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冠詞の発達と言語意識の変遷について

冠詞について長年学んできた者です。基礎的なことはおおむね理解できているように思うのですが、基礎の基礎の部分で私の理解が妥当なものか確認したいと思います。確認事項は冠詞の具体的な用法についてではなく、無冠詞・定冠詞・不定冠詞が言語使用者の生活や考え方とどのような関わりを持ったかについてです。 冠詞の発生以前の状況から考察を試みますが、参考文献として、英語の発達や歴史についての文献5冊とChristophersonによる研究書(The Articles)を利用しました。歴史的考証以外に推論が必要な個所においては私独自の見解を前面に出しました。 当然のことですが、英語の発達は直線的かつ不可逆的なものではありません。でも、今回の議論においては論理的整合性を重視したいので、実際の使用における揺り戻しや複線的な発達や地域差については度外視することにします。また当然のことながら、冠詞が付属する名詞と、名詞が組み込まれる文についても分析を行いますが、冠詞との関わりが薄い事柄に関してはほとんど触れることはありません。記述に使用する英語は現代英語で使われているものとします。おかしいと思うことがあればご指摘をお願いします。 まず言葉の発生からです。最初に登場した言葉が<モノ>を名づけることによって発生したことは確実だと思われます。<動き>を表す語はその多くが身振りによって表現可能だったはずですから、<モノ>の名より登場が遅れたはずです。  最初に登場した名詞が固有名か普通名かはわかりませんが(今回の議論では、固有名の考察は割愛します)、例えば"Dinosaur."だったと仮定します。突然発せられたこの言葉に、周囲の者は驚いたり、茫然自失したり、勇敢に立ち向かおうとしたりといった反応が続いたと思われます。  この時のdinosaurという言葉は現代の我々には想像もつかぬイメージ喚起力を持っていたと思われます。その力をここで言霊(ことだま)と名づけておきます。その力は内在するものでありながら、その発現には、発話者の心情と発話状況の切迫という要因も加わっていたはずです。恐らく言葉の発生期においては、言葉はそうした特別の状況において言霊的なものを宿していたと思われます。 もちろん、名づけには、何かを知らせるだけでなく、その名の指し示すものを記憶に残したいとする発話者の意図もあったはずです。 そのうち<動き>を表す語が登場し、ついで性質を表す語が登場したものと推測されます。各種の語が登場するのと前後して文が登場したのではないかと思います(このあたりの事情に関しては自信がありません)。文の登場の契機は、一定のまとまりを持つ考え・意見・心象風景を言葉を介して正確に伝えることだったと思います。  当然のことながら、文中に収められたdinosaurは言霊の持つ力を減じます。言霊は発話者の心の中のイメージを心情と共に外部に放つものですが、(私が思うに)文中に収められることによって、他の言葉と協働することに力をそがれるからです。  でも、それはそれでいいことです。というのは、受け止める言葉が言霊を持つものばかりだと聞く者が疲れます。それに、文化の発達に伴って、集団内での言葉のやりとりに正確さと有用性が求められるようになっていったはずです。 この段階では言霊は、例えば1語だけの"Dinosaur"以外に次のような形でも言い表されます。 "I see dinosaur. Run away." 1語だけの時より言霊の力は弱いものになっています。 そのうち、人間集団の規模が大きくなり複雑化するにつれ、コミュニケーションの円滑化が必要とされるようになりました。そうした観点から、普通名に対して特定の一つのものを指示する必要が生まれ、指示詞が登場しました。さらに、それから分化・発達して定冠詞が生まれました。定冠詞は指示詞のような直接指示を行わず、間接的な指示を行うものです。それによって、聞き手が見聞きしている場所と時以外でも<モノ>の特定ができるようになりました。 ただし、何かを指し示すということは、指し示されるものが外延的なもの、すなわち時間と空間において制約されるものだということです。これは言霊とは相反するものです。言霊にはそのような制約はありませんから。 言霊が宿るのは心の中の言葉、すなわち概念の中です。概念は心の中にあるものなので個別のものとして他の概念から切り離すことができません。当然のことながら、発話者とも切り離すことができません。  それが、文中で使われ、指し示す働きを持つ指示詞や定冠詞と共に使われる時、時間的・空間的制約が生まれ、同時に(概念としての性質を喪ったため)発話者との間に隔たりが生まれました。人間が言葉とのからみで孤独になった瞬間です。この孤独は他人だけでなく他者全体に対するものです。  もちろん完全な孤独ではありません。これまで通り、文中での概念の使用は可能です。又、 ある特定のものを指示することは、話者はそのものに対して密接な関係を持つわけですから、一定の結びつきが確保されていると言えます。Christophersonによれば、その関係は親密性を伴うものだったそうです(ちなみに彼の師であるJespersenは定冠詞の働きを親密性という観点でとらえました)。  なお、定冠詞の機能が限定の場合は、話者と指示物との間に、間接指示の場合ほどの密接な関係は生まれません。 そのうち、普通名のうちで数えられるものと数えられないものの区別の必要性が増大し、数えられるものを表す指標として不定冠詞が生まれるわけですが、その前段階で登場したのが数です。 数が何のために生み出されたかについてですが、私自身の見解では、おそらく所有物(羊・奴隷・使用人・臣下とか)をたくさん抱えていた者が管理の必要に迫られたためと思います。その結果、数字と数のシステムが作られたわけですが、さらに、管理の都合上、数えられるものと数えられないものの区別が必要とされるようになってきたと思われます。例えば、数えられるslaveと数えられないoilを同類のものと見なすことは困難です。 そこで、言葉の管理システムである言語体系において、数えられるものを表す指標が必要になりました。それが- s -でした。これは何かが2つ以上(more than one)存在することを表すものでした。ところが、これだとslavesが一つだけで存在する時slaveとなり、数えられないものであるoilと同じ形を取ることになります。そこで、両者を形態面で区別するために、数えられるものが一つだけで存在する時の標識が必要とされたものと推測されます。 ここに登場したのが、一つを表すoneから派生したa(n)-不定冠詞-です。定冠詞が空間的・時間的な制約を持ち込むものだったのに対して、不定冠詞はその制約を一つのまとまりのあるもの(数えられるもの)として示すことになりました。この時点で、不定冠詞登場以前に可算・不可算名詞の双方を表していた無冠詞形は大幅に役割を縮小させました。 この時点で、不定冠詞は聞き手に対して、名詞が可算のものであるという情報を与えることになりました。  不定冠詞をつけられた<モノ>に対して、人間は、無冠詞名詞が持つ他者との密接な結びつきも、定冠詞名詞が持つ<モノ>との親密な関わりも持てなくなりました。この時点で、人間は<モノ(他者一般も含みます)>との関わりにおいて言葉を介した有機的なつながりを大きく損なってしまいました。同時に、発話者は聞き手とのつながりも喪いました。言葉における孤独がさらに深まったわけです。もちろん、先ほども言ったように100%の孤独ではありません。 ところで、定冠詞は聞き手に何かが唯一特定可能なものであることを示す働きを持っていましたが、その特定可能なものは情報伝達という観点から見ると既知情報を表します。でも、ある情報が既知情報になるためには、その前段階において、その情報は聞き手にとって新情報だったはずです。次の例に見られるように、不定冠詞は聞き手に何かの情報を新情報として与える働きを持っていることになります。 "A dinosaurs is rushing towards us. Run away. Hurry up! Can't you see the dinosaur?" 言霊だった"Dinosar."は異なる働きを持つ2種類の情報a dinosaursとthe dinosaurになってしまいました。言霊から情報へという変遷が完成したわけです。 別の例を挙げます。a motherは<私>と関わりのない母親です。the motherは<私>がこういうものだろうと了解している母親です(知り合いかも知れません)。theの代わりにmyを使えば<私>とのつながりを表明できます。φmotherは<私>ともともとつながりのある母親です。 この時点で<モノ>を表す言葉は、その働きの大半において、単なる情報の伝達と蓄積を行うものになってしまいました。情報は相手に何かを使える際に時間と空間(いつ・どこで)という形式を伴ったものです。。話者も聞き手もそうした情報を客観的に(自分と切り離されたものとして)扱うことができるようになりました。 字数の制約でここまでにします。この後、<動き>を表す語の働きの変遷や、冠詞や限定詞つきの名詞と無冠詞名詞との交流の話とかが続きます。

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  • Nakay702
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回答No.8

