• ベストアンサー

禅の「無分別」の意味

urigadai2013の回答

  • ベストアンサー
回答No.3

私は昔、若い時ですが、鎌倉の禅宗寺院の座禅会に参加して、半年間でしたが禅の修行をしたことがあります。 師家は故・安谷白雲老師、大正・昭和の名僧、原田祖岳の遺鉢を継ぐ人で、禅風は曹洞宗と臨済宗の折中という感じで、座るときは曹洞宗と同じ面壁、そして公案を用いるところは臨済宗という感じでした。 毎朝、6時頃から夕方の8時頃まで、中に昼食と老師の提唱を挟んで、座禅三昧の日々でした。 提唱のテクストとして使われたのが、「臨済録」で、老師は駒澤大学の教授をしていたことがあり、大学の講義を聞いているようでした。 当時は鈴木大拙の英文の禅の本が世界的に「禅ブーム」をひき起こしている時で、諸外国からもたくさんの修行者が集まって、国際色豊かな座禅会でした。 鈴木大拙の禅の本はたいてい読みました。 それによると、分別とは物事を「分けて考える」、つまり分析して考えるということで、私たちが物事を考える場合、たいてい分別です。 つまり合理的に考えることです。 ところが禅は無分別でなければならない。 分別を乗り越えて、無分別を目指さねばならない、と言われます。 知を乗り越えて、非知に至る。 たとえば、禅の公案に、趙州「無字の公案」というのがあります。 姿・形のない、文字を見てきなさい、という問題です。 無理難題で、合理的に考えたのでは、解決がつきません。 禅の公案集がたくさんありますが、「臨済録」でも、「無門関」でも、禅の公案というのはすべてがそれを合理的に考えたのでは、解決がつきません。 解決がついた時が「悟り」です。 分別を乗り越えて、無分別に至る、そうして初めて解決ができます。 あなたは分別は世を秩序的に保つために大切なものです、と言います。 確かに世間的には分別が必要でしょうが、自分の死を考えた時などには、分別は役に立ちません。 生と死を分別して、別々のものと考えていたら、死の恐怖を克服できません。 克服するためには分別を棚に上げて、是非とも無分別に、分別を越える必要があります。 ちょうど禅の公案が、分別を以て克服し、解決ができないように。 そのためには「生即死」「生死不二」に至らねばなりません。 禅は言います、 「生は生にして生にあらず、ゆえに生なり」と。 この論理が分かりますか? 禅の基本経典、華厳経の「即非の論理」というものです。 「臨済録」で、臨済は「仏は仏にあらず、よって仏である」と言っています。 合理的な分別をもってしては理解できないです。 「悟り」を開いて初めて、理解できるようになります。 あなたはその無分別を「人助けは良し、快楽殺人も良し、貧しい中から身をそいで与えるのも良し、趣味の盗みも良し、この境地を言うのだろうか、・・・・・・言葉遊びに明け暮れている救いようのない愚か者が大勢いそう」と言っていますが、それも分別です。 善とか悪とか、その分別を乗り越えて、善悪の彼岸に至る、それが禅です。 言葉遊びに聞こえるかもしれませんが、禅は「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」をモットーとします。 文字を用いず、経典によらず、人の心と心で伝え、己の本性を知って成仏する、ただそれだけです。 言葉遊びを否定します。 「悟り」というと何か特別のことのように、神秘的なことに勘違いしますが、道元によれば「目が横に、鼻がタテについている。それを知ることが悟りである」と言っているようにごく日常的なことです。 ところが人間というのは、このごく日常的なことが、もっとも分からないのです。 だから私たちは「知」と言えば、この日常を離れたどこか別のところに求めます。 しかし、禅は「非知に至る」ですから、日常的な、当たり前のことこそ、求めるべきものです。 「無分別」というと、同じように何か神秘的に聞こえますが、何のことはありません。 「知」を交えず、物事をその「あるがままに」見ればいいんです。 それが「非知」。 「知を乗り越えて非知に至る」と言っても、別に天に昇ったりする必要はありません。 自分の足元を見るだけでいいのです。 誰も人はふだん、自分の足元なんて見ないですから。 でも、物事を「あるがままに見る」って、ひじように難しいんです。 先入観があるし、余計な世間知もあるし、常識もあるし、そういうものが妨げになって、私たちは、物事を「あるがままに」見ることは出来ないのです。 もし、禅の無分別が何であるか知りたかったら、言葉で云々することをやめ、直接に座禅をすること、立派な師家に付いてその指導を仰ぎ、出家して座禅三昧の生活をすることです。 それしか知る手立てはありません。

