偶然と必然、あるべき答えは?

このQ&Aのポイント
  • 偶然と必然の違いについて考えてみます。偶然とは何か、必然とは何か、その定義や意味を探ります。
  • 偶然と必然を分ける要素は、因果関係の有無と予測可能性の有無だと言われています。しかし、現実世界には因果関係の複雑さや情報の不足により、予測ができない現象が存在する可能性もあります。
  • 人間が感じる世界の現象には偶然が存在するのか、それとも偶然と感じているだけなのか、疑問を持ちながらも答えは明確ではありません。私たちはまだ知識や情報が限られており、完全な予測ができないため、偶然と感じることが多いのかもしれません。
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偶然と必然と。 偶然はあるの?

例によりまして、ふと、私の頭に浮かんだ素朴な疑問について質問いたします。 偶然って何ですか? 必然(性)とは何ですか? Wikipediaを見たところ、必然性の欠如をもって偶然と呼ぶ、といったような記述がありました。 ネットにある辞書によりますと ───────── 偶然 [名・形動]何の因果関係もなく、予期しないことが起こること。また、そのさま。「―の一致」「―に見つける」⇔必然。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/60444/m0u/ ───────── ───────── ひつ‐ぜん 【必然】 [名・形動]必ずそうなること。それよりほかになりようのないこと。また、そのさま。「―の帰結」「なまけたのだから不合格は―だ」⇔蓋然(がいぜん)/偶然。 http://kotobank.jp/word/%E5%BF%85%E7%84%B6 ───────── ───────── がい‐ぜん 【蓋然】 たぶんそうであろうと考えられること。ある程度確実であること。⇔必然。 http://kotobank.jp/word/%E8%93%8B%E7%84%B6?dic=daijisen ───────── とありました。 論理学的な必然(性)はひとまず置いておきまして、 どうやら、必然と偶然を分けるものは、  1 因果関係の有る無し  2 予測可能か、いなか の2点にあるようです。 で、更に私の疑問は深まります。 この世に因果関係と無縁に存在するものはあるのだろうか? ある現象が発生するための因果関係があまりに複雑で、また、同時に、我々の得られる情報があまりに少なく、その現象の発生を予見できないものを、 単に偶然と呼んでいるのに過ぎないのではないか? もちろん、私たちは量子力学や不確定原理を知っていますので、ラプラスの悪魔が存在しないことは知っています。 ですが、我々の感覚器官は精度の悪い観測器のようなもので、量子レベルの不確定さは検出できません。 また、私たちが実際に生きている世界はマクロ系であり、この世界は古典物理学が支配する決定論的世界です。  ───ここでいう決定論的は100%の精度の意味ではなく、99.9・・・%と、9が有限桁続く精度の予見可能性の世界、程度の意味。この精度は99.9%でも構わない─── この様に考えるならば、 人間が実際に五感で感じ、生きる世界の現象に偶然などありうるのだろうか? ただ、我々の知識と情報の欠如のために、そして、計算能力の低さのために、偶然と感じるだけなのではないか? 皆さんのお考えを教えてください。 ───────── ラプラスの魔【Laplace's demon】 自然界のあらゆる力と宇宙全体のある時点における状態を完全に把握することができ,かつ,これらの素材を完璧に解析する能力をもった仮想的な知的存在.このような魔(demon)にとっては宇宙の中に何一つとして不確実なものはなく,未来のことを完璧な形で予見することが可能となる. https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%AD%94-791574 ─────────

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  • larme001
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回答No.45

