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石高

戦国時代の石高は、 持っている土地の広さと言う解釈でいいのでしょうか?

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noname#224207
noname#224207
回答No.7

戦国時代と限定されると、非常に面倒なこととなります。 実は、石高というのは、太閤検地以降に用いられたものです。 定着したのは江戸時代以降です。 それ以前は貫高というものが用いられていました。 信長が好んで使いました。 後世これを石高に換算して使われているだけです。 貫というのは、その田圃で収穫することが出来る平均の米の量を通貨に換算した単位です。 田圃によって平均収穫高が違うでないか、という話は抜きにして超大雑把に考えると。 貫高は田圃の広さの目安とはなります。 ご質問の、持っている土地の広さ、ということになりますと田圃ではない土地も持っていましたから正確に比較しようとしますと、違うということになってしまいます。 戦国時代は山城が主体でした。 山岳地帯や丘陵地帯の地形を利用して作られていました。 江戸時代のように一国一城ではなく、支配地内に無数に作られていました。 つまり、持っている土地=支配地と考えますと相当量の面積の山岳部や丘陵地帯が含まれことになります。 田圃に適した平野部が多い地方と、田圃が少ない地方とでは同じ貫高でも支配領域の面積は違ってきてしまいます。 貫高は経済力を表しますので同時に兵員の動員力を表すことになります。 貫高が多ければ大軍勢を仕立てることができたということです。 当時は兵員の数が即ち軍事力の時代でした。 戦国時代のお話を読まれる際には平和な江戸時代のように領地の広さよりも軍事力の違いを楽しんで下さい。 参考 貫高制 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/貫高制 戦国時代の領地統治 - 岩櫃城興亡史 www.denno2488.com/index.php?戦国時代の領地統治 蛇足 山地といいますのは不毛の地ではありませんでした。 山林の下草は田圃や畑に必要な堆肥の重要な資源でした。 暖を取ったり、炊事に使う燃料の供給地でした。 城や住居を建てるのに必要な木材の供給地でした。 現在も山菜料理と呼ばれますように食料の供給地でした。 稲は気候変動の影響をもろに受けますが、栗などの堅実類は比較的安定して収穫できました。 金銀などの鉱山も山地にありました。 つまり安定した軍事力を確保するためには山地は必要不可欠な地帯でした。

TOCLJWBER
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  • oska
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回答No.8

>戦国時代の石高は、持っている土地の広さと言う解釈でいいのでしょうか? 他にも回答がありますが、免責でなく「米の収穫高」です。 明治維新でメートル法が導入されるまでは・・・。 1石=1両=約250キロ。 支配地が広くても米が収穫できない地域は、石高は少ない。 反対に、支配地が狭くても米の収穫量が多いと石高は多い。 まぁ、戦国時代は「全国で統一した石高」が存在しませんでした。 太閤検地などで、初めて「全国で統一した石高」が決まったのです。 戦国時代の戦闘は、田植え時期・稲刈り時期には「暗黙の了解で、戦闘をしない」事になっていました。 余談ですが・・・。 天候不順で凶作だった場合は、「収入が半減する」場合も多かった様です。 そこで、金・銀山を開発したり、地場産業を興したりしています。

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回答No.6

石高はその領内でとれる米の収穫量です 分かりやすく言うと1石は米俵約10俵ほど 戦国の頃、1つの国で最も石高が高かったのは越後(新潟県)と会津(福島県)の約130万石 かの前田利家は加賀・能登・越中3国で約100万石ですから 越後1国がどれだけ豊かだったかが分かります 当時から越後は米どころだったんですね

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回答No.5

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 回答から先に述べますと、領内からの米の収穫高、あるいは、領主に納められる米の収穫高を指しました。 戦国時代、および、それ以前の石高の計算は、正直に言って、「おおざっぱ」でした。 戦国武将は、領土を与えられると、 領主の部下で、「検見使」(けみし)と呼ばれる、そうですねぇ、現代で言えば「経理課職員」あるいは「財務課職員」のような役目の者たちが、一斉に領内にちらばって視察して回り、土地(田畑)の状態を観察しました。そして、主に田については「上田」(じょうでん)、「中田」(ちゅうでん)、「下田」(げでん)の3ランクに分けますが、領地も広いし、一見して検見使がすぐにもそれらを選別することができないため、大概はその部落ごとの村長(むらおさ)の申告制度で決められました。 「上田」は、主に平地で治水も良く、安定した収穫が見込める田。 「中田」は、主に平地などではあるが、日当たりの悪い山間部などに拓かれた田。 「下田」は、段丘状などで、いわゆる、「棚田」のような小さい田の集まり。 そして、おおよそ、稲を刈った時に大人の手に持って握れるくらいの量を1刈(かり)と呼び、100刈を1反(たん=約300坪)と計算しました。 「中田」や「下田」では、200刈や300刈を1反としました。 こうして、検見使は領内でどれだけの米が収穫されるかを計算し、通常は、「四公六民」といい、領内の収穫高の四割が領主の取り分(年貢)となりました。 まあ、強欲な領主もいて、五公五民、ひどいところでは六公四民などという悪徳領主もいました。 また、四公六民であっても、旱魃や冷害、水害などで収穫が少ない年であっても、年貢米として領主に納める量は変わりませんでしたので、一番苦しんだのは農民でした。 中には、減免などの処置をして農民を救済した領主もまれにありました。 やがて、豊臣秀吉が天下を取ると、彼は農民出身だったため、今までの100刈=1反はどう見てもおかしい・・・と言うことから、天正10年(1582)から「太閤検地」と呼ばれる、全国統一の物差し(六尺=1間ごとに、縄に結び目を作った物差し)で田畑の面積を測り、一応は「上田」、「中田」、「下田」の区分けは残しましたが、これにより、全国統一した米の収穫高が割り出されることとなりました。もちろん、これにより領主の年貢高も詳しく割り出されることとなりました。

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  • ithi
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回答No.4

TOCLJWBERさん、こんにちは。 違います。石高ということはその領主の知行する所領で、何石とれるかということです。一石は時代や地域によって違いがありますが、大体米150kgです。また、江戸時代では畑の産物や水産物、山林なども石高の基準に入れていたようです。 その基準は石盛と言われています。 詳細は下記URLを参照ください。 石高 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98 石盛 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%9B%9B

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noname#229784
noname#229784
回答No.3

例として、   琵琶湖の豊富な水 → 水田が多く作れる → 近江の土地あたりの石高が高くなる  ってのもあるんじゃないかな。

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  • kagakusuki
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回答No.2

 同じ広さの田んぼであっても、気候や水質、土に含まれている養分、日射量、使用している肥料、育てている稲の品種、等々の様々な要因によって田んぼごとに採れる米の量は異なりますから、土地の広さだけで石高が決まる訳では御座いません。

TOCLJWBER
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  • tzd78886
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回答No.1

基本的には土地の価値をコメの取れ高に換算したものと考えていいです。領地を持つ武士、貴族などはそこで働く農民から年貢としてコメなどを取り立て、それを売却して利益を得ていたからです。

TOCLJWBER
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