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冠詞の発達と言語意識の変遷について
冠詞について長年学んできた者です。基礎的なことはおおむね理解できているように思うのですが、基礎の基礎の部分で私の理解が妥当なものか確認したいと思います。確認事項は冠詞の具体的な用法についてではなく、無冠詞・定冠詞・不定冠詞が言語使用者の生活や考え方とどのような関わりを持ったかについてです。 冠詞の発生以前の状況から考察を試みますが、参考文献として、英語の発達や歴史についての文献5冊とChristophersonによる研究書(The Articles)を利用しました。歴史的考証以外に推論が必要な個所においては私独自の見解を前面に出しました。 当然のことですが、英語の発達は直線的かつ不可逆的なものではありません。でも、今回の議論においては論理的整合性を重視したいので、実際の使用における揺り戻しや複線的な発達や地域差については度外視することにします。また当然のことながら、冠詞が付属する名詞と、名詞が組み込まれる文についても分析を行いますが、冠詞との関わりが薄い事柄に関してはほとんど触れることはありません。記述に使用する英語は現代英語で使われているものとします。おかしいと思うことがあればご指摘をお願いします。 まず言葉の発生からです。最初に登場した言葉が<モノ>を名づけることによって発生したことは確実だと思われます。<動き>を表す語はその多くが身振りによって表現可能だったはずですから、<モノ>の名より登場が遅れたはずです。 最初に登場した名詞が固有名か普通名かはわかりませんが(今回の議論では、固有名の考察は割愛します)、例えば"Dinosaur."だったと仮定します。突然発せられたこの言葉に、周囲の者は驚いたり、茫然自失したり、勇敢に立ち向かおうとしたりといった反応が続いたと思われます。 この時のdinosaurという言葉は現代の我々には想像もつかぬイメージ喚起力を持っていたと思われます。その力をここで言霊(ことだま)と名づけておきます。その力は内在するものでありながら、その発現には、発話者の心情と発話状況の切迫という要因も加わっていたはずです。恐らく言葉の発生期においては、言葉はそうした特別の状況において言霊的なものを宿していたと思われます。 もちろん、名づけには、何かを知らせるだけでなく、その名の指し示すものを記憶に残したいとする発話者の意図もあったはずです。 そのうち<動き>を表す語が登場し、ついで性質を表す語が登場したものと推測されます。各種の語が登場するのと前後して文が登場したのではないかと思います(このあたりの事情に関しては自信がありません)。文の登場の契機は、一定のまとまりを持つ考え・意見・心象風景を言葉を介して正確に伝えることだったと思います。 当然のことながら、文中に収められたdinosaurは言霊の持つ力を減じます。言霊は発話者の心の中のイメージを心情と共に外部に放つものですが、(私が思うに)文中に収められることによって、他の言葉と協働することに力をそがれるからです。 でも、それはそれでいいことです。というのは、受け止める言葉が言霊を持つものばかりだと聞く者が疲れます。それに、文化の発達に伴って、集団内での言葉のやりとりに正確さと有用性が求められるようになっていったはずです。 この段階では言霊は、例えば1語だけの"Dinosaur"以外に次のような形でも言い表されます。 "I see dinosaur. Run away." 1語だけの時より言霊の力は弱いものになっています。 そのうち、人間集団の規模が大きくなり複雑化するにつれ、コミュニケーションの円滑化が必要とされるようになりました。そうした観点から、普通名に対して特定の一つのものを指示する必要が生まれ、指示詞が登場しました。さらに、それから分化・発達して定冠詞が生まれました。定冠詞は指示詞のような直接指示を行わず、間接的な指示を行うものです。それによって、聞き手が見聞きしている場所と時以外でも<モノ>の特定ができるようになりました。 ただし、何かを指し示すということは、指し示されるものが外延的なもの、すなわち時間と空間において制約されるものだということです。これは言霊とは相反するものです。言霊にはそのような制約はありませんから。 言霊が宿るのは心の中の言葉、すなわち概念の中です。概念は心の中にあるものなので個別のものとして他の概念から切り離すことができません。当然のことながら、発話者とも切り離すことができません。 それが、文中で使われ、指し示す働きを持つ指示詞や定冠詞と共に使われる時、時間的・空間的制約が生まれ、同時に(概念としての性質を喪ったため)発話者との間に隔たりが生まれました。人間が言葉とのからみで孤独になった瞬間です。この孤独は他人だけでなく他者全体に対するものです。 