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《個人》の概念ないし繭は 物象化の現実に向き合うところから生まれたか

 《個人》というのは 《わたしがわたしである》ときの事態を指してその一人ひとりの存在のことを言うとのみ思っていました。  その後 この個人が《概念》でもあると聞き それは 相対主義と独我論にかかわっているのかなと思いました。つまり   ○ ひとつには 何事をも相対性のもとに捉える見方に立ち   ○ その上で みづからの考えを送信することはおこなうが他者からの意見を受信することはないがしろにするという変形鎖国政策を採る。  ○ ゆえにそこでは 《個人》はあたかもみづからが城壁をめぐらして独りで暮らすかのごとき存在として 君臨している。  ☆ これはなぜか?   いわゆる《物象化》の理論を噛み合わせると 分かりやすいかも知れないとこのたび考えました。こうです。  以前に つぎの問いをしたことがあります。まづそれを掲げます。  ☆☆ 【Q:物象化論の現在は いかに?】 ~~~~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4268347.html  ヰキぺディアで《物象化》を参照したら むつかしいものですね。  まづ 最初の定義として こうあります。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  商品経済においては、  社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、  個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、  労働の社会的性格は商品の交換価値として現われる。  労働と労働の関係が商品と商品の関係として現われる。  この機構をマルクスは物象化と呼んだ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば日本人は 原理原則を信用せず杓子定規では動かないので 資本の論理というようなものについても 物神としてのごとく崇拝するものではないと思っておりました。  人間相互の関係は 《社会的分業に基づく》かぎり 《私的な商品交換を通して取り結ばれる》という情況に入るけれども それでもそれは 社会生活全体のそれぞれの一面なのであって とうぜん互いに結ばれていると思っていました。  ぎゃくに言えば 物象化という現象に対して人びとは もっといい加減である。あるいは そのような資本の論理には いやいやながら 従っているだけであり 回り回ってその《労働が社会的なもの》でもあることを思っている側面を持つだろうと。  現在の情況として《物象化》は 果たしてどうなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 結論としてですが  ○ 《個人という概念》をあたかも繭のごとくひとがかぶるのは 現実の物象化に対する防御であって その意味では 繭というより楯であるかもしれない。  ☆ 批判しつつさらに解明をしてください。

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  • old_sho
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回答No.30

閉じられる前に、bragelonneさん的課題に、一寸だけ掠る為に、少し復習を書いてみます。 No.24の最後の bragelonne>乱暴に言ってしまえば の内の半分については、同意したいと思うのですが、そこまで行き着くのが大変、と言うか、無理です。 政治ー経済関係を簡単に云ってみますと、経済学の成立史を見ても明らかのように、歴史上純粋経済過程というものは、経済学者の頭の中にしか存在しなかった。或る時期、政治からの干渉が少なければ少ないほどうまくいくのだ、と言う「経済理論」がもてはやされたました。ところがそれでさえ実は、或る階級・或る一味にとって有利になるものとして、持ち上げられたのでしたね。数々の失敗を糧に、政治が、漸く暴れ馬=経済を乗りこなすようになった、と思うと、すぐ足をすくわれる。経済とは、ミクロに見てそうであるのと同じく、マクロ的に見ても、「人間的な、あまりに人間的な」事象なのですね。 この間に、物象化論を挟んで無理に云うなら、 bragelonne>そこで働かせた人間の意志も じつは 物象化に沿った内容でしかなかった。 となってしまいます。 廣松渉的物象化論の見解では、本人にとって自由意志と思っていても、実は物象化した一連の過程に在るものであったりするのです。 では、その廣松渉的物象化論は「決定論」なのか? 勿論、そうではないのですね。そんな話は無駄話であって、ある段階まで掘り下げられた時、そこからの捉え返しとして、物象と化していると見える、と云っているのです。本人にとっては自由意志、他人から見ればロボット、という見解ではないのですね。本人が掘り下げることによっても、自分の行為は自由意志だと思っていたのに、そうとは云えないな、と捉え返すことができる。単に見方を変えるではなく、或る地点までの下降が必要なのですね。そこが「疎外論」と決定的に異なる点ではないかと思うのです。「疎外論」は上からの目線で、他人をロボットだと見る、そのように思うのですが。 では、そんな地点が必ず在ると云えるのか、という問いが生まれるかもしれません。それは問いが間違っていると思うのです。或る過程が、物象的連鎖に見得る、と主張するだけであって、すべての過程がそうであると言った主張ではない。 と言うことで、 bragelonne>物象化の作用に対して …ただの反作用としてだけではなく 云々を、一般的に論ずるとすると、ホリエモンの例で少し触れましたように、上向に転じる得る地点に立った時、何等かの見通しが立つかもしれない、と言えるだけではないか?  我々の目前に与えられた過程を捉え返した所にしか、答えはない。 ??単純すぎる復習で、自分でも苦笑い、という所です。社会科学系の論者が登場するまでのつなぎにもならないでしょう。羞ずかしい次第ですが、悪しからず。

bragelonne
質問者

補足

 old_sho さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  少しわたしなりに分かったように感じています。  ★ では、その廣松渉的物象化論は「決定論」なのか? 勿論、そうではないのですね。  ☆ ここですね。強引に解釈するなら こうです。つまり  ○ われわれはまさにいま――政治革命を経ての・つまりはコミュニスト政党の一党独裁による経済体制を無用とするなら どうしても資本主義の行きつくところまでこの経済制度におつき合いして行かねばならないだろうとき そのいま―― 物象化の現象から自由ではない。その影響をまぬかれることはない。しかも  ○ しかも そのことを見守ることに注意を怠らないし できることは――この現象の思うつぼのことであるとしても 考えられる妥当性を持った対策で出来ることは――おこなっていく。  ○ たぶんこのときわれわれは 物象化がわれわれの心を占領しているようであるが 逆の見方もできるのではないか。わづかに見方をするというだけに過ぎないが それは   ○ それは この物象化の進む姿をわれわれの心の中におさめていてやっているということだ。――さあ 物象化よ 気の済むまで暴れてみよ われわれはどこまでもついて行ってやる。おまえが終焉を迎えるときまで見届けてやろう。  ○ それと どうもこのわれわれの心は 繭や楯というものを欲したり作ったりするのでもなくて そうではなく 物象化なるお客さんに対して 或る種の仕方で歓迎し 心の縁側にまでは上げてもてなしている。のではないか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そんな話(=決定論)は無駄話であって、ある段階まで掘り下げられた時、そこからの捉え返しとして、物象と化していると見える、と云っているのです。本人にとっては自由意志、他人から見ればロボット、という見解ではないのですね。本人が掘り下げることによっても、自分の行為は自由意志だと思っていたのに、そうとは云えないな、と捉え返すことができる。単に見方を変えるではなく、或る地点までの下降が必要なのですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの見立ては 下降も上向の旅も明らかにしていませんが 案外 同じ軌道を進んでいるかに思われます。  どうも能天気の頭は 何事も楽しむに限ると思いこんでいるようです。  物象化の真っただ中できちんと認識するために下降するということが重要であるようなのですが 今回はど素人のよさをむしろ主張するかのように 現実から逃げない ただこれだけであたかも足元直下の問題点を掘り下げそこへ下降していったかのような効果があるかに思えて来ました。どうなんですかねぇ。

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  • ri_rong
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回答No.33

