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因果と縁起の違いについて教えていただけますか

ある本を読んで、因果と縁起について書かれていました。 仏教用語からきているのと思いますが、 因果は、Aの現象により(因)、Bの結果が必然として起こる。という考え方、つまり、Aがおこれば必然的にBの結果が生じる ということでした。 これは理解しました。 しかし、縁起が理解できません。 「縁起』とは何かに『縁』って『起』きることである」 と説明がありますが、これはどういうことでしょうか? さらに、 「存在も出来事も縁起です。自分以外のいろいろなものとの関係のつなぎ目です。選択は人生における大切な縁を生み出す行為です。」 とありますが、これは 「その都度ベストな選択をしていれば、大切な縁が起こる」ということで その現象を縁起というということでしょうか? Aが起これば 必ずBの結果になる が因果で、 Aが起これば、偶然的な要素(縁)が作用して、Bになる確率が高まる、それが縁起ということでしょうか? どなたか教えていただけますでしょうか。

  • boooks
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noname#118718
noname#118718
回答No.3

古くからある言葉なのでたくさんの意味に派生しています。 そのなかで仏陀が意図した意味に近いのは以下だと思います。 【因果】原因と結果 【縁起】物事の起源 【縁】条件 ここで質問をすること【原因】により回答されること【結果】が生じる。 それらの関係を【因果】という名詞で表す。 そして、質問をすること【原因】を起こすには、端末を使用できる状態にあるという条件【縁】が必要。ちなみに、電力が送電されている状態であるという条件【縁】等も必要だから、たくさんの【縁】が関わってくる。 分かりにくいのは、【縁】と【縁起】と【原因】の違いだと思います。 【縁起】=【原因】でよさそうですが 【縁】【起】【原因】の関係は 【起】は【原因】を構成する要素のうち直接的でダイナミックなもの 【縁】は【原因】を構成する要素のうち間接的で静かなもの=条件 でしょうか。 細かく考えれば【縁】も、それ自体で【原因】と言えなくもないのでしょうが、結果から観て間接的なものは【縁】つまり条件とみなすのでしょう。 なぜなら、深酒で遅刻した時に、原因を詰問されて「お酒がおいしいと感じる体質だからです」と答えるのは変だからです。 大きく考えればそれを原因と言えますが、間接的静的なものは条件なのでしょう。

boooks
質問者

お礼

ありがとうございました。 それぞれの言葉を、短い言葉で説明いただたき、とてもわかりやすかったです。

その他の回答 (3)

noname#117439
noname#117439
回答No.4

心情などにより期待されるのが因果でこれには煩悩や一般的に欲望とされる事柄の影響を含みます。 縁起とは自然の摂理と一致した必然の現象化です。 因果を重視する姿勢は言わば我がままのようなもんで、まかり通らない事が多いです。 以上は持論です。 はっきりと公言しますが無は悟っています。 無の悟りとは言わば分別の事で、有無を明確に区分けする事です。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

因果と縁起の違いについて教えていただけますか 因果も縁起も同じ意味に使っていますね。 その理由は、因→縁→果→因→縁→果→ という連鎖をどこで表現しているかだけですね。 原因があっても果にはならないんですね。果になるためには縁が存在するからなんです。 わかりやすい例がいりますかね。 例えば、マッチで火をつけても火事にはならないですね。火事になるためには火事になる条件、つまり縁が必要ですね。 マッチで火をつける。が原因、その火が窓から風が吹吹き込んでカーテンに燃えうつった(縁)、その結果家が燃えてしまった(果) 例は何でもいいんですが、全て因→縁→果になってるはずですね。また果が新しい因を作って、上の例で言えば、家が焼けたので、新しい家を建てることになった。が例えば因ですね。お金の工面や建築やなどと打ち合わせをして(縁)、その結果家が建ったとなるわけですね。 全て因縁果になりますね。これを因果というか縁起というかだけですね。正確に言えば縁起は因果の間を言っているのですが、意味は同じなんですね。

boooks
質問者

お礼

例も交えて教えていただいてありがとうございます。 わかりやすく、なんとく納得できました。

  • mayosilo
  • ベストアンサー率17% (45/258)
回答No.1

「「存在も出来事も縁起です。自分以外のいろいろなものとの関係のつなぎ目です。選択は人生における大切な縁を生み出す行為です。」 とありますが、これは 「その都度ベストな選択をしていれば、大切な縁が起こる」ということで その現象を縁起というということでしょうか?」 違います。 「Aが起これば、偶然的な要素(縁)が作用して、Bになる確率が高まる、それが縁起ということでしょうか?」 違います。 縁起ということばは 単一の、時を経てずっと続いているものごとの、 始まりを説明したものであり由来とか起源と同じ意味です。 ただしものごとの始まりに宗教的な思想を結びつけたものだけを 縁起と言います。

boooks
質問者

お礼

早速ご解答いただき、ありがとうございました。

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