• ベストアンサー

私は何に向かって生きていくべきなんでしょうか?

totetsumonaiの回答

回答No.11

ご質問読ませていただきました。 私も、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の記事を読んだことがあります。 根源的に、そもそも何の理由があってここに立っているのか。さっぱりわからないですよね。そもそものそれが分からないのに、どうやって生きていくかがわかるはずもないと。全くその通りだと思います。 そしてこの世の中は「なぜか知らないけどそうだった」で構成されていると思います。 例えば、現状すごく楽しく生きている人は「なぜか知らないけどそうだった」が先にあって、その後に理論をくっつけていると思います。「私が今楽しいのは、物事を前向きに捉える習慣を身につけたからうんぬん。。」 同じように今つまらないと考えている人も、まず「なぜか知らないけどつまらなかった」が先にあり、その理由を考えて「家庭環境が。。性格が。。才能が。。」などと後付けしていると思います。 これが実際のところだと思うんです。 ただ、人間には以下の性質があることはハッキリしていると思います。 1. 自分が「快」だと思うことに理由を求めない 2. 自分が「不快」ふぁと思うことには理由を求めがち 例えば美味しいアイスクリームがあります。このアイスを食べることに「意味あるの?」とは誰も考えません。美味しくて自分が快感を得られること自体が「意味」だからです。 一方で、強制労働を課されたとします。「なぜ強制労働を課されるのか?」と意味を問います。不快なことに対しては意味を問うようになっています。 質問者さんは、人生が楽しくてしょうがないならば、人生の意味は問うてないと思います。 世の中には、人生の意味を問う必要がない人と、問う必要がある人が生きています。あくまでその人にとっての基準にまで快が達していなければ、問うてしまうと思います。 少し話は変わりますが、世の中には「何のために生まれてきたのか」と問わざるを得ない人たちが想像以上に多くいます。飢餓地帯に生まれた赤んぼうは、3歳まで生きずに餓死していきます。 紛争地帯に生まれた小どもは、家族を殺され、その恨みで兵士になり、自分もいつか殺される前提で生きます。 このような極端な例を挙げるまでもなく、この日本でも、生まれ持った性格や才能や環境の組み合わせによっては、苦痛しか感じることができない人間も多数いると思います。 生まれ落ちる時代や環境の運によって、何の意味も見出すことができない状態になってしまいます。 そして人間は、年齢を重ねるごとに状況はどんどん厳しくなっていきます。 病気の可能性は高まるばかりです。死別も必ず経験します。人間関係のトラブルも、金銭問題も大きくなります。子供ができれば金銭問題はより一層大きくなります。 その中でも、常に自分は3食食べていく必要があり、日々を新たな刺激で暇を紛らわす必要があり、人間関係を良好に保つ必要があります。 つまり、何が言いたいかというと、この世の中は「そもそも」、「楽しいところではない」ということです。そもそも意味を見出せるようなところに生まれ落ちていないんです。 現状幸せな人は、本人の物事の捉え方の工夫や、外的環境が運良くうまく回り、一時的に幸せになっているに過ぎません。 じゃあ、死ねばいいのか。 でも死んだらどうなるかわかりません。今よりもっと苦しいかもしれません。 今よりもっと無意味かもしれません。 逆に天国かもしれません。誰にもわかりません。 人生は、このような「状況だけが与えられている」に過ぎません。 いくら勉強しても死後のことは生きている誰にもわかりません。 ただし、以下のことだけは言えるのではないでしょうか。 ・今死ぬと、この人生といわれている不思議なものは、恐らくすべて終わる ・生き続ければ、今後「生きる意味はこれだった」と思える瞬間が来るかもしれない メロンの味は、言葉でいくら説明しても、食べてみないと分かりません。経験することのみによって、それを理解することができます。 このようなことが人生にはたくさんあります。 人間は所詮感情の生き物ですから、経験することで考え方が変わることは日常茶飯事です。 よって今後の人生では、なるべく未体験なことをし続けることをお勧めします。 例えばサーファーには、「波の合間をくぐりぬけてゆく快感」に「生きる意味」を感じる人も居ます。しかし、自分が実際に海の合間をくぐり抜けなければ、いくらそれを語られても、その快を経験することはできません。 好きな人と愛し合い永遠の愛を誓い合う快感は、それを経験するしか味わう方法はありません。 どんなことが自分にとっての生きる意味になるかは分かりません。しかし何らかの快感がそれに関係していることは確かです。 ちなみに私の快感は、いろいろありますが、例えば、 この意味が与えられていない世界で、自分が意味づけをするために1日生きた、すごいぞ俺」という快感です。 私は意味を与えられていない人生に負けるのが嫌なんです。それに俺は十分抵抗した、と思える1日の終わり方ができた時、夜眠る時に小さな「快感」を覚えます。 例えばそれが私にとっての生きる意味です。 客観的な生きる意味は、おそらく無いんだと思います。少なくとも生きている人間に見出せることはなさそうです。 しかし個人的な、主観としての生きる意味付けは、その人次第で可能だと思います。最終的に寿命まで生き切れば、たいしたものです。

