• ベストアンサー

私は何に向かって生きていくべきなんでしょうか?

totetsumonaiの回答

回答No.13

お礼ありがとうございました。 最後に伝えたいことがあります。 どうしてみんなの回答が「生きる方向」のものになるのか。 それは、生きることが空しいとみんな分かっているからです。 (もちろんこういうことに悩まないタイプは空しいと感じていないでしょうが) ただ、希望を捨てていないからです。 生きることは空しいけど、自殺してしまうことはもっと空しいからです。 だからなんとか個人的な主観的な生きる意味を探している。 そしてそれを探しているうちに様々な体験をしていつの間にかやり過ごせている。 で、年をとってまぁいっかという気持ちになる。 そんな感じですよね。 人生なんてそんなもんですよ。大きな意味なんかない。 でも自殺することはとっても大変ですよね。 まず痛いし怖いし、死んだらどうなる変わらないし、 家族にも心に一生十字架を背負わせることになる。 多大な迷惑がかかります。 死ぬよりも生きるほうが随分マシだから生きているということでしょう。 だから上手な暇つぶし、熱中できることを探すんです。 もちろん自殺しても悪いとかはありませんよ。いいとか悪いなんてない。 でも私なら自殺をとめますね。 質問者さんの家族や親しい人の人生まで破壊するからです。 自分を育ててくれた人、親しくしてくれた人の人生を破壊するのは 恩を仇で返すようで忍びないでしょう。 今の時代はあまりにも死というのが遠いから、 なんかつまらないから死のっかな、となるわけです。 少し前までの日本は、腹減ってしょうがないし、働くしかなかった。 働いても十分な飯も食えない。生活も不便だしね。 楽しいことなんて別になかったんですよ。 生きることは、生き抜くことであり、餓死しないことであった。 周りには簡単に人が死んでいたし、 病気になってもウチには金がないからね、というのが当たり前だった。 病院にすら行けない。 苦労せずに腹一杯になれる現代は、プラスアルファを求めるんですよね。 でもプラスアルファの目的なんてないっすからね。 腹一杯になったらゲームクリアですから。 それ以上は別にないんで。 だから質問者さんは、一回断食をするといいかもです。 腹一杯にしながら、生きる意味は、と考えるのは すでに意味を満たした状態で考えてるのと同じで、考えてることにならない。 何も食わずに腹をすかしたら、生きる意味とかより前に、 なんか食いたいってなりますから(笑) それが意味っちゃ意味ですよね。 何も食わずに、それでも飯よりも「生きる意味は?」と 考察し続けることができるってんなら大したものですよ。 今でも飯が十分に食えない国はたくさんあります。 そういう国は自殺者は少ないです。 豊かになると、実は人生は特にすることないって気づくんで自殺者が増えます。 断食するか、貧困の国に滞在してみることをおすすめします。 その「体験」が、あなたの「感じ方」を変えるかもしれませんよ。 あと、生きる意味ということで本を読むなら ・夜と霧(ヴィクトール・E・フランクル)※旧版がおすすめ ・超思考(北野 武) がおすすめです。ぜひ一度読んでみてください。 生きることに大袈裟な意味なんてないし・生きるなんてしょうもないってことと、 苦しみそのものに生きる意味を見出すことの重要性がわかります。 苦しいから、それを乗り越えると充実感がある。 その落差が生きる活力を与えます。 だから登山家は意味のない山に登るんですね。自ら苦しくなるんです。 経営者は会社拡大を目指すし、アスリートは勝負に勝とうとする。 みんな自分からあえて苦しいことをしています。 自作自演ですよ。それが虚しくならないコツです。

関連するQ&A

  • 論理哲学論考における善悪について

    ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の解説書を読みましたが、疑問が 一つあります。「善悪は語ることができない」という箇所です。幸福については、 それを判断するのが主体であり、主体は論理空間そのものであるから 幸福を語ることができないというのはわかります。簡単にいえば主観的で比較対象が ないから。しかし善悪についてはどうでしょうか?定義をすれば、論理空間の中でも 善悪を語ることができるのではないでしょうか?たとえば、「他の人間の 損害を軽減すること、または、他人の利益を損なわずに他人の欲求を 満たすことを善とするならば、行動Aは善である」のように、語ることができるのでは ないでしょうか?確かにこの定義はつっこみどころ満載だし、答えは出せないだろうけど、 幸福のように沈黙しなくてもいいと思うのですが。善悪というのは主観的な問題ではなく 論理的な問題であるから裁判が成り立つのではないかとも思うのですが。 いかがでしょうか?

