魂とは何か?

このQ&Aのポイント
  • 魂は存在しない?その真実とは
  • 魂の構成要素とは何か?
  • 魂に含まれるものは何か?
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魂に含まれるものは何ですか?

魂は存在しないんじゃないかなと思っています。 しかし、もし魂が存在したらそれに含まれるものは何でしょうか? もし、自分が死んで、来世があるなら魂が転生するのでしょう。あるいは天国に行くのかもしれません。あるいは極楽浄土か? 転生するにせよ、天国に行くにせよ、それが自分でなかったら意味がないですよね。 そこで魂を構成していて、これが自分固有のものであって他人と違うものは何なのか知りたくなりました。 記憶は脳に蓄えられているようです。そうしてみると死んで脳がなくなれば失われるでしょう。 性格も脳によるものみたいです。脳手術をすると性格が変わることがあるとか。 思考能力も脳に依存しているでしょう。 魂はおそらく目が見えないと思います。魂はみえない。見えないということは光が透過するということで、光をキャッチしてとらえることができない。光の情報を受けることができない。 そうするとおそらく他の感覚も持たないのでしょう。 まとめると、記憶、思考、性格、知覚は魂に含まれないと思われます。 魂を構成するもので「これが自分だ!」というものは何なのでしょうか?

  • stmim
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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.7