 お礼をありがとうございます。 > ☆ これは たとえばヨハネによる福音書の初めの言葉を掲げれば疑問は解消すると思いますが。  そう来るだろうことは予想していました。アベラールの『スンミ・ボニ神学』です。  まさにどんぴしゃり、同じ論理で「無から」を説明します。ご存知のようにアベラールは唯名論の創始者で、光が先か、言葉が先かというその後の歴史を彩る人物ですが、まさかブラジュロンヌさんご自身の口から、ソシュールと同じお話が聞けるとは思いもよらなかった。それが何よりとても、うれしいです。 > ロマン主義の話とは筋として別ですが ドイツの自然哲学や自我哲学は どうも世界霊魂説の直系なのでしょうか?  どうでしょう。個人的な感想にしかなりませんが、アベラールのお説を見ても明らかなように『ティマイオス』をモデルにして、中世には教義の検証が徹底的になされるんですね。そのなかで神と霊魂の関係は、いよいよ複雑になってくる。原典はすごくシンプルなんですが、宗教戦争とかがあって、ドイツにイタリアのルネサンスが伝えられたのはずっと後のことでした。  フランスのロマン主義がドイツで熟成されて深まりをみせたのは、それが理由なんじゃないかと思います。  原罪についてのお話には逐一頷くのですが、ともかく、 >勝ったと言える  とおっしゃるところが、何より良かった。  けっこうな応答にはなりましたが、僕としては必要だろうと思われる情報を回答に織り込めたと思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ri_rong さん ご回答をありがとうございます。  うーむ。  ☆☆ 当確  ☆ は あとでひっくり返ることがありますからね。それに ほかのみなさんも 見守っておられたかも知れません。でも  ★ とても、うれしいです。 / 何より良かった。  ☆ と言っていただいたのなら 素直にひとまづありがたくすべてをお受けいたしましょうか。それに むろん何ごとも動態過程ですから おしまいというのは常にその都度の問題でしょうから。  ★ 『ティマイオス』  ☆ 関係は 追って確認することにします。  ★ アベラールの『スンミ・ボニ神学』  ☆ ですか。そういう名称で聞いたことはなかったですね。エロイーズとの書簡を読んだとき 神学についての文章が 意外と(?)しっかりしていると感じました。  ★ ソシュールと同じお話  ☆ だという意識も自覚も これは ないです。  思えばわたしは アウグスティヌスに出会って 自分のそれまでの行き方が間違っていなかったと――まぁ これだけを言うのは 不遜ですが――感得して もう思想とか研究とかからは身を退く考えでいました。それでは仕事に専念しようと。  ところが ほかのクリスチアニスムの文献をちらっと読んだり そしてその前からはおもに社会思想の本を読んでいたのですが これらにあらためて目を遣ると なんとなんと よく分かる。理解がどんどん進んでいく。これは何としたことか。  ということで アウグスティヌスはどうも普遍性があるようだ。これは放って置かれない。と思ったという経緯で歩んで来ただけというのが 実際です。無手勝流ですね。  これからもご教授のほどをよろしくお願いいたします。

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.32

> ○ 原罪は 基本的に《自由意志なる心に逆らって判断し行動するときの〈うそ偽り〉》である。  じっと考えていましたが、そうでもあるようだし、そう言い切って良いのかなとも思う――ふつう、欲望のことですよね?――ですが、どうでしょうね。意思からみれば、思うとおりにならないわけだから〈うそ偽り〉になるのか。  けれど、個人という認識が立ってはじめて〈うそ偽り〉と呼べるでしょうね。動物的な生を考えたとき、欲望なくして生存なしですから。そういう意味で、僕は個人と原罪はセットだろうと思っています。というのも、教化の過程で彼らが牧場に柵を拵えるのは、個人という枠組みではなく、教徒という全体化が必要だからじゃないでしょうか。 > 《無から有をつくった》ことを《創造した》と表現するのではないでしょうか?  だとすれば簡単だと思うんですが、表現する主体がわからない訳です。ですから、おのずと「誰か」がなさってきた――という歴史があるんだと思いますね。僕の知る限り、書物の上では一度たりとも「つくった」とは語られない。常にcreativeです。  神は、何も作ってなどいない。  ブラフマン (Brahman) とアートマン(我)が同じというのは、面白いですね。  ジュリアン・ジェインズの二分心みたいです。いずれにせよ、 > 論証せよと言っても出来ないこと  が、もしも成されたのだとしたら、恐らくその論証は間違っているでしょう。  

bragelonne
質問者

お礼

 (2) ということは 実際には論証の以前に・またそもそも絶対を想定するという作業の以前に こころの伸びとしての非思考(信仰)は人間に起きています。  (3) この信仰=非思考なる心の窓(明け)が つまらないことだと見られたり言われたりしても それに対して感性や理性によって反論したりあるいは全体として自己の姿勢を論証したりするのではなく 必ずしもそうではなく きみたちはすでに初めに釣り上げられており掬われているのだよという言葉を伝え遺した人間が ひとりいたという問題が 問題です。  (4) 世界霊魂についての知性的・理性的あるいは感性的な理解や知覚によるのではないよというところが イエス問題なのです。  (5) イエスの前には そのイエスが現われていなかったという点でプラトンやソクラテスと同じ情況なのですが アブラハムやモーセや あるいはダヰ゛デやエレミヤらは イエスの出現を待っていたのです。  (6) ▲ (ヨハネ福音1:14) ~~~~~~~~~~~~~  言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) この人間と神との仲保者を おとぎ話のごとく物語に含むか含まないかで 世界霊魂説とは違って来ています。ただそれだけなのです。  (8) これだけのことで なぜ勝ったと言えるのか。そのほうが楽しいからです。非思考のほうが 人びとにとって普遍的だからです。ちからが湧いて来るからです。おそれがなくなるからです。――ただし わづかに 非思考ですからその関係の相手の神にとってふさわしい存在でわたしはいられるかどうか まことに覚束ない というおそれがつねにあります。  (9) 非思考としての愛――心の明け――があるところには おそれはありません。しかも 愛のあるところには きよらかなおそれがあります。つねにあります。でもそれは すでに釣りあげられ掬われているゆえに――つまり 能天気であるゆえに――です。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん 勝った勝った――Veni, vidi, vici. ―― 当確宣言ですよ。ご回答をありがとうございます。  ★☆ 無から有をつくる  ☆ これは たとえばヨハネによる福音書の初めの言葉を掲げれば疑問は解消すると思いますが。  ▲ (ヨハネ福音1:1-3) ~~~~~~~~~~~~~~~~  1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。  2 この言は、初めに神と共にあった。  3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 1:1~2は 《初めに》と表現していますが 要するに時空間を超えたところです。《絶対》の領域です。《父と子との一体》を言っています。  1:3で 時空間が《成った》と言います。《無から有》ですね。創造と言っても つくると言っても同じだと思います。  ★ ジュリアン・ジェインズの二分心  ☆ これは ヰキぺで見る限り 筋がちがうと思います。意識・したがって言葉を持つ前の段階においてひとが脳裡に捉えている神の声とそして人の声とであるようですが それらは 言葉を持ってからはほとんど消えたというのですから 梵我一如とは別だろうと思います。  ◆ (ヰキぺ:ブラフマン) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3  ブラフマンは宇宙の源である。神聖な知性として見なされ、個々人の魂(* アートマン=我)を含む全ての存在に浸透している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように 時代が限定されるのではなく そうではなく普遍的な《世界霊魂と個々の魂との関係》を言っているようです。   ロマン主義の話とは筋として別ですが ドイツの自然哲学や自我哲学は どうも世界霊魂説の直系なのでしょうか? (こういう確認は 例によって すべて丸投げです)。  ▼ (松山寿一:ドイツ自然哲学) ~~~~~~~~~~~~~  シェリング〔で〕は・・・無機的自然と有機的自然とを統合する《共通の原理》が一つの理念に求められる。・・・それは《世界霊魂 Weltseele 》の理念であり・・・それによれば 神は自身(範型)に似せて世界をみづからの似像(秩序・理性ある最善・最美のもの)として構築したが 《理性を魂の内に 魂を身体の内に結びつけて万有・宇宙を組み立てた》。  (『哲学の歴史・7』VIII)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 話題は飛んで 原罪関連です。  ■ (ヰキぺ:シェリング) ~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0#.E4.B8.AD.E3.83.BB.E5.BE.8C.E6.9C.9F.EF.BC.881809.E5.B9.B4-.EF.BC.89  シェリングはこの著作(『人間的自由の本質』)で人間的自由の根拠を問い、  (α) 悪への積極的な可能性 を人間のうちにみる。シェリングによれば、  (β) 人間は悪を行う自由をもっている、 それが人間的自由の本質であり、もって人間をすべての存在者の頂点においている。これはキリスト教また西洋思想における  (γ) 「悪をしない自由」としての自由把握 とは正反対にある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの理解では――それを最初に掲げる鉄面皮をあいにく持ち合わせています――  (δ) へそ曲がり――なぜならそのときわたしは やましさを感じる――を思惟し判断しおこなう自由をも含む・良心と意志の自由が そなわっている自然本性を宿した存在 これが人間である。  ☆ となります。そこに《原罪》を見るのは 特殊クリスチアニスムの問題です。すでに解決しましたし 解決した段階に立てば もともと何もなかったとなります。  さて核心に迫っていただきましたし 迫っていきます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いずれにせよ、    > 論証せよと言っても出来ないこと  が、もしも成されたのだとしたら、恐らくその論証は間違っているでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (1) そもそもこの《論証》は 初めから仮りの想定にもとづく議論ですからたとえ《論証し得ても どうってことない》問題です。物語が面白くなる程度です。