urbanite
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 むろん競うつもりは全く無いのですが、一応自己紹介として半年の座禅三昧、しかも朝の数時間のみであるなら、少なくとも時間的には私の方が座禅三昧をしていると言え、因に私は死は無いと思っており、人間は死ぬ事がないと考えている事を申し上げておきます。 また、悟りが悟りを共有できない人たちの間ではイメージするほど格好の良いものではない事も想像はしていますが、悟りを共有できる間ならとても神秘的な(側面も備えている)ものだと考えています。 仏陀も何日も酔いしれたのですよね? 私も垣間みた事がありますが、あれが何日も続いたならばそれは酔いしれるでしょうし、その先の人生の全てを投げうってもそれに準ずる価値あるものである事は明白でしょう。 悟りの初期段階では山は山でしかなく、中期では山が山でなくなり、後期に至と山はやはり山であった。 という言葉もあるようですが、これは側面を言い表しているに過ぎないのかもしれません。 そういう意味で、目が横に、鼻が縦についている事を知る事が悟りであるとは小悟なのであろうかという思いもよぎります。 当たり前の事を知る事の大切さを否定するつもりはありませんが、そこに小さく落ち着いてしまって本質を見失う人も多そうだとおも思っています。 悟りは一筋縄では行かないのではないでしょうか。 マザーテレサの言葉にこう言うものがあります。 「遠くの人を愛する事、思いやる事はそれほど難しい事ではありません。目の前の人を愛する事こそが困難でも大切な事です」 細かい言い回し等は覚えていませんが、意味的にはこういう趣旨の言葉でした。 生死まで論点を持っていくと話しは簡単です。 でも、我々は生死とはあまり関係のない境界で生活しています。 生死の狭間の問題であればいとも簡単に捨てる様なもののために生死の境ではない境遇だからこそその際には簡単に捨ててしまえるもののために殺人さえ起こります。 全く悪気がなく、素朴な発言でも相手の受け取り方でモラハラやセクハラが成立するほど弱者過保護なこの世界で権利ばかりを主張して義務を果たそうともしない腫れ物どもが自己保身のために平気で確認作業もしないまま”自分の気分を害された”だけで人を訴える世の中で、分別がないということはどういう事を意味するのでしょう。 刑務所に入ってもOKな境地なのでしょうか。 悟りの境地に至れば当然そうかも知れませんが、大抵の悟りについて語る人はいざ自分が刑務所に入る状況に陥れば悲しみますよね。 ここが言葉遊びと本物の悟りの境界とでも言いましょうか。 キリストも死ぬために生まれて来たのに、死ぬ直前には「可能ならこの試練を自分から除いてほしい、でも私の望みではなく、神の御心のままに事が進みます様に」と祈っている事から、悟りを得ていても体は弱い事は伺えます。 人助けは良し、快楽殺人も良し~も分別として排除すべきなのであれば、悟りを開いた人は殺人OKという事ですか? もしそうでなく頭脳の区別作業によらないが悟ったものは殺人等しないということであれば、頭脳の区別作業とは関係ない次元の分別は存在している事になりはしませんでしょうか。 頭脳の区別作業を分別と言うならそれは愚か極まりない側面が結構大きいのは解ります。 これは論外です。 でも無分別は頭脳とは関係のない分別すら否定するのかを知りたいのです。 もしそうであれば味噌も糞も一緒の境地との区別が解らない。 そういう趣旨の質問です。 失礼な文面も多々あろうかと思いますが、真剣な質問故、ご寛容をもってお読み頂ければ幸いです。 何卒、よろしくお願い致します。

関連するQ&A

  • 神経症について質問です

    人生問題の解決のブログから来ました。 そこで思ったことがあるのですが、神経症を患っている人達は、禅で言う「見性」、別の言い方をすれば、「悟りを開く」ことをしないと、苦しみから解放されることは無いのでしょうか。 「見性」か、「治らない」かの二つしか道はないのでしょうか。 また、自分に自信が持てなくなるのは神経症が由来でなる場合はありますか。 後者は前者とは関係の無い質問になってしまいましたが、答えられる範囲で良いので、お答え頂きたいです。 突然な質問、失礼致しました。

  • 意味を教えてください!

    待ちわびて我住むお江戸に君来れどお蝦夷の君に勝るものなし この文の意味がわかりますか? 前者の君と後者の君は違う人のことを指しますか? 教えてください。

  • 意味がわからない!