古代ギリシャのアリストテレスに「魂について・デ・アニマ」という著作があります。 プラトンの魂の不死に対して反論したもので、プラトンは師のソクラテスが死んだとき、それを悼んで「ソクラテスの肉体は滅んでも、魂は永遠に生き続けます」と言いました。 魂はギリシャでは、生命と同じものとして考えられていました。 ギリシャには人間が死ぬと魂が幽体離脱して天に昇り、永遠に生き続けると考えられていました。 魂はギリシャ語で、プシュケーといい、息・呼吸を意味しました。 人間が死ぬと今でも、ガスが出ます、だから死者の鼻・口・耳に綿を詰めますが、それです。 プラトンは魂は永遠に生き続けると言いましたが、日本の巨人軍の長嶋も「巨人軍は永遠です」と言いました。 肉体が滅んでも、魂は生き続けて欲しいというのは残された人間の願望です。 別に根拠があるわけではありません。 アリストテレスはお父さんが二コマコスと言って、医者だったので、医者は今でも現実的で、魂が生き続けると聞いて、苦笑いするだけです。 アリストテレスも同じでした。 デカルト以前の西欧では、魂という言葉がよく使われましたが、それはアニミズムの世界観に基づくもので、デカルトが心が実体、身体が実体の心身二元論を唱えて、身体と心を分離してより、魂という言葉に取って代わって、心という言葉がよく使われるようになりました。 魂という言葉は心身の未分化な、それ以前の生命のようなものと考えられていましたが、デカルト以降、世界を科学的・合理的に考えるようになると魂という言葉は失われて行きました。 日本でも、明治以前には魂という言葉が盛んに使われ、心という言葉も、魂と同じように使われ、日本人は長くアニミズムの世界観、人間と自然を一体とみなす考え、これを「物活論」と言いますが、それが長く信じられてきました。 しかし、明治になって西欧から哲学・思想が入ってくると魂に代わって、心という言葉がよく使われることになり、魂は片隅に追いやられて行きました。 漱石が「こころ」という小説を発表し、それがベスト・セラーになると、日本人は「こころ」という言葉を使うようになりました。 日本の近代化は西欧化にほかならず、それに反発して、反近代の思潮が台頭し、大正・昭和に、たとえば鈴木大拙の「日本的霊性」とか折口信夫のいう「霊魂」だとかいう逆襲が始まりました。 特に明治の国家神道の浸透によって、大和魂だとか、武器弾薬がなくても「大和魂」があれば戦争に勝てると言われました。 だけど、第二次大戦に敗北すると「大和魂」では戦争に勝てないことが分かり、魂という言葉は、ふたたび使われなくなりました。 仏教では人間が死ぬと魂は輪廻転生する、と言われましたが、中村元が「東洋人の思惟方法」で書いているようにインド人の場合、もともと形而上学が好きな民族だから、輪廻転生ということが信じられたが、中国人や日本人は現実的な民族で、この世界を超えた形而上学なんて信じない、現世中心の考え方が大多数と言いました。 孔子の「論語」でも、儒教は「怪力乱神を語らず」と言って、鬼神を論じません。 儒教は現世中心です。 日本人も同じ。 日本でも、浄土だとか、極楽浄土だとか、浄土往生なんて言われたのは、平安末期から鎌倉初期の時代の戦乱の時代だけで、鎌倉時代中期の日蓮になると現世浄土と言い、来世の観念は後退しました。 今の日本人で、死んで魂が輪廻転生することを信じている人はいません。 現世があるだけだから、健康第一、長生きするのに懸命です。 テレビ番組を見ても、健康のための医療番組が実に多くなりました。 現代日本人の信じているのは健康であり、いかに自分が長寿でいられるかです。 「魂を構成するもので、これは自分だというものは何でしよう?」 ・・・・・と聞かれても、今の日本人は魂なんて非合理なものは信じていないのだから、答えようがないでしょう。 記憶・思考・性格・知覚を統合しているものは魂ではなく、自我とか心と言われるものです。 だけど自我とか心はカントにとって「不可知」なもので認識が成立している以上、「なければならない」けど、「なければならない」というのは「要請」であって、別に「ある」わけではない、それは超越論的に言えば仮象にしか過ぎない、とカントは言いました。 だけど仮象だからと言って、不必要かと言えば、必要な仮象である、とも言いました。 記憶は記憶、思考は思考、性格は性格、知覚は知覚、それぞれ別だけど、統一するものが必要だから自我とか心とかが必要なので、それは存在するものではなく、仮象なんです。 仮象という意味は、それが存在するか、存在しないか、そんなことは分からないということ。 魂も同じで、そんなものが存在するか、存在しないか、そんなことは分からない。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。魂の歴史を解説してくださって勉強になりました。 >今の日本人で、死んで魂が輪廻転生することを信じている人はいません。 自分の周囲では魂や輪廻転生を信じている人が結構います。そうゆう人の魂論を聞いてみるのはおもしろいです。ネットで調べてみると50%くらいの人が魂を信じているようです。例えば、下記のURLなど。 http://www.ne.jp/asahi/koto/buki/bukkou/syukyo/syukyo.htm なるほど、存在するかどうかにかかわらずその概念が必要だから、概念が存在するということですね。 私は魂はないと思いますが、もしあったらどんなものかな~?と思って質問しました。

その他の回答 (12)

  • kohichiro
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回答No.13

NO.9 です。 お礼をいただきましたので、もう少し、つーか前回で煮詰まっているところをクリヤーにしておきたいと思いまして。 >>私が思うに、きわめて抽象的ですが、人の魂は、やはり死後、他人の魂に移り住んで生き続ける、ということではないか、と思われます。 >この点について、それは他人からみた自分の記憶ということですよね。 哲学的な考察としては赤裸々な表現ですが、そう考えていただいて結構です。 >そうすると何も、本人が死ななくても存在すると思います。それは本人の生死と関係なく存在しているのではないでしょうか。 質問者様のここでのご不満は、自身のコピーではダメだ、自分のオリジナルが死後もしっかりと(たとえ盲目であっても、たとえ単なる気体であっても)存在し続けていたい、要は不死、あるいは永遠のものを「魂という実体」に求めているということなのでしょう。でもそれがあったとして、あなた自身にどんな積極的な意味を持つのか?と私は思いますね。 >不正確でも魂のコピーをつくることは意味があるのかもしれません。ですが、オリジナルの魂の消滅はどうしようもないのですね。 私はそう思っています(現時点では)。でも、生前から貴方のコピーが他人の心の中で生きている、ということは一面ではすごいことだとは思いませんか。しかもそれがひとつだけのコピーではなく、たとえ不正確なものであっても、それが間違いなく当人のコピーであり、しかも何百何千と多くの人の中でいき続けているとすれば。これはある意味では5感を失ったオリジナルがふらふらとたったひとつだけ生き延びているよりも大変なことだともいえます。そのひとにとっては名誉なことでしょう。 幽霊のはなしがありましたが、幽霊にも死霊と生霊があって、生霊というのはまさしく生きた人間のコピーのようなものらしいという説があります。いずれにせよそういった人間の形をしたガス体(のようなもの)は、常に周囲の環境に鈍感で、5感はないようだ(ぼんやりしている)という観察をしたひとがいます。 別件として、ご参考まで。

