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禅の「無分別」の意味

a_honaの回答

  • a_hona
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回答No.6

無分別智とは、仏智の別称で、おそらく、妨げ無き智慧の事かと思われます。衆生の分別を超えている様は、まるで大人が子供の抱くあらゆる見解を超えているようなもので、衆生の知見の集大成も、仏智には一歩も及ばないというものです。 例えば子供は遊びの達人で、子供の遊戯に関しては大人よりもはるかに詳しいにも関わらず、大人はそれらの遊戯で得られる楽しみを超越しています。当然です、大人ですから。 仏智が衆生の知見である分別智を超えている様もそのようなもので、無分別智を得るという事は即ち覚るという事に他なりません。 また、私の聴いたところでは、覚りは漸悟ではなく頓悟だという事です。つまり、小悟や大悟、そして悟後の修行などないという事です。私も一度ならず所謂魔境というものを体験したことがありますが、それは、かつてない感覚、光になったような感覚でした。人々が座禅に執著して悟りを目指そうとするのも無理はないと思います。 しかし、六祖壇教にあるように、「ある種の者は人を座らして、心を見つめ、心の空なるところを見つけよと教え、動かずにじっとしているように努力させている。自分を見失ったやつは何も知らずにすぐにそれにとりついて、気が違ってしまう者が数百人もいる様だ。もちろんこんな教えは大間違いである。」という事なのだと思います。 子供の見るところと比べ、大人の知見が大人の世界というものがあるところから来ているように、仏の世界、法界から、仏智、即ち無分別智は来ているので、覚らない限り、衆生のままでそれを知る事はできないのでしょう。 また、覚りは識別作用の滅でありますが、この際滅するのは余計な識別作用であり、すべての判断能力が停止するような事にはなりません。世間解であり、悪を止めた仏が、非常識であったり悪い事などするわけがないという事です。

urbanite
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 わりと私と似た考えをお持ちの方かと思いました。 「気が違ってしまう」というのはどういう状態でしょうか。 私は現代日本人が正気を保っているとは考えていません。 真相に無関心にイメージだけで判断するのはもう論外ですし、経済社会の競争原理に毒されすぎて歪んだ正義感等を持っている類いも論外。 貧困や孤立の恐怖から半ばヒステリー状態で時を過ごす人。 またそういう人たちとは違って自分は冷静だと考えているが、その実心拍数や脳波が触れていないというだけで思考傾向や判断水準などはあるべき人の姿から遠く離れている等々。 こういう風に一つ一つを見ていくともう既に現代人は正気を失っています。 そうだとすればそういう多くの気が違ってしまっている人たちから見て気が違ってしまったところで他の人たちとの差は対してありません。 気が違って見えやすい分マシとさえ言えるかもしれないとおもいますし、こう言う人たちの言う「中庸」はどことどこの間の話しをなさっているのですか?と問い返したい気もある位です。 さて、脱線はこの位にしておいて。 仰っている事は私の言葉で言うところの「頭脳による区別作業」を分別とし、「頭脳に寄らない識別作業」を智慧と仰っているという理解でよろしいでしょうか。 間違っていればご説明を、合っていればその根拠をもう少しご紹介頂けましたら幸甚と存じます。 何卒、よろしくお願い致します。

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