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質問者

お礼

ご回答ありがとうございます、具体的でよい回答だと感じました。 >1. 自分が「快」だと思うことに理由を求めない >2. 自分が「不快」ふぁと思うことには理由を求めがち >質問者さんは、人生が楽しくてしょうがないならば、人生の意味は問うてないと思います。 >世の中には、人生の意味を問う必要がない人と、問う必要がある人が生きています。あくまでその人にとっての基準にまで快が達していなければ、問うてしまうと思います。 確かにその通りでしょう。 私は幸せの最中我に返り、数瞬の思考の末に逆に空虚な感覚に襲われる事があります。 これは快を感じつつも私が定める快の基準には達していないから起こる現象なのかもしれません。 ただ私は快か不快かで行動を選択する事にあまり納得できません。 快と不快を定義する事が不可能だからです。 快という感覚も自分の思い込みから発生した感情に過ぎず信用ならない基準です。 快ならば良いのか?不快ならば悪いのか?一概には言えません。 快不快に重点を置く人生に疑問を感じてしまいます。 しかし生きていく上では大事な事だという事も理解はしています。 >生まれ落ちる時代や環境の運によって、何の意味も見出すことができない状態になってしまいます。 >そして人間は、年齢を重ねるごとに状況はどんどん厳しくなっていきます。 >病気の可能性は高まるばかりです。死別も必ず経験します。人間関係のトラブルも、金銭問題も大きくなります。子供ができれば金銭問題はより一層大きくなります。 >その中でも、常に自分は3食食べていく必要があり、日々を新たな刺激で暇を紛らわす必要があり、人間関係を良好に保つ必要があります。 >つまり、何が言いたいかというと、この世の中は「そもそも」、「楽しいところではない」ということです。そもそも意味を見出せるようなところに生まれ落ちていないんです。 確かにそうですが社会の中で悩んでいるだけならまだ救いがあります。 それはただの身の回りの物質が充足しているかどうかの資源的な悩みですから、難易度的には優しい問題です。 実際に叶うかどうかは別問題ですが答えとしては非常にシンプルでただ豊かになれば解決する問題です。 深刻な問題ではありますが今回の質問内容と比較する物ではないでしょう。 >人生は、このような「状況だけが与えられている」に過ぎません。 >いくら勉強しても死後のことは生きている誰にもわかりません。 >ただし、以下のことだけは言えるのではないでしょうか。 >・今死ぬと、この人生といわれている不思議なものは、恐らくすべて終わる >・生き続ければ、今後「生きる意味はこれだった」と思える瞬間が来るかもしれない これは人生という範囲内に限って成り立つ話だと思います。 生きる意味、というのも人間である自分が、自分の人生に対していかにして納得するか、ただそれだけの価値観です。 死ぬ事で全て終わるなら今終わってしまっても別に構わないという考え方もできます。 結局これも何一つ定義し得ない問題で、どちらも肯定できないし否定もできないという所が残念ですね。 >私は意味を与えられていない人生に負けるのが嫌なんです。それに俺は十分抵抗した、と思える1日の終わり方ができた時、夜眠る時に小さな「快感」を覚えます。 >客観的な生きる意味は、おそらく無いんだと思います。少なくとも生きている人間に見出せることはなさそうです。 あなたはその「無い」に対して生きようと思い、私は死にたいと思った。 私は人としての人生に快を見いだせなかった人間だったという事でしょう。

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