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.31

 なかなか納得が頂けないようですね。では、三位一体について。 >プラトン説に原罪にあたるものはないですか?  三位一体説は、カルキディウスが書いているようにそもそもはピタゴラスの教えです。  キリスト教ではなく、たしかに途中、オリゲネスらが聖書との融合を図ろうとしましたが、『ティマイオス』に三位一体の原型を見ようとする教義に対しては、シャルトル学派が批判しました。  なぜ、批判するか。リールのアラヌスは三位一体について、「正しくもヘルメスは、誤って神々(複数形)というふうに分けて呼ばなかった。つまり、父は無から、父から御子が、両者から聖霊が生まれたと言おう(tres deos profitemur eternos, primus a nullo, secundus a primo, tertius ab utroque ; cuius verba retractans Augustinus in libro Contra V hereses ait : o quam eleganter Hermes Mercurius de Trinitate esset locutus, nisi incircumciso lapsu sermonis diceret)」と書いていますが、かなり長い間、この説の拠り所がアウグスティヌスの『五異端論駁』にあると考えられていたからです。  「父は無から(primus a nullo)」というこの一節が、すべての混乱の始まりでしょう。キリストが御子になったのは、それからだと思います。ご存知のように『ティマイオス』はデミウルゴスの創造の物語です。プラトンの世界観では、神と霊は同じではない――そして、これが教父の教えでした。  世界は無から生まれたのではなく、創造されたのです。  人間の生み出した原罪など、世界の成り立ちに比べれば極めて小さなものです。そして霊は、ひとつです。だから、聖霊のささやきに耳を傾けよ――という感じでしょうか。  ブラジュロンヌさんの場合、この「無から」という声が無邪気にこころを傷つけるのでしょう。僕には原罪などありはしません。原罪は、「ちゃらになった」と敢えて口になさる方のこころに、あるのではないでしょうか。その原罪(思いこみでしょう?)こそが、物象化を生み出している。  ルビコンなんて、実際の川は小さなどぶ川のようなものですよ?

bragelonne
質問者

お礼

 で ここまでの内容が プラトンやピタゴラスにあるとすれば  それならアウグスティヌスは そこから借りて来て理論を立てたことになります。あるいはつまり 聖書にこの《三位一体》の要素は表現されていますから その表現をプラトンらから借りて来たということです。  しかもそのように仮りに理論のぜんぶを奪って来たとした場合 それでも 問題はここからです。  第二次からさらに虚構が 聖書記者の手にかかれば ひろがりました。イエスの弟子たちの伝えるキリスト・イエス論です。  キリストなる子なる神が――ということは 父なる神がと言っても聖霊なる神がと言っても あるいは 三位一体なる全体の神がと言っても同じことですが(なぜなら それが 《絶対=無限》ということです)―― 地上の人間イエスと 一体となったという特殊神学が控えています。  どういうふうに対話の中で話し合われていくのか よく分かりませんが――つまり これを論証せよと言っても出来ないことは分かっています―― 或る程度は経験事実にからめて話をすすめていけるのかも知れません。あたかも三権分立(=協働)という経験事象にあてはめて説明することもしましたが どういう展開になるのかはまだ分かりません。  それは――つまり非思考の領域は―― 賭けのようなもので その限りでは  ★ 小さなどぶ川のようなルビコン  ☆ でもおのれの人格の全体で判断し あとはえいやっとでも決めることなのでしょう。つまり 否定するばあい(=無神論という非思考)でも そういう賭けの要素を持った行為なのだと考えます。どうでしょう。  或る程度の合意事項にはたどりつけるかも知れません。その可能性や必要性が消えたときに 議論はとまるでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 ★ なかなか納得が頂けないようですね。  ☆ いえいえ。そうではなくて  ★ では、三位一体について。  ☆ は 今回が初出帆ですよ。  ご回答をありがとうございます。  ここまでの到達点は あたかも次のような《世界霊魂》観をめぐって 《造物主》が第二第三のない第一位に来るという説です。  ▲ (ヰキぺ:ブラフマン) ~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3  ブラフマン (Brahman) は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。自己の中心であるアートマン(我)は、ブラフマン(梵)と同一(等価)であるとされる(梵我一如)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○(α) 《絶対・無限》として想定される唯一のもしくは全体としての一である《真理》であるなら それは 普遍的な神である。  ☆ これが 合意事項です。  ☆★ 原罪  ☆ のほうから行きます。  ○ 原罪は 基本的に《自由意志なる心に逆らって判断し行動するときの〈うそ偽り〉》である。  ○ ただし この《うそ偽り》もしくは《へそ曲がり》が 人間の能力と努力によっては償い得ない罪つまり原罪だと見るのは 特殊にクリスチアニスムの問題です。  ○ 同じくただし 個人にとっての信仰としてのクリスチアニスムでは イエスの出現によって贖われたし その歴史事件にもとづけば じんるいの有史以来 初めから無かったことになる。  ○ 集団として宗教となったその教義において この原罪がどう扱われているかは知らない。知らないというのは どうでもよいという意味である。  ☆ ちなみに 《うそ偽り》は 原罪と言おうが言うまいが 誰ひとりとしてまぬかれていないへそ曲がりの心ではないでしょうか。  ★☆ ピタゴラスの三位一体説も『ティマイオス』のそれも  ☆ わたしは知りませんが (α)の基本理論にもとづくなら 同じ神学もしくは信仰類型でしょう。  ところで この(α)の神学は そもそも虚構です。知り得ないもの(知り得るかどうか分からないもの)の想定に始まっていますから。  (α)第一の想定:経験世界を超えたところを 《絶対》と想定する。  第二の物語(虚構):《絶対》を《絶対者》というふうに擬人化して表現する。あるいは《神》とよぶ。  第二の虚構に付随する物語: 絶対者を 相対的・経験的な世界の創造者ないし造物主と表現する。  ☆ このとき 基本は《創造主が 無から有をつくった》という物語だと思います。  ★ 「父は無から(primus a nullo)」〔・・・生まれた〕  ☆ というのは まちがいだと思います。つまりそういう説があったかどうかではなく 《絶対者》の物語としてはあり得ないはずです。《ブラフマン》でもそういう見解はないのではないでしょうか? 《〈絶対〉に初めや終わりがある》ということは。  ですから 《三位一体論》の歴史およびその研究史について触れておられますが――そしてそのこと自体は それとして欠かせないものですが―― いまここでは 三位一体の中身がどういうものであるか その妥当性を競うのが課題です。  ★ アウグスティヌスの『五異端論駁』  ☆ についても知らないので あくまで理論の中身を問うていきます。(ペラギウス派等々への駁論じたいは読んでいます)。  その観点から見て わたしにはいくつかの主題や論点が まだまとまったかたちでは説明されていないように感じます。今回はそのことについて触れるにとどまります。  ★ 世界は無から生まれたのではなく、創造されたのです。  ☆ これは――と言いますか いまからの議論はすべて 想定の上に立った第二次以降の物語について思考を与えるわけですから―― どこまで解明に到るか分かりませんが 《無から有をつくった》ことを《創造した》と表現するのではないでしょうか?  ★ 「父は無から(primus a nullo)」というこの一節が、すべての混乱の始まりでしょう。キリストが御子になったのは、それからだと思います。  ☆ 第二次の虚構の上でですが 《絶対者=造物主=真理=神》には時間はありません。超えています。したがって時間に介入し得ます。  この神が 三つの位格(ペルソナ)から成るというのが三位一体です。子の父と 父の子と 両者から発出する聖霊とです。  子をキリストとも呼ぶのであり このキリストが 何かの後とか前とかいうことはあり得ません。  あるいは父から子が生まれたと表現したとしても そのときに時間が流れるということは想定していません。ただ人間の言葉で言い表わそうとすれば そのように時間的な行為を表わす意味内容がついて回るのです。