「質問者からの補足」を拝見しました。 @議論ではなく、単に話題として提出するのであれば、クワインの言を待つまでもなく、<自分よりはるか高い、あるいは深いところに超え出ているもの>はいつだって話題に出すことができます。その意味でもう少し追究してみます。言語や哲学の議論ではなく、文学作品でならこういう言い方もありそうな気がします。外延としての出来事はすべて、内包的なものとして存在する<永遠の舞台上の永遠の役者の永遠の演技>が地上の現実として現れ出でたるものである-というのはどうでしょうか。 ⇒はい、文学作品でならありそうな気がします。いや、あって欲しいと思います。ところで、クワインと言えば、「科学革命」の論者ですよね。IT関係ばかりでなく、グレタ・トゥインベリさんの言うような公害などの分野でこそ「パラダイムシフト」があって欲しいですね。 @<自分よりはるか高い、あるいは深いところに超え出ているもの>からもたらされる指示にただ従うのは宗教のなせる技だと思いますが、<それを目指して問い続ける>ことであれば、人生のありようとして、たしかにあっていいことだと思います。/<語りえぬこと>を深いところまで追究した者は、追究し得た内容を他者に表明しなければならない、というよりおそらく自然にそうしてしまうのだろうと思います。その場合、もちろん、論理は使えませんから、表明手段は相当に難しいものになります。/それこそ、語る側のことばが強烈な言霊を宿していなければうまくいかないと思います。こういうふうに考えると、論理でもってすべてこと足りると思いこんでいる哲学者達は随分楽天的というか、やりやすい仕事だけをやっている人たちだという気がします。いずれにしても、言葉でもって語るしかないわけですから、言葉は普段にもまして重視されることになるでしょうね。 ⇒仰せのとおりです。特に自分に引きつけて考えると、事は深刻です。「それを目指して問い続ける」とは、結果云々よりも「プロセスが大事」と言うつもりでした。マハトマ・ガンジーは言ったそうです。「報酬は、結果でなく努力にある。全き努力は、完全なる栄光である」と。…と「ええカッコ」しましたが、白状すると、実は、問い続けて解に到達できる自信は全然ありません。「千分の一のプラトー」も越せそうもないのです。 @後期のハイデッガーは<ことば>のありようの記述に相当に神経を使いましたが、それもわかるような気がします。もはや、論理を記述手段とする著作によっては思いを語れなかったのでしょうね。彼の著作は「存在と時間」以降は難解なものになっていきました。著作自体が詩的なもので、何が書かれているのか判じがたいものもありました。もはや一般読者には手の届かないところにいたように思います。 ⇒ある芸術家(確か木版画家)が言いました。「自然を丹念につき詰めていくと、必ず神に突き当る」と。後期のハイデッガーも、ある意味、神に突き当ったのかも知れませんね。以前触れた「先端を行く者の宿命」に見舞われたのかも知れませんね。私は、より高次の審理を求めようとするとき、頼りになるのが、一つにはオルテガ「生-理性」*の遠近法主義かも知れない、と考えます。「自分の見たものを他者のそれと接合し、止揚することこそ神の視点に肉薄する方法である」。(*「生-理性」の立場の体系としては、存在論として環境の理論を傘下に持ち、認識論として遠近法主義を理論武装の道具として持つ。神が人間を通して見せる「絶対的真理」の把握がその課題であると自覚する。) @<論理でとらえきれないものを直感でもってとらえようとする時、独りよがりのものにならないように算段し、思考を繰り広げること、そして基盤といってふさわしいものを見いだそうとすること-これが私の言う形而上学です> 究極の真理などというものではなく、自分自身の、ひいては人間一般の基盤をなすものでなければ語る意味がないと思います。/これまでにもお話ししましたが、論理でもって突き詰めようとすると必ず無限後退を生じます。後退を止めるためには遡及不可を宣言する基盤を設定することになるわけが、その基盤がどのようなあり方をするものかを語るのが形而上学の真骨頂だと思います。/ 人間が持つ合理性、世界が持つ合理的秩序(斉一性)、言語(共同体)の存在、世界内存在の4つは基盤中の基盤だと言うにふさわしいと思います。(世界内存在という基盤について語ったのが「存在と時間」です)。基盤を起点にして論理展開を行うのではなく、人間がそれなしでは生きることのできない基盤についてそのありようを語るのが形而上学であり哲学の本来のありようだと思います。だとすると、私の考えでは、分析哲学者の仕事は、言語のありようについて語るという点だけに限れば、形而上学の一つだとも言えると思います。/長くなりましたが、要するに、<自分よりはるか高い、あるいは深いところに超え出ているもの---を目指して問い続けること>には制約があると、私自身は思うので、それについて述べさせて頂きました。 ⇒永い格闘の上での、その「制約」の実感と嘆息のほど、遅ればせながら了解しました。上述のとおり、早々と「似非諦念」の境地に浸る私など、それを揶揄する資格を全然持ち合わせないことも自覚しております。それでもなお、と私は考えます。「不可知の雲」は大きいが、それを超えるべく、空しいあがきかも知れないが、できる限り神に頼らずに進もう、と悲愴な覚悟をもって自戒・自省する次第ではあります。 @前回ハイデッガーとドウルーズのことで少し私の考えというか感想めいたことを述べました。そこで、両者共に同じような考え方を持っているように思われると言いましたが、あまりにもおおざっぱすぎました。もう少しつけ加えておきます。ハイデッガーの探求目的は存在、つまり生命の意味を追究することでした。ドウルーズの探求目的がどういう点にあったのかはよくわかりませんが、ハイデッガーの場合とそう大きくは異ならないと思います。ドウルーズはベルグソンの唱えた生への躍動(elan vitale)、及び彼の言葉で言うと生成変化(もちろん生命の動きです)が主たる関心事だったように思います。彼の文章がもっとわかりやすいものであれば少しは確定的なことが言えると思うのですが、残念ながらそうはいきません。生への躍動と生成変化であればハイデッガーも同じようなことを探求しています。では、違いはというと、ハイデッガーの方は「死への先駆的決意」-「死」の位置に身を置くことによって世界や人生が新たな本来のものとして見えてくる-に真骨頂があります。ドウルーズの方はというと、彼の著書が読みにくいためもう一つはっきりしませんが、彼の真骨頂はnomadeという言葉に集約されているように思います(実は、数年前に私がドウルーズに興味を持ったのはこの言葉を発見した時です)。そこから連想されるのは、自由、無束縛、緩やかなつながり、放浪、反国家などです。今、国民国家というあり方が終わりを迎えようとしているぞ-といったような文脈でnomadeが言及されるようですが、あに図らんや、金融資本主義によるglobalismが国民国家を従えて世界を支配しているかに見えます。nomade的なあり方の実現は遠い先のことでしょうね。ハイデッガーの方は、時間という問題から歴史という問題に飛躍し、ヘーゲルの向こうを張って独自の歴史観を披瀝し、何とドイツ民族という集合体を歴史を担う主体としてとらえたかに見えます。ドウルーズとは正反対です。ナチズムとの関わりまで後一歩です。 ⇒ハイデッガーとドウルーズについて、いろいろご教示くださり、ありがとうございます。個人的な観測としては、裏付けがあっての話ではありませんが、ハイデッガーとドウルーズの違いは、ゲルマン系とラテン(ロマンス)系のそれに対応すると思います。さらに、極端な図式化を許していただけるなら、それぞれ魔笛とカルメン、血と心、肉体と精神、現在と未来、現実と希望…などに対応しているようにも見えます。 @昨年9月から、毎回、大変な労力と時間を取って頂きました。私としてもいろいろ勉強させて頂きました。どうもありがとうございました。しばらくこの質問サイトから離れますが、また、折りあらば訪れようと思います。それまでしばしのお別れです。ありがとうございました。 ⇒こちらこそ、楽しくかつためになる対話をありがとうございました。またの機会のありますことを願っております。

feeders
質問者

お礼

再々度の回答ありがとうございました。 ● 文学作品でならこういう言い方もありそうな気がします。外延としての出来事はすべて、内包的なものとして存在する<永遠の舞台上の永遠の役者の永遠の演技>が地上の現実として現れ出でたるものである-というのはどうでしょうか。 ⇒はい、文学作品でならありそうな気がします。いや、あって欲しいと思います。 -やはりそうですよね。小説の中でなら、いやシェイクスピア劇の中でマクベスあたりに語らせてみたいですね。 内包的なものとしてこういうのもありかなと思いました。"Life's but a walking shadow, a poor player that struts and frets his hour upon the stage and then is heard no more" もちろんマクベスのせりふです。 "Vanity of vanities,​" says the Preacher; "Vanity of vanities, all is vanity." 伝道の書です。ソロモン王の独白です。 行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、 よどみに浮かぶ泡沫は、且つ消え、且つ結びて、久しくとどまりたるためしなし、-鴨長明です。 ●<「それを目指して問い続ける」とは、結果云々よりも「プロセスが大事」と言うつもりでした。マハトマ・ガンジーは言ったそうです。「報酬は、結果でなく努力にある。---」 -私は生徒達にずっとそのように指導してきました。 <受験という目標に向かって努力し続けることは文句なしに善きことである。受験に成功すれば、さらにうれしさが加わる。受験で失敗したとしても、善きことはちゃんと実現している。うれしいことがお預けになっただけ。これからも、うれしいことが実現する(あるいは実現しない)かもしれないが、善きことはその都度必ず実現する。> このことばを理解してくれる生徒もちゃんといました。そうそう、ついでに、「赤毛のアン」のせりふも紹介しました。"Next to trying and winning, the best thing is trying and failing." ●<「自然を丹念につき詰めていくと、必ず神に突き当る」>との考えですが。自然を科学に代えても同じことですね。いかなるものの根拠も、以前お話しした4つの基盤を超えるものではありません。それらの基盤はlogosと呼ぶべきものです。すなわち神と同一視可能ものです。これ以上の希求は、無意味だと私には思われますが(というのはそこが人間の思考の限界だと思うからです)、にもかかわらず、なおもそれらを超えてところに根源を求める人もいます。  その場合は究極の存在である神を持ち出すしかないでしょうね。ただし、それは論理や心理や信仰など心の中の様々なものに要請されて見いだされるものでしかありませんから、神そのものではないと私は思います。つまり、神がもしいるとしたら人間的な一切のことに関知することのない存在だろうということです。こうした見解も結構支持されています。そうした意味でも神は認めるが、それ以外のこと、つまり教会と関わることは一切認めないという立場の人が第一次大戦このかた増え続けていると聞いています。 私はといえば、そうした考えにもとずいて、神や神と関わるものはすべて不可知なものとし、 考察の対象にはしないことにしています。それゆえ、「自分の見たものを他者のそれと接合し、止揚することこそ神の視点に肉薄する方法である」。といういオルテガの考えは尊重はしたいと思いますが、自分に方法とすることはありません。  私のこの考えは、宗教関係の本を(神学の研究書も含めて)いろいろ読んだり、聖職者の方の話を聞いたりした結果得られた当面の結論です。当面のであって、いつか考えが変わることもあるかも知れません。  いわゆる超常現象なるものでも神と関わるものは関心の対象外としています。 ●<永い格闘の上での、その「制約」の実感と嘆息のほど、遅ればせながら了解しました。上述のとおり、早々と「似非諦念」の境地に浸る私など、それを揶揄する資格を全然持ち合わせないことも自覚しております。それでもなお、と私は考えます。「不可知の雲」は大きいが、それを超えるべく、空しいあがきかも知れないが、できる限り神に頼らずに進もう、と悲愴な覚悟をもって自戒・自省する次第ではあります。>  -「制約」についてですが、ヴィトゲンシュタインは思考の限界を論理の限界だとして「限界」を定めました。後に、この考えの誤りに気づき修正するわけですが。ともあれ、自分の思考に「制約」を設けました。カントも同様に認識の限界を定めました。ハイデッガーは形而上学的な思考の限界を定めました。 私が思うに、そうした制約下でなければ人間の思考がうまく働かないのではないかという気がします。というか人間の思考は何らかの限界を持つはずだというのが私の実感なのです。  ともあれ、前進されるというのであれば、そうしたこともちらっと念頭に置いて頂ければと思います。応援しております。 長い間、本当にありがとうございました。また、いつか相まみえる日があらんことを。  それでは。

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  • Nakay702
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回答No.7

再々度の「質問者からの補足」ありがとうございました。 @一つ追加で質問したいことがあります。 出来事の分析の際にふと思いついたのですが、諸々の出来事が定冠詞的状況であれ、不定冠詞的状況であれ、それらを外延的な事象ととらえることができるのではないでしょうか。その場合、内包的な事象は何だろうと考えてみました。もしかして、命題を内包とした時の外延が出来事だと言えそうな気がしますが、これは考えすぎでしょうか。この考えが正しいとしたら、命題は言霊を生み出す可能性を持ったものであって、外延化の行われ方次第で、定冠詞的状況、不定冠詞的状況、無冠詞的状況のどれもが生み出されると言えそうな気がします。いかがでしょうか。 ⇒面白い発想ですね。しかし、残念ながら、事の筋道に照らすならそれは難しいように思います。ただ、作為的に、つまり、芝居や映画などでそういう状況を設定することはできるかも知れません。あるいはまた、一連の歴史的な出来事をそういう状況に見立てることは不可能ではないかも知れません。例えば、中世のペスト流行の時下での"Memento mori." と、ボッカチオの『デカメロン』、フランスの「大勅令」(Grande Ordonnance)、イギリスの「ロンドンの大疫」(Great Plague of London) などが、「内包としての命題と外延としての出来事」の関係に対応すると解釈することはできそうです。なお、「ドウルーズの場合、外延が具体的な出来事だとした場合の内包は、かなり言霊的な雰囲気の濃いもの」のように見えるとのこと、さもありなんと思います。 ところで、前便で、最後の1段落を添付し損ねてしまいました。遅ればせながら、下記いたします。 @ついでですから、形而上学ということについて私の意見を述べておきます。これまでこの言葉を何度か出しましたが、我々のはるか高みにある究極の真理を求める学という意味では私は使っていません。論理でとらえきれないものを直感でもってとらえようとする時、独りよがりのものにならないように算段し、思考を繰り広げること、そして基盤といってふさわしいものを見いだそうとすること-これが私の言う形而上学です。/ところで、ヴィトゲンシュタインは思考の限界を論理の限界であると主張し、「(言語によって-すなわち論理によって)語りえぬことには沈黙するしかない」と言明しました。彼はその後自分の誤りに気づいて30年かけて自説の誤りを正しました。その語、論理実証主義者とそれに続く分析哲学者が「語りえぬこと-それを形而上学と呼びました-には沈黙するしかない」を引き継ぎ、その主張が根拠も持たないものであることが判明するまでに数十年を要しました。というわけで、ヴィトゲンシュタインの言明時点まで差し戻されたわけです。「語りえぬことには沈黙するしかない」には私も同感です。<語りえぬこと>が自分を含まない、すなわち自分よりはるか高い、あるいは深いところに超え出ているものについては、たしかに沈黙すべきだと思います。語ることに意味がありませんから。でも、それが自分を含む、すなわち、その中にいて自分がその部分であるような、あるいは逆に、そのものが自分の一部であるようなものについては、大いに語る価値があると考えます。今回とりあげた言霊ももっと考察の対象になってしかるべきだと思います。 ⇒なるほど、よいお話を聞きました。僭越にも、加えさせていただきますね。「自分を含む、すなわち、その中にいて自分がその部分であるような、あるいは逆に、そのものが自分の一部であるようなものについては、大いに語る価値がある」にはもちろんですが、「<語りえぬこと>が自分を含まない、すなわち自分よりはるか高い、あるいは深いところに超え出ているものについては沈黙すべき」には一理も大理もあると思いますが、それを目指して問い続けることもそれと同じくらいに重要で、いや、もしかしたらもっと重要で、それこそ学の精神、真の形而上学と言えるかも知れないと考えます。 以上、ご返信兼追送まで。