  • 哲学の雑学的な質問

    哲学ってどんな学問なのだろう?と興味を持っていました 知りたい!と思ってOKWaveの哲学のコミュを読んでいますが わたしにはとても難しくて 書かれていることも難しいです 日本の哲学者の書かれた新書版の本は何冊か読みましたが 書かれていることは読みやすくても ますますわかりません 哲学は「疑問に思ったことの答えを、いっしょうけんめい考えること」 と聞いた時は そうか~! と思ったのですが ここのコミュの質問や答えを読んでいると わかったと思ったことが かん違いだった と気がつきます ここで質問して、その答えのつみ重ねで わたしなりの哲学?が見えてきたらうれしいです 今日の質問は 哲学のことを説明する時、カントとかソクラテスとか 昔に生きた人の名前をあげて説明する事が多いのはなぜですか? 自分がいっしょうけんめい考えること と反すると思ったのです。 よろしくお願いいたします

  • 【哲学を知った所で人間は何を得たのでしょう?】

    【哲学を知った所で人間は何を得たのでしょう?】 フランシスコ・ベーコンはこう言った。 「 海のほか何も見えない時に陸地がないと考えるのは決してすぐれた探検家ではない 」 と。 要するに人間の真理は観察ではなく自分の経験でしか得られないと。 で、自分の経験は他人の経験ではないのであなたの経験が全ての真理ではないと。 歴代の哲学者は人生の真理を追いかけたが矛盾というか誰にも否定されない真理を解き明かすことが出来ないまま月日が過ぎた。 ソクラテスは「汝、自身を知れ」と言った。 ソクラテス以前の哲学者は1つの答えを出そうと必死に答えを探していたが、 ソクラテスはその人生の真理を見つけたという人物にその答えに対する疑問を投げかけて、ついに真理を見つけたという人物は言葉に詰まって自分が自分のことを良く分かっていなかったと悟り 「無知の知」 自分のことを自分が1番分かっているようで実際は自分自身の問題についての結論を自分で出した回答も答えが間違っていることは多く 自分のことが分かっていないことを知っている人の方が人生の真理に近いと説いた。 で、また月日が過ぎて、 デカルトが現れた。 デカルトは「我思う故に我あり」という矛盾がない答えを出した。 人生の真理の答えは我思う故に我ありという結論で決着が着いた。 けど、 人生の真理の答えが我思う故に我ありという矛盾がない答えだったと答えが出て納得がいかない人が 人生の真理は分かったがなぜ生きているのだと生きている意味を知りたがるようになった。 人生の幸福である。 人生の目的を人生の真理から人生の幸福へと興味が移っていった。 アランは「幸せになろうとしない限り、絶対に幸せにはなれない」と言った。 幸福だから笑うのではなく、笑うから幸せなのだと。 ショーペンハウアーは「富は海水に似ている。飲めば飲むほど喉が乾く」と。 要するに人生の真理はデカルトの結果で結論が既にもう出ていたってこと。 あとの時代の哲学者は人生の真理の追加要素に過ぎない。 で、人生の真理はデカルトの我思う故に我ありで決着が着いたがその人生の真理を知ったところで何を得たのでしょう?って話です。 人生の答えが哲学で分かったが分かったところで何も人生は変わらない。 人間は得たのに変わらなかった。 哲学で何を得たのでしょう?

  • 性や食、睡眠は言葉以前の存在

    最近、類人猿の進化について、テレビ番組を見たり、本を読んだりしたのですが、 言葉を覚えるよりも前の段階のアウストラロピテクスの猿人でも 性行動はあるし、食欲や睡眠もあって、人間(ホモ・サピエンス)とあんまり変わらなくて、 言葉のほうが後からやってきてるので、 言葉を用いた哲学で人間の生存の本質を捕らえるのは難しいのではないか?と 疑問に思うようになりました。 こういう疑問を考察した哲学・哲学者がありましたら教えてください。

