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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:偶然と必然と。 偶然はあるの?)

偶然と必然、あるべき答えは?

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.20

 こんばんは。  次の老荘は どうしても《すくい》の問題にかかわっているとしか読めません。  《大往生を遂げた》と言っています。日本的霊性は これをウワベで受け留めていたとしても 摂っていません。  ▲ (荘子内篇(10):大宗師(だいそうし)篇II) ~~~~~   http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/rousi_syaka/17_10daisousi2html.html                   (1)  子祀(しし)、子輿(しよ)、子犂(しり)、子来(しらい)の四人が話し合った。  「無を頭、生が背骨、死が尻である人間、死と生、存と亡が一体であると悟った人間はいるだろうか、いれば喜んで友だちになりたいのだが」  誰が言うとなく出たことばだが、皆は顔を合わせて笑い意気投合し、親友となった。  そのご、子輿が病気になった。見舞いに訪れた子祀に子輿が「造物者は偉大なものだな。見ろよ、俺の体をこのようにひん曲げてしまったよ」。  見ればひどい姿だ。背中は折れ曲がり、五臓は上に上がり、顎はへそよりも低く、肩は頭より高く、髪のもとどりは天を指している。「これは陰陽の気が乱れたんだ」そういう子輿はいかにも静かで動揺がない。  井戸端に出て水に姿を映し「なんとまあ、ひどくひん曲げたことだ」とつぶやく。「君もさすがにこれは嫌だろう」と子祀が言うと「嫌だろうって、とんでもない。この左腕が鶏のようになるなら、私は明け時を告げる係りにしてもらおう。右腕が弓のようになったら、ふくろうでも撃って焼鳥にしようではないか。尻が車輪のようになり、心が馬にでもなったら、それで馬車を仕立てよう。そうすれば馬車を雇う必要がなくなる。  生まれるべき時が来たら生まれ、死ぬべき時が来たら死ぬ。この定めに順応して従っておれば、喜怒哀楽の情も入り込む余地がない。これが古人の言った県解(けんかい・束縛を離れる)の境地だよ。人間がとかく自分を解放できないのは、生への執着で束縛されているからだ。外界の事物が自然の道理に勝てないのは昔からのことで、俺が嫌がることではないだろう」  程なく今度は子来が病気で危篤になった。苦しげにあえぎ、今にも死にそうな子来を囲んで妻子がなき悲しんでいるところへ子犂がやってきた。子犂は「静かに、離れなさい。死ぬ人を驚かせてはならない」といって妻子を遠ざけ、病床の子来に話しかけた。  「たいしたものだな、造物者は。今度は一体君をなににしようというのだろう。ねずみの肝か、虫の足か」。すると瀕死の子来が答えた「親の命令であれば、人は東西南北どこへでも行くじゃないか、ましてや天の命令はそれ以上のものだ。天が私を死なせようとしているのに、私がそれに従わないのはいけない。人間として五体を受けて生まれ、生を負うて苦しみ、老いを迎えて安らぎ、死を待って憩いにつく、これが人間の一生であるからには、生を善しとして認めるのと同じく、死をも善しとして認めなければならない。  たとえば鋳物師が銅を溶かして剣を作っているとき、銅があがいて「俺はどうしても鏌鋣の剣(ばくやのけん・伝説の名剣)に成りたい」とわめいてごらん、鋳物師はきっと「けしからぬ金属だ」と思うに違いない。  同じく人が「生まれ変わるにしても人間以外にはなりたくない」といえば、造物者は「けしからん人間だ」と腹を立てるに違いない。天地は大きな炉、造物者は鋳物師なのだ。どんな形に鋳なおされようと結構じゃないか」。子来はそのまま整然として眠り、大往生を遂げた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ほかの問題点として:  ▲ 生まれるべき時が来たら生まれ、死ぬべき時が来たら死ぬ。この定めに順応して従っておれば、喜怒哀楽の情も入り込む余地がない。これが古人の言った県解(けんかい・束縛を離れる)の境地だよ。人間がとかく自分を解放できないのは、生への執着で束縛されているからだ。  ☆ これは 《当為》を論じています。とどのつまりは《すくい》への議論です。  次も当為を問題としています。  ▲ 人間として五体を受けて生まれ、生を負うて苦しみ、老いを迎えて安らぎ、死を待って憩いにつく、これが人間の一生であるからには、生を善しとして認めるのと同じく、死をも善しとして認めなければならない。  ☆ 親鸞は 《義無きをもって義とす》です。月とすっぽんです。よ。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 私は、「救い」ではなく、ありのままの受容と考えますが、 示した日本語の現代語訳がいけなかったのかもしれませんね。 長いので、重要なところだけを『老子・荘子』(角川ソフィア・野村茂男:この本の訳は非常にわかりやすい)引用いたします。 ~~~~~ 「・・・そもそも生命をこの世に得たのも時のめぐり合わせ、生命を得て失っていくのも運命にしたがってのこと。時のめぐり合わせに安んじて、運命にしたがうならば、悲しみも楽しみも心に入り込むことがない。これが昔から言われる、すべての束縛からの解放〈県解〉である。それにもかかわらず自分で解き放たれないのは、その人の心が世間の常識に束縛されているからだ。そもそもいかなる物も自然の働きには勝てないものと、昔から決まっているのに、私がどうして自然がもたらすこの肉体の変化を憎むだろうか。」 (中略) 「・・・もし天地を大なるるつぼ、造物者を鍛冶屋の親方と見なすならば、どのような形にされようともよいではないか。やすらか(成然)に眠り、あれあれ(蘧然・きょぜん)と目覚めるまでよ。」 ~~~~~ ここに出てくる現代語の自然は、natureの意味ではなく、自然(じねん)、「おのずからしかり」のハタラキのことを言っているのでしょう。 「大往生を遂げた」というのは誤訳ですね。 「あれあれ(蘧然・きょぜん)と目覚めるまでよ。」が訳としては正しい。 造物者(造化)という擬人的な表現が使われていますけれど、自然の生成作用くらいの意味なのだと考えます。 ですから、この文章は、ありのままをそのまま肯定的に受け入れようという態度を表明している、と私は考えます。 荘子の考えにしたがうならば、生と死は齋同であり、生を善、死を悪とするのも、逆に生を悪、死を善とするのも、これはあり得ない話。これを分け隔てるのは、人間の分別なので。

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