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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本国の象徴としての天皇)

日本国の象徴としての天皇の決定はいつ?

このQ&Aのポイント
  • 「日本国の象徴としての天皇」の決定時期について、具体的な日付や出来事は存在しないようです。
  • 戦後の日本国憲法制定により、天皇の地位が象徴的なものとなりました。
  • 連合国側との終戦の調印や昭和天皇とマッカーサーの会見など、具体的な時点での天皇の方向性の変化は確認されませんでした。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

>終戦の調印式が行なった時点で、天皇の方向性について、何を決めていたのでしょうか???、 特に決められてはいませんでした。 戦争終結に当たり国体護持だのなんだのというのはポツダム宣言に記載された「無条件降伏」という言葉の国際法上の意味を理解していなかったということです。 >日本国の象徴としての天皇」が決められていたのでしょうか??? ポツダム宣言を受け入れることを認めた降伏文書に調印した時点では天皇の取り扱いは決められていませんでした。 >その時点で、これまでの天皇の取扱の方向が、覆されて「日本国の象徴としての天皇」が決まったのでしょうか??? マッカーサーが天皇と会見した時点では以降の取り扱いまでは決められてはいませんでした。 当時の日本の国権を有していた天皇よりも占領軍であるGHQが上であることを日本国内に徹底させることが目的でした。 天皇をどのように位置づけるかということに関してはアメリカ政府内部でも議論が続いていました。 当時の大日本帝国憲法に変わる新しい憲法をどのような内容にするか議論されていました。 アメリカ本国に設けられていた極東委員会と日本で占領政策に当たっていたGHQとの間でも意見の齟齬がありました。 日本側にも新憲法を検討する組織が設けられていました。 ただし、無条件降伏である以上連合国とくにアメリカの意向が優先されていて日本側が口を挟むことは出来ませんでした。 アメリカが作成したものを受け入れさせるか日本人自身に作らせるかでも意見が食い違っていました。 日本を統治する責任を負っていたマカーサーにとっては統治に必用な法律を一日でも早く制定する必用がありました。 延々と続く議論を無視してGHQに草案を作らせて日本側に提示しました。 この草案の中に天皇を symbolとするという文言がありました。 GHQの草案を翻訳していた当事者が咄嗟に象徴と訳したのが発端です。 つまり明確に天皇の位置づけを決めた上で象徴としていた訳ではありませんでした。 蛇足 アメリカは戦時中から徹底的に日本の歴史、制度、習慣を調べ上げていました。 天皇というのは欧米の君主や皇帝とは違い欧米人にとっては非常に理解しにくい存在です。 とは言え占領当時のアメリカ国内ではこの調査結果に基づいて日本を統治するためには天皇を残すことが政治的に必用不可欠だという認識は共有していました。 マッカーサーもこの認識は持っていました。 日本国内でも昭和初期の軍事政権が台頭するまでは天皇は統治のための政治的な機関に過ぎないというのは常識でした。(天皇機関説) 天皇を現人神としたのは昭和初期の軍事政権です。 アメリカはこの経緯も充分理解していました。 マッカーサーが天皇と会見して記念写真を撮らせて発表したのは軍事政権が作り上げた現人神を否定して見せるためでした。 この調査チームの一員であったベネドックスが後にThe Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Cultureという論文を発表しています。 日本では「菊と刀」という表題で日本語訳が出版されました。 現在の日本でも「菊と刀」は自国を知る一つの書籍として大切にされています。 ベネドックス自身は一度も日本に来たことがありませんでした。 最近日本国籍を取った源氏物語の世界的な権威者であるドラルド・キーンもこの調査チームの一員でした。 日本軍の暗号解析を担当していた関係で日本語をマスターしました。

noname#238475
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 いろいろと揺れ動いていた状況が分かりました。 GHQの草案を翻訳していた当事者が咄嗟に象徴と訳したのが発端です。……咄嗟の訳が、今日になってみると、結果として「良かったなぁ」という漠然とした気持ちがします。 昭和初期の軍事政権です。……昭和という時代や日本の方向を誤らせた元凶だと思うのですが、ただこのことがなければ、「戦争は避けられた」のかと問えば、そんなに単純なものでもなさそうだし。 マッカーサーが天皇と会見して記念写真を撮らせて発表したのは軍事政権が作り上げた現人神を否定して見せるためでした。……なぜか???この写真だけは、不思議に記憶に残っています。 「菊と刀」……遠い昔、学生の頃、この本とイザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」だったかな???読んだ記憶だけが残っています。

その他の回答 (6)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3046)
回答No.7

わたしはかわぐちかいじの漫画を見て面白い見解と思ったのですが、 戦前も法体系上は天皇大権を有していましたが、実質的には象徴みたいなものでしょう。現代と違い一定の影響力は当然ありましたが、大正時代以降天皇が国を率い方向性を指し示すようなことはもうありませんでした。それを思えば象徴として残るというのは時代の読みとして当然だったのではないでしょうか?天皇制も時代の過半は傀儡です、ですがそれでもれっきとして残ってきました。それを考えれば当時としてもそうなるでしょうし、今後も同じなのかもしれません。

noname#238475
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 それを思えば象徴として残るというのは時代の読みとして当然だったのではないでしょうか?……無条件降伏ですよ。日本人の天皇に対する思いが、戦勝国に通じるだろうかという疑問と不安が、当時のまさに大問題だったのではないでしょうか???