stmim
質問者

お礼

再び回答ありがとうございます。 私が疑問に思ったことに丁寧にお答えくださいましてありがとうございます。 >でもそれがあったとして、あなた自身にどんな積極的な意味を持つのか?と私は思いますね。 それは魂の内容次第だと思います。もしそれが確かに「自分」であると思えるものであるなら、永らえてほしいものだと思います。生きるというのは生物の本能ですし、自分が消えてしまうのは残念だと思います。もし魂の内容が、「自分」であるとは思えないものであるなら、それは存続しても意味がないです。 >でも、生前から貴方のコピーが他人の心の中で生きている、ということは一面ではすごいことだとは思いませんか。 私の中にも他人のコピーというか投影がありますが、それが存在することをその本人がうれしいと思うかと考えるとそう思えません。 また、他人の中に自分のコピーが存在することを自分がうれしいと思うかと言えば、うれしく思いません。 そもそもコピーといったところで、そのコピーが考えたり感じたりできるわけではないですよね。 考えることも、感じることもできない私にどんな意味があるのか・・・。 >そのひとにとっては名誉なことでしょう。 性格の問題もあるかもしれません。私は他人にどう思われるかということにあまり関心がありません。 名誉といわれても私はまったく興味ないです。名誉と思う人もいるでしょうけど。 他人の中に生きている自分も自分のうちなのだと思えるようになれれば、「生きる範囲」がふえてよさそうですね。 今の私はそのように考えていませんが。

