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普通名詞が概念として使われる時、なぜ働きを表すのか
- 普通名詞が概念として使われる場合、働きや役割を表すことがあります。
- 具体的な例として、armが部位を表し、trainが交通手段を表すことがあります。
- 普通名詞が概念として使われる場合、それは他の概念との関係性を持っており、言語使用者が関心や興味に応じて特定の関係性を見る傾向があります。
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概念同士の関係性と定冠詞が使われる根拠についてこれから述べる私の説が正しいかどうかを判定してください。おかしいところがあればご指摘をお願いします。 lionとかtrainとか名づけられた概念は、語彙化されて文中で使われるようになりますが、ある時期から数えられるものには(a lionとかa trainというふうに)不定冠詞がつくようになりました。このことは、a lionとかa trainが一つのまとまりのあるもの(あるいは他の同種のものとの間に境界を持つもの)であることを示します。 逆に言えば、不定冠詞が登場する以前はlionもtrainも一まとまりのものと認知されにくかったことになります。とは言うものの、現実にlionもtrainも一まとまりのものであることは明白ですから、一まとまりのものであるにもかかわらず、まとまり切らないように感じられる何かを持っていたと思われます。おそらく、それは、他のものとのつながり(目に見えないつながり)だろうと思われます。関係性と言えば正確でしょうか。何らかのつながりがあって、それが切り離せないとき、一まとまりのものとみなすことはしにくいはずです。 もっと言えば、いかなる概念であっても必ず他の概念との間に大なり小なりの無数のつながりがあって、関係の網の目のようなものが存在するのではないかと思います。そうした関係のネットワークの中で、言語使用者がその都度の関心・興味に応じて、特定の関係性を一意的・優先的に見てとろうとするのではないかと思います。 例えば、eastと呼ばれる概念があったとして、その概念は他の概念との間に無数の関係のネットワークを持っているはずですが、その中で、言語使用者達が共同で、eastと同類の概念、つまりwest, south, northなどを同類項とみなし、{north, south, east, west}を一つの集合としてとらえ、生活の便宜のために利用したと考えられます。 {north, south, east, west}は概念の枠組みと言ってよいものですが、言語共同体の共有知識になったとき、north, south, east, west は4つしかないデフォルト要素なので、文中で使われるときにはどれにも定冠詞がつきます。あるいは4つの要素の相互の対照性から定冠詞がつくと考えてもいいはずです。デフォルト要素とは何かの構成要素であると人々が共通認識を持つものとしておきます。 このように、枠組みの要素が固定していて、かつ数の少ない場合は考えやすいのですが、そうでない場合はややこしくなります。 例えば、an oil paintingというtopicについてそこから関係性をたぐってみます。関係性は{north, south, east, west}の場合のような類似関係以外に、全体と要素の関係とか、上位カテゴリーと下位カテゴリーの関係とかいろいろ考えられます。 言語使用者の関心がカテゴリーに向かったときはたぶんこうなります。an oil paintingの上位カテゴリーはa paintingです。a paintingを上位カテゴリーとする下位カテゴリーはoil paintingとwatercolor paintingです。この2つはdefault要素なのでtheがつきます。または二項対立的にtheがつきます。このケースは簡明です。 言語使用者がan oil paintingから連想によって関係性をたぐっていった時、例えば[oil paints, palette, canvas, painter, picture dealer, art gallery, an exhibition ---}などが思い浮かびます。これらがdefault要素であるならtheがつきます。でも、これらがdefault要素であるかどうかは言語共同体において、おそらくおおざっぱに判定されているのではないかと思われます。もしかしたら、コーパスを使った研究によってdefaultは否かの判定が厳密になってきているかも知れません。 以上が私の説明ですがいかがでしょうか。
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お礼
再度の回答ありがとうございました。 <フッサール(現象論)やハイデッガー(被投企・世界内存在)でさえ、私の目には、経験論にこだわり、あるいはこれを無視しながら、結局はカントの呪縛から脱却しきれていない面があるように思えてなりません。> -フッサールについて言うと、<カントの呪縛から脱却しきれていない>のではなく、<カントの呪縛から脱却しようとするあまり>存在論的に無理のある方法を採用しました。そのことで、ハイデッガーから痛烈な批判を浴びています。ハイデッガーの場合は、カントの主張するアプリオリが存在論的な基盤を持っていない(客体的な考え方を残しています)ことをつき、世界内存在という基盤でもってカント哲学を基礎づけしようとしました(それはそれでよいと思うのですが、されに根源の時間性でもってさらに根拠づけようとしました。世界内存在だけで根拠として十分なのに、はっきりやりすぎと私には思えるものでした)。ハイデッガーは合理論者というよりむしろ経験論者と言うべきだと思います。世界と自己との関係把握は経験によってなされるわけですから。 <キルケゴールやマルクスは別の問題に心奪われてこれに関知しなかったように見える> とのことですが、私もそう思います。彼らにとって真っ先にやり玉に挙げなければならなかったのはカントではなくへ-ゲルの思想でした。 <不連続な形而下と形而上とを無理につなぐ、あるいは、形而上の概念や術語を何の条件・吟味もなしに形而下に持ち込み(あるいはその逆)、ご都合主義風に利用しているという疑惑を抱いてしまうからかも知れません。> -だからこそ、フッサールもハイデッガーも論を進めるにあたって苦労したわけです。特に、ハイデッガーはそうした批判に対応するために、人間の日常的な生き様を分析の出発点としました。彼の議論はただ一つを除いてすべていわゆる形而下の事柄に属します。人間が現実に経験することについての分析に終始します。ただ、根源の時間についての説明にはそう言い切れない部分があるように思います。 ところで、<不連続な形而下と形而上>という言い方は論理実証主義を始めとする言語哲学や分析哲学から批判的に発せられたものだと思いますが、実際、ドイツ観念論にはそうした批判があたっていると思います。彼らのせいでカントまでもが形而上者であるかのごとく扱われました。カントにしても迷惑だったと思います。先ほども言ったように、主観-客観の対立図式を強めたのは彼らですから。 現象学はそういう見方を排除しようということから始まりました。ただ、初期のフッサールの方法が試行錯誤的なものにすぎず、合理論的な立場と見まがわれるような説を展開したために、合理論側の最後の論客と見られましたが、彼の思惑はそうしたところにはありませんでした。晩年の著作を読めばそのことがわかるはずです。 なお、<不連続な形而下と形而上>についてですが、ある時期から形而上学は侮蔑的な意味合いを込めて使われるようになりました。形而上学という言葉を出しただけで評判を損ねてしまうという風潮になったので、ハイデッガーさえもがある時期からこの言葉を使わなくなりました。 <連続的な形而下と形而上>であれば問題ないわけですね。形而上学に対する哲学界の態度について言うと、以前とは状況が変わってきてます。 論理実証主義が形而上学を批判するきっかけとなったのは、ヘーゲルそのものではなく、イギリスにおけるヘーゲル学派に対する反発からだと聞いています。でも、彼らが形而上学批判の際に掲げた検証原理には大きな問題がありました。それは、「検証可能な命題だけが有意味だ」という原理だったけですが、検証原理そのものが検証可能なものなのかという疑念が表明されました。さらに、検証原理の「厳密な定式化が困難だ」という問題もありました。検証原理は科学理論を含む経験的命題をも排除してしまうものでした。 クワインは人間の知識はネットワークをなしていて、周縁部にそって経験と接しているような集合体だと言っています。ところが、高度な理論的対象は観察による検証が不可能なのにネットワークの中に組み込まれています。彼によれば、神話の神々が検証できないのに知識のネットワークに組み込まれているのと同じことだそうです。 その後、クリプキの登場によって、それまでの既存の概念(アプリオリとアポステリオリ / 分析と総合)の読み替えが行われました。こうした概念にまとわりついていた固定観念が取り払われたわけです。詳述は避けます。 こうして分析哲学内部において(クワインもクリプキも分析哲学者です)形而上学の復興が実現しました。形而上学と形而下学の区別に意味がなくなってしまったわけです。その後、分析形而上学が登場し、さらにメタ形而上学が登場したとのことです。詳述はひかえます。もしかしたら、このようなことはNalayさんもご存じだったかも知れませんが、一応私なりの理解として記しておきました。 <非客体的なものを説明する時でも、それを前提として始めるのは、いわば抽象をもって抽象を説明するようなもので、その全体が空中楼閣になってしまう恐れがあるように思います。経験的具象から始めるなり、少なくとも要所要所で関連づけをしなければ、説得力を持たないのではないかと懸念されます。> -たしかにそうですね。これは肝念論的と言うより、私自身が短気な性質を持っているためという面が大きいと思います。<経験的具象から始めるなり、少なくとも要所要所で関連づける>ことはまさにハイデッガーが「存在と時間」で行ったことですが、今回の私はつい面倒だと思えてしまいました。それに、経験的具象から始めるとき、推論に一切のバイアスがかからないことがありうるかという疑問もあります。でも、少なくとも、私の論を読んで頂く人を当惑させてはならないことに留意すべきでした。以後、気をつけます。 <そこで、本件の問題は、①goes to the churchの通常の意味。→①′普通名詞の質的な意味。→②goes to the churchの意味。→②′go to churchとgoes to the churchの(通常の)意味の確定。→③同一言語共同体で、goes to the churchにおいてgo to churchと同じ意味を検出。→③′その理由の考察・検証。→④go to churchとgoes to the churchをモデルとする普通名詞の抽象化に関するまとめ(ここで始めて「すぱっと一括」)、といった手順で探究を進めるのがより自然だと考えます。> -ありがとうございました。 実は、今回の質問投稿のメインテーマは概念が持つ<働き・機能・役割・場>を<働き>という語に一括することができるかということでした。これは、私自身の指導の簡略化という意味もありますが、実は生徒達にとってもありがたいことなのです。冠詞の習得は生徒達にとって労多くして報われることが少ないものなので、こちらとしては少しでも負担を軽減させたいと考えるわけです。 今回も長文の回答ありがとうございました。次回は連想照応に関してです。よろしければまたご意見をお聞かせ下さい。