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2310/5141)
回答No.6

>「日本国の象徴としての天皇」は、いつ決まったのでしょうか? 単純に、GHQが「天皇を利用して、戦後の日本統治を考えた時」です。 天皇を「現人神」として思想教育を受けていた当時の国民としては、天皇が「右向け右」と言えば、共産主義者・社会主義者を除いて(表向きでも)右を向く時代です。 ※共産主義者・社会主義者は、特別警察によって連行・拷問となっています。 GHQとしても、敵国を占領するには天皇の影響力を無視する事は出来なかったのですね。 ただ・・・。 憲法上では「国民の総意にもとづく」となっていますよね。 が、「国民の総意とは?」という条文・条例は一切ありません。 質問者さまも、「天皇制は必要だと思いますか?」という国会・政府からの質問はありませんよね。^^; 自民・維新と創価学会政治部・共産・社民・民進党・立民では、意見の相違があります。

noname#238475
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.5

1. 保阪正康氏の三つの仮説についてですが、保阪氏自身が『文藝春秋』2006年6月号で述べています。 『あの戦争は何だったのか』は、2005年7月発行ですね。 以下、引用・要約します。 私(保阪氏)はこの言葉に関して、長らく疑問を抱いていた。 天皇は何を根拠に、阿南に「確信がある」と言ったのか。 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』の昭和21年12月18日の記述に「(略)陛下ハ米国の短波で日本軍の所在を知る状態」とさりげなく書いている。 この日以前にも、軍事情報は短波で聴いていたと天皇は寺崎に洩らしている。 天皇がポツダム宣言受諾という聖断を下した背景には、アメリカのラジオ放送を聴き、それで得た情報を分析して、国体護持の確信を抱いたという推測が成り立たないだろうか。 2.「日本国の象徴としての天皇」は、いつ決まったのか。 それは、天皇ご自身が「象徴」でよいと了承された、昭和46年2月22日になるのでは、と思います。 昭和46年2月13日、GHQ草案が日本側に交付されましたが、天皇の地位が「象徴」となるなど、政府内では受け入れをめぐり賛否が割れましたが、22日午前の閣議で事実上の受け入れを決定しています。 同日午後、首相だった幣原氏が天皇を訪ね、経緯を報告しました。 以下、次のURLに詳しいです。 朝日新聞digital 憲法草案に「いいじゃないか」 昭和天皇の発言 https://www.asahi.com/articles/ASK4N64JQK4NUTIL03Q.html また、半藤一利著『昭和史戦後篇』(平凡社)では、出典は不明と断りがありますが、この日(22日午後)、こうきっぱり言ったとも伝わっていますと載っています。 「自分は象徴でいいと思う」

noname#238475
質問者

お礼

質問に対して、ど真ん中の直球で勝負していただきありがとうございました。 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』……こんなのがあったのですね。知りませんでした。 ただ、また疑問が湧いてきました。「独白」といいながら、「御用掛日記」というのが。何か意図があったのかと。『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』というのを初めて知ったので、その辺のところがまったく分かりません。機会があったら勉強してみます。 アメリカのラジオ放送を聴き、それで得た情報を分析して、国体護持の確信を抱いたという推測が成り立たないだろうか。……素人の単純な疑問なのですが、天皇自ら、ラジオ放送を聴いて判断したわけでもないでしょうし、仮にそうだとしてもラジオ放送なんかは、陸軍も当然聴いていたと思うし、その内容は、阿南陸相にも報告されていたのではないでしょうか???そうでないと最高戦争指導会議がとんだ茶番劇になってしまうような気がしました。やはり「アメリカのラジオ放送を聴き」というのは、無理があるのではないでしょうか??? そう考えると、『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』というのが、いつ公表されたのか???GHQは知っていたのか???「象徴天皇」の決定に影響を与えたのか???ますます気になってきました。あの世に逝くまでの間に他にもやらなければならないこと、やりたいことが沢山あるので深く入り込む余裕はありませんが。(*^_^*)(T_T) 紹介いただいたURLでよくわかりました。ありがとうございます。

回答No.3

>「日本国の象徴としての天皇」は、いつ決まったのでしょうか??? GHQの新憲法の草案に「天皇は国家のシンボル」と書いてありました。 草案を日本語に翻訳していた翻訳官の一人が、白洲次郎に「シンボルって何というのや」と聞いたので、白洲は英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、といったのが「象徴」の由来です。ですので、この「事典を牽いた日」が「天皇に対し象徴という単語が使われた最初の日」です(何月何日の事なのか記録がありません) そして、新憲法の公布(昭和21・11・3)の日が「象徴として正式決定した日」です(憲法1条) GHQ草案(英文)が完成した日を「象徴とした日」とするならば、昭和21・2・12を「象徴とした日」しても良いですが、草案では「symbol」と書かれていて「象徴」と書かれていた訳ではありません。

noname#238475
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.2

伝統的に国王や帝王というのは、小腸であって来ています。 そして権力や国政への関与、あるいや統治権が時代や国によって異なるだけです。 現行日本国憲法第一条における天皇の象徴規定は、その伝統を存続させたということです。 存続を指せたのは、国王や帝王とはそういうものであるという事からの存続であって、象徴という立場と機能を認めないなら、天皇ではないという事です。

noname#238475
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.1

歴史に関心を持っておられる方のお考えを披露していただきたいということです。こだわりませんが、出来れば、お考えの根拠も示していただけると、なお有り難いです。  僕は、「そして三つ目として、天皇の下に誰かから確実な情報が入っていたのではないかということも考えられる」あたりではないかと思います。  総司令部は、日本のその時の様子をしばらく見て、最終的に決めるまで保留にする、といったことだったのでしょう。  その結果、実質的に力はないが、廃止ではなくて「象徴」として残すことにしたのだと思います。根拠は常識です。

noname#238475
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「そして三つ目として、天皇の下に誰かから確実な情報が入っていたのではないかということも考えられる」あたりではないかと思います。……3つから選ぶとすれば、やはり常識的な判断ですかねぇ。分からないところが歴史の面白いところかも知れません。

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