回答No.12

stmimさん こんばんは。 現在、心理学のお勉強をしてるので、少々、情報提供をしましょう。 stimimさんが、自然科学を信仰し、こてこての唯物論者なら、古代ギリシアのデモクリトスの原子論(アトム)やライプニッツの単子論(モナド)を信じればよい。死後は魂を含め、物質として、すべてばらばらになる。 しかし、古代ギリシアのプラトンは魂の存在を肯定し、不滅の魂は肉体に結合する前は天上界(イデア)を観照していたが、この世では魂は肉体という鎖に繋がれ、イデアを忘却してしまった。そこで出来る限り肉体を離れ、魂だけになりイデアを想起し不滅の生に立ち返ればならないとしました。いわゆる魂と身体の二元論です。 この考えは中世の聖人アウグスティヌスにも受け継がれ、魂と身体は分離するものとして魂とは意識であるとしたようです。 No.7のurigadai2013さんが、魂の歴史についてまとめてますから省略して、魂を考察する上で面白い本を一冊紹介します。 「フェヒナー博士の死後の世界は実在します 服部千賀子(訳)成甲書房」 いかにも新興宗教くさい題名ですが、この本を書いたグスタフ・フェヒナーは19世紀のれっきとした、心理学者であり、私がこの哲学カテでたびたびあげる、アメリカのプラグマティズム(行動主義とか実用主義と日本語では訳されます)の心理学者、ウイリアム・ジェームスもこの本は価値があると認めています。 おそらく読んだ人は、面白い学説と思うか、ばかばかしい説だと二分されるかと思います。しかし、この本は字が絵本くらい大きいので1時間あれば、ざっとは理解できると思います。 いくつかフェヒナー博士の言葉を書きます。 第一ステージでは人は暗闇の中を生きる。(胎児) 第二ステージでは周囲を認識できる程度の明るさがあり、他人との付き合いの中で仲間と共に生きる。しかし他人と自分は分離している。(現世) 第三ステージでは人の生命は他人の魂と融合して「至高霊」と呼ばれる高次元の生命体になり、物事の究極の姿を理解することになる(あの世) 死後の人の魂は天国か地獄へ行くとされているが、キリスト教やユダヤ教、異教徒が使う意味での天国や地獄というものは存在しない。魂は大空へ舞い上がりもしなければ、地下に堕ちていくわけでもない、中空に留まったり、木っ端微塵となったり、宇宙に溶け込むこともない。 霊的世界の究極の姿とは単なる魂の集まりではなく、地上に根を張り幹のてっぺんは天国まで達した、魂の木なのである。 肉体が死を迎えた後、脳がなくなった人間はどのように、存在していくのだろう。(中略)脳に代わるすばらしい構造物が、あの世のどこに見つかるというのか、実際、脳を超えるものがあるとは思えない。だが、来世の脳は、間違いなく現世の脳を超えるものであるのだ。 この本の中でフェヒナー博士は魂は意識と考えています。 stimimさんも自然科学に固執しないで、稲川淳二の怪談話を真夏に聴きに行って、心霊写真から、霊魂の存在を肯定してみれば。 しかし、フェヒナー博士は幽霊から身を守るためには、幽霊が現れると信じないことだ。としてます。 受け売りばかりで、本を紹介するアマゾンの本のレビューのようになってしまいましたが、私も死後の世界は想像するしかなく、死んでみないとわかりません。参考まで。   

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 死後の世界は死んで見ないとわからないのに、フェヒナー博士はどうやってそのことを知ったのかな、と思いました。

noname#215306
noname#215306
回答No.11

> もし、自分が死んで、来世があるなら魂が転生するのでしょう。 いや、下位に下りて来た氷柱のような拡大・延長した制 限された自己意識のよう(間接的自己確認すべき物とい う意味) > そこで魂を構成していて、これが自分固有のものであって他人と違うものは何なのか知りたくなりました。 知りたいという人は結構多いけれど、実際の所、ほんと に知りたいという人は実は全く存在しない事にいつも驚 かされる > 記憶は脳に蓄えられているようです。そうしてみると死んで脳がなくなれば失われるでしょう。 性格も脳によるものみたいです。脳手術をすると性格が変わることがあるとか。 TV受像機をいじった所、機能が変わった、だから放送 はTV受像機で作られてる、と思い込むような物では? 形而上学に故意に踏み込もうとしない・踏み込めない科 学などは、真実の探求の有効な手段、頼り寄り添うよう な権威といえるのか? > まとめると、記憶、思考、性格、知覚は魂に含まれないと思われます。 見えない知らない、自己確認出来ない、理解出来ない、 のないないづずくしで、確信・断定しないだけは、まし だとしても、一体なにをいえる段階といえるのだろう? 意識体の映像化としての、束の状態が見えなければ理解 と探求の始まりの段階とはいえないと思う

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 うーん。意味がさっぱりわかりません。

回答No.10

エネルギーの振動数(╹◡╹)ニコニコ

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いわゆる波動ってやつでしょうか。 よく出てくるけどわからないです。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.9