    他人の話に対して、「意味がわからない」ということの気持ちはどんなものですか。それは「聞き取れませんから、もう一度説明していただけませんでしょうか」とどうちがいますか。 私は他人の話が分からない場合はいつも後者の言い方でお願いしておりますが、私の話しに対して前者の言い方をいう人は二人います。相手の顔つきと口調から判断すれば、特に説明を求めている様子もなく、または、実はわかっている可能性もあるんです。皆さんはどんな場合でこのような表現を使いますか。

  • 人の死はなぜ気持ち悪いと感じるのか?

    インターネットで誰でも見ることができるようないろんな凄惨な殺人現場の動画などを掲載しているホームページがあることをご存知ですか? 私は先日興味本位でそういう動画を見てみたのですが、まず何故こんなことをするんだろうとしばらく考えた後に恐怖のような感情が湧き上がり、その後物凄く気持ち悪くなって軽く吐き気を催しました。しかし気持ち悪くなって吐き気を催す理由がよくわかりません。なんで人は人の死を見ると気持ち悪くなるんでしょうか?本能なんですかね?

  • ジェンダーの意味

    Wikipediaによると、「ジェンダー」とは「社会的文化的な性のありよう」であって、「社会的・文化的に作られた性別」というのは誤りだそうです。 しかし、私にはこの二つの違いがよく分からないのです。 私は今まで後者の理解をしており、性同一性障害の人は、セックスとジェンダーが一致しないのだと思っていました。 そして、「女はスカートを履くべきだ」というのは、ジェンダーというより性差別のたぐいだと思っていました。 しかし、前者だと、後者よりもはるかに広い意味を持つ言葉になりますよね? 「女はスカートを履くべきだ」というのもジェンダーなのでしょうか。

  • 理性の判断基準

    理性の判断基準は本人の性格によりますか? 平常心の時に「人を殴ってはいけないと考える人」と「自分の気分を害す者は殴って良しという人」がいたとして、ある時この二人が殴り合いをした場合前者は理性を欠いているが後者は欠いていないというのは合ってますか?

  • 「情けは人の為ならず」の意味変わりましたか?

    タイトルだけ見ると「過去のを探せよ」との指摘いただきそうですが今この時の最新情報が欲しいため質問させていただきます。 「情けは人の為ならず」は 情けを人にかけておけば、巡り巡って自分によい報いが来るということ。 と私の時代では習いました。 しかし、最近では 情けを人にかけると却ってその人のためにならないのでかけないほうがよい。 という意味に使う人が多いため近年には後者を意味することが正しくなる可能性が高い。日本語は時代によって変化していくものだから。と数年前、本で読みました。 (息子も中学生の時に現国の教師に同様のことを言われたようです。) 本日、教養の高そうな方の使い方が後者になっているように受け止められたのですがもう変わってしまったのでしょうか? ちょっと辞書検索をしてみましたがまだ前者の意味のままでした。 (今年変わったのだとすれば辞書ではまだ反映されてないと考えるべきでしょう。) どなたか真偽をご存知の方がおられましたらご教授ねがいます。

  • 「相異なる2つの実数x,yがあるとき…」で「相異なる」の読み方は

    「相異なる2つの実数x,yがあるとき…」で「相異なる」の読み方は 「あいことなる」でしょうか? 「そういなる」でしょうか? 私は前者だと思っていたのですが、後者で読んでいる人がいたので…。 どちらにしても意味は「x≠y」で意味は通じるのですが…。

  • 「かもしれない」 と 「かもわかんない」

    よろしくお願いします。 「~かもしれない」「~かもわかんない」という言葉があると思います。 どちらも同じような意味で使われていると思います。 前者は辞書に載っていて、後者は載っていません。 後者の表現は、私にとっては(なんとなく)若干不自然で、 尚且つ稀にしか聞きません。 質問です。 後者の表現はどこかの方言なのでしょうか? もしくは、ある年代特有の表現なのでしょうか? (50歳前後くらいの人が使っていることが多いように思います。) 何かご存知のこと、もしくは「私の周りではこうだ」ということがありましたら、教えてください。 どうぞ宜しくお願い致します。 ※この質問は、もしかしたら締め切るのが遅くなるかもしれません。

  • 老化と病気になること

    50代60代と年をとると 死を身近に感じるようになり 老眼など身体的な衰えで 体が不自由になったりすると思います。 健康診断でひっからなくても死を意識する ようになってきます。 若い人でもガンなど大病を患うと 死や肉体的な衰えを感じます。 年をとることと病気になるということは 年代が違っても同じ心境であり同じこと なのでしょうか。 病気にならなくても年をとることイコール 若くても病気になることでしょうか。 前者は徐々に来ることに対して 後者は思いがけずにいきなり来るという 唐突性と時期の違い 心の準備の無さという 点においては違いますが似たようなものでしょうか