 回答が多すぎてすべて把握できていないのですが、自分の勝手な意見を述べます。  まず第一に、我々は物事の「因果関係」を判断するうえで「時間軸」というのもを避け実測することが不可能という点があります。ただ、残念ながらこの時間というものの様々な解釈はされていますが、結局のこところ実態ははっきりとはわかっていません。あえて言うなら多次元ワールドだとか、重ね合わせで存在するとか色々な例がありますが、いずれにせよすべての条件を全く同じ状態である現象を再現することは不可能である以上、極論を言えばすべての現象に関するすべての要素の影響が皆無として必然性を示すことは不可能、ということになります。ゆえに必然といえる現象はすべて「偶然」であるとしか言えません。これが最も顕著な例を挙げれば人間の発生とか生命現象の基本原理の有無とかそういうものになるでしょう。だから、一般的には、還元的にAというものとBというものが起こればCが言える、というこが一定回数似たような条件下(すくなくとも”無視”できるとする条件下で)、それが統計学的な”偶然性”をも超えた意義があときにその因果関係が結ばれるわけです。と、当然それに対して常に観測さえればそれはAとBがある状態ではCがおこる”ハズ”となります。が、これはあくまで「思考上」の存在定義ですので、完全な直角とか、完全な球が存在するかしないかという議論と同程度の議論になるでしょう。  因果関係を議論するうえで、必然を問うのに重要になるのは基本的な物理学的な原理、たとえばエネルギー保存則とあ、あるいは情報理論などの情報量の概念にもなると思います。どんなに複雑な変化であってもはじめとその後の変化が境界において満たされるはずというのは、”概念”ですが、それをさかのぼればこういう変化が「必然的に起こる」としてもよいといえるでしょう。同様にいえば、生物が受精卵から個体までを形成するのだって、明らかな異常が起きない限り多くの場合は体が自己組織化していく様子は今の地球の環境下では「必然」の変化と言っていいかもしれませんが、その構成要素のなにが必然なのかというのを定義するのは難しいですし、それまでには多くのノイズが含まれています。ただ、情報量の考え方をするならば個体が大人になるまでに「情報」というものが規定できるはずで、それを具体的には言わなくてもある一定の範囲の環境要因が満たされればその個体はある一定の範囲内での個体までを形成する「必然性」を持っているということが言えるでしょうし、偶然とは言い切れないでしょう。 >この世に因果関係と無縁に存在するものはあるのだろうか?  ある現象が発生するための因果関係があまりに複雑で、また、同時に、我々の得られる情報があまりに少な く、その現象の発生を予見できないものを、  単に偶然と呼んでいるのに過ぎないのではないか?  世の中におこるすべてのものは因果関係があるはずということが真であるとして、偶然であっても予測可能かどうかを議論することはいわゆる「複雑系」という分野として一部取り上げられています。ただし、現実的にこれが何か大発見につながったのかどうかというと、まだ未発達な部分も多いので、結局限定された”何か”を一定の範囲内で示唆させるようなデータをとったに過ぎないような分野とも思います。が、コンピュータの技術が上昇すればより複雑なことができて、あらゆるノイジーな影響というものがひょうか可能かもしれませんね。  

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 自然科学は因果律を前提として構成されていますので、宿命的にこの因果律から抜け出せない。 そういう理論構成ですから。 回答、ありがとうございました。

その他の回答 (49)

回答No.50

ねこさん、ご返事ありがとうございます。 妖怪は、すべてが分かると生きているのがつまらなくなるのね。 人間は、すべてが分かったら、恐怖と絶望に満たされるんぢゃないかしら。 わたしが想像してみたのは、こんな図です。想像です。 何年前からだったか、国民に、番号がついています。 番号ぐらいならいいんだけど、顔登録制、なんてのが始まって、 目や鼻や口やパーツの配置から人物を特定することが可能になり、 誰がいつどこで何をしているか、カメラの映像から常に把握することができ、 あなたはその映像の監視係で、情報は誰にも話してはならない。 これだと、人間の関係が続くのはむづかしいんぢゃないかしら。 町内会みたいな小さな集合体でさえ頭がおかしくなりそう。 パソコンにも顔認証システムがついてるから、できなくもなさそうだけど。 _______________ この季節に、たんぽぽが狂い咲きしているのを見るとうれしくなるんですが、 遺伝子操作ができるからといって、 真夏に金木犀や桜が咲くようになったら、いやだなあ。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 ☆妖怪は、すべてが分かると生きているのがつまらなくなるのね。 人間は、すべてが分かったら、恐怖と絶望に満たされるんぢゃないかしら。 ◇でしょうね。 絶望のあまり死んでしまうのかもしれない。 人間、先が分からないから、面白おかしく生きてゆけるのかもしれませんね。 だから、希望を持つことができるんじゃないですかね。 分かりきった将来なんて、あまりに退屈すぎる。 遺伝子がらみの話をしますと、 アメリカでは、とある民間の健康保険に入るとき、加入希望者の遺伝子が調べられたりします。 ホニャララの病気の遺伝子を持っていて、あなたは将来○○病になる可能性が高いので、○○病は保険の適用外です、 とか、 あなたはこの保険に入ることができません、 なんて言われたりすることがようです。 さすがに、これはやりすぎだよな~。 回答、ありがとうございました。