回答No.29

No.25です。。 bragelonne様、Bの記述で、一カ所誤っておりました。 まさに、突っ込まれたところです。 >>>  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   B.一方で、「(指し示す先に何もないかも知れない)想い」は、人が把握しうる外部と繋がっているために、もはや人の(狭義の)心(知情意)にて捉えることは不可能な(広義の)心として広く広がっているのかも知れない。  そういった場合に、「概念は抱くもの」という表現を使ったとしても、「想いの方向性」はなんら縛られるものではないと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ <<< これは、 ===   B.一方で、「(指し示す先に何もないかも知れない)想い」が、人の把握しえない外部と繋がっているために、もはや人の(狭義の)心(知情意)にて捉えることは不可能な(広義の)心として広く広がっているのかも知れない。  そういった場合に、「概念は抱くもの」という表現を使ったとしても、「想いの方向性」はなんら縛られるものではないと思います。 === です。 私の言わんとしているBは、まさに No.26での、ri_rong様にて、ご指摘いただいている >>>  (あ)自己を認識する  (い)他者を認識する、それゆえその否定形として自己を規定する  (う)自他を認識する&しない(もとはひとつ) <<< の(う)に該当します。 霧や雲の蒸気が集まり、水滴として滴下し 水面と一体化する、まさにその瞬間 水滴は無限と永遠との狭間を垣間見る(感じる)ことでしょう その間隙が知的・幻想的に永遠に分割可能だとしても、一瞬で飛び越えることのできる間隙。。。 水滴が水面と一体化して、拡散していく。。。 境界が失われると同時に広がっていく波紋。。。 岸辺にて反転し、他の波紋と交錯しあうかも知れない波紋。。。 乾いた砂の上に滴下した瞬間には、一瞬にして砂にしみ込み、蒸発するかも知れないけれど、一滴の水滴は、砂の動きを変えるかも知れない。。。 そのような空想を抱く私も、いつの日にか土に帰る日が来る。。。 人が人智で「捉えることのできる」のは、まさに《経験世界》です。 でも、人智で「想像できる」のは《経験世界》を越えています。 しかしながら所詮人智を越えることはできません。 ※この点にて、bragelonne様と解釈が異なっていたようです。以下、私の用いる《経験世界》を《経験世界j》とします。 《経験世界j》を「誰とでも共有可能な世界」とするならば、《空想・想像の世界》は、個人ごとに異なる世界になるでしょう。しかしながら、人間である限り、(たとえ、受け入れることができなくても)理解・解釈可能な世界になるでしょう。 私の言うところの「狭義の心」は「知」に縛られています。 「心」が生まれるところが「どこか」は不問に付すとしても、その「どこか」は、脳の発生・発達・疾患・老化・死と切り離して考えることは不可能です。 そうしてそういった変化は、脳のみで生じるものではない。周囲との相互作用で生み出されるものでしょう。。。 脳・身体・環境。。。これらは《経験世界j》「内部」として記述可能だとしても、脳・心が、知的・幻想的・交換可能な概念として想定可能な《無限》に属するような概念は、「外部」という概念を容易に生み出し得ます。 (ある・ないは別としての)《経験世界j》「外部」は、可能無限と実無限とが峻別可能な概念として理解可能であるなら、《経験世界j》とは知的に峻別可能であることは、自明なことです。 しかしながら、(広義の)「心」は、少なくとも知的世界を「含む」ゆえ、《経験世界j》の「外部」を(幻想的にでも、知的に)含んでしまいます。 まったく異なる道筋で(広義の)「心」は、たやすく《経験世界j》を越えるようなそぶりをします。通わせあおうとする「心」、通じ合おうとする「心」、思いやろうとする「心」。。。いわゆる「情動」は、知的に限定されうる《経験世界j》の壁をすり抜けて広がろうとするでしょう。 さらに、死は、脳の機能停止に伴う「心」の停止を意味するかも知れませんが、水滴が水面(水全体)と一体化して拡散する瞬間に、波紋が広がるように、「心」はもと来たところ(脳・身体・環境を含む「全体」)に帰ると考えることもできます。 これら、知的・情的、さらには意などのその他の心の(あらゆる)働きを含めた心の在りようは、時空の流れ・変化とともに、《経験世界j》内部にとどまったり、(想像しうる)「外部」へと進展しようとしたりすることでしょう。。。 《経験世界》を人の思索しうる限界とみなすならば、「無限」概念を(トップダウン的に)扱いうる数学も、《経験世界》内部に入らざるを得なくなるでしょう。 そうではなく《経験世界j》を、その一歩手前、すなわち皆と共有可能かつ、複数の解釈があったとしても、単一の事物(全体)を見ているとすれば、相互に了解可能な世界に限定するならば、その一歩外側に、個人個人の想いによって描かれうる「空想・想像・理想」の世界は広がりうることでしょう。 それらは、「形而上学的な」概念として「場合によって」共有可能かも知れないけれど、「共有可能だからある」といえないことは、当然のことでしょう。 それらの「外側」に何かあるならば、それは「その内部」と共に「全体」として「心」に影響を及ぼしていることは明らかであり、「外部・内部」は(広義の)「心」によって繋がっているともいえます。 逆に、それらの「外部」に何もないならば、あるいは、在ったとしても内部となんの関わりも持たずに分離・独立しているならば、(広義の)「心」にとっても繋がり合うことはないでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 じねんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ですが おっしゃっていることがわかりまへん。  むろん分かりますが この場合は 今回の論述についてわたしは嫌うという意味です。あたらしくなっていますが 必要でない箇所を詳しく述べただけです。  次のわたしの考えについて徹底的に突っ込んでください。それが 今回のご回答に対するお応えになると思います。  ☆☆《信仰類型論》→【Q:現代日本に必要な哲学は?】そのNo.9    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html  * せっかくの文学も このいまの議論にとってははたらいていません。それもわかると思います。  * あまりにも不親切だと思われることが ほかのみなさんにおいて生じることはわたしの不本意ですので 一点おぎないます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) 人が人智で「捉えることのできる」のは、まさに《経験世界》です。  (β) でも、人智で「想像できる」のは《経験世界》を越えています。  (γ) しかしながら所詮人智を越えることはできません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (α)は それとして そのとおりだと考えます。  (β)は 微妙です。きちんと腑分けしないとどの内蔵に患部があるのか分からなくなります。  《想像できる》というのは 《表象する・しうる》と言うと一般的になると思います。あるいは 《思考》と言うともっと分かりやすいのではないでしょうか。けっきょく《経験思考》が《経験世界》とそのまま対応するかたちですから。  第一次の理解としては 《経験世界を超えたところ》についても人は《想像できる・表象しうる》というのは 《想像を絶する領域が そう言えば想定できるようだ》ということが想像できるのです。そしてこの第一次の理解に 哲学としては 基本の意味を付与せねばなりません。どこまで行っても 外すことはできないという意味です。  では第二次の理解とは何か? 《想像を絶する世界について 勝手気ままに想像してみようと言って想像する》場合です。  第二次の理解は すべて経験世界に属します。  第一次の理解は 《想定すること》が経験行為であり その対象(つまりは想像し得ぬゆえ 非対象)は《経験世界を超えたところ》です。  この非対象を 想定のかぎりで わざわざ人間の言葉で仮りに言ってみようというのが 《無限》であり《絶対》です。  経験世界における《無限》――つまり可能無限――は 《限りなくどこまでも続く》の意味です。n+1 であれば その 1 が表象可能です。そのまた +1 としても同じです。  超経験世界における《無限》は 限りがあるか無いかは分からないのです。あるいは分かるかも知れないのです。そこまでは想定の限りで 分かっています。  もっとこの《想定》について思考をめぐらせば( * ) ほんとうの《無限》は 経験世界を超えていると言うのだけれど じつは このわれわれの世界を覆っているかも知れない。あるいはわれわれの身近にその無限の世界のちからがはたらいているかも知れない。あるいは その力が霊となって イエホシュアとか言う人に宿ったかも知れない。・・・そしてすべては そうでないかも知れない。  (γ)は 意味がはっきりしません。  いま述べたように 超経験の領域については 想定することが出来るだけであって 《人智》はそこまでだという意味でしょうか? でも第二次の理解を人間は敢然と厚顔無恥にも自由におこなっていますよ。  ( * )の註です:この思考は 一般に第二次の理解に属します。ただし ひょっとすると第一次の理解にかろうじて入る場合があるかも知れない。そしてその真偽は 一人ひとりの主観内面の〔良心・信教の自由の〕問題に行き着きます。そしてそれが表現された限りでその内容について哲学が妥当性を吟味します。文学はこのことにおかまいなしにその表現の翼をひろげて突っ走ります。いまは哲学の問題です。 