もちろん完全な孤独ではありません。これまで通り、文中での概念の使用は可能です。又、 ある特定のものを指示することは、話者はそのものに対して密接な関係を持つわけですから、一定の結びつきが確保されていると言えます。Christophersonによれば、その関係は親密性を伴うものだったそうです(ちなみに彼の師であるJespersenは定冠詞の働きを親密性という観点でとらえました)。 なお、定冠詞の機能が限定の場合は、話者と指示物との間に、間接指示の場合ほどの密接な関係は生まれません。 そのうち、普通名のうちで数えられるものと数えられないものの区別の必要性が増大し、数えられるものを表す指標として不定冠詞が生まれるわけですが、その前段階で登場したのが数です。 数が何のために生み出されたかについてですが、私自身の見解では、おそらく所有物(羊・奴隷・使用人・臣下とか)をたくさん抱えていた者が管理の必要に迫られたためと思います。その結果、数字と数のシステムが作られたわけですが、さらに、管理の都合上、数えられるものと数えられないものの区別が必要とされるようになってきたと思われます。例えば、数えられるslaveと数えられないoilを同類のものと見なすことは困難です。 そこで、言葉の管理システムである言語体系において、数えられるものを表す指標が必要になりました。それが- s -でした。これは何かが2つ以上(more than one)存在することを表すものでした。ところが、これだとslavesが一つだけで存在する時slaveとなり、数えられないものであるoilと同じ形を取ることになります。そこで、両者を形態面で区別するために、数えられるものが一つだけで存在する時の標識が必要とされたものと推測されます。 ここに登場したのが、一つを表すoneから派生したa(n)-不定冠詞-です。定冠詞が空間的・時間的な制約を持ち込むものだったのに対して、不定冠詞はその制約を一つのまとまりのあるもの(数えられるもの)として示すことになりました。この時点で、不定冠詞登場以前に可算・不可算名詞の双方を表していた無冠詞形は大幅に役割を縮小させました。 この時点で、不定冠詞は聞き手に対して、名詞が可算のものであるという情報を与えることになりました。 不定冠詞をつけられた<モノ>に対して、人間は、無冠詞名詞が持つ他者との密接な結びつきも、定冠詞名詞が持つ<モノ>との親密な関わりも持てなくなりました。この時点で、人間は<モノ(他者一般も含みます)>との関わりにおいて言葉を介した有機的なつながりを大きく損なってしまいました。同時に、発話者は聞き手とのつながりも喪いました。言葉における孤独がさらに深まったわけです。もちろん、先ほども言ったように100%の孤独ではありません。 ところで、定冠詞は聞き手に何かが唯一特定可能なものであることを示す働きを持っていましたが、その特定可能なものは情報伝達という観点から見ると既知情報を表します。でも、ある情報が既知情報になるためには、その前段階において、その情報は聞き手にとって新情報だったはずです。次の例に見られるように、不定冠詞は聞き手に何かの情報を新情報として与える働きを持っていることになります。 "A dinosaurs is rushing towards us. Run away. Hurry up! Can't you see the dinosaur?" 言霊だった"Dinosar."は異なる働きを持つ2種類の情報a dinosaursとthe dinosaurになってしまいました。言霊から情報へという変遷が完成したわけです。 別の例を挙げます。a motherは<私>と関わりのない母親です。the motherは<私>がこういうものだろうと了解している母親です(知り合いかも知れません)。theの代わりにmyを使えば<私>とのつながりを表明できます。φmotherは<私>ともともとつながりのある母親です。 この時点で<モノ>を表す言葉は、その働きの大半において、単なる情報の伝達と蓄積を行うものになってしまいました。情報は相手に何かを使える際に時間と空間(いつ・どこで)という形式を伴ったものです。。話者も聞き手もそうした情報を客観的に(自分と切り離されたものとして)扱うことができるようになりました。 字数の制約でここまでにします。この後、<動き>を表す語の働きの変遷や、冠詞や限定詞つきの名詞と無冠詞名詞との交流の話とかが続きます。
