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ブッダ vs フロイト (つづき)

 諸法無我の説によれば トラウマは    ( a ) 《永続しない。    すべて空観のもとに縁起として起こる仮りの現象であり     それ自体の本性(自性)は無い》  と見ることになると思われます。  つまり    ( b ) 心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。  と見ることになる。  これで よろしいでしょうか?  もし たたき台としてなら    ( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。  この命題を掲げますが これらの事態について納得のゆく説明をおしえてください。いろんな観点からのお考えをお寄せください。  ( d ) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教的にいえば  「心的外傷は現象として起きても、心的外傷は本質的に無我、空である」  とは言えますが、「屁の河童である」とは言えません。  なぜなら、仏教の「無我」、「空」は存在の否定を意味しておらず、  物質的、精神的現象の存在性を認めているからであり、  因縁で生じたさまざまな現象が我々の肉体、精神へ及ぼす影響力を認めているからです。  ( e ) ◇ ~~~~~~~~~~~~  (おそらく、仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、  その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとるのでしょう、たぶん)  ( f ) ☆ ~~~~~~~~~~~  トラウマという現象が われわれの身と心に及ぼす影響を具体的にきちんと分析し検証するという作業が望まれる。――と考えられます。ここは ブディズムの真骨頂であるのではないでしょうか。  ( g ) ☆ ~~~~~~~~~~~  これは 基本的な伝統の哲学だと思われますので さらにそこへ精神医学を積極的にそしておそらく批判的に摂り入れて あたらしい医療哲学を形成して行けばよいと思われます。  そうでなければ 仏教はもう終わったかと言われても仕方がないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ご見解を継いでください。あるいは初めにもどってご批判ください。  参考資料:  ▲(ヰキぺ:無我) ~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91  §1.1 原始仏教  『スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではない(諸法無我(パーリ語:sabbe-dhammaa-anattaa सब्बे धम्मा अनत्ता)と観察し、これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。   ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この無我は「アートマン(我)」がないという意味で、    「あらゆる現象にはアートマン(実体)がない」、    「現象はさまざまな原因や条件で成立しているのであって、現象そのものに恒常不変のアートマンが存在するわけではない」    という意味です。   ☆ 木に竹を継ぐ言い方になりますが これは《あらゆる現象には実体なるアートマンが無い》ゆえに 《〈我執〉という現象も 変わり得ない実体にもとづくものではない》と解しておきます。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 1.3 大乗仏教  ・・・無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起説であり、ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった。  このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説からより発展した空の思想が完成した。  龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。  ● (ヰキぺ:心的外傷) ~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%9A%84%E5%A4%96%E5%82%B7  § 心的外傷(しんてきがいしょう)とは、  外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す。  外傷体験 (traumatic experience) ともいう。  これが精神に異常な状態を引き起こすとPTSDとなる。  § 概念  典型的な心的外傷の原因は、幼児虐待や児童虐待を含む虐待、強姦、戦争、犯罪や事故、いじめ、暴力、アカハラ、パワハラ、セクハラを含む悲惨な出来事、実の親によるDV、大規模な自然災害などである。  重度の心的外傷(トラウマ)によりPTSDなどの精神疾患が生じた場合は、精神療法(心理療法)や薬物療法などの治療が有効である。  ~~~~~~~~~~~~~  

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noname#207067
noname#207067
回答No.8