>魂は存在しないんじゃないかなと思っています。 多分、その通りですね。 >しかし、もし魂が存在したらそれに含まれるものは何でしょうか? 仮定の問題ですね。確かに魂(たましい)という日本語が流通している以上、実態であれ仮想であれ、必ず何らかの(言葉などで)説明できるものはあるだろうと思われます。つーかあるでしょう。それは、たとえば 数式のように 日本人の魂X日露戦争の結果=愛国精神の肥大 といった使い方はできると思われます。XYZ などであらわされるものとして。 >もし、自分が死んで、来世があるなら魂が転生するのでしょう。あるいは 要は、質問者様は死後の魂に関心があるのですね。あるいは、死んでも魂だけは残っているかもしれない、ならやっぱり魂は実体をもったものであるほうが良い、そうであることが望ましい、ということでしょうか。 >魂を構成するもので「これが自分だ!」というものは何なのでしょうか? >魂はおそらく目が見えないと思います。魂はみえない。 目に見えない?あるいは盲目である? いずれにせよ死んだ人間は分子状態に分解してしまいますから、見えなくはなりますが、だからこそ魂に期待されるのではないですか? 生きている間のわれわれの”魂”の部分は、こころというもので一括して言われることが多いように思われますが、ひとりの個性がそれに凝縮して詰まっているようです。代表的にはDNA でしょうが、生きている間に個性というものは膨大な個人的記憶と肉体的な神経系のシステム、そして虫歯やら病気のあと、そういったものの総体ということになるでしょう。そして死ぬまでそれらが変化し記憶に蓄積されていきますから、それらの中で「これぞ自分!」といわれるものはなかなか言い表しにくいのではないかと思われます。もちろんそれらがシステムとして機能している間の話ですから、死んだら無になります。分子同士が生前のように呼応し合っているということはちょっと考えられません。 私が思うに、きわめて抽象的ですが、人の魂は、やはり死後、他人の魂に移り住んで生き続ける、ということではないか、と思われます。多くの実例があります。抽象的である必要もありません。ガス体になった死者の魂は、様々な支持者に吸い込まれてそこで生き続けるのです。神社が作られるような偉大な人間ほどその拡散はいちじるしいということになるでしょう。 魂を生き続けさせる簡単な方法のひとつに、日記をつけておく、あるいはネットにつぶやいておく、そういったことがあるのではないでしょうか。いずれ貴方の全人格の魂を残すことは無理としても、ですね。

stmim
質問者

お礼

>質問者様は死後の魂に関心があるのですね。 そうです。「大和魂」とか「魂のこもった演奏」みたいな意味での魂ではありません。霊魂の意味です。魂という言葉は2つ意味があるのをうっかりしていました。 >目に見えない?あるいは盲目である? ここもあいまいな表現でした。盲目であるという意味です。 >私が思うに、きわめて抽象的ですが、人の魂は、やはり死後、他人の魂に移り住んで生き続ける、ということではないか、と思われます。 この点について、それは他人からみた自分の記憶ということですよね。そうすると何も、本人が死ななくても存在すると思います。それは本人の生死と関係なく存在しているのではないでしょうか。別に本人が死んだので急に発生するというものではないと思います。だから不正確な魂のコピーというものではないでしょうか。たいがい他人に思われている自分というのは本人の意識からしたらぜんぜん違うものだったりします。それは誤解だよということがしばしばあります。 不正確でも魂のコピーをつくることは意味があるのかもしれません。ですが、オリジナルの魂の消滅はどうしようもないのですね。

  • manmanmann
  • ベストアンサー率12% (535/4296)
回答No.8

歴史かなあ。自分の、というよりは人間の、生物としての。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 歴史の記憶とはまた違うのでしょうか。歴史そのものですか。