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質問者

お礼

残りです。  ところで、前回ハイデッガーとドウルーズのことで少し私の考えというか感想めいたことを述べました。そこで、両者共に同じような考え方を持っているように思われると言いましたが、あまりにもおおざっぱすぎました。もう少しつけ加えておきます。  ハイデッガーの探求目的は存在、つまり生命の意味を追究することでした。ドウルーズの探求目的がどういう点にあったのかはよくわかりませんが、ハイデッガーの場合とそう大きくは異ならないと思います。ドウルーズはベルグソンの唱えた生への躍動(elan vitale)、及び彼の言葉で言うと生成変化(もちろん生命の動きです)が主たる関心事だったように思います。彼の文章がもっとわかりやすいものであれば少しは確定的なことが言えると思うのですが、残念ながらそうはいきません。生への躍動と生成変化であればハイデッガーも同じようなことを探求しています。  では、違いはというと、ハイデッガーの方は「死への先駆的決意」-「死」の位置に身を置くことによって世界や人生が新たな本来のものとして見えてくる-に真骨頂があります。  ドウルーズの方はというと、彼の著書が読みにくいためもう一つはっきりしませんが、彼の真骨頂はnomadeという言葉に集約されているように思います(実は、数年前に私がドウルーズに興味を持ったのはこの言葉を発見した時です)。そこから連想されるのは、自由、無束縛、緩やかなつながり、放浪、反国家などです。今、国民国家というあり方が終わりを迎えようとしているぞ-といったような文脈でnomadeが言及されるようですが、あに図らんや、金融資本主義によるglobalismが国民国家を従えて世界を支配しているかに見えます。nomade的なあり方の実現は遠い先のことでしょうね。 ハイデッガーの方は、時間という問題から歴史という問題に飛躍し、ヘーゲルの向こうを張って独自の歴史観を披瀝し、何とドイツ民族という集合体を歴史を担う主体としてとらえたかに見えます。ドウルーズとは正反対です。ナチズムとの関わりまで後一歩です。 ところで、私の冠詞勉強の基礎固めはそろそろ終了してもよいかなと思うようになっています。実は、文法勉強を本格的に始めた後、冠詞以外の文法項目は早いうちにまずまずの理解が得られましたが(そう思えましたが)、冠詞だけが理解しきれない項目として残りました。冠詞の概説書と冠詞についての記載がある文法書をたくさん読みましたが、記載されている事柄が著者によって異なる、さらにネイティブによっても異なるといった状況で、私には相当ハードルの高いものでした。さらに言うと、基本から(簡単なという意味ではもちろんありません。考え方の基盤からという意味です)説明してくれる本や人がいなかったという点でもやっかいなものでした。  何度か勉強を放棄しそうになったことがあります。実際にしばらく勉強をストップさせたこともあります。それでも止めてしまわなかったのは、やはり現場での生徒とのやりとりのおかげだと思います(実際の質問だけではなく、生徒のつっこみを予想してその対処方法を考えたりといったことも含めて)。彼らの大変素朴な質問に答えられないこともありました。そうした質問の答えは研究書や文法書に書いてないことがよくありました。彼らの問いに答えようとしたり、よりわかりやすい説明方法を工夫しようとしたりといったことを繰り返すうちに、私の疑問点が少しずつほぐれていき、指導の仕方が明快なものになっていきました。そういう意味で、冠詞勉強を支えてくれたのは先ず第一に生徒達だったと思います。  勉強を止めてしまわなかった要因として、哲学の勉強が役に立ったということもあります。考え方の基礎から理解するというやり方が功を奏するためには、哲学的基盤が必須のものだったと今ではそう思えます。 ネイティブからは冠詞を論理的に学ぼうなんてことは止めてしまえと言われました。It'll surely make you crazy. と言われたこともあります。止めなくてよかったです。  ともあれ、やっと冠詞学習のための基盤ができあがりました。だからといって、これで冠詞の勉強はおしまいというわけではありません。自分で気づいていなかった思わぬ盲点があるやもしれません。それに、こういうふうに教えた方がもっとわかりやすいのではないかと思いついて、それを実践してみるということがこれからもたぶんあると思います。  冠詞以外にも、例えばアスペクトに関してもう少し詰めておきたいとか、まだまだやりたいことがいろいろあります。急ぐわけではないので、これからはのんびり勉強(哲学の勉強も含めて)していきたいと思っています。 昨年9月から、長い間Nakayさんにお世話になりました。8000字に及ぶ回答をいただいた時は驚きました。毎回、大変な労力と時間を取って頂きました。私としてもいろいろ勉強させて頂きました。どうもありがとうございました。  しばらくこの質問サイトから離れますが、また、折りあらば訪れようと思います。それまでしばしのお別れです。ありがとうございました。 次回のNakayさんの返信を待って閉じたいと思います。今回、是非ともお答え頂きたいのは <外延が具体的な出来事だとした場合の内包>の話で私が示した新たな解釈です。ご返事お待ちします。

feeders
質問者

補足

再々度の回答ありがとうございました。 ●外延が具体的な出来事だとした場合の内包が命題である-という考えはやはり無理でしたか。 <一連の歴史的な出来事をそういう状況に見立てることは不可能ではないかも知れません。例えば、中世のペスト流行の時下での"Memento mori.-「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、" と、ボッカチオの『デカメロン』、フランスの「大勅令」(Grande Ordonnance)、イギリスの「ロンドンの大疫」(Great Plague of London) などが、「内包としての命題と外延としての出来事」の関係に対応すると解釈することはできそうです。>  -なるほど、そう考えればいいわけですね。  だとすると、その場合の内包をかなり言霊的な雰囲気の濃いものであるとするか、あるいはもしかしたら、<自分よりはるか高い、あるいは深いところに超え出ているもの>を想定することも可能なのでしょうね。私としては、形而上学的な議論は、自分の体験に取り込むことができる場合に限っているので、それを超えるレベルの考察は基本的にはひかえようと思っていますが、--ただし、議論ではなく、単に話題として(あるいは議論のための議論として)提出するのであ れば、クワインの言を待つまでもなく、<自分よりはるか高い、あるいは深いところに超え出ているもの>はいつだって話題に出すことができます。その意味でもう少し追究してみます。言語や哲学の議論ではなく、文学作品でならこういう言い方もありそうな気がします。  外延としての出来事はすべて、内包的なものとして存在する<永遠の舞台上の永遠の役者の永遠の演技>が地上の現実として現れ出でたるものである-というのはどうでしょうか。どこかで聞いたか読んだようなせりふですが。 ●<そのものが自分の一部であるようなものについては、大いに語る価値がある」にはもちろんですが、「<語りえぬこと>が自分を含まない、すなわち自分よりはるか高い、あるいは深いところに超え出ているものについては沈黙すべき」には一理も大理もあると思いますが、それを目指して問い続けることもそれと同じくらいに重要で、いや、もしかしたらもっと重要で、それこそ学の精神、真の形而上学と言えるかも知れないと考えます。> -そういう考えがあってもいいと思います。<自分よりはるか高い、あるいは深いところに超え出ているもの>からもたらされる指示にただ従うのは宗教のなせる技だと思いますが、<それを目指して問い続ける>ことであれば、人生のありようとして、たしかにあっていいことだと思います。形而上学を排除して<語りえぬこと>を一切語らせないようにして、その一方でちゃっかりキリスト教におんぶしてもらっている人たちの二重基準よりはるかにましだと思います。  ただし、その場合、問題が一つあるとおもいます。<語りえぬこと>を深いところまで追究し た者は、それを自分だけのものとして秘することはできません。あらゆる人間が言語共同体の中に住んでいるわけですから、追究者は、追究し得た内容を他者に表明しなければならないと私は思います。そうしなければならない、というよりおそらく自然にそうしてしまうのだろうと思います。 その場合、もちろん、論理は使えませんから、表明手段は相当に難しいものになります。人間には直感力も備わっているわけですから、全面的に理解不能と言うことはないと思いますが、直感力を持ってしても理解不能な場合が多々あると思います。その場合、共感力というべきものも発動されるのではないかと思います。  最終的には、<語りえぬこと>を語ろうとする者が直感的に体得したことを、語られる側も同じくすでに直感的に体得している場合でなければ、そして共感を持って理解が行われるのでなければ全面的な理解は不可能だろうと思います。大変な困難を伴うことです。それこそ、語る側のことばが強烈な言霊を宿していなければうまくいかないと思います。 こういうふうに考えると、論理でもってすべてこと足りると思いこんでいる哲学者達は随分楽天的というか、やりやすい仕事だけをやっている人たちだという気がします。 いずれにしても、言葉でもって語るしかないわけですから、言葉は普段にもまして重視されることになるでしょうね。後期のハイデッガーは<ことば>のありようの記述に相当に神経を使いましたが、それもわかるような気がします。もはや、論理を記述手段とする著作によっては思いを語れなかったのでしょうね。彼の著作は「存在と時間」以降は難解なものになっていきました。 著作自体が詩的なもので、何が書かれているのか判じがたいものもありました。もはや一般読者には手の届かないところにいたように思います。 前回の返信中で、語り得ぬことを<それが自分を含む、すなわち、その中にいて自分がその部分であるような、あるいは逆に、そのものが自分の一部であるようなもの>としましたが、言いかえると、たとえ論理的に説明できなくても、自分の実際の体験として理解できる(あわよくば他人に理解させる)ようなことを指してこのことばを使いました。  私はというと、これを<語り得ないことを語る>ときの基準にしています。というのは、所詮語るのは自分自身ですから、自信を持って語るためには、それがインスピレーションのようなものであれ、トランス状態のようなものであれ、少なくとも自分が体験したことでなければならないと考えます。そうすると、我思うに我ありと感得したデカルトのインスピレーションは私自身のものではありませんから、無意味なものです。もちろん、論理的にも成り立ちません。無限後退を止めるために「神」を持ち出さなければなりませんから。 又、前回の返信でこうも言いました。<論理でとらえきれないものを直感でもってとらえようとする時、独りよがりのものにならないように算段し、思考を繰り広げること、そして基盤といってふさわしいものを見いだそうとすること-これが私の言う形而上学です> 究極の真理などというものではなく、自分自身の、ひいては人間一般の基盤をなすものでなければ語る意味がないと思います。基盤は生きてあることの基盤ですから、基盤は当然心と体を持たなければなりません。(念のために付言しておきますが、このような発想は私自身が独自に思いついたことではなく、ハイデッガーの考えにヒントを得て思いついたものです)  この観点からすると、デカルトの<考える我>は身体も情感も持たないものなので基盤たり得ません。カントの想定した認識のアプリオリな悟性能力にも同じことが言えます。カント哲学に対してハイデッガーは存在論的な基礎づけを(そのやり方が正しいものであったかどうかは別にして)行いました。 先ほど<論理でとらえきれないものを直感でもってとらえようとする時、--->という言い方をしましたが、そもそも形式論理で物事をとらえきることが可能なのかという問題があります。 これまでにもお話ししましたが、論理でもって突き詰めようとすると必ず無限後退を生じます。後退を止めるためには遡及不可を宣言する基盤を設定することになるわけが、その基盤がどのようなあり方をするものかを語るのが形而上学の真骨頂だと思います。  以前お話ししたと思いますが、人間が持つ合理性、世界が持つ合理的秩序(斉一性)、言語(共同体)の存在、世界内存在の4つは基盤中の基盤だと言うにふさわしいと思います。(世界内存在という基盤について語ったのが「存在と時間」です)。基盤を起点にして論理展開を行うのではなく、人間がそれなしでは生きることのできない基盤についてそのありようを語るのが形而上学であり哲学の本来のありようだと思います。  だとすると、私の考えでは、分析哲学者の仕事は、言語のありようについて語るという点だけに限れば、形而上学の一つだとも言えると思います。 長くなりましたが、要するに、<自分よりはるか高い、あるいは深いところに超え出ているもの---を目指して問い続けること>には制約があると、私自身は思うので、それについて述べさせて頂きました。もちろん、私以外の人に対して自分の正しさを示すことは不可能です。こういう考えもありますと言ってるにすぎません。 残りはお礼に入れます。