  • ri_rong
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回答No.28

 まさに重大なお話でした。お礼をありがとうございます。  >(アウグスティヌス:神の国4巻31章) なぜなら真の神は魂ではなくて魂(宇宙霊魂)の創造者にして創始者でもあるから  『エンネアデス』の文脈からして、教父が仰っているのは、デミウルゴスというふうに『ティマイオス』に出てくる「名指しできない」存在のことだと思います。ヴァロの説は先に書いたキュモンの本に出てきますが、まさに引用いただいた如くに、教父は霊魂の神格化を否定します。けれども、世界霊魂の存在は否定しません。それよりもむしろ、「真の神」って、何なのか? だから、教父もご存知の――というふうに書いたのです。  ここで明らかにされる教父にとっての「真の神」――それがつまり、デミウルゴスだとわかる(つまり、キリストではない)。このように、プラトニストとしての教父の位置付けはなされたようです。  ヴァロという人は、キケロの先生、そしてアレクサンドリアのフィロンの弟子ですから、古代の太陽信仰を色濃く残している。太陽信仰は、ダンテ(神曲)の時代からカンパネッラ(太陽の都)まで中世にもう一度復活しますが――古典とは言ってもピラミッドの時代までは遡らないでおきましょう――死んだ後に霊魂は煉獄で浄火されて、完全な姿に返るという神話にひとやくかったわけです。

bragelonne
質問者

補足

 こういう展開になろうとは! ここからは ri_rong さん――ご回答をありがとうございます―― 泣こうと笑おうと天下の《三位一体》の議論に入らざるを得ません。  焦点・鍵語・議論の性格は 次のようです。  ○ 【Q:イエスは 特異点か】  ○ イエスなる人間に キリストなる神〔の子であり神〕が宿った。  ○ イエスは それゆえ十字架上に死を死んだのち 復活したとうわさされた。  ○ そういう意味で キリスト・イエスは 神と人間との仲保者であると言われる。  ○ つまりはすべてが 境地=人間論理の話として語られることになる。  ○ 早い話が おとぎ話であり 虚構であることが前提となる。  ○ このイエスの物語の有無において 世界霊魂〔がもし神の代理語であるとすれば〕なる神学は クリスチアニスムとたもとを分かつと見られます。  まづアウグスティヌスのプラトン観〔の一端〕です。  ▲ (Augustinus:神の国10・2)~~~~~~~~~~~~~~~  プロティノスはプラトンの見解を敷衍しながら しばしばこう強調している。つまり 宇宙の魂と〔プラトン派の場合〕見なされているかの魂は 決してわたしたち各自の魂と別の源泉から至福を得ているのではない。その源泉は その魂とは異なり むしろその創造者である光なのであって  宇宙の魂は その光に知性的に照らされることにより 知性的な光芒を放っている と彼は主張する。さらに彼は 輝きのいちじるしい巨大な天体からの次のような比喩をこれらの非物体的な存在の関係に適用し 神をいわば太陽に 宇宙の魂を月になぞらえている。というのは 月は真上にある太陽から光を注がれていると考えられているからである。  したがって この偉大なプラトンの徒(プロティノス)の主張はこういうことになる。つまり 諸天体に宿り住まうと彼が確信している(これら)不死かつ至福な魂も 理性的魂――それはむしろ知性的魂というほうが妥当なのだが――と類を同じくするのであって その上に位しているのは ただ宇宙を創造し またこの魂自体の創造者でもある神の本性のみである。さらにこれら高次の存在とわたしたちとは 同一の源泉から幸福な生と真理を知解する光とを与えられていることになるのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから あとは ただ一つのことが たもとを分かつといえば そうなります。  ○ あらゆるものの創造者であり自分自身は被造物ではないと想定される神――その実態はいっさい分からない しかもひょっとすると分かるかも知れない その意味で《霊・なぞ》と言います―― これが 地上の人間のひとりに宿ったという虚構です。  ○ イエスは ふつうの人間であると同時に 神でもあった。といういわば神を代理の言葉をとおして経験現実に引き出してくるところの《絶対》の想定の上になお加えられた第二次の想定です。そういううわさが 十字架上の死のあと しきりに現われたというところから来ています。    ☆ ですから プラトン説との違いは ひとと神との仲保者を立てて持っているかどうか。ここにあると考えます。  これによると――つまり仲保者イエスにもとづくと―― たとえばすでに質問を終えていますが 《原罪がちゃらになった》ということです。  プラトン説に原罪にあたるものはないですか? もしなくても この場合の違いは 死後に魂が高次の境地に到るというよりは 現在時における復活を――その実現は将来すべきこととして臨むものではありますが――見ようとしていることです。それを予感すると言われていることです。  或る種の見方で ルビコンを超えなければならないような質疑応答になっているでしょうか。と言っても 経験合理性によってどこまで妥当性が表わされ得るか 未知の領域ですので よく分かりません。ひとまづは おあとがよろしいようで。

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.27

 こんにちは。  しばらく前に別な質問(http://okwave.jp/qa5149369.html)で、実質(substantia)と本質(essentia)について投稿(No.5)しました。ところで、じねんさんとのやり取りのなかで、彼はとても面白い事を書いています。「実無限」と「可能無限」ですけど、例えば、キケロはこんなふうに綴ります。ちょっと引用してみますと、  ――Docet nos substantiam sive essentiam duplicem esse, unam individuam, alteram per corpora dividuam. Et individuam quidem esse eam, cuius generis sunt omnia aeterna et sine corpore, quae intellegibilia dicuntur, dividuam vero, quae corporibus existendi causa est ; unumquodque enim corpus est certe, quod vero est, habet essentiam, et corpora multa sunt, una vero dividua essentia, quae in cunctis corporibus invenitur.  意味としては、実体とはふたつの「本質(essentia)」のことであり、一方は不可分、他方は「体(corpora)」によって分割されるということである。不可分とは、永遠であり、「体(corpora)」の無いもの、不可知なものと謂れる一方、可分とは「体(corpora)」の実在があり、それぞれが「体(corpora)」としてあるのが明らかである。(本質と、体が複数あるということは)、分割される本質はひとつであり、それが複数の「体(corpora)」をとって現れる「本質(essentia)」であるということに他ならない。  うまい訳ではないと思いますが、おおむねこんな感じです。まさか、じねんさんがキケロやカルキディウスを読んで感化されているとは思いませんが、割合、現代にも通じているお説かと思います。ここで言われる「本質(essentia)」は、ギリシャ語のウーシアの事です。当時の連中は、ギリシャ語の概念を何とかラテン化しようとしていたんですね。  ウーシアって何だ? と言われるとき、それは本質(essentia)だとかaeternitas(永遠)だとか、そういう言葉に置き換えられてゆく。(どこぞの質問みたいではありますが)教父の時代は、このようなラテン語概念が曖昧な時期にあたります。世界霊魂も例外ではありません。これが、ご引用された文章の意味するところでしょうね。教父が、世界霊をどう考えていたかというのは、業界的には割にあっさり片付けられた(フランツ・キュモンの「永遠なる光」)ところはあって、近頃になって本当か? という意味で見直しがされているとは思います。割に奥が深い問題だと思いますよ。  ・J. Burke, "Saint Augustine and the Cosmic Soul."(1954)  >(い)の場合は 想像力を逞しくしてそれなりに思惟の翼を自由自在にはばたかせるといった情況(心的現象)でしょうか?   これはひところの構造主義者たちが、好んで用いた用例です。代表的な人物としてはレヴィナスですか。自己の鏡として他者を想定する。物象化という意味では、気体-液体-固体の比喩って、面白いと思うんですが、このような位階といいますか階梯のようなものを説いて、徳を高みにましましょうというのが、ピコの「尊厳」の意味です。  『人間の尊厳について』と言われますが、尊厳とは高徳な個人とか、そういう事ではなく、人間全体が世界のなかでどのような階梯を上る段階にあるかという議論なんですね。  個人の問題は、時代の潮流というものに影響を受けるところはあると思いますが、どの時代でも多かれ少なかれいろんな受け取り方が成されていたと思います。個人的には、先に書いた三態問題の「個人」がその人自身の一生のなかでも年齢やら職業やら、生活によって二転三転するものだと思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 実体 substantia  ☆ は もし《永遠=無限》であって《可分か不可分かわからず 可知か不可知かも分からない》ところの《一》なるものであれば その《一》は 《全体》という意味の一でしょうね。  ★ 本質 essentia  ☆ が 多様なかたちに現われるというのであれば――たぶんそのとき 元の本質をそのままエッセンティアと言い 現われのほうを《現実存在 existentia 》というようになったのだと思いますが―― これはまさに形而上学に属すると考えます。  わたしの考えでは 《現実存在ないし現象》を そこに概念や想像物をも含めて 経験世界のすべてだと定義します。《実体》も概念として自己を主張する限りでは 精神の領域にとどまる経験事象です。したがって この実体という概念を 《絶対》を仮りに表わす用語として用いるなら つまりは神の代理表現になります。  可知か不可知か あるいは 有形(有体)か無形か この区分においては そのいづれも 経験世界に属すと考えます。無形や不可知がそれとして確認されるなら それは 経験思考の世界に属します。  それらいづれの場合も そのどちらかが分からない領域 あるいはつまり分かるか分からないかが分からない場もしくは力 これは 神として想定しうると考えます。   * アウグスティヌスの信仰と思想の骨子は 『三位一体論』一冊にあると考えます。わづかに《恩恵と自由意志との関係》についてさらに明らかにした小論『シンプリキアヌスへ(パウロの恩恵論をおさめる)』を加えれば それらの内容にもとづいて ほかの著作を捉えることができると思っています。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん たいへんなことになって来ました。ご回答をありがとうございます。  どうもわたしからは《覆いかぶせる》議論になる片向きがあっていけません。たぶんそれは 《絶対》の想定を前提として述べているかどうかがはっきりしないとき わたしの中にそのことが――つまりは《無限》論ないし《絶対》観が――反応して出てくるのだと考えます。あしからずお受けとめください。  ★ 世界霊魂  ☆ そのものにつきましては プラトン説を唱えるワ゛ロ( Varro )への批判にこうあります。  ▲ (アウグスティヌス:神の国4巻31章) なぜなら真の神は魂ではなくて魂(宇宙霊魂)の創造者にして創始者でもあるから  ☆ 覆いかぶせ説ですね。  同じくプラトン説を継ぐというポルフュリオス( Porphyrius )の議論に次のように批判をかぶせます。  ▲ (前掲書 vol.10ch.29) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  きみはともかく 知性の力によって神に至ることが少数の者に許されると言っているのだから その限りでは恩恵を否定していないのである。というのも きみの主張は 《少数の者がそれを喜んだ》とか 《少数の者がそれを欲した》とかいうのではなくて 《少数の者にそれが許されている》というのであり このように言う場合 神の恩恵を表明しようとするのであって 決して人間が自分の力で十分なしうると主張するのではないからである。  のみならず きみはプラトンの教え(*)に従い きみ自身またそれを疑わず そうしてこの世に生きる者には死後 すべての欠けたものが補われると考えるのであるから ますますもって明瞭に この恩恵という言葉を用いていることになる。  ああ きみがもし わたしたちの主キリスト・イエスを通して神の恩恵を知ってくれたならば! そしてもし キリストが人間の魂と身体を受け取った受肉〔の出来事〕を 恩恵の最高の証示として知ることができたならば! ・・・   * cf.プラトン『パイドン』66B-67A、キケロ『国家』6・15  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《世界霊魂》が 知性による推論の産物としてのみ持たれるか それとも 《絶対》の想定のもとに――恩恵⇒信仰⇒思考という秩序のもとに――持たれているか。つねに問題がつきまとっています。  もしくはつまり 絶対を無として想定した上で 人間の能力と努力が 世界現象のすべての原因であるとは限らないと明言していればよいと考えます。  このかぶせの理論に関する限りでは 真実であり妥当性を持つと考えます。  ★ 物象化という意味では、気体-液体-固体の比喩って、面白いと思うんですが、このような位階といいますか階梯のようなものを説いて、徳を高みにましましょうというのが、ピコの「尊厳」の意味です。  ☆ 気体・液体の表現に接して 戸惑っていましたが そういう《きざはしの歌》だったのですか。《都詣での歌》ですね。  ただしこれはわたしの中では 社会的な活動としての――政治・経済・文化の運動のようなものとしての――進展・発展を思い描いていたものです。民主主義の進展といった見方にかかわらせたかたちです。  むろん 個々の人間にとって 境地としての自己形成とその過程があります。たぶん非線形と言っても ひとをこのように物質の三態としての喩えにおいては捉えていませんでした。でも 幼虫・さなぎ・成虫といった変態についての議論もいま からんでいますね。  もしこの主題についてやはりべらぼうな命題を述べてもよいとすれば パウロの文章があります。  ◆ わたしのように完全な者になりなさい。  ☆ むろん《わたしがすでに完全であるという意味ではありません》と言っているとおり これは 未完成の状態で すでに完全性(つまり十字架上のわれ)のもとに 言ってみればきざはしの歌をうたいつつあゆむというものです。《終わりから始める》というわけです。  ★ 個人的には、先に書いた三態問題の「個人」がその人自身の一生のなかでも年齢やら職業やら、生活によって二転三転するものだと思っています。  ☆ したがって ただ一度の回転(生から十字架上の死へおよびそこで同時にその死から生へ)のもとに いろんな二転三転があると見る立ち場です。やはり覆いかぶせの理論になってしまいます。でもこれは もうそのように生きて来ていますから ただちに反応いたします。