回答No.6

「魂は存在しない」というより、「魂と世界」のコミ で存在しないのだ。 感受は感じている感覚器官表面での量子相互作用に 還元され、そこに得られる存在像も階層現象性の果て に超弦(量子定常波)に還元される時、全ては量子性 に還元されるのだ。 その量子が、4次元ミンコフスキー空間における時間軸 と空間軸の虚数関係によって等距離点に生じる0の面 (界面原点)=光量子の軌跡として得られる時、「存在」 とは仮説的空間の広がりへの無の射影だと言える。 量子論的世界像において、有限的な存在性(=宇宙)は、 認識される事によって派生している。 全ての存在は量子的な確率性に基づいており、無限に詰め 込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなる。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に 認識体の仮定断面(認識可能性)の運動を想定すれば、 相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互 作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性) としての宇宙を認識するのだ。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いただいた回答に対する私の率直な感想は、量子は関係あるのかな?と思いました。 確かに、私たちの体は究極には素粒子で構成されています。 しかし、これまでの生化学が解明してきたことを考えると量子を持ち出さなくても、細胞や分子のレベルで多くのことが理解されそうです。 これまでの生物現象で量子を持ち出さないと理解できないことや、量子が関与していることが示された実験というのは聞いたことがありません。 せっかく回答をいただいたのに、反論になってしまってすみません。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.5

人の魂が浮遊していたり、極楽浄土に飛んで行ったりすることは無いと思っています。あなたと同じく人の魂とは脳の中の記憶だと思っています。記憶は脳神経細胞による電気信号の働きですが、物質で成り立っています。人が死ぬことで脳は働かなくなり、その人の記憶もなくなります。 しかし、他人の脳には死んだ人の人格の記憶は残っているのです。他人の記憶もその人の魂だと思っています。たくさんの人に記憶してもらえることが大事だと思います。他人はその記憶の影響で亡霊や気配などを感じるのです。 私はこのような他人の記憶もその人の魂だと思っています。極論すれば文学や経典や歴史に名を残すことも人の魂だと思っています。釈迦の魂、キリストの魂、ムハンマドの魂が宗教へと発展したのです。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど。それはわかります。 ですが、私は来世での復活をもくろんでいるのですが、それは無理そうですね。 極論すると実在しない人の魂もありかなという気がします。 例えば、連続ドラマなどをみていますと、感情移入してしまい実在しないはずの架空の人物が自分の中で生きてくる感じがすることがあります。そうゆうのも魂なのかなと。

  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.4

「魂」の定義づけが先決ですね。これができていないと、 議論がしっかりとできないままになってしまう。 昔、聖闘士星矢という漫画がありました。シャカが各器官を 順番に封じていくドSなシーンがありましたし、その後には エイトセンシズとかでてきてましたねw まあ、そのついでなんですが、語句の意味を昔調べた事がありましたw シャカが死に際に花びらに血で描いた「阿頼耶識」とか。意識のさらに 深層にあるモノという説明があります。 魂を生命と認識した上でならば、これが該当するかも。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98 これが真実かどうかを俺には証明できないんですが、 こんな一説もあるっていう程度でご参照をw 結局、魂が何と何で構成されているとかではなくて、 生命そのものだということかな。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。定義ですか・・・。辞書的には以下のものがありました。 「生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると考えられるもの。古来、肉体を離れても存在し、不滅のものと信じられてきた。霊魂。たま」(デジタル大辞泉) 加えて、その個人に固有なものでしょう。そうでないと転生しても意味がないし、天国にいっても審判の対象にはならないでしょうから。 >生命そのものだということかな。 生命そのものだとしたら、死ねば消えるということですね。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.3

"もし魂が存在したらそれに含まれるものは何でしょうか?"    ↑ 魂というか、意識ですかね。 これは現在の科学でもまだよく解っていません。 最も有力なのは、脳細胞ネットワークが織りなす 反応だ、という説です。 これが正しいとすれば、魂は物質だ、という ことになります。 だから死ねば魂も無くなります。 脳細胞は、それこそ何億もありますし、その ネットワークの形態も考えれば、それこそ無数 に近い組み合わせがあるわけで、その意味で 同じモノは存在し得ないと思われます。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど。意識がありましたね。 >魂は物質だ、 なんと! そうすると確かに死ねばなくなりますね。

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