  • Nakay702
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回答No.6

(その2) @「言霊は文レベルにも発現するのか」の考察の二番目のポイントは、「言霊が宿ると思われる概念がどのように働くか」についてです。概念は心の中のものなので、言語主体から切り離されることはありません。また、たくさんの概念同士が互いに切り離されることもありません。/Spring has come. The wind is mild, the air is sweet, the leaves are becoming green and the flowers are blooming. wind, air, leaves, flowers は季節に応じた風物を構成する要素です。これらはspringという概念から連想される概念群です。概念であると同時に実体でもあるので、実際に手で触れたり、匂いをかいだりすることができます。個々の風物はspringという概念によって連想的に呼び起こされた概念です。これらは話者の居住地域における春の風物のうちの典型的なもの、すなわちデフォルト要素を構成するものなのでtheがつきます。/この場合のtheは話者にとって親しみを感じさせるものだと言えます。theがついた瞬間に概念ではなくなるので、各要素はその分だけ話者とのつながりを損ないますが、theによって新たな結びつきを得ています。Jespersenはかつてtheの持つ親しさに言及しましたが。この親しさは 言霊が変質したものと考えるべきなのかも知れません。 ⇒Jespersenの言及した「theの持つ親しさ」を、言霊の変質したものと考えることに同感です。ある種の「既知感」=「つながり(の復活)感」がそうさせるのかも知れませんね。先に触れたアナログとデジタルの違いについても、アナログが連続(つながり)を、デジタルが不連続を感じさせることに関連するでしょう。自然の実態は連続体なのに、それを人間の分析・分節方式が分解するわけですね。その観点から見ると、古来日本の「音義説」、特にそのうちの「一音一義説」は、擬音的類似関係が大きな要素となるのは間違いないとしても、一部にはその固有音への馴染み・親しみ・つながりなども無関係ではないと思います。まさしく言語は心理的存在ですね。 @では、何がこうした連想を可能にするのかということですが、それを可能にしたのは言霊的なものだと思われます。言霊の発現には、発話者の心情と発話状況の切迫という要因も関係すると思われますが、発話者の心情が大きく関与していると思われます。語レベルで存在するこうしたつながりが文レベルでも存在するかということですが、その分析にかかります。/<春がやってくる>という概念的な出来事をどうすれば表現できるかということですが、to come又は原形のcomeを使えばいいはずです。例えば、The village people saw spring come early. においてspringは無冠詞です。概念です。comeは原形です。概念です。このように、主語と動詞の組み合わせを文の主たる構成要素ではなくネクサスの形にすれば、出来事を表すことができます。/言霊が語レベルに留まらず、文レベルにおいて、ネクサスという形で発現することを示しました。 ⇒個人的な感覚で言えば、ネクサスという形の文レベルにおいて言霊が発現することには全く同感ですが、そこまでいかなくても、例えば、特定語句、共起関係、文型、構文などの組合せ次第で、いかなる文型でも大なり小なりそれはあり得ると思います。ただ、大ざっぱな順位づけは可能かも知れません。"Abracadabra" に続くと見られる表現や、旧約の冒頭「神は『光あれ』と言われた。すると、光があった」などとともに、ネクサス形の文も上位に並ぶことでしょう。また、コンラッドという作家は、「人間は、自己の想像することを最も怖れる」というようなことを言ったそうですが、これなど、いかに表現(内容)と言霊が一体である(と意識される)ことを表しているか、その度合いを計り知れないほどです。 @Deleuzeの考えを借りると、1つの文は1本の木に例えることができます。その地上部分は時空を持つ外延的表現及びカテゴリー表現が占め、それらは獲得知識の効率的運用と管理のために重層的な階層構造を織りなします。地下部分は概念的なもの(例えば<モノ>であれば無冠詞名詞、<動き>であれば原形)で占められることになります。概念は必ず他の概念とつながりを持ちますから、それら同士が複雑に絡み合っているはずです。Deleuzeによればリゾーム状のつながりだそうです。地上部分においては<モノ>と<動き>は限定詞と時制システムによって複雑なものになりましたが、<モノ>と<動き>以外の言葉もあいまって、表現が多彩で豊かでかつ情報量の多いものになりました。でも、言葉同士のつながりと、言葉と人間とのつながりが薄れ、疎遠化が進行しました。ただし、地上部分と地下部分は相互に行き来があるので、地上部分は地下部分の概念的なものから言霊の補充(例えば無冠詞や原形の使用)が常に可能なはずです。場合によっては、地上部分に概念的なものを創り出すことも可能なはずです。/言霊は果たして概念的なものに限られるのでしょうか。その問いに対する私の答えは否です。概念的な表現がそれほど多くない文章を読んでいて思わぬ感動を受けることがあります。その時、言霊が自らが宿るはずの概念を経由せずに、その文章から発露したことになります。なぜそうしたことが起きるのでしょうか。/言霊の発露は、概念を無冠詞や原形という形で言語化することによってのみ発露するものではないはずです。言葉において人間の心象風景と深く関わるのは概念であり、その概念を奥底で支えるのは言霊だと思います。/当然のことですが、言霊の存在は論理でもって、ましてや科学によって示されるものではありません。人間の心情のみがその存在を見いだします。ハイデッガーはかつて言霊が見いだされる場所を、「明るみ(Lichtung)」と呼びました。私はハイデッガーの哲学はあまり好きではないのですが、この言葉だけは深く印象に留めています。/ハイデッガーやドウルーズならどのような感想をくれるでしょうかね。きっと、「二番煎じの話など聞きたくもない」でしょうね。 ⇒しかも根茎には、ヒェラルキーもないし、面倒な規則もなく、散漫に広がっているので、出入り自由、つまり、周囲からいろいろなことを取り込んで地上部へ伝えられるから、表現がますます多彩になる、というものですね。ドウルーズの思想は、よく分かりませんが、独断と偏見で言わせていただくなら、生哲学、ゲシュタルト心理学、生理性主義などに独自の修正合理主義を加えたような、いわば「新柔軟構造主義」といったところでしょうか。 ところで、「どのような感想をくれるでしょうか」ですか。私には、「よく消化し、よく洞察し、観照の域まで行ったね」と言っているように聞こえました。

