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美とは何ですか?

美とは何ですか? 「調和がとれている、素晴らしい」と認識することですか?

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  • titelist1
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回答No.11

芸術の美は分りませんが、美人のことは分ります。何故か直ぐに分るのです。それなりに年を取っていても、やはり美人なのです。自分と異なる人種であっても美人だと分るのです。美の原点はここにあるのです。だから、人間だけが持っている感性ではないと思います。動物が異性を選り好みする感性が美の感性です。人間ではこの感性をつかさどる大脳前頭葉が発達してあらゆるものに選り好みをしているのです。それが美だと思います。

otabeb
質問者

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回答No.12

人間の脳には、五感の相関した経験の蓄積において、次にその1つの感覚を同じパターンで刺激された時に、五感の総合したイメージを励起させるという働きがあります。 その最も分かりやすい例が、色でしょう。 物理的には、「色」とは電磁波の可視領域の、連続的な波長の変化に過ぎません。 「赤は青の反対」などという根拠は、どこにもありません。 その「波長の連続的変化」という一次元に、五感の相関した経験の蓄積において、特定の波長に対して条件反射的に(その波長に伴う経験の)印象が付加される事で、“多彩”さは生じているのです。 赤の印象を分析すると、火や血、肉、花などの異なる原因による長波長を伴う現象の経験(温かい、危険、食欲など)が、青には、水や空といった短波長を伴う現象の経験(冷たい、爽やか、静寂など)が、潜在している事が分かるでしょう。 この「総和機能」において、人生における快適な経験の総和における、視覚的刺激パターンが「美」です。 それゆえに、成長期で好奇心旺盛な(しかし経験の蓄積の少ない)子供の頃は、ケバい色や動くものを好むし、世界各地によって、美的センスは異なってくるのです(砂漠地域では青や緑が好まれ、空白恐怖と呼ばれるほど装飾で埋め尽くす)。

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回答No.10

近代美学は18世紀にバウムガルテンの「美学」から始まったと言われる。 なぜ、美学だったのかと言えば、デカルトが世界を心と身体、精神と物質に分離して以来、感性の居場所がなくなったことにあり、デカルトの機械論的哲学とその影響で、17世紀以降、自然を機械論的に考える風潮が蔓延したことへのプロテストとして、近代美学が登場したということ。 美というのは感覚知覚と悟性を結び付ける、その中間にあるものとされている。 カントの「判断力批判」によれば、美は主観的である。 同じものを見て、ある人はそれを美しいと言い、別のある人は美しくないという。 もし、悟性的に考えたら、美というのは主観的なんだから、存在しない。 だけど、私たちは芸術作品を見て、誰もが美しいものは美しいという。 美には普遍性がある。 つまり、美は主観的でありながら、普遍性がある、という矛盾を含んでいる。 カントによれば、人間には共通感官というものがあり、共通感覚がある、という。 五官を統一して、視覚・触覚・味覚・聴覚・嗅覚を統一し、それを取りまとめているという。 その統一して、根底にあるものが「構想力」、そして「構想力」は規定的構想力と産出的構想力があり、そして美は「産出意的構想力」によるものだという。 この美によって感性と悟性の対立を統一できることから、カント以降のシェリングは「同一哲学」というものを唱えて、カントの「物自体」と現象の区分と対立を乗り越え、ドイツ観念論を形成することになった。 そしてドイツ観念論、特にシェリングの美に対する考えから、18世紀の機械論的な合理主義に基づく「啓蒙主義」に対して、その反動として「ドイツ・ロマン主義」が台頭することとなる。 美は主観的・個人的でその基準は各人によってさまざまでありながら、それでも普遍性があるのは「産出的構想力」が両者を結び付け、統一しているからです。 そしてカントによれば美は「無関心」にあるという。 つまりそのものに対する関心がないこと、中立であること、そこから生まれる。 利害関心をもったり、自己の利益なるかとか、欲望で曇らされるのではなく、それがお金になるからというのでもなく、中立で無関心でいる時に、美は現われる、という。 右でも、左でもなく、中立。 「調和がとれている」という状態にあるときに美は現われる。 感性と悟性が調和が取れて、そのいずれでもないときに、中間の美というものが現れる。 美というものは感性と悟性をその中間にあって結びつけているものだからです。 そして美は近世の、近代の悟性・理性の哲学に対するプロテストでもあったから、機械論的世界観へのプロテストでもありました。 20世紀になると理性は道具化し、技術化したので、それによって自然破壊・環境破壊・大気汚染を引き起こし、美学にそれまでの芸術作品に対する美学理論だけでなく、その理性の特権化に対して抵抗し、もう一度人間と自然の融合を図る役割が求められることとなりました。