諸法無我だからアートマンは無い。輪廻もない。 それで話が済めば楽なのですが ~~~~~~~~~~~ 因果論[編集] また、仏教においては、輪廻の主体となる永遠不滅の魂(アートマン)の存在は「空」の概念によって否定され、輪廻は生命の生存中にも起こるプロセスであると説明されることがある点でも、仏教以前の思想・哲学における輪廻概念とは大きく異なっている。 輪廻の主体を立てず、心を構成する認識機能が生前と別の場所に発生し、物理的距離に関係なく、この生前と転生後の意識が因果関係を保ち連続しているとし、この心の連続体(心相続,चित्त संतान citta-saṃtāna)によって、断滅でもなく、常住でもない中道の輪廻転生を説く。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99 ~~~~~~~~~~~ 仏教の教えの矛盾 http://okwave.jp/qa/q8874697.html ~~~~~~~~~~~ 仏教における動物霊の取り扱い[編集] あるのは、無常なる心の連続体、あるいは心の流れ(citta-santAna、心続生、心相続)であって、常住不変の霊魂とは区別される。 再言するが、これらに動物、人間との特別な区別は存在しない。 しかし、日本に伝来した時の仏教は、原始仏教から約一千年後と、大分時間が経過しており、その間にヒンドゥー教との混融が見られる為に、多神教的で、日本神道と相通ずる点が多々見られる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E9%9C%8A ~~~~~~~~~~~~~ 他の質問者のところに回答した 心相続ですが、 それなら少し調べてみるかと検索してみたら suttacentral.netには出てきませんでした。 漢訳としては心続生というのもあるようですが。 心相続 citta-santāna サンスクリットだと citta-saṃtāna http://suttacentral.net/ 心相続 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%BF%83%E7%9B%B8%E7%B6%9A&mode=search&uop=1 雜阿含經 (No. 0099) 0324b24 - 0324c09: 無資糧汝救之令度慈救心相續經劫而不失是則汝過去所受持功徳我悉憶念知久近如眠覺過去有村邑爲賊所抄掠汝時悉皆救 [show] (1 hit) 大正蔵を検索してみると心相続という言葉は雑阿含經にはあるようですが、 かといって、パーリ語の仏典のほうにはあるのかどうかわからないです。 心続生 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%BF%83%E7%B6%9A%E7%94%9F&mode=search&uop=1 大毘盧遮那成佛神變加持經 (No. 0848) 0002a08 - 0002a14: 智生説大勤勇幾何次第心續生心諸相與時願佛廣開演功徳聚亦然及彼行修行心心有殊異惟大牟尼説 [show] (1 hit) 阿毘達磨大毘婆沙論 (No. 1545) 0586b16 - 0587a29: 續性種種對治性及命終心續生心等由此觀察如應悉知復次世尊爲欲委知彼諸臣等生處差別故極作意復有説者爲待當來所化 [show] 心続生のほうは、密教系統の言葉なのか知りませんが グーグルで検索すると真言宗とか空海とかのサイトが出てきます。 ~~~~~~~~~~~ (9)極無自性心  第二の「極は自性無し」という場合の「極」は第八住心であるが、それを至極とせず、さらに第十住心まで進展するためには第九住心が媒介となるから、そうした連続した心が生ずること(心続生)を無自性としたものである、と。 秘密曼荼羅十住心論 http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-243.html ~~~~~~~~~~~~ なにはともあれ、citta-santānaを調べてみたらよくわかりませんでした。 どういうことだろう?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  質問者の考えるところを述べてご返答とします。  ▼ (因果論) また、仏教においては、輪廻の主体となる永遠不滅の魂(アートマン)の存在は「空」の概念によって否定され、  ☆ これは ほんとうを言えば 話が成っていないです。  なぜなら アートマンを否定しても それは ただ《無い神(無い霊)》という神を立てただけなのですから。  《空》というのは あくまで経験世界における経験事象について言うわけです。  《非経験の場 ないし 非知なるナゾ》については 空であるか空でないか自体が 人間には分からないということでしょう。もしくは 大ざっぱに言って 《非知》のことがそのまま《空》だということでしょう。  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  輪廻の主体を立てず、心を構成する認識機能が生前と別の場所に発生し、物理的距離に関係なく、この生前と転生後の意識が因果関係を保ち連続しているとし、この心の連続体(心相続,चित्त संतान citta-saṃtāna)によって、断滅でもなく、常住でもない中道の輪廻転生を説く。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 言葉の表現としてそう言おうと思えば言えるということですが じっさいにはあり得ないでしょう。  別の批判の仕方をすれば 主体なる存在は輪廻転生にかんして別だとすることが出来るのなら 何でもかんでも表現として言えるということでしょう。  或る人が《心の連続体》を感じたと言えば そう言うことまでは 言えるわけです。検証はむつかしい。しかも検証できるか出来ないかが 人間には分からないことであるわけです。  これぢゃ 言ったもん勝ちというふうに 通俗的にはなってしまいます。要するにこの論理を使うのは ペテン師だけです。  《心相続》も 無我であり縁起であり空だと言えばどうでしょう。

その他の回答 (15)

noname#207067
noname#207067
回答No.16

政治的な話ではないのでしょうね。 アニミズム的世界観であれば コンクリートにも心は宿るでしょうが、 とはいえ、 輪廻の世界観には、コンクリートは入っていないようです。 仏教の六道輪廻にも、植物とか土とかないでしょう。 草木国土悉皆成仏が仏教から見ても、変わった思想であることがわかる。 コンクリート製の地蔵が身代わり地蔵になるのも 考えてみるとシュールではある。

noname#207067
noname#207067
回答No.15

リンクのミスがありました。 英訳をリンクするはずがパーリ語をリンクしていました。 THE QUESTIONS OF KING MILINDA BOOK 2: THE DISTINGUISHING CHARACTERISTICS OF ETHICAL QUALITIES CHAPTER 2 3.2.1 Continued identity and re-individualisation http://suttacentral.net/en/mil3.2.1 パーリ語はこちらです。 MILINDAPAÑHA ADDHĀNAVAGGA 1 Dhammasantatipañha http://suttacentral.net/pi/mil3.2.1

  • kurinal
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回答No.14

B様、こんばんは。(また、kazamidori365様も、こんばんは) >「★ 私としては、投薬などに拠らない、個々の抱える(抱えてしまった)「原因」に即した解決のあり方が望ましいと思っていますが。(投薬も「緊急避難」的に使用される限りにおいては、無価値ではないと思いますが、「常用」を前提にするのは、単なる「(症状の)抑え込み」ではないかなと思います。)  ☆ ええ。わたしも素人ながら そういう方向をねがっています。」 なんて言いましたか、「ナントカから、人へ」 あ、「コンクリートから、人へ」でしたっけ。 最近見た、「将来有望な資格」と紹介された記事の中に「臨床心理士」なんてのもありました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ドーパミンだか何だかそういったふつうとは異なる事実が起こっていると分かって来ているとき そのような普段とは違った事態が では どうしてもたらされたか?  このことの解明によって 対処法は異なってくるものと考えます。  つまり 素人考えですが 単純に言って日常の仕事上や家庭内のその公私にわたる人間関係からそういったふつうとは異なる事態がもたらされる。ということがありうると考えます。  もし抑圧といった事態を取り上げるのなら それに対してそれを受けても自重したり自制したりするといった人間関係における振る舞いが 何らかの影響を内におよぼしている。ということも考えなければならないというふうにです。  その意味では 要素還元主義から 全体観――ひとの人格や行動の全体にわたる見方捉え方――へという方向ではないかと。

noname#207067
noname#207067
回答No.13

まず訂正です。 心続生でこちらの文を引用しましたが 阿毘達磨大毘婆沙論 (No. 1545) 0586b16 - 0587a29: 續性種種對治性及命終心續生心等由此觀察如應悉知復次世尊爲欲委知彼諸臣等生處差別故極作意復有説者爲待當來所化 [show] ですが、 及命終心。で区切れているようです。失礼しました。 T1545_.27.0586c07: 及命終心。續生心等。由此觀察如應悉知。 ついでに、 識相続 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E8%AD%98%E7%9B%B8%E7%B6%9A&mode=search&uop=1&tall=1&nm=&np=&smode=search 識相続というのもあるらしい。 それはそうと、 ちょうどアイデンティティの質問もでているようなので santati continuity; duration; lineage. Dhammasantatipañha http://suttacentral.net/search?query=santati 3.2.1 Continued identity and re-individualisation http://suttacentral.net/pi/mil3.2.1 心相続を調べようと santānaで探していたのでがなかなか見つからなくて、santatiで検索してみました。 そしたら、『ミリンダ王の問い』にdhammasantati という言葉が出てくるようです。 気になるのはミリンダ王の問いはインド北部のギリシャとインドの対話ですが 説一切有部とか経量部とかもインド北部のナーランダー僧院とかで活躍しているわけで、 心相続という概念はどちらかというとインド北部での概念なのでしょうかね。 ~~~~~~~~~~~~ 変化と同一性[編集] ナーガセーナ長老は、「形象の連続継起」としての変化は、「集結・重置」する作用を伴うものであり、同時・同所にある形象が生起し、ある形象が消滅するという「形象の連続継起」は、2つの形象を一定点に「集結・重置」するものであり、それによって、もはや両者は時間とは関係なく同一存在の相を帯びることになる、したがって、「連続継起」した各形象は同一ではないが、「集結・重置」したものとしては別ものではない (と我々の感覚的認識は捉える)と述べる。 ミリンダ王の問い http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%95%8F%E3%81%84 ~~~~~~~~~~~~ dhammasantatiはおそらくウィキペディアの「ミリンダ王の問い」の記事の「形象の連続継起」だと思います。 内容がこれなので 3.2.1 Continued identity and re-individualisation http://suttacentral.net/pi/mil3.2.1 とりあえずこんなところです。 無理やりトラウマの話をするとすれば 誰かの心の傷は自分の心の傷かもしれない 自分の心の傷は誰かの心の傷かもしれない。 そこに連続性があるのかどうかはなんともいえないけれど。

noname#207067
noname#207067
回答No.12

>そこから トラウマについてどう扱うかを明らかにしないなら 取り扱いません。 トラウマについて扱っていないので取り扱わなくてかまいませんが、 最近の傾向なのかどうかわかりませんが、 唯識を仏教の心理学として、仏教と心理学を結び付けようとする傾向をどう思いますか? もちろん、ナーガールジュナというか中観派と対立するわけですが。

bragelonne
質問者

お礼

 中身が問題です。  ご回答をありがとうございました。

  • kurinal
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回答No.11

B様、こんばんは。 >「 すなわち 互いに分からないところは 相手に自由にたずねればよい。これですが どうでしょう。」 そうですね。 >「 ★ ~~~~~~~~~~~~~~  「「コンプレックスの当事者」が、自身の問題を否定する」というのは、結構あるのではないでしょうか。  「トラワレ」とか「気付き」ということが、連想されましたが、  ・・・あるいは本人が、「そんな問題は無いんだよ」という認識で(周囲も)済んでいれば、  それはそれでハッピーなんでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ だいたいおっしゃるようなこと(つまり問題)があるのだとわたしも考えます。  自分では コンプレックスなどはないですよと返答すると 相手(つまり精神分析屋さん)のほうは 《じつはトラウマやそれにもとづくコンプレックスの場合には たいていご自分では否定するもんなんですよ》とたたみかけて来るのです。すなわち 何の根拠もなしに。です。  ★ 「そんな問題は無いんだよ」という認識で(周囲も)済んでいれば  ☆ というふうに行かない・行かせないのが 精神分析のやり方なのだとうたがっています。」 そうですねえ。 フロイトについては、厳しい見方も存在するようです。 (「「患者」に何を求めるのか??」とは、B様の疑問にも通じるものでしょう) >「 ★ それは多分、「ムイシキ」というよりも、問題(露見)への「ヨクアツ」 / 「無いということにしておこう」ということではないでしょうか。  ☆ それは広い世界ですから そういう場合もあるかも知れません。あるのでしょう。ですけれども この《ヨクアツ》は 精神分析のほうから勝手に前もって決めつけているというのが 実情ではないのでしょうか。イヂ汚いのだと思いますよ。」 ああ、確かに「ヨクアツ」は精神分析の用語かもしれないですが、 そうですねえ。私も、教科書を鵜呑みにするあまり、という反省をしたこともありました。 >「 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  (PTSDの場合には、大き過ぎる衝撃から自分を守るために、 「忘却」というプロセスが働くようですが、「同じような状況・場面」に遭遇した時に、 (それが実は安全な場合にも、)思い出してしまって、苦悩する)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから なるほどそういう場合もあるはずです。症状をかかえていて それをみとめる場合と まだみとめないでいる場合とがあるはずです。  問題は 勝手に決めつける場合があることと そしてここでのキモは そのようなPTSDのような症状の場合にしても もし諸法無我なる仮説にしたがうなら それは決して治らないものではなく それだけではなくその症状すらが 仮りの心的現象であるしかない。ということ。  これを この質問は問うています。  もう少し楽屋裏を示しますと こうです。  すなわち 《無我》説におけるこの《我・われ》とは何ぞや? という質問が出されていますが この〔わたしの〕質問は たとえばこのように精神分析が唱えるトラウマといった仮説について無我説が何を言っているのか? どのように扱おうとしている理論なのか? といったかたちで問うのでないなら ほとんど意味がない。こういう問題を暗に言おうとしたものです。  《無我》説について ああぢゃこうぢゃといろんな回答が寄せられていますが 何の意味もないということ。観念論をみなさんがつらねているだけだ。と言おうとしています。  人びとはほとんど皆が この無我説をむしろ《さとり》の問題のほうへ引っ張って行ってその問題をあいまいにしてほくそ笑んでいるゴータマ氏のそのヰルスによるインフルエンザに罹ってしまっている。こう言いたいための質問です。」 そうでしたか。 一つ、確認するとすれば「ゴータマは、教祖ではない(とは、限らない)」ということでしょうか。 (仏教も、いろいろ) >「 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「ヨクアツ」している事実について本人に訊けば