feeders
質問者

お礼

  ありがとうございました。

feeders
質問者

補足

 再再度の回答ありがとうございました。 私の考えにおおむね賛同して頂き、ほっとしています。 ●<⇒印欧基語(Ursprache) の発達史によれば、時制より相、つまり、完了・不完了の別を表現する仕組みの方が、現在や過去・未来を表現する仕組みより早く発生した、とあります。これまた、うべなるかなです。例えば、「かがり火が昨日消えた」などより、「かがり火が消えてしまった」という表現の方がよほど重要だったに違いありません。その後、言語意識の発達とともに時制表現の仕組みが出現するに及んで、仰せのように、「人間が限定詞や時制のシステムを創り出すことによって、<モノ>と<動き>が言語使用者との結びつきを弱めていった」ことは《火を見るより》明らかで、その結果、確かに「ここでも、発話者や聞き手との直接的なつながり」が希薄化しましたね。> -<時制より相、つまり、完了・不完了の別を表現する仕組みの方が、現在や過去・未来を表現する仕組みより早く発生した>ことは存じています。また、時を表す副詞の方が時制より早く発生したことも知っています。ということは、昔は、日本語の時を表すシステムとそう変わりがなかったのかなという気がしています。現在や過去・未来を表現する仕組みがどのように発生したかも一応は知っているのですが、暇ができたらそのあたりの事情を再確認して、整理しようと思っています。もちろん、哲学的な基盤を含めての話です。 ●<「表現される内容が事実に関するものであれば、定冠詞的状況で、反復する可能性のある出来事だと不定冠詞的状況を表す」。この違いが言霊に関わるということに存するカラクリは、おそらく「定冠詞的状況と不定冠詞的状況と」がそのまま、「特定感と不特定感と」を喚起することにつながるからでしょう。私はそのように解釈したいです。> -もちろん私もそう思います。 (なお、We learned that the roundness of the earth.はthatの削除忘れ?)> -そうです。まさに削除し忘れです。書き上げた後で見直しはしているつもりなのですが。 ●<Jespersenの言及した「theの持つ親しさ」を、言霊の変質したものと考えることに同感です。ある種の「既知感」=「つながり(の復活)感」がそうさせるのかも知れませんね。>  -「theの持つ親しさ」=言霊の変質説に賛同して頂いたわけですね。こう考えるしかありませんよね。 ●<個人的な感覚で言えば、ネクサスという形の文レベルにおいて言霊が発現することには全く同感ですが、そこまでいかなくても、例えば、特定語句、共起関係、文型、構文などの組合せ次第で、いかなる文型でも大なり小なりそれはあり得ると思います。>  -私もそう思います。ただ、ここまでの論においては言霊が概念に宿るケースと定冠詞に宿るケースを主体に分析してきたので、それ以外の文法項目については触れませんでした。もっと後の方で、少しだけ言及しています。こう述べています。<言霊の発露は、概念を無冠詞や原形という形で言語化することによってのみ発露するものではないはずです。> ●<しかも根茎には、ヒェラルキーもないし、面倒な規則もなく、散漫に広がっているので、出入り自由、つまり、周囲からいろいろなことを取り込んで地上部へ伝えられるから、表現がますます多彩になる、というものですね。> -私のそのように思います。 ●<ドウルーズの思想は、よく分かりませんが、独断と偏見で言わせていただくなら、生哲学、ゲシュタルト心理学、生理性主義などに独自の修正合理主義を加えたような、いわば「新柔軟構造主義」といったところでしょうか。> -彼の著作は読みにくいですね。概念規定が曖昧なまま次から次へと新たな言葉が登場します。自分の著作が相当の価値を持つものだとドウルーズ自身もわかっているはずです。だったら、自分も属する読解共同体の中で主導権を握るドウルーズ自身が、言葉の定義をできるだけわかりやすく行うべきだと思います。また、もっと読みやすいものにするべく努力すべきだと思います。内容的にはハイデッガーの存在論と同じようなものだと感じました。ただ、切り口が異なるというか力点が違うように思います。 生哲学を受け継いでいることはたしかです。ハイデッガーはディルタイに師事しましたが、ドウルーズはベルグソンに指示したようです。それ以外には存在論が主体ですね(彼独自のものもあるようですが、ハイデッガーの影響も大きいと思います)。 ●「どのような感想をくれるでしょうか」についてのコメントを頂き、ありがとうございました。今回の論においては、彼らの考えの一部を参考にしましたが、それほど外れてはいないだろうという気がします。 ●一つ追加で質問したいことがあります。  出来事の分析の際にふと思いついたのですが、諸々の出来事が定冠詞的状況であれ、不定冠詞的状況であれ、それらを外延的な事象ととらえることができるのではないでしょうか。その場合、内包的な事象は何だろうと考えてみました。もしかして、命題を内包とした時の外延が出来事だと言えそうな気がしますが、これは考えすぎでしょうか。この考えが正しいとしたら、命題は言霊を生み出す可能性を持ったものであって、外延化の行われ方次第で、定冠詞的状況、不定冠詞的状況、無冠詞的状況のどれもが生み出されると言えそうな気がします。いかがでしょうか。  なお、ドウルーズの場合は、外延が具体的な出来事だとした場合の内包は、かなり言霊的な雰囲気の濃いもののような気がします。でも、これ以上この問題を追いかけることはしません。形而上学的な話題には、一定の制約がかかるべきだと思うのです。

  • Nakay702
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回答No.5

「質問者からの補足」ありがとうございました。 (字数制限超過のため、2つに分けて投稿します。) (その1) @孤独化は言葉がきつすぎました。疎遠化くらいが穏当だったように思います。 ⇒何という偶然、いや、偶然ではないかも知れません。私も、そのくだりを読んだ時、まず頭に浮かんだのが「疎遠化」という言い換えでした。 @不可算名詞には、可算名詞における不定冠詞と同様の働きを行うsomeなどの限定詞がつけられることになりました。Give me water please! において表出された言霊はGive me some water please! となることで、表出不能になりました。/今後、不定冠詞や不定限定詞のついた名詞の使用が増えてゆくと予想されますが、それにつれて人間は言語との関わりにおいて濃密さや暖かみに欠けてゆき、又、他者とのつながりにおいてますます疎遠になってゆくものと思われます。 ⇒「不定冠詞や不定限定詞のついた名詞の使用が増えてゆくにつれて、人間は言語との関わりにおいて濃密さや暖かみに欠けてゆく」という可能性、確かに、考えられると思います。英和辞典によれば、someの語源はsumとのこと、うべなるかなです。このような変化の背景的状況として、「数」の意識化が関連するだろうと推測するのは難くありません。このような「分科的・計数的思考」と「相互関係性」との逆比例は、直近の例で言えば、アナログからデジタルへの移行に伴う意識変化が挙げられるかも知れません。私はそれを目の当たりにしたとき、それを「離反と疎遠化」を如実に実感した記憶があります。 @<モノ>でなく<動き>を表す語の場合は、時制システムが整うことによって、それまで無時間的な概念だった原形動詞が時間を表すようになりました。ここでも、発話者や聞き手との直接的なつながりが弱まりました。/結局、人間が冠詞を含む限定詞や時制のシステムを創り出すことによって、<モノ>と<動き>が言語使用者との結びつきを弱めていったことになります。一つの論理的整合性を備えた文の体系、すなわち言語体系は、それが発展すればするほど(言葉との関係で言うと)人間の孤独を深めていったのではないかと思います。 ⇒印欧基語(Ursprache) の発達史によれば、時制より相、つまり、完了・不完了の別を表現する仕組みの方が、現在や過去・未来を表現する仕組みより早く発生した、とあります。これまた、うべなるかなです。例えば、「かがり火が昨日消えた」などより、「かがり火が消えてしまった」という表現の方がよほど重要だったに違いありません。その後、言語意識の発達とともに時制表現の仕組みが出現するに及んで、仰せのように、「人間が限定詞や時制のシステムを創り出すことによって、<モノ>と<動き>が言語使用者との結びつきを弱めていった」ことは《火を見るより》明らかで、その結果、確かに「ここでも、発話者や聞き手との直接的なつながり」が希薄化しましたね。 @言霊は語レベルに留まるものか。考察のポイントは二つあります。一つ目は、文が表すものと冠詞との関わりについてです。文においては事実や出来事が表現されます。ということは、文においては定冠詞的状況が表出される(事実や出来事は特定の唯一のことです)と言えます。(…)言語使用者と出来事との間に密接な関与が存在すると言えます。表現される内容が事実に関するものであれば、どのようなものであっても定冠詞的状況です。事実は一つに決まるものだからです。We learned that the earth is round. →We learned that the roundness of the earth. ところが、反復する(可能性のある)出来事だと不定冠詞的状況を表します。R: Long ago, asteroids crashed into the earth many times, and it caused great damage to dinosaurs. →Long ago, a repeated crash of asteroids into the earth caused great damage to dinosaurs. 1回の特定の出来事ではないので、聞き手はその出来事を唯一的に思い浮かべることができません。出来事との関与が密接なものではなく散漫なものになっています。つまり、不定冠詞的状況は言語使用者と出来事との結びつきを弱めるものだと言えます。/「出来事は文の形で表される限り無冠詞的状況を表すことはない」と結論づけることができます。 ⇒「表現される内容が事実に関するものであれば、定冠詞的状況で、反復する可能性のある出来事だと不定冠詞的状況を表す」。この違いが言霊に関わるということに存するカラクリは、おそらく「定冠詞的状況と不定冠詞的状況と」がそのまま、「特定感と不特定感と」を喚起することにつながるからでしょう。私はそのように解釈したいです。(なお、We learned that the roundness of the earth.はthatの削除忘れ?)。

