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石高

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.5

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 回答から先に述べますと、領内からの米の収穫高、あるいは、領主に納められる米の収穫高を指しました。 戦国時代、および、それ以前の石高の計算は、正直に言って、「おおざっぱ」でした。 戦国武将は、領土を与えられると、 領主の部下で、「検見使」(けみし)と呼ばれる、そうですねぇ、現代で言えば「経理課職員」あるいは「財務課職員」のような役目の者たちが、一斉に領内にちらばって視察して回り、土地(田畑)の状態を観察しました。そして、主に田については「上田」(じょうでん)、「中田」(ちゅうでん)、「下田」(げでん)の3ランクに分けますが、領地も広いし、一見して検見使がすぐにもそれらを選別することができないため、大概はその部落ごとの村長(むらおさ)の申告制度で決められました。 「上田」は、主に平地で治水も良く、安定した収穫が見込める田。 「中田」は、主に平地などではあるが、日当たりの悪い山間部などに拓かれた田。 「下田」は、段丘状などで、いわゆる、「棚田」のような小さい田の集まり。 そして、おおよそ、稲を刈った時に大人の手に持って握れるくらいの量を1刈(かり)と呼び、100刈を1反(たん=約300坪)と計算しました。 「中田」や「下田」では、200刈や300刈を1反としました。 こうして、検見使は領内でどれだけの米が収穫されるかを計算し、通常は、「四公六民」といい、領内の収穫高の四割が領主の取り分(年貢)となりました。 まあ、強欲な領主もいて、五公五民、ひどいところでは六公四民などという悪徳領主もいました。 また、四公六民であっても、旱魃や冷害、水害などで収穫が少ない年であっても、年貢米として領主に納める量は変わりませんでしたので、一番苦しんだのは農民でした。 中には、減免などの処置をして農民を救済した領主もまれにありました。 やがて、豊臣秀吉が天下を取ると、彼は農民出身だったため、今までの100刈=1反はどう見てもおかしい・・・と言うことから、天正10年(1582)から「太閤検地」と呼ばれる、全国統一の物差し(六尺=1間ごとに、縄に結び目を作った物差し)で田畑の面積を測り、一応は「上田」、「中田」、「下田」の区分けは残しましたが、これにより、全国統一した米の収穫高が割り出されることとなりました。もちろん、これにより領主の年貢高も詳しく割り出されることとなりました。

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