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回答No.9

 こんにちは。  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べつつ 回答します。  2. ふるくは哲学の相場としてその仮説のように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを先に述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(たとえば家族)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん〔自分にとっては嫌な〕悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として〔いやいやながらでも〕選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として捉え(つまり 認識した上で言葉に表わし)その認識した主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが 生きること・またイツワリなく生きることは 善であるという共通の理解が得られます)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――よく生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての至高善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。神殿のほうがよかったり 古びた祠に美を感じたり・・・。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。善なる存在につけられた傷が その美によってどう癒されるのか。どんな美によって癒されるのか。《傷の癒し または 真理としての美へのあこがれ》として 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。  なお これは次のわたしの質問での趣旨説明です。みなさんから寄せられた見解についても ご覧になってください。  【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8423513.html

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  • hekiyu
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回答No.8

美については、まずプラトンが述べています。 プラトンは、美とは人間を離れた客観的な美がある と考えていました。 これによれば、美とは自然の模倣だとか、 釣り合いがとれているのが美だ、とか いうのが美の意義になると思われます。 しかし、ミミズに美を感じる心があるとは思えません。 近代美学の創始者バウムガルテンが主張するように、 美は人間あっての美だと思います。 美はどうして人間に与えられたのか。 それは人間は必ず死ぬ存在であり、人間自身、それを 自覚しているからです。 死の宿命を自覚できない動物には美は存在しません。 ではどういうときに美を感じるのか。 美は死と表裏の関係にあることに着目すれば 美というのは魂や生命感情が高揚したときに 発生するのだと考えます。 だから老人よりも若者の方が美しいのです。 病人よりも健康人の方が美しく感じるのです。 花が美しく感じるのは、そこに女性を想うからです。 「時間よ止まれ、おまえは美しすぎる」

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回答No.7

私は美とは言葉にできないもののことを指すと思います。 評論家の小林秀雄も「美の前では沈黙である。沈黙に耐えよ。」と言ってます。 私は美術館めぐりをしていろいろ絵を観て来ましたが、どの絵が一番好きかと聞かれると困りますが、1点あげると、先の国立新美術館のオルセー美術館展で観たミレーの「晩鐘」です。何年か前にも渋谷bunkamuraで観ましたが。 あの絵の前に立つと、私は美術館のざわめきが消え、沈黙状態に陥ります。人それぞれと思いますが・・・。 しかし、雑草扱いされている、野の花をじっと観ていても美を見出すことがあります。 神というものがいて、自然を創造したとすると、絵画は所詮、人間が作ったものであり、自然の美しさにはかなわないと思うことがあります。

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回答No.6

「美」とは「より複雑な秩序」だと思います。 ただの「点」や「線」や 「ピーという音」とかの単純なものには 例え「綺麗」には思えても「美」は感じられません。 しかし、それらがあまりに複雑になり過ぎて単なる「カオス」になってしまうと 「醜悪」になってしまいます。 そこで、「醜悪」にならないギリギリの「秩序」を見い出せる「複雑さ」の中にこそ 「美」が存在するのだと考えます。 ですので、それを感じる地点はその人の感度に大きく左右されるのだと思います。 いわゆる「耳、目、舌が肥える」等は、その辺りの感度が上がった事を指すのだと思います。

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  • cbm51901
  • ベストアンサー率67% (2671/3943)
回答No.5

#4です。 付け加えますと、 認識者が「素晴らしい」と思えるものこそが「美」であると共に、 認識者が「素晴らしい」と思えること、それ自体も、「美」だと思います。

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  • cbm51901
  • ベストアンサー率67% (2671/3943)
回答No.4

美とは客観的なものではなく、見る人の意識の中にのみ存在するものです。 ですから仰る通り、認識者が「素晴らしい」と思えるものこそが、「美」です。 最初に「美」があって、それを「素晴らしい」と思うのではなく、「素晴らしい」と感じるものがあれば、結果としてそれが「美」なのです。

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回答No.3

 その存在意義ということであれば、「魅力の要素の一つとして人生を突き動かす原動力になる」ということではないかと思います。

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  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1120/8896)
回答No.2

調和というか全体て見て矛盾がない状態ではないかと思います。普通の女性の顔写真をモンタージュ的にたくさん重ねると大変な美人になるということを聞いたことがあります。

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