  • Nakay702
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回答No.4

以下、お答えします。といっても、想像したこともないテーマですので、考えあぐねました。少なくとも私にとっては、未知も同然でした。それで、「我々は未知・未来を考えるために過去という倉庫を訊ねる」というオルテガの言葉を思い出して、関係ありそうな文献を漁りました。時間がかかった割には、骨折り損でした。新しい切り口の発問だと知りました。お答えしてもお役に立てないと思い、しばらく回答を躊躇していました。 @確認事項は、無冠詞・定冠詞・不定冠詞が言語使用者の生活や考え方とどのような関わりを持ったかについてです。冠詞の発生以前の状況から考察を試みますが、参考文献として、英語の発達や歴史についての文献5冊とChristophersonによる研究書を利用しました。歴史的考証以外に推論が必要な個所においては私独自の見解を前面に出しました。 ⇒既述のとおり、昔の資料(言語学概説・方法、言語社会学、言語心理学、言語地理学、歴史言語学、イエスペルセン、ソシュール、ブルームフィールド、ホワットモー、チョムスキー…)漁りをしました。いずれも埃まみれで、下線や書き込みがあちこちにあるのですが、古いものばかりで本テーマについて示唆となるよう文献には出会いませんでした。そんなわけで、ここはやはり、臨機応変、自力で考えるしかないことを痛感した次第です。 @まず言葉の発生。最初に登場した言葉が<モノ>を名づけることによって発生したことは確実だと思われます。<動き>を表す語はその多くが身振りによって表現可能だったはずですから、<モノ>の名より登場が遅れたはずです。最初に登場した名詞が固有名か普通名かはわかりませんが、例えば"Dinosaur."だったと仮定します。 ⇒最初に登場した名詞を(FireとかFood辺りかと思いきや)"Dinosaur."と仮定、ですか。この辺りからして斬新で面白いです! 「最初に登場した言葉が<モノ>を名づけることによって発生したことは確実だと」は、ほぼ間違いないところでしょう。概説書などによると、言語の起源は、擬音語説、感嘆叫び声説、協働説などがあるそうです(私はこれらの混合説が最もあり得そうだと思います)が、いずれもお説の反論になりそうな事柄には見えません。ついでの付け足しですが、蜜蜂、鳥類、類人猿なども伝達のために何らかの「言語的」手段を用いるそうですし、アヴェロンの野生児やアマラとカマラを文明社会に連れ戻してから言葉を教えても、2, 3の語(「牛乳」など)を覚えただけで、文は使えなかったそうです。要するに、言語使用に関わる原初的な反応様式は「語(名詞)とそれを表すしぐさ」の表出である、と言えそうに思います。 @この時のdinosaurという言葉は現代の我々には想像もつかぬイメージ喚起力を持っていたと思われます。その力をここで言霊と名づけておきます。その力は内在するものでありながら、その発現には、発話者の心情と発話状況の切迫という要因も加わっていたはずです。恐らく言葉の発生期においては、言葉はそうした特別の状況において言霊的なものを宿していたと思われます。/文中に収められたdinosaurは言霊の持つ力を減じます。言霊は発話者の心の中のイメージを心情と共に外部に放つものですが、文中に収められることによって、他の言葉と協働することに力をそがれるからです。 ⇒言葉の発生期においては、言葉が言霊的な力を宿していたと思われるとのこと、あり得ることと思います。構文の形式が未だ十分整っていなかった頃とて、イメージの中で言葉そのものとそれが指し示すものとの連合や一体性が強かったことでしょう。それがいわゆる呪文の起源の1つになったものと推測されます。ところが、仰せのように、「文中に収められた言葉は言霊の持つ力を減じる」ことになりますね。それは、言葉が文中に取り込まれることでそれを用いる人間との直接対峙の関係が薄まり、一連の表現を構成する一要素に落とし込むことになるからでしょうね。一方、それを用いる人間の側は、言葉の素性や仕組みを知り、伝達の具として活用するに従って、言葉の霊的側面から解放されるわけですね。 @人間集団の規模が大きくなり複雑化するにつれ、コミュニケーションの円滑化が必要とされるようになりました。そうした観点から、普通名に対して特定の一つのものを指示する必要が生まれ、指示詞が登場しました。さらに、それから分化・発達して定冠詞が生まれました。定冠詞は指示詞のような直接指示を行わず、間接的な指示を行うものです。それによって、聞き手が見聞きしている場所と時以外でも<モノ>の特定ができるようになりました。/文中で使われ、指し示す働きを持つ指示詞や定冠詞と共に使われる時、時間的・空間的制約が生まれ、同時に発話者との間に隔たりが生まれました。人間が言葉とのからみで孤独になった瞬間です。 ⇒言霊の呪縛は免れたものの、今度は言葉が新しい機能を持つことによってそれが言語使用者を制約し、拘束するわけですね。指示詞や定冠詞と人間が言葉とのからみで孤独化するという経緯の妥当性はよく分かりませんが、少なくとも人間に対する言語の制約は、まさに「サピア・ウォーフの仮説」の示唆するとおりだと思います。 @(Jespersenは定冠詞の働きを親密性という観点でとらえました)。なお、定冠詞の機能が限定の場合は、話者と指示物との間に、間接指示の場合ほどの密接な関係は生まれません。そのうち、普通名のうちで数えられるものと数えられないものの区別の必要性が増大し、数えられるものを表す指標として不定冠詞が生まれるわけですが、その前段階で登場したのが数です。/言葉の管理システムである言語体系において、数えられるものを表す指標が必要になりました。それが- s -でした。これは何かが2つ以上(more than one)存在することを表すものでした。ところが、これだとslavesが一つだけで存在する時slaveとなり、数えられないものであるoilと同じ形を取ることになります。そこで、両者を形態面で区別するために、数えられるものが一つだけで存在する時の標識が必要とされたものと推測されます。ここに登場したのが、一つを表すoneから派生したa(n)です。 ⇒「Jespersenは定冠詞の働きを親密性という観点でとらえた」とのこと、気持ちは分かるような気がします。ギリシャの文法家には、人称代名詞を定冠詞と呼び、その他の代名詞を不定冠詞を呼んだ人がいるそうです。また、日本語の「は」は、定冠詞の役目を果し、「が」は、不定冠詞の役目を果すと言う国語学者もいます。少しそれますが、「サハラ砂漠で蝶々が羽ばたけば、タクラマカンで嵐が起こる」と言った人がいました。その意味は、サハラとタクラマカン、地球上のいろいろなところ、いろいろなこと、出来事、考えること、その他諸々がやんわりと繋がっている、決して無縁ではない、ということのようです。 @定冠詞が空間的・時間的な制約を持ち込むものだったのに対して、不定冠詞はその制約を一つのまとまりのあるものとして示すことになりました。この時点で、不定冠詞登場以前に可算・不可算名詞の双方を表していた無冠詞形は大幅に役割を縮小させました。この時点で、不定冠詞は聞き手に対して、名詞が可算のものであるという情報を与えることになりました。不定冠詞をつけられた<モノ>に対して、人間は、無冠詞名詞が持つ他者との密接な結びつきも、定冠詞名詞が持つ<モノ>との親密な関わりも持てなくなりました。この時点で、人間は<モノ(他者一般も含みます)>との関わりにおいて言葉を介した有機的なつながりを大きく損なってしまいました。同時に、発話者は聞き手とのつながりも喪いました。/定冠詞は聞き手に何かが唯一特定可能なものであることを示す働きを持っていましたが、その特定可能なものは情報伝達という観点から見ると既知情報を表します。でも、ある情報が既知情報になるためには、その前段階において、その情報は聞き手にとって新情報だったはずです。/a motherは<私>と関わりのない母親です。the motherは<私>がこういうものだろうと了解している母親です(知り合いかも知れません)。theの代わりにmyを使えば<私>とのつながりを表明できます。φmotherは<私>ともともとつながりのある母親です。この時点で<モノ>を表す言葉は、その働きの大半において、単なる情報の伝達と蓄積を行うものになってしまいました。情報は相手に何かを使える際に時間と空間という形式を伴ったものです。話者も聞き手もそうした情報を客観的に扱うことができるようになりました。 ⇒お説の「冠詞の発達と言語意識の変遷について」全体を通観して感じたことはこうです。誰も実際を見たことはないのですから、あくまでも仮説を立てるしかないわけですが、そのための推論としてお説は至極自然で、ほぼ全てが納得(少なくても了解)できると言えます。 ところで、かつて私はルーマニア語をかじったことがあるのですが、その時知って驚いたことがあります。何とルーマニア語では冠詞が名詞の後ろに結合するのです。「後置前置詞」と言われます。「たら・れば」は無意味かも知れませんが、もし英語に後置前置詞の用法があったら、不定冠詞複数形ができていた、もしくは、複数表示詞の「's」に分掌させたかも知れませんね。

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質問者

お礼

残りです。 この場合のtheは話者にとって親しみを感じさせるものだと言えます。theがついた瞬間に概念ではなくなるので、各要素はその分だけ話者とのつながりを損ないますが、theによって新たな結びつきを得ています。Jespersenはかつてtheの持つ親しさに言及しましたが。この親しさは 言霊が変質したものと考えるべきなのかも知れません。 では、概念が文中で発語されると、こうした連想が必ず起きるのかということですが、そうではないと思います。実際、何気なく概念や概念的表現を文中で使う人はいくらでもいますし、それを聞く側(話す側も)が必ずしも連想をふくらませるわけではありません。 では、何がこうした連想を可能にするのかということですが、それを可能にしたのは言霊的なものだと思われます。言霊の発現には、発話者の心情と発話状況の切迫という要因も関係すると思われますが、発話者の心情が大きく関与していると思われます。 では、語レベルで存在するこうしたつながりが文レベルでも存在するかということですが、その分析にかかります。例えば<春がやってくる>という出来事を文にする時、1回の特定の出来事として名詞句を使って言い表すのであればthe coming of springとします(of spring以下の限定が強く感じられるためtheがつく場合もありますが、このケースは無視します)。  反復する(可能性のある)出来事ととらえて名詞句で表すときはa coming of rainです。そのどちらでもない<春がやってくる>という概念的な出来事をφcoming of rainで表すことはできません。この出来事が主語(春)と動詞(やってくる)を持つために、空間的・時間的制約が生じるからです。すなわち冠詞を使うことが必須だからです。 では、<春がやってくる>という概念的な出来事をどうすれば表現できるかということですが、to come又は原形のcomeを使えばいいはずです。例えば、The village people saw spring come early. においてspringは無冠詞です。概念です。comeは原形です。概念です。 このように、主語と動詞の組み合わせを文の主たる構成要素ではなく(Jespersenが提唱した)ネクサスの形にすれば、出来事を表すことができます。 ここで<see spring come>を起点としてどのような概念的な語句が思い浮かぶか考えてみます。単線的な連想を行ってみます。例えば、<see spring come>→<feel the air become warm>→<see seeds sprout>→<see flowers grow>→<see the flowers bloom >→<see insects and birds visit the flowers> --- これらはすべてつながりを持ちます。 以上、言霊が語レベルに留まらず、文レベルにおいて、ネクサスという形で発現することを示しました。なお、ここでは原形動詞が取りざたされましたが、want spring to comeというふうに不定詞の使用も可能です。 ところで、Deleuzeの考えを(部分的に)借りると、1つの文は1本の木に例えることができます。その地上部分は時空を持つ外延的表現及びカテゴリー表現が占め、それらは獲得知識の効率的運用と管理のために重層的な階層構造を織りなします。地下部分は概念的なもの(例えば<モノ>であれば無冠詞名詞、<動き>であれば原形)で占められることになります。概念は必ず他の概念とつながりを持ちますから、それら同士が複雑に絡み合っているはずです。Deleuzeによればリゾーム状のつながりだそうです。  地上部分においては<モノ>と<動き>は限定詞と時制システムによって複雑なものになりましたが、<モノ>と<動き>以外の言葉もあいまって、表現が多彩で豊かでかつ情報量の多いものになりました。でも、言葉同士のつながりと、言葉と人間とのつながりが薄れ、疎遠化が進行しました。  ただし、地上部分と地下部分は相互に行き来があるので、地上部分は地下部分の概念的なものから言霊の補充(例えば無冠詞や原形の使用)が常に可能なはずです。場合によっては、地上部分に概念的なものを創り出す(例えば冠詞の脱落によって)ことも可能なはずです。固有名詞やモダリティ-の表現もそうしたものの一つです。 最後に考えてみたいことがあります。おそらくきわめて本質的な問いだと思われるのですが、言霊は果たして概念的なものに限られるのでしょうか。その問いに対する私の答えは否です。概念的な表現がそれほど多くない文章を読んでいて思わぬ感動を受けることがあります。その時、言霊が自らが宿るはずの概念を経由せずに、その文章から発露したことになります。  なぜそうしたことが起きるのでしょうか。この問いに答えるために、ここで、そもそも言霊がどういうものだったのか振り返ってみます。  "Dinosaur."と突然発せられるこの言葉の発するイメージ喚起力の発現には、発話者の心情と発話状況の切迫という要因も加わっていたはずです。だとすると、発話者の心情と発話状況の切実さが話者によって、文中で、誠実かつ適切に、かつまた効果的に表現されることが言霊を発露せしめるのではないかと思います。言霊の発露は、概念を無冠詞や原形という形で言語化するこによってにのみ発露するものではないはずです。 言葉において人間の心象風景と深く関わるのは概念であり、その概念を奥底で支えるのは言霊だと思います。だとすると、言語活動において、poemsやlyricsのみならずproseにおいても言霊が関わってきたはずです。また、言語芸術に限らず、美術や音楽においても常に言霊が関わっていると言えるはずです。人間はこれまでそうしたものに随分心を動かされてきました。もちろん、それは芸術に限らず、日々の暮らしにおいてもそうでした。  ただし、当然のことですが、言霊の存在は論理でもって、ましてや科学によって示されるものではありません。人間の心情のみがその存在を見いだします。ハイデッガーはかつて言霊が見いだされる場所を、「明るみ(Lichtung)」と呼びました。私はハイデッガーの哲学はあまり好きではないのですが、この言葉だけは深く印象に留めています。  最後の最後に、これこそ形而上学というか存在論というかそういうふうな話にたどり着きました。今回の話は、私にとって、長年勉強してきた哲学に対するささやかなるオマージュとも言うべきものです。ハイデッガーやドウルーズならどのような感想をくれるでしょうかね。きっと、「二番煎じの話など聞きたくもない」でしょうね。  以上です。ご意見を賜りたいと思います。 ついでですから、形而上学ということについて私の意見を述べておきます。これまでこの言葉を何度か出しましたが、我々のはるか高みにある究極の真理を求める学という意味では私は使っていません。論理でとらえきれないものを直感でもってとらえようとする時、独りよがりのものにならないように算段し、思考を繰り広げること、そして基盤といってふさわしいものを見いだそうとすること-これが私の言う形而上学です。相当狭い意味で使っています。今回取り上げた言霊はそうした学の対象としてふさわしいものだったと思います。 ところで、ヴィトゲンシュタインは思考の限界を論理の限界であると主張し、「(言語によって-すなわち論理によって)語りえぬことには沈黙するしかない」と言明しました。彼はその後自分の誤りに気づいて30年かけて自説の誤りを正しました。その語、論理実証主義者とそれに続く分析哲学者が「語りえぬこと-それを形而上学と呼びました-には沈黙するしかない」を引き継ぎ、その主張が根拠も持たないものであることが判明するまでに数十年を要しました。というわけで、ヴィトゲンシュタインの言明時点まで差し戻されたわけです。 「語りえぬことには沈黙するしかない」には私も同感です。<語りえぬこと>が自分を含まない、すなわち自分よりはるか高い、あるいは深いところに超え出ているものについては、たしかに沈黙すべきだと思います。語ることに意味がありませんから。でも、それが自分を含む、すなわち、その中にいて自分がその部分であるような、あるいは逆に、そのものが自分の一部であるようなものについては、大いに語る価値があると考えます。今回とりあげた言霊ももっと考察の対象になってしかるべきだと思います。 以上です。