回答No.49

 神経回路のネットワークの強化退化は、環境からの刺激とタイアップして起こります。その刺激となる対象は取り巻く環境中に、独立して同時に連続的にしかも対等に無数にあって、それらを処理する時点のネットワークの状態も無数に存在します。そうした成長の結果としてのネットワークの総体というのは、それ自体偶然のたまものとして理解していいような気がします。もちろん遺伝的な枠組みがある中でですが。  つまり、環境中に対等にある無数の刺激の中から偶然に遭遇したものとタイアップして、複雑な相互作用をしながら暫定的に出来上がっていくという意味で、偶然の要素が捨てきれないと私は思います。  ここの対等にある無数の刺激というところの無数。これに関して次のように考えます。たとえ、人間よりはるかに高度な情報処理能力からすれば因果関係のある有限としてとらえることが可能であったとしても、人間の五感程度の情報処理能力では対等な無数としか言えない。つまり神経回路の構築に偶然の要素が入る。そうやって構築された個性に応じた神経回路で人間は情報を処理する。そこで人間の情報処理は偶然の産物という結論に至るのではないかと思います。  つまり決定論的世界ではないというスタンスです。

NemurinekoNya
質問者

お礼

なるほど、なるほど。 煎じ詰めると、人間の知性の限界ということになっちゃうんだよな~。 (マクロ的現象では)原理的に可能であるけれど、人間の知性ではそれに到達できないってことになってしまう。 「CTの断層写真を持ってこい。そうしたら、もっと精度のいい計算をしてやるわい」 みたいな話になってしまう(ポリポリ)。 回答、ありがとうございました。

回答No.48

他の回答を見て、必然は偶然であるとも思いました。 逆もまた真なり、と。

NemurinekoNya
質問者

お礼

皆さんに、この質問について色々な視点から考えていただけましたので、 質問者は、非常に満足しております。 常識を少し揺らすだけで十分!! 回答、ありがとうございました。

回答No.47

こんばんは、ねこさん。 すべてを計算することができ、把握することができ、 すべてが必然になったとしても、 コントロールすることの奴隷にはなれない、 という能力を人間は持っていると思います。 矛盾を眺めることはできても、 神のような全能感には堪えられないという能力。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 妖怪「さとり」で検索していて、面白い話を見つけたので、 ご紹介します。 http://www.asahi-net.or.jp/~ft1t-ocai/jgk/Jgk/Public/Other/Ten/monster/monster-11.html 回答、ありがとうございました。

  • kurinal
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回答No.46

NemurinekoNya様、こんばんは。 >「偶然って何ですか? 必然(性)とは何ですか?」 なるほどね。 世の中に「これは必然」てのがあるとして、 「それは偶然」というのも、あるのかな。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆世の中に「これは必然」てのがあるとして、 「それは偶然」というのも、あるのかな。 ◇「ある」と思います。 ただし、この時、not「必然」 = 「偶然」ではないのでしょうね。 回答、ありがとうございました。

回答No.44

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか? ◇これは《道》、宗教的な表現を使うならば《神》について語っているのでしょう。 経験事象の背後に潜む(と措定される)何かですね。 そして、 これが何で分からないので、ひとまず《道》と呼ぶのが老荘の基本姿勢。 しかし、これはあくまで思弁、経験の範疇であるのもまた事実。 思弁の範疇を超えているのかと言われれば、「ハテナ?」です。 ですが、現象学的な意味での《エポケー》には到達しているのでしょうね。 正直、『荘子』は漠とし、しかも寓話を多用するので、荘子が何を語っているのかが分かりづらい。 『荘子』を高く評価する人もいれば、荒唐無稽な話ばかりをすると酷評をする人がいるのも実情。 ですが、禅などを通じて、荘子の思想が日本文化に与えた影響は非常に大きいのもまた事実。 回答、ありがとうございました。

回答No.43

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.42

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.41

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

回答No.40

 No.30を承けます。  ◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?  ▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99  本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。  前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。  また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。  この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。  なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。  親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。  この非知を 道教・老荘思想が言っているか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『荘子』内篇 万物齋同に   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」  「そんなものは知らぬ」  「では、わからないということだけはご存知なのですね」  「それもわからぬ」  「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」    岸陽子 『荘子』 徳間書店   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とありますよ。  bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう?  ▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。  それとも:  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」  「それもわからぬ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?  不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。  《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。  この問答は何を語っているか?  いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?  もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。  潜在可能性として・含みとして語っているか?  好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:  ▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」  ☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。

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