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.26

 お礼をありがとうございます。  思索のお邪魔にならないように、ピコ問題はふたつの問題提起をさせていただきます。※古典から攻めると「個人」の問題は、面白い様相を帯びますね。 1.  (1) anima mundi(世界霊魂)    プラトンの用語ですから、教父もお使いの言葉だと思いますよ。  (2)「arbitrium」を現代訳するとき、「自由意志」と呼んで良いか。    意味を調べていただいたようですね。原文では、「あなたの判断」と綴られるその「あなた」は、果たして現代人の考える「あなた」と同じかどうかという問題です。古典時代(プロティノスらの時代)には、霊魂(anima)は星に乗って天から降ってくると考えられていましたよね。個々の霊魂は、世界霊魂とは同じひとつのanimaから生まれたいわば兄弟です。  ピコが尋ねているのは、そのanimaに対してです。もとはひとつです。想起説はこの(もとはひとつであったanimaが分かれた)「あなたのanima」が前提になっています。「お前と俺とは違う」と言ったりする現代風の意志とは違うんですね。  けれども「arbitrium」は、様々な時代のめがねを通して解釈されるうちに、文脈を離れて時代ごとに違った意味を帯びてくるようになる。逆に、「それゆえに」、その時代に沿った解釈で理解せず、敢えて文脈に戻ろうとする向きも出てくる。 2.  さて、「個人」を考えるとき、どのようなパターンがあるでしょうか。  (あ)自己を認識する  (い)他者を認識する、それゆえその否定形として自己を規定する  (う)自他を認識する&しない(もとはひとつ)  これまで、三つのパターンを見てきました。ピコの場合は(う)だと思います。漱石の場合(高等遊民)は(い)だと思います。ふつうは、(あ)だと思います。  (あ)の場合、個人の境界線は「肉体(固体)」です。(い)の場合、個人の境界線は自分の肉体を水のように沁み出していって(液体)、他人の肉体までに及びますから(あ)よりも広いですよね。そして(う)の場合、他人の肉体まで入り込み、さらには天界へと至る空気(気体)のようなものです。  おおむね、繭(内の世界)があるのは(あ)の場合でしょう。そして(う)には、外の世界はありません。こんな関係でしょうか。どうでしょう?