feeders
質問者

補足

回答ありがとうございました。 ●昔の資料をいろいろ漁られたとかでお手間を取らせました。感謝しています。 ●<それは、言葉が文中に取り込まれることでそれを用いる人間との直接対峙の関係が薄まり、一連の表現を構成する一要素に落とし込むことになるからでしょうね。一方、それを用いる人間の側は、言葉の素性や仕組みを知り、伝達の具として活用するに従って、言葉の霊的側面から解放されるわけですね>  -私もそのように考えます。 ●<指示詞や定冠詞と人間が言葉とのからみで孤独化するという経緯の妥当性はよく分かりませんが、少なくとも人間に対する言語の制約は、まさに「サピア・ウォーフの仮説」の示唆するとおりだと思います> -その通りだと思います。孤独化は言葉がきつすぎました。疎遠化くらいが穏当だったように思います。 ●全般的に賛同して頂いて安心しました。 これ以降は前回の話の続きです。  ところで、不可算名詞には、可算名詞における不定冠詞と同様の働きを行うsomeなどの限定詞がつけられることになりました。Give me water please! (waterは実体ですが同時に概念でもあります)において表出された言霊はGive me some water please! となることで、表出不能になりました。現代英語では、不可算名詞をカテゴリー(すなわち概念)ではなく実体として表す時、何らかの限定詞を付与するのが普通のことになっています。 今後、不定冠詞や不定限定詞のついた名詞の使用が増えてゆくと予想されますが、それにつれて人間は言語との関わりにおいて濃密さや暖かみに欠けてゆき、又、他者とのつながりにおいてますます疎遠になってゆくものと思われます。 ところで、<モノ>でなく<動き>を表す語の場合は、時制システムが整うことによって、それまで無時間的な概念だった原形動詞が時間を表すようになりました。ここでも、発話者や聞き手との直接的なつながりが弱まりました。"A dinosaur is rushing towards us. Run away. Hurry up!" において、状況的にはかなり切迫しているにもかかわらず、is rushingという語自体は言霊を放ちません。(もちろん、A dinosaur is rushing towards us. という文の意味そのものが言霊を持つとも言えますが、その件はもっと後で考察します。とりあえず、当分は概念が持つ言霊に議論の焦点を絞ります)。 "Run away. Hurry up! において発せられる言霊は原形(概念)だからこそ発せられるわけです。又、A dinosaur は"Dinosaur." と違って言霊を発することはありません。 結局、人間が冠詞を含む限定詞や時制のシステムを創り出すことによって、<モノ>と<動き>が言語使用者との結びつきを弱めていったことになります。一つの論理的整合性を備えた文の体系、すなわち言語体系は、それが発展すればするほど(言葉との関係で言うと)人間の孤独を深めていったのではないかと思います。もちろん、概念及び概念的表現は相変わらず使われ続けるわけですから、語が持つべき言霊が完全に喪われたわけではありません。  ここで、言霊は語レベルに留まるものか-言いかえると文レベルにも発現するのかという問題について考えてみたいと思います。基本的には私の独自の考えを述べることになりますが、部分的にハイデッガーとドウルーズの考えも参考にします。考察のポイントは二つあります。 一つ目は、文が表すものと冠詞との関わりについてです。文においては事実や出来事が表現されます(事実とは、出来事のうち、実際に起きたことであることが100%検証済のものだとしておきます。事実は反復することはありません)。  ということは、文においては定冠詞的状況が表出される(事実や出来事は特定の唯一のことです)と言えます。 例えば、P: Long ago, asteroids crashed into the earth, and caused the dinosaurs to die out. という特定の状況を名詞句で言いかえると、Long ago, the crash of asteroids into the earth caused the dinosaurs' dying out / the dying out of the dinosaurs. となります。the crash, the dying out of the dinosaur ( the dinosaurs' dying out )というふうに定表現が使われます。  確定していない未来のことでもやはり定冠詞的状況として述べられます。 Q: If viruses totally resistant to vaccine should appear, the human beings might die out. →The appearance of viruses totally resistant to vaccine might cause the dying out of the human beings. P, Qは特定の出来事について述べています。1回の特定の出来事なので、聞き手はその出来事を唯一的に思い浮かべることができます。少なくとも、何の話だろうと惑うことはありません。言語使用者と出来事との間に密接な関与が存在すると言えます。 表現される内容が事実に関するものであれば、どのようなものであっても定冠詞的状況です。事実は一つに決まるものだからです。We learned that the earth is round. →We learned that the roundness of the earth. ところが、反復する(可能性のある)出来事だと不定冠詞的状況を表します。 R: Long ago, asteroids crashed into the earth many times, and it caused great damage to dinosaurs. →Long ago, a repeated crash of asteroids into the earth caused great damage to dinosaurs. 1回の特定の出来事ではないので、聞き手はその出来事を唯一的に思い浮かべることができません。出来事との関与が密接なものではなく散漫なものになっています。つまり、不定冠詞的状況は言語使用者と出来事との結びつきを弱めるものだと言えます。 では、出来事が無冠詞的状況を表すことがあるかということについて考察します。 上で登場したcrash of asteroids, appearance of viruses, roundness of the earthのいずれにおいても、名詞句の内部構造に主語と動詞が存在します。よって、これらを文の形で表す時、必ず時間と空間の制約を受けます。定冠詞的状況か不定冠詞的状況かどちらかを表現するので、上の3つの名詞句には必ず冠詞が必要になります(roundness of ---は事実を表すものなのでtheしか使えません)。それゆえ、出来事は文の形で表される限り無冠詞的状況を表すことはないと結論づけることができます。 言霊は文レベルにも発現するのかという問題についての考察の二番目のポイントは、言霊が宿ると思われる概念が(特に概念同士の関係において)どのような働きを行うかについてです。 概念は心の中のものなので、言語主体から切り離されることはありません。また、たくさんの概念同士が互いに切り離されることもありません。 ですから、話者が、例えば<rain>という概念を思い浮かべた時、関連する概念が次々に思い浮かびます。<rain又はrainfall>から、例えばumbrella, rainbow, gloominessなどが連想され、それらはそれぞれprotection, sky, melancholyというふうにつながっていきます。 つながりがあらたに生まれるわけではありません。もともと<モノ>は概念レベルで他のあらゆる<モノ>とつながりを持ちます。その時々の言語使用者の心の動き(関心など)に応じて、それらの中のある<モノ>が焦点化されつながりが可視化するわけです。 概念同士の結びつきの例をもう一つ挙げます。 Spring has come. The wind is mild, the air is sweet, the leaves are becoming green and the flowers are blooming. wind, air, leaves, flowers は季節に応じた風物を構成する要素です。これらはspringという概念から連想される概念群です。概念であると同時に実体でもあるので、実際に手で触れたり、匂いをかいだりすることができます。個々の風物はspringという概念によって連想的に呼び起こされた概念です。これらは話者の居住地域における春の風物のうちの典型的なもの、すなわちデフォルト要素を構成するものなのでtheがつきます(windとairはその地域、またはその日の風や大気だからという理由でもtheがつきます)。 残りをお礼に回します。

回答No.3

申し訳ありませんでした。 Q&Aサイトで議論をするつもりはありません。 これを最後にします。 ただ、うっかり別の質問でお邪魔するかもしれません。 その際は、回答者からBiolinguistを除いていただければ幸いです。 =========== ホモサピエンスは誕生時にすでに完全なる言語を持っていた。 これは推測ではない。 根拠は示した。 アフリカから一歩も出なかった人類が、やはり完全なる言語を話していることからも明らかである。 また、子供は数年のうちに言語を習得できることからも、言語が生物学的な能力であることは明らかである。 子供は(障害がなければ)どんな言語でも獲得できる。 遺伝的に言語獲得能力が備わっているからである。 生物学的な認知能力であることに疑う余地はない。 Oxford や Cambridge から Child language や Language acquisition に関するより入門書がたくさん出ているから、ご覧になることをおすすめする。 数字・数学についても同様で、進化によって得た生物学的認知的能力であり、社会的必要から生まれたわけではない。 「無冠詞・定冠詞・不定冠詞が言語使用者の生活や考え方とどのような関わりを持ったか」というのはあなた自身の言葉であって、私はそれを単純に否定したに過ぎない。 冠詞というと特殊に思うのかもしれないが、実は代名詞と同類である。 名詞を取らない冠詞が代名詞であり、名詞をとる代名詞が定冠詞である。 定冠詞が指示代名詞から生まれたことを忘れてはならない。 不定冠詞は数詞の弱化したものに過ぎない。 つまり、すでにあるカテゴリーの中に、新しい単語が増えただけである。 日本語でも、名詞の「丈」から助詞の「だけ」が生まれた。 それと同じようなことである。 「言葉の使用とかかわる意識」に違いは生じていない。 言語学は科学である。 科学は再現可能なデータと、反証可能な仮説からなる。 哲学や宗教や文学とは異なる。 だから、哲学や宗教や文学に価値はないと言っているのではない。 言語の学に哲学を持ち込んではならないと言っている。 人間の歴史から説いておられるのに、英語の冠詞に限るというのは不思議なことだ。 英語と同じようなときに、フランス語でも定冠詞が生まれたことを単なる偶然とお考えか?

feeders
質問者

お礼

● もう少し言わせて頂く。 <科学は再現可能なデータと、反証可能な仮説からなる。>  随分古くさい言説である。仮説の反証理論については多くの書物が出ている。近年のものは 反証理論を無価値、または工夫次第では使い道があると考えている。そもそも、反証理論を使って反証理論の正しさを示すことはできない。  反証可能性という仮説にはそれに対する反証が存在しない、それゆえこの理論は科学ではない。科学ではないものが、他のものに対してこれは科学ではないぞと宣告することは噴飯ものである。反証理論が成立しないことを示す方法はいろいろある。wikipediaにだって紹介してある。  もともと破綻していた理論であるにもかかわらず、なぜ反証理論が生き延びたか。冷戦期にソ連の指導部が持つマルキシズムが科学的社会主義を標榜していたため、それを攻撃するために有効だった。もう一つ、大きな利用価値が反証理論にあった(えせ科学の退治のため)。その後、利用価値がなくなってポイ捨て。最終的に分析哲学内部からの批判を受け実質的に崩壊した。 反証理論が登場した経緯と次の通り。科学には本当に真理を語ることができるのかという疑念から反証理論が生まれた。真理に向かう科学という幻想を延命させるために登場した。 科学についてよくお知りにならないようだが、他人のスレッドに入り込んでコメントをするからには、少なくともしっかり勉強してからにすべきではないか。もしかして、相手はよく知らないはずだと思いこんでのことなのだろうか。だとしたら、相手を甘く見すぎなのではないかと思う。今からでも勉強し直すべきである。こちらは科学に関する本は20,30冊は読んできている。当然、最新の科学哲学の本もいろいろ読んでいる。回答者さんはもっと本を読むことに励んだらどうだろうか。

feeders
質問者

補足

回答者さんの言説は当方にはどれもこれも根拠に乏しいものだと思える。反論すればするほど、そちらの反論に対してまたもや反論しなければならない。すべて反証していくことに徒労感を覚える。  科学を重視しているのであれば、せめて科学に何ができるのかを検証してからにすべきである。科学は科学の正しさを科学のやり方で示すことができない。これくらいのことは初歩的な知識なのでご存じだろうと思う。不毛な議論といちゃもんはよそでやって頂きたい。