  • 賢者とは、最終的には、自分には与えられなかった当た

    賢者とは、最終的には、自分には与えられなかった当たり前の日々”を思うものだろうか? それとも孤高のひとりぼっちの神官の様として生きることを受け入れ、この世についてありとあらゆる事柄の本質を教え、どの様に生きるのが最適か、学ぶことの重要性を教え諭し、本音から悩み苦しみ生きる人間や後世を生きる人間のために、見ず知らず他者を幸福にするために奮闘する人間を指すのではないか? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。

  • なぜ哲学を持とうとしないのか

    精神的に不安定な人に共通しているのは哲学を持っていないという事です。 哲学とは、自分を、他人を、社会を、世界を理解することです。 哲学を持たずに生きることは、地図を持たずに旅に出るようなものです。 薬を飲んでいればなんとかなるという幻想はいい加減捨てたらどうですか。 答えを探しまわるより、問題の解決方法を考える方がずっと重要じゃないでしょうか。 問題の解き方が分かれば答えを人に聞く必要など無いのですから。 精神の苦痛がそこに問題があることを教えてくれていることにいい加減気付いたらどうですか。 皆さんはどう思いますか。

  • いつも考えても答えの出ない悩みを持ってしまう

    なんというか…哲学的な思考が好きなのかもしれませんが、生まれてきた理由や死について、存在、真実とは何か…とかいったなかなか答えの出す事が出来ない(答えを出す必要がないのかもしれない)疑問を抱いてしまいます。僕の年齢が17歳という事もあって親に相談すると「脳が発達しているんだよ」とか「大人になって忙しくなるといらない事は考えなくなる」といいますが、僕は結構無駄な事を考えてしまう自分に悩んでいるんです。こういう答えのでない疑問はどうすれば忘れる事が出来るのか教えてください。

  • 哲学に、なぜ歴史があるのですか。

    私自身は哲学について素人です。 中央公論新社より 「哲学の歴史」という12巻組の本が 出版されていますが、 縁あって、その本が企画段階だった頃に その説明をいただく機会がありました。 そのとき、私は哲学に歴史があるということに おどろきを感じました。 哲学は、それぞれの個人が考えることで それは、その時代に一からその人の中でまとめられるものだと 思っていたからです。 誰かがまとめたものを下敷きに その考えを推し進めるということもあるとおもうのですが、 だとしたら、ある疑問の答えは 歴史をさかのぼれば、どこかで出ていることになります。 おそらく答えが出ているに違いない事を わざわざ自分で考えるのも徒労に感じますが、 歴史を調べて答えを探す事は、 哲学ではないようにも思います。 哲学には、どうして歴史があるのでしょうか。

  • 哲学の功績は?

    私は当初、自分が生きる意味は何なのか?そもそも自分とは何なのか? という疑問にある意味で耐えられなくなり、意志薄弱になり、というかその問いが解決しない限り極度に不安定な状況がこのまま続いてしまうという不安から、私にとって未知の学問であった哲学にその答えを求めようとしました。そして一通りは勉強したつもりです。ですがどうでしょうか?哲学の考え方は、私の予想を良い意味で裏切り、とてもロジカル、論理的なものでした。しかし、プラトンやデカルトが挑んだ問い、私とは何か?私とは何を知り得るのか?何者なのか? という問いに対して、哲学は何の確固たる答えを導出できなかったと私の眼には映るのです。途中まではとてもロジカルだった、ただ肝心の“答え”が出せてないという私の認識は間違っていますでしょうか? このように哲学という学問のプロセスは評価できるけども、“答え”を出せていないなら、私はこのまま哲学を学ぶ以前と同じ極度に不安定な精神状態で過ごすしかないのでしょうか? 哲学者の考えが政治思想や経済思想に与えた影響・功績はここでは別問題とさせてください。

  • 昔、光の本質は粒子説と波動説で議論されていましたよね。

    昔、光の本質は粒子説と波動説で議論されていましたよね。 当初、ロバートフックとニュートンが争っていたようですが その中で疑問に思うことがありました。 フックは、雲母が色づいて見えることから 波動説を支持していました。 ニュートンの粒子説では 薄膜である雲母が色づいて見えることは説明不可能であると。 なぜ、粒子説では説明が不可能なのでしょうか? 粒子説をとった場合、薄膜は着色しないのですか? 薄膜であるからといって 粒子が移動しないわけでもないですよね? 逆に、どうして波動説では説明が可能なのでしょうか? 物理学や自然科学といったものがてんでだめなのですが 大学のレポート作成に手こずっています。 お力を貸してください。