bragelonne
質問者

お礼

 ○ バラモンらの《梵我一如》の説は (う)に近いですね。  ▲ (wiki:anima mundi) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  〔http://en.wikipedia.org/wiki/Anima_mundi_(spirit)〕  The idea originated with Plato and it also features in systems of eastern philosophy in the Brahman-Atman of Hinduism.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ (あ)の《ふつうの個人》にあっては 《境界線ないし繭・楯》は ここまで考えて来ると 《こころの縁側》の問題であるように思えて来ました。  ○ アウグスティヌスの《個人》は   (え) 社会にあって自然人かつ自由人:他者との境界はどうでもよく 手放しの能天気であって わづかに人から声をかけられれば 共生を思い出し 助けあいをこころがける。一たん動き始めると とことん共生をつらぬこうとする。ひとたび交通(まじわり)が成ると 二百年はつづける。  ☆ という bragelonne 版として かたくなにまだ持ち堪えているように思います。  * ところで マキャヱ゛ッリが《運命という女神の懐柔》を言うとき これは大きく《個人》の問題ですよね。  * ボッカッチョ『デカメロン』は 権威や権力から上手に一定の距離を置いて いろんな意味ででしょうが 自由を享受する市民たちの思惟や生活を描いたのではないですか? ここでも《個人》が始まっているように思えます。――次のおことばに甘えまして。  ★ ※古典から攻めると「個人」の問題は、面白い様相を帯びますね。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  まづアウグスティヌスです。ぱらぱらとめくっていた程度でしたが そしておおまかな表現でしかないのですが 次の文章に突きあたりました。  ▲ (アウグスティヌス:自由意志論) ~~~~~~~~~~~~~~   魂( anima )〔の起源〕に関する四つの見解がある。   (1) 魂は生殖によって生ずる。あるいは   (2) 誕生した各人に新しい魂がつくられる。あるいは   (3) すでに他のどこかにあって 誕生した身体の中に神から遣わされる。あるいは   (4) 進んでその中におりて行く。  以上四つの見解はどれも無思慮に肯定されてはならない。この問題は カトリック教会の聖書解釈者によっては 問題の晦渋さと複雑さが要求するほどには論ぜられて解明されていない。解明されたとしても そのような書物はわれわれの手許にはまだない。  われわれはただ 創造者の実体について誤れる見解や ふさわしくない見解を立てることのないだけの信仰をもつべきである。われわれは敬虔の道を通って 創造者の認識へと進む。もし創造者について真実と異なる見解をもったならば われわれの努力はわれわれを幸福へではなく虚妄に導くであろう。  だが被造物については われわれが真実と異なる見解をもつとしても それを確実な知識や考えと見なさない限り危険はない。というのも われわれは幸福になるためには 被造物ではなく創造者自身に向かうよう命ぜられているからである。  それゆえ 創造者について ふさわしくない見解や真実でない見解によって説得されるとき 非常に危険な誤謬によって欺かれることになる。実際 実在しないものや 実在しても人を幸福にしないものに向けて進むなら だれも幸福な生に至ることはできないのである。   (第三巻第二十一章〔59〕泉治典訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうも《信仰主体論》のようです。《世界霊魂ないし個々の魂》という構えは避けているようです。  ○ 恩恵→非思考=信仰→観想→自由意志=思想(生活態度)です。つまり 恩恵→信仰→自由意志 という秩序です。   ○ ただし先行するところの――ちなみに《先験的》という表現はいまでは《超越論的》に代えられたようですね。その如くに人間の自由意志に先行するところの――恩恵は きみの自由意志を却って立てるのだ。  ☆ と言われています。  もう一つちなみに もうこれ以上の和訳は出ないのではないかと讃えられる中沢宣夫訳の『三位一体論』では   ○ animus :精神もしくは心  ○ anima :魂  ☆ という用語が貫かれています。ただしそれでも多義性をまぬかれていないようです。  そこで《個人》問題ですが。――  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (う)《自他を認識する&しない(もとはひとつ)》  の場合、他人の肉体まで入り込み、さらには天界へと至る空気(気体)のようなものです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というピコの用法ですが アウグスティヌスはこれを避けているでしょうね。言わばブッディスム風に《無記》と言いましょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ)《自己を認識する》の場合、    個人の境界線は「肉体(固体)」です。    = ふつう〔の人びとの場合〕    = おおむね、繭(内の世界)がある〔場合〕  (い)《他者を認識する、それゆえその否定形として自己を規定する》の場合、    個人の境界線は自分の肉体を水のように沁み出していって(液体)、他人の肉体までに及びますから(あ)よりも広いですよね。    = 漱石の場合(高等遊民)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (い)の場合は 想像力を逞しくしてそれなりに思惟の翼を自由自在にはばたかせるといった情況(心的現象)でしょうか? ちょっぴりほかの人たちよりも――《高等》という如く――高い次元に自分はいると思っているのでしょうか?  このとき  ○ いわゆる《仏性》論は (う)の変種と言いますかその別動体であるようにも思えますが 筋が違うと言うべきでしょうか?

回答No.25

No.21です。. 仰っておられる大部分は私の概念と重なるものです。 ただ、1のみ引っかかります。 1での「可能無限」を「無限」という概念の内に置くのか、外に置くのかはそれぞれの立場(概念)ですので、お任せします。 でも、通常、(限定無しに)「無限」といったとき、「可能無限」という「概念」も含むものでしょう。(狭義に使いたい場合には、通常何らかの修飾詞を必要とするでしょうから) 数学、特に超準解析などで扱われている「無限」の概念は、厳密に扱いうるものになっているようです。 その後の2から12まで、私の言わんとしていることに合致しています。 で、 >>>  《かみ・神》という文字は 無限ではないと言ったでしょう!! <<< と、仰っておられますが、 一体「誰が」 《かみ・神》という文字が無限だと言ったのでしょうか? 私が何度もくり返し述べていることは、 === 《かみ・神》という文字(ないし概念)に《無限》という文字(ないし概念)を重ねるか、重ねないかは、それぞれの視点によるでしょう。 そうしてそれらは「文字ないし概念」の曖昧さ(厳密さ)の程度によって(水面に広がる波紋のごとく)揺らぐものだと思います。 《かみ・神》という文字を見たとき、「人によって」の「向こう側」に(想像不可能なところの)「無限」を「想うかもしれない」(無論、人によって想わないかもしれない)でしょう。 A.そういった「(指し示す先に何もないかも知れない)想いの方向性」も人の「概念内部」だと思う人がいるかもしれないでしょう。 B.一方で、「(指し示す先に何もないかも知れない)想い」は、人が把握しうる外部と繋がっているために、もはや人の(狭義の)心(知情意)にて捉えることは不可能な(広義の)心として広く広がっているのかも知れない。 そういった場合に、「概念は抱くもの」という表現を使ったとしても、「想いの方向性」はなんら縛られるものではないと思います。 === です。 ちなみに私の場合、Bです。 >>> ★ (お礼欄は未記入)  ☆ この記入は不要だよ。 <<< 何か、お気に障りましたでしょうか? 一月近く「教えて○○」にて投稿している内に、記入順序が判らずに混乱することがあったので、自分なりにどこかにメモを残すことを考えました。 それだけのことです。 これからは、別の記号を使うようにします。 >>>  この《無限》じたいの説明そのものについて批判をくわえるか さもなければその説明をわたしは採らない要らないと言って去るか どちらかひとつにしなさい。 <<< 《無限》という文字(ないし概念)について、複数の見方があると思います。それらは相互に否定しあうものではありません。上記の書き方では、bragelonneさんは、「どちらも可」という選択肢を「あえて選択することはない、二者択一問題だ」と仰っているかのように見えます。 思考を超えたところに「何か」を想定するのと、想定しないのと、どちらかのみとするのと、どちらもありとするのと。。。 このことは 《個人という概念》ないし《繭》の外側に、それらを誘引する《現実の物象化》を想定するのと、想定しないのと、どちらかのみとするのと、どちらもありとするのと。。。 に対するのと同じになるかもしれない。。。

bragelonne
質問者

お礼

 お礼欄・補足欄の使い方について。    わたしの場合は お応えの字数に従っています。お礼欄の字数制限を超えれば 補足欄にて一括して お礼も補足要求も述べるかたちにしています。  また そのときお礼欄を空けておくのは あとで補足の書き込みができるからです。  お礼欄の記入によって ポイントがつくということを最近になって知って このわたしの使用法をどうしようかと考えましたが いま修正することはしないと決めました。  わたしが質問者として補足要求をするばあい 対話がつづくのでその一つの質問につき お礼欄への記入は一回はあるでしょうから そのポイントで我慢して欲しいというようには思います。  どうしてもお礼欄にも記入しろということでしたら そしてまたその《空気》があるようでしたら 情況に応じて対処することにします。大した回答をくれていない場合 やぶさかになります。

bragelonne
質問者

補足

 じねんさん きちんと対話をお続けになるのは とうといことと存じます。  敬意を表しつつ 問題点のみずばりご指摘申し上げます。  ここでは 物象化論を広く取って その現象に向き合うときのこころについても扱っています。むしろこの《心的現象》論のほうが主題であるとも言えるかたちです。  このとき《こころ》を問題にするに当たって さらに基礎としての《存在》論が持ち上がりました。そして特には 《無限》論です。これは 絶対の問題として ひとの持つ非思考ないし信仰という経験現実にかかわります。  ですから いまここで――じねんさんとわたしとの間では―― 無限と言えば 存在論にかかわった話なのです。数学における無限論の成果は利用することはあっても そのこと自体を論じようとしているのではありません。主題が特定されているのです。  そういう条件のもとでは 《経験世界とそれを超える領域》 これらの区別が重要です。ですから 《無限》はここでは 《経験世界を超える領域》という想定概念に焦点を当てて話を進めるのが ふつうなのです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   B.一方で、「(指し示す先に何もないかも知れない)想い」は、人が把握しうる外部と繋がっているために、もはや人の(狭義の)心(知情意)にて捉えることは不可能な(広義の)心として広く広がっているのかも知れない。  そういった場合に、「概念は抱くもの」という表現を使ったとしても、「想いの方向性」はなんら縛られるものではないと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづここでは 《外部》がはっきりしません。  ★ 人が把握しうる外部  ☆ というのなら それは 《経験世界》です。この経験世界の範囲において  ★ 「(指し示す先に何もないかも知れない)想い」  ☆ というのであれば このときの《ないかも知れない》の《ない》は やはり経験事象としてのそれなのです。《ある・ない》がいづれかに明確に規定することができる場合に属します。つまりこの表現では 《こころ(精神)》に象(かたち)を表わすかどうかが人間の経験思考にとって明らかになる経験世界をしか扱っていないわけです。  ですから 帰結の部分の言おうとするところは あいまいです。  ★ もはや人の(狭義の)心(知情意)にて捉えることは不可能な(広義の)心として広く広がっているのかも知れない。  ☆ 《心》は 狭義も広義も 経験世界に属しています。それを超越することは 無理です。また  ★ (狭義の)心(知情意)にて捉えることは不可能  ☆ というように《不可能》と明確に規定したなら それは人間の心(それが持つ科学の眼)によって 理解することができることを意味します。つまり経験世界の事象なのです。  このように 《経験世界》と《それを超えた無限世界》とを峻別するのは 大事です。つまりは 思考と非思考との区別になります。これはこれとして決まります。  ★ 思考を超えたところに「何か」を想定するのと、想定しないのと、どちらかのみとするのと、どちらもありとするのと。。。  ☆ という問題ではありません。話は あくまで《無限》をどう捉えるかをめぐって進んでいます。  ★ 《個人という概念》ないし《繭》の外側に、それらを誘引する《現実の物象化》を想定するのと、想定しないのと、どちらかのみとするのと、どちらもありとするのと。。。  ☆ ここでも 《外側》という用語がはっきりしません。経験世界の内か外かです。物象化は 経験ですから どうも《内》のようです。

