主体が実感を伴って、場合によっては情感を伴って関わりを持つ、そのような状況だと思います。(その場合、文脈や状況次第で情感の強さが異なるのではないかと思います。) その後、概念がカテゴリーと実体とに分化してゆくと、情感や実感はもっぱら語が持つイメージや文脈などから間接的に与えられるものとなっていったのではないかと思います。 例えば、I feel fear now. においては、おそらく、不安・恐怖は話し手が直接的に感じ取るものだろうという気がします。一方、some fearという語からも実感がわきますが、これはfearという言葉の持つ意味が間接的に生じさせるものだろうと思います。 先ほど述べた仮説の言い方を変えると、時間と空間の制約を受ける実体(someや冠詞などの限定詞がつく)はもっぱら知覚の相において把握されるものであり、時間と空間の制約を受けない実体(someや冠詞などの限定詞がつかない)は前客体的なカテゴリーと共に、情動や情感の相において把握されたものであると言えるのかもしれません。 ここで、概念とまでは言いませんが内包に非常に近い用法の場合を考えてみます。 "(Bring me) jewels(. Be quick.)においては、 jewelsは概念ではありませんが概念に非常に近い働きを行っています。"Water"!やfearと同じように考えてよいのではないかと思います。宝石強盗の持つ切迫感とか、脅迫めいた語調が伝わってくるような気がします。 同様に、Summer has come. やNight is coming on. において、実体としてのsummerやnightは話し手に暑さや暗さを実感させると思いますが、暑さに伴う不快感・開放感や暗さがもたらす不気味さ・不安やロマンチックな感じをもたらすのは、カテゴリーと実体に分化する前段階のsuumerやnightだろうと思います。 以上です。ご意見をお持ちしております。

  • 他のヨーロッパの言語にはあって英語にはないもの

    英語には名詞の性の概念が存在しません。これは、もともと存在しなかったのでしょうか? それとも、昔は存在していたけれどなくなったのでしょうか? 他のヨーロッパの言語の多くは、動詞が人称・時制・法などによって何十種類にも活用しますが、英語の動詞の活用パターンは極端に少ないです。これについても、もともと少なかったのでしょうか? それとも、昔は多かったけれど少なくなったのでしょうか?

  • 現在分詞、過去分詞と関係代名詞の関係は?

    英語 現在分詞、過去分詞が名詞を修飾する働きは関係代名詞自体とはどのように違うのでしょうか。 例えば、(1)The girl standing over there is my friend.は        The girl who is standing over there is my friend. でもいいのか。             (2) The cookies baked by my mom are the best in the world.は         The cookies which are baked by my mom are the best in the world.でもよろしいか。 よろしくお願いします。

  • 固有名詞に対する限定・非限定

    固有名詞に対する限定・非限定というテーマで質問させて頂きます。 例文を挙げておきます。たぶん許容されると思います。 When I saw a poster saying, "Welcome to beautiful Paris", I heard a man close to me screaming, "Beautiful Paris? Damn it. We have had a lot of snow mingled with rain all week. I just see a wet, cold and miserable Paris instead of a beautiful Paris". a wet, cold and miserable Paris instead of a beautiful Parisにおいては形容詞によってParisが種類分けされています。ということはParisは普通名詞として使われていることになります。ところが、"Beautiful Paris?ではParisに不定冠詞がついていないのでそうした種類分けがなされていないと考えるしかありません。ということは、ではその場合のParisは本来の固有名詞として使われていることになります。  では、その場合のbeautifulという性質は、もともとParisが持っているはずだと話し手が考えている内包(特質)の一つであって、ここでは話し手がその特質を焦点化していると考えてよいのでしょうか? 普通名詞の場合は、内包がどういうものであるかは言語共同体による広範な同意が伴うと思いますが、固有名詞の場合は厳密に言うと、ものの数だけ作ることができるので、必ずしもそうした同意がなされるとは限らないと思います。ということは、ある固有名詞の内包の核になる部分は固定したものであっても(例えば、Parisの場合はa city named Paris )、内包の周縁部は話者によって個別かつ主観的にとらえられたものなのではないかと思います。ということは、Parisの内包は話者の数だけ存在するとも言えますが、いかがでしょうか。もしそうであるなら、例えば次のような文が書けると思うのですがいかがでしょうか。 A poster at the entrance of Paris's City Hall: "Welcome to beautiful Paris. May you have a good day today."  Arthur Rimbaud: "Beautiful Paris? No kidding! Don't you see lots of unemployed workers, lots of homeless children and lots of dishonest merchants? Damn it. The poster should say, "Welcome to miserable and hell-like Paris". ネイティブチェックは受けていませんが、たぶん大丈夫だと思います。 あるいは、核になる部分は言語使用者の間でなるべく共通のものであるべきであるけど、内包を構成する周縁部分は個別の色彩を持つものであってもよいのでしょうか。そして、それを言語使用者が自分の都合で焦点化してもいいのでしょうか。

EX-Gの設定
このQ&Aのポイント
  • エレコム株式会社の製品、EX-Gについての設定に関する質問です。
  • 接続が出来ないという問題が発生しており、回答をお願いします。
  • ご利用の端末タイプや製品の詳細な情報をお知らせください。
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