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再々度の回答ありがとうございました。 ● 文学作品でならこういう言い方もありそうな気がします。外延としての出来事はすべて、内包的なものとして存在する<永遠の舞台上の永遠の役者の永遠の演技>が地上の現実として現れ出でたるものである-というのはどうでしょうか。 ⇒はい、文学作品でならありそうな気がします。いや、あって欲しいと思います。 -やはりそうですよね。小説の中でなら、いやシェイクスピア劇の中でマクベスあたりに語らせてみたいですね。 内包的なものとしてこういうのもありかなと思いました。"Life's but a walking shadow, a poor player that struts and frets his hour upon the stage and then is heard no more" もちろんマクベスのせりふです。 "Vanity of vanities," says the Preacher; "Vanity of vanities, all is vanity." 伝道の書です。ソロモン王の独白です。 行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、 よどみに浮かぶ泡沫は、且つ消え、且つ結びて、久しくとどまりたるためしなし、-鴨長明です。 ●<「それを目指して問い続ける」とは、結果云々よりも「プロセスが大事」と言うつもりでした。マハトマ・ガンジーは言ったそうです。「報酬は、結果でなく努力にある。---」 -私は生徒達にずっとそのように指導してきました。 <受験という目標に向かって努力し続けることは文句なしに善きことである。受験に成功すれば、さらにうれしさが加わる。受験で失敗したとしても、善きことはちゃんと実現している。うれしいことがお預けになっただけ。これからも、うれしいことが実現する(あるいは実現しない)かもしれないが、善きことはその都度必ず実現する。> このことばを理解してくれる生徒もちゃんといました。そうそう、ついでに、「赤毛のアン」のせりふも紹介しました。"Next to trying and winning, the best thing is trying and failing." ●<「自然を丹念につき詰めていくと、必ず神に突き当る」>との考えですが。自然を科学に代えても同じことですね。いかなるものの根拠も、以前お話しした4つの基盤を超えるものではありません。それらの基盤はlogosと呼ぶべきものです。すなわち神と同一視可能ものです。これ以上の希求は、無意味だと私には思われますが(というのはそこが人間の思考の限界だと思うからです)、にもかかわらず、なおもそれらを超えてところに根源を求める人もいます。 その場合は究極の存在である神を持ち出すしかないでしょうね。ただし、それは論理や心理や信仰など心の中の様々なものに要請されて見いだされるものでしかありませんから、神そのものではないと私は思います。つまり、神がもしいるとしたら人間的な一切のことに関知することのない存在だろうということです。こうした見解も結構支持されています。そうした意味でも神は認めるが、それ以外のこと、つまり教会と関わることは一切認めないという立場の人が第一次大戦このかた増え続けていると聞いています。 私はといえば、そうした考えにもとずいて、神や神と関わるものはすべて不可知なものとし、 考察の対象にはしないことにしています。それゆえ、「自分の見たものを他者のそれと接合し、止揚することこそ神の視点に肉薄する方法である」。といういオルテガの考えは尊重はしたいと思いますが、自分に方法とすることはありません。 私のこの考えは、宗教関係の本を(神学の研究書も含めて)いろいろ読んだり、聖職者の方の話を聞いたりした結果得られた当面の結論です。当面のであって、いつか考えが変わることもあるかも知れません。 いわゆる超常現象なるものでも神と関わるものは関心の対象外としています。 ●<永い格闘の上での、その「制約」の実感と嘆息のほど、遅ればせながら了解しました。上述のとおり、早々と「似非諦念」の境地に浸る私など、それを揶揄する資格を全然持ち合わせないことも自覚しております。それでもなお、と私は考えます。「不可知の雲」は大きいが、それを超えるべく、空しいあがきかも知れないが、できる限り神に頼らずに進もう、と悲愴な覚悟をもって自戒・自省する次第ではあります。> -「制約」についてですが、ヴィトゲンシュタインは思考の限界を論理の限界だとして「限界」を定めました。後に、この考えの誤りに気づき修正するわけですが。ともあれ、自分の思考に「制約」を設けました。カントも同様に認識の限界を定めました。ハイデッガーは形而上学的な思考の限界を定めました。 私が思うに、そうした制約下でなければ人間の思考がうまく働かないのではないかという気がします。というか人間の思考は何らかの限界を持つはずだというのが私の実感なのです。 ともあれ、前進されるというのであれば、そうしたこともちらっと念頭に置いて頂ければと思います。応援しております。 長い間、本当にありがとうございました。また、いつか相まみえる日があらんことを。 それでは。