  • old_sho
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回答No.24

bragelonneさん、ごみ箱行きの文を、丁寧に読んでくださって、礼を言うべきか、謝るべきか、という所です。 人の受け売りにならないように語るのが困難になった、という訳ですが、ほって置くのも失礼かと、「受け売り」を交えてもう少し。 「物象化」という視点は、掘り下げた地点からの捉え返しとしてのものだと思います。が、説明としては、上から見下ろすことでも、分かる。その「分かる」は違う。――これを、受け売りでなく、うまく表現することができないで―― >ただしこの個人という着物を着たひとは 自分の意見を述べることはするけれども ひとの意見を聞くことはしない。という別の弊害が出てくる。右の耳から入ったことは左の耳から流してしまう。 ――この部分に対応するものを書こうとして、躓いてやめたのですが、方向を変えて再度挑戦。 「ホリエモン」の例に仮託して。――ニュースの見出ししか見ていないので単なる図式的例題としてです。 A)彼としては納得できない。なぜ、このような「法の裁き」が起動されるのか。それは何だ。 B)その法は、何を意図し、何を護ろうとするのか?自由で公正な「株売買」を保証する為の機能の一つであるのか。 C)何が公正であるのか。そもそも、護られるべき「株売買」とは何か。 D)それは……。 E)……。 この下降を、単に「観念的」なものとしてではなく追求されたなら、上向に反転出来得る地点に達する。 第三者が行うのではなく、当人が行うならば、豊かな内容を持った、新たな展望を得て復帰するだろう、と思いたい。 ――まあ、背伸びをして回答しているようなものですね、やめておきましょう。 書こうとしたきっかけは、 数多くの質問を提示されているbragelonneさんの今回の質問は、おそらく、「指呼確認」の一種としてあるだろう。ところが、そこで回答されているものは、私から見ると、外している。指を差すということは、三次元空間中に定位しなければならないが、異空間を指しているように見える。そのこと自体は口出すことではないと思いますが、bragelonneさんの「指し方」が微妙に気になる。「物象化」の考え方が、当面はそれで行けても、いずれ躓くだろう代物に、見えた。 「現状と展望は どういう情況だと」に対しては、今は共通の言葉では語りがたいなあ、展望も?、と思っています。 なお、「Kazhikさん」は、wikipediaで「履歴」を見てその個所を記述された方だなあ、というので挙げただけです。「物象化」の一つの解釈を提示されているとして、解釈の相対化をするべきかと。

bragelonne
質問者

補足

 old_sho さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 「Kazhikさん」  ☆ 確認しました。澄みません。  ★ 解釈の相対化をするべきかと。  ☆ むろん 賛成です。    ★ 「ホリエモン」の例に仮託して。  ☆ 何やら頭脳が起きよ・目覚めよと声をかけられたような試みのごとき営為に感じられました。ただし一たんはこの冒険をとめました。まづは 次のような問いをおこなって 現在の地点を固めるのみです。  もう少し触れれば たしかに  ★ 下降と上昇  ☆ は そう言えばよく聞いたものだったと思い起こし認識を新たに始め直そうとはしています。  問いはこうです。  ○ このホリエモン問題にしても 法律の論議もあるでしょうが 超法規的処置と言いますか 国策としてと言うのでしょうか 要するに 資本の論理がつらぬく経済行為関係に対して 経済外の政治(よく言えば共同自治)の視点とちからが介入するという事態であるのではないでしょうか?  ○ だとすれば そのようにもし政治経済学というような一体となった人間の社会行為を想定することが出来るなら モノないし商品関係の独り歩きとしての物象化現象に対して ヒトないしその意志関係の待ったがかけられる。と言っていいのかどうかなのですが?  ○ そこで働かせた人間の意志も じつは 物象化に沿った内容でしかなかった。ということになるでしょうか? どうでしょうか?  ☆ 政治の介入は 今般の経済後退に際しても見られますが この問題を提起するのでは まだ軌道に乗りませんか?  もう一点です。社会的分業が始まってからというもの 疎外が起こりやがて市場経済が自立しひとの手から独立したかのごとく 商品というモノが――同じく商品と成り切ったかのような労働をさえ巻き込んで―― 堂々と街を独り歩きしている。  このとき 分業はそもそも一人の人間ないし家族ないし地域共同体の範囲で協業しつつ総合され 或る意味で上に触れた共同自治のもとに統括されていたと考えられます。(つねにそのような統括する過程にあった)。そして実はこの分業即協業という実態もしくはその自治共同は いまもつねに 働いている。とさえ考えられます。  乱暴に言ってしまえば  ○ 疎外や物象化の作用に対して おそらく同時に反疎外ないし反物象化の作用も ただの反作用としてだけではなく総合的な調整のはたらきとして ひとは持ち合わせているのではないか。  ☆ ちょっと頬がほてって来ました。慣れないことを言うものぢゃないのかも知れません。

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.23

 ネットに原文があったんで見たら、間違いに気付きました。  八節→×  五節~六節→○  調べてみるもんですねぇ。読者のみなさんへ向けて。  羅文の該当個所は――Tu, nullis angustiis cohercitus, pro tuo arbitrio, in cuius manu te posui, tibi illam prefinies.の部分です。

bragelonne
質問者

お礼

 No.22へのお応えよりも先に書きます。  《自由意志》は 《 arbitrium 》なのですよね。  いま調べたら   ○ arbitrium < arbiter < ar ( = ad ) + bito ( = beto = eo )  ○ arbiter :目撃者 2.仲裁者 3.裁判者 4.支配者  ☆ だと言います。《恣意性》という意味は (4)からの派生なのでしょうか? だとしたら どうもはっきりしないですね。あるいは原義において《そこへ行く》のが 《気ままに》であり その意を採って《自由意志にかかわる》と言うのでしょうか?  むろん アウグスティヌスも 使っていて  ▲ 『自由意志論』:《 De libero arbitrio 》  ☆ のようです。  たとえばこういうふうに考えてみました。  日本語では 絶対としての神という言葉はなかった。キリシタンの時代というよりは明治以降に 古くからの《かみ》という言葉がこれに当てられた。  (ちなみに 《愛》という言葉の歴史にも 同じようなことが言えるのではないでしょうか?)  単純に《自然の驚異としておそるべき現象ないし人間の社会現象にかかわるちから》を言っていたのが そのような経験世界における事象とそれを超える世界とを分けて 特に後者を指して言うようにもなった。  となると この後者の《絶対としての神》という概念で それまでの《かみ》の使い方を吟味することができる。ようになった。  とすると――そうとう フライイングくさいのですが―― いまの《個人》の概念がしっかりとは確認されていなかったと推測されることと この《 arbitrium =自由意志》の用法の歴史とが つながると思われる。  言いかえると 個人をめぐって――おそらく当時すでに人びとは自己のことを思うというほどの意味合いにおいて 個人は存在したと思われるにもかかわらず―― その個人という概念は普及していなかった。ゆえにこの概念が確立されていくにつれ 自由意志という概念も 恣意性という意味内容を超えて 明らかになって行った。  つまりは その近代人以降において 個人とその自由意志という言葉を持ってひとは 昔の言葉を吟味することが出来るし 新しい概念を当てはめることができる。  ちょっと機械的な解釈でもあるようです。どうなんでしょう。

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