• ベストアンサー

私は何に向かって生きていくべきなんでしょうか?

totetsumonaiの回答

回答No.12

追記です。 気になる質問だったので、もう一つ違う観点から回答させてください。 この世界ではどこまでいっても、自分の主観が主体です。 何を思うかは、 「その人の考え方」によって決まっていると思いがちですが、 その手前に、 「その人の感じ方」があります。感じ方が先にあって、そこから考え方が発生します。 生きる意味は? という質問の答えは、釈迦がすでに1,500年前に出しており、「意味は無い」が結論です。ですから凡人の私たちが一生懸命「考えて」も意味は無い以外の結論を出すことはできないでしょう。 しかし、生きる意味を問わないで大丈夫な人もいます。その人は「なぜ生きるのか?」を疑問に「感じない」からですよね。 人生は無意味なのだから、考え方によってそれを意味のあるものにしようとする試みは失敗すると思います。 でも、「感じ方」を変えれば、意味を問う必要性が消えてしまうことがよくあります。 「感じ方」は人の個性ですが、実は年齢や習慣によって意外と簡単に変化するものなんです。 例えば、人を好きになる時を考えてみてください。その人のことを好きだと口にすればするほど、本当にその人のことがより好きになります。自の脳を自己洗脳しているとも言い換えられます。 例えば味覚も変化します。大人になると小さな時には辛くて食べられなかったものが美味しく感じます。数週間でも粗食に変えると、外食すると味付けがどれもくどく感じます。 絵の勉強をした人は、絵を勉強してない人に比べて、1つの絵から様々なことを感じ取ることができます。 このように年齢や習慣でものごとの感じ方に変化が出てきます。私は「意味のない世の中で、意味を問う風に生まれ育ってしまった人」を救うのは、この「感じ方の変化」に見出せると思います。 そしてここからが大切ですが 人生に意味を感じない、と思う人は、その前に「自分自身に価値を感じない(自己肯定感が弱い)」ことが多いと思います。 自分には価値がある、しかし人生に意味を感じない、とはなかなかなりません。 で、この「自分には価値がある」と感じられるかどうかは、習慣によって変化させることができます。 自分を褒める習慣です。これも実際に「体験」することで変化を感じることができます。人を好きになるように、脳を自分で洗脳すれば、自分自身に価値があると感じることができます。 例えば、幸せな人は毎日の食事に「美味しかった、幸せだ、農家の人に感謝」などと感謝する習慣をつけます。するとこのような小さな幸せにも本当に大きな喜びを感じられるようになります。これもある意味で脳を洗脳しているからです。 脳は自分の意思で「感じ方」をコントロールできるものなんです。 だから、本質的に無意味なこの人生を楽しく生きるには、脳を自分で楽しく生きられるように習慣によってコントロールする必要が有ります。 モデルは自分に自信をつけるために、鏡の前で自分を毎日褒めます。そうすると見た目は同じなのに自分に対する「感じ方」が変わってきて、本当に自分のことを以前より綺麗だと感じられるようになり、雑誌の撮影でも自然に良い表情ができるようになります。 そして脳の感じ方を変えるのは、思ったよりも早く結果が出ます。私は1ヶ月かかりませんでした。 自分に価値があると思えたら、「この世に価値がない?ふーん、じゃあ俺が価値をみつけてやんよ」くらいになってきます。 自分を褒める習慣をつけてみてください。その際には、ほめ日記をお勧めします。ほめ日記でググってみてください。 考え方の前に、感じ方があります。感じ方を変えるのは習慣の実践です。感じ方が変われば考え方が変わります。 今日も天気が良いだけで幸せになる人がいます。言葉で聞いても「たかがそんなことでそこまで幸せになるか!」と思いますが、幸せなひとは実際にそう「感じる」ことができています。それは主に習慣による脳の自己洗脳がそれを可能にしています。 だから他人と話し合っても意味がないんです。人生は感じていること、主観が全てです。そして経験や習慣によって、感じ方を変化させることができる。 ここに解決のポイントがある気がします。

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質問者

お礼

よい方法だと思います。 しかし同時にそうまでして生きる必要はあるのか?という疑問も感じてしまいます。 そんな真似をしてまで無理矢理楽しい気持ちになって生きる必要はあるのでしょうか? 別に死んでも良いんじゃないですかね? 大体生きるか死ぬかの話になると死を避け生きる事の方が良いという話の流れに自然となってしまう事は多いですよね。 確かに私もその気持ちは理解は出来ますが、結局これは遺伝子に従ってるだけですよね。 しかし私自身こうして投稿している以上、死にたいよりは生きたい気持ちの方が強いからこのような質問をしたのかもしれませんし、 今考えるとなんとも納得いかん事です。 本当に死にたいなら黙って死ぬでしょうからね。 どうもありがとうございました。

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