回答No.2

宗教の歴史については例えば https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8 ホモサピエンスは誕生時にすでに完全なる言語を持っていた。 つまり、アフリカにいるときからすでに名詞も動詞も持っていた。 言語は社会的に要請されて生まれたものではない。 進化によって生物学的に得た認知能力である。 アフリカから一歩も出なかった人類が、やはり完全なる言語を話していることからも明らかである。 英語に冠詞が誕生した瞬間に、言語使用者の生活や考え方が変化したと考える根拠はない。 ラテン語に冠詞はなかった。 現代のフランス語やイタリア語やスペイン語にはある。 はたして、大きな認知の変化があっただろうか? ありはしない。 結論は変わらない。 無冠詞・定冠詞・不定冠詞は、言語使用者の生活や考え方と何ら関わりを持たない。 追伸。 脳科学は認知科学の基礎ではない。 認知科学の一分野に過ぎない。

feeders
質問者

補足

再度の回答ありがとうございました。 ●<ホモサピエンスは誕生時にすでに完全なる言語を持っていた。>  -実際に、ホモサピエンスが話しているのを誰かが聞いたのですか。まさか、回答者さんが聞いたわけではありませんよね。とにかく、推測で言われているのであれば、そのような言い方にしてほしいと思います。反論をするのであれば、少なくとも、出展を示すくらいのことは最低限のエチケットではありませんか。 ●<英語に冠詞が誕生した瞬間に、言語使用者の生活や考え方が変化したと考える根拠はない。>    -だから、それは当たり前のことだと前回コメントしました。こちらのコメントは読まなかったのですか。生活や考え方の全般にわたることではなく、あくまでも、言語使用という局面においてのことだと前回の返信で伝えました。それに、<冠詞が誕生した瞬間に>という言い方は厳密さに欠けますね。冠詞が誕生したといっても、その時点でまだ誕生していない場所もあるわけだし。 投稿文の初めの方で、<今回の議論においては論理的整合性を重視したいので、実際の使用における揺り戻しや複線的な発達や地域差については度外視することにします>と断りを入れてあります。つまり、揺り戻しや複線的な発達や地域差はあって当然だということです。ですから、<英語に冠詞が誕生した瞬間に、言語使用者の生活や考え方が変化した>などと考えることはありません。変化が生じたのは言葉の使用とかかわる意識です。  どちらにしても、私の論に正面から反論されておられるわけではないので、これ以上のコメントは必要ないと思います。もし、反論されるのであれば、具体的な証拠を示してください。でないと、単なる言いがかりとしか思えません。 ●<ラテン語に冠詞はなかった。現代のフランス語やイタリア語やスペイン語にはある。はたして、大きな認知の変化があっただろうか?ありはしない。>    -何か勘違いされておられるようです。当方は比較言語学的なアプローチで論を張っているわけではありません。英語という言語だけを対象にして、それも特定の言語領域だけを議論の対象にしています。 前回の<つまり人類は(と言わなくても英語話者は)歴史上(何十万年も前から)、ほとんどの間、冠詞なしに完全なコミュニケーションをとっていたのです。>に対して、「それも言うまでもないことではありませんか」と、お答えしました。こちらの返信を読まなかったのですか。 英語の冠詞システムの話をしている時に、英語以外の言語はこうこうだから、そのような議論は無意味だというのは、それこそ無意味な発言です。言いがかりは止めて頂きたい。 ●<脳科学は認知科学の基礎ではない。認知科学の一分野に過ぎない。>    -とのことですが、<根幹的な部分を担っていると思われる脳科学について>という私の言葉が舌足らずだったようです。はっきり言います。 認知科学の方法が正しいことを、認知科学は認知科学の方法を使って示すことができない。つまり、名無し草である。自分たちの方法が正しいかどうかは脇にどけておいて、とりあえずいろいろやってみよう、そして、そのうち脳科学が進歩したら正しさを証明してくれるだろうというのが彼らの考えだと、随分前からそのように判断しております。近年、脳科学が飛躍的に進歩したものだからそのように楽天的に考えているのでしょう。 当方としては、脳科学や認知科学の批判をしたかったわけではない。  <人類の言語進化については新しい研究を参照してください。Biolinguistics生物言語学といいます。<もの>が先で<動き>が後というのは、人間の認知能力をちょっと甘く見ているような気がします。>  との発言を受けてのことです。<もの>が先で<動き>が後だとする考えに反論する際の基盤が生物言語学であるなら、その生物言語学が正しい基盤の上に築かれているかどうかが問題にされなければならない。もし、正しい基盤の上に築かれていることがわかれば、少なくとも門前払いにされることはない。 こういう言い方をすると、回答者さんの考えに足払いを食わせるように思われるかも知れませんが、私は長年哲学をやってきていて、どのような思考・思想であれ、それがしっかりした根拠に基づいたものかどうかを問題にするのが習い性になっています。それは大事なことだと思っています。  当方の論に具体的あるいは実証的に反論なさるのなら、お答えしますが、単なる言いがかりであれば遠慮頂きたい。

回答No.1

人類の言語進化については新しい研究を参照してください。 Biolinguistics生物言語学といいます。 <もの>が先で<動き>が後というのは、人間の認知能力をちょっと甘く見ているような気がします。 人間は何万年も前から神を創造していました。 つまり、目に見えないものを完全に脳内に描き、かつ体系化することができていたのです。 原始人と馬鹿にしてはいけません。 認知能力は現代人と全く同じなのですから。 それに対して冠詞はどうでしょう。 古英語でも定冠詞はあったとは言え、本来は指示代名詞です。 不定冠詞はまだありませんでした。 ちなみにラテン語にも定冠詞・不定冠詞はありません。 つまり人類は(と言わなくても英語話者は)歴史上(何十万年も前から)、ほとんどの間、冠詞なしに完全なコミュニケーションをとっていたのです。 結論。 無冠詞・定冠詞・不定冠詞が言語使用者の生活や考え方と全く関わりを持たない。

feeders
質問者

補足

 回答ありがとうございました。 ●人類の言語進化については新しい研究を参照してください。 Biolinguistics生物言語学といいます。 <もの>が先で<動き>が後というのは、人間の認知能力をちょっと甘く見ているような気がします。 -おっしゃる通りかも知れません。でも、今回の私の議論を大幅に損なうものではないと思うので、あえて修正は施さないことにします。 実は、<動き>の方が先で、<動き>を主体に文の成り立ちを考えるべきだとする考えがあることは存じております。その考えには興味深いものを覚えたりもします。ただ、今回は冠詞の有り様が主たる話題になるので、古くさいかも知れませんが、英語学の先人達の見解に近いものを採用しました。どちらの考えを採用するにしても、今回の議論が大きく異なったものになるとは思えません。私の論の中で、冠詞システムと時制システムとどちらが先に構築されたかということが大した意味をなさないのと同じことです。 ところで、私が動詞より名詞の方が発生学的に見て先だとするのは、すでに述べたように、主な動詞は身振りでこと足りたであろうという素朴な推測と、幼児期における言語習得についての研究(例えばピアージェ)などを参考にしたものです。人間の認知機能が大人と幼児とで異なるとは思いませんし、現代人と原始人とで異なるとも思いません。もちろん、当時の人間の暮らしを誰も見たことがないわけですから、確定的なことは誰にも言えません。 ですから、<最初に登場した言葉が<モノ>を名づけることによって発生したことは確実だと思われます>と述べたわけですが、<確実だ>とは言っていません。私の意見であることを示したつもりですが、たしかにこの言い方では、かなり確実度の高い表現になっていますね。  だからといって、この見解が間違っているとする見解も、同じく確実なものではないはずです。現時点での言語学的研究がどうなっているのか知りませんが、ずっと以前調べた時は、名詞の方が先だという考えの方が優勢でした。  もちろん、近年流行中の認知科学が脳科学の研究を通じて生成文法論者とも連携して、いろいろな取り組みを行っていることは存じております。生物言語学もその一つだと聞いております。 彼らの取り組みは科学的な見方を言語に適用するもので、言語を客体的にとらえようとするものです。その場合、言語の真相に迫ることはあり得ないと私は思います。それがなぜなのかをきちんと説明しようとすれば、哲学的な議論を長々と繰り広げなければなりません(認知科学や生成文法の欠陥や、さらには科学の考え方が持つ欠陥までも論じなければなりません。具体的なことで言うと、例えば、おそらく根幹的な部分を担っていると思われる脳科学についてですが、その知見の正当性が実証されないことも指摘しなければなりません。脳を持つ人間が脳について客観的な知見を持つことがあり得ないことを指摘すれば、それで十分だと思います)。 言語が持つ言霊的なものを認知科学が解明することはあり得ません。心の中のことを心を持つ人間が客観的に解明することはありえません。強いてそれを行おうとすると、(脳科学の場合と同じように)論理循環を引き起こします。  というわけで、申し訳ありませんが、この話は私の方の言いっぱなしで終わらせて頂きます。 ●<人間は何万年も前から神を創造していました。つまり、目に見えないものを完全に脳内に描き、かつ体系化することができていたのです。> -それはプラトンの考えですか。それともカントやチョムスキーですか?いずれにしても、実証不能なことですから、こちらとしては論評しようがありません。 ●<原始人と馬鹿にしてはいけません。認知能力は現代人と全く同じなのですから。> -それは当たり前のことではありませんか。認知能力は人間に共通のものですから。馬鹿にしてはおりません。私自身フレイザーやレヴィ・ブリュールやレヴィ・ストロースの著作に親しんできました。 ●<つまり人類は(と言わなくても英語話者は)歴史上(何十万年も前から)、ほとんどの間、冠詞なしに完全なコミュニケーションをとっていたのです。> -それも言うまでもないことではありませんか。例えば、日本語では指示詞の体系が過度にと言っていいくらいに発達していますから。今回の議論においては、コミュニケーションを円滑化するために冠詞のシステムを採用した共同体内での言語行為と言語体系を問題にすることにしたわけですから、そうした発言は無意味だと思います。 ●<結論。無冠詞・定冠詞・不定冠詞が言語使用者の生活や考え方と全く関わりを持たない。> -私の言い方が舌足らずだったのかも知れません。論の全体をお読み頂ければ、<言語使用者の生活や考え方>というのが、生活や考え方の全般にわたることではなく、あくまでも、言語使用という局面においてのことだとご理解頂けるものと思います。スレッドタイトルも<冠詞の発達と言語意識の変遷について>となっています。 それゆえ、そうした観点で言うと<全く関わりを持たない>は言いすぎだと思います。もしそうであるなら、定冠詞や不定冠詞を作ろうと考えたのがなぜなのか説明できません。気まぐれからなされることではありません。 ご高説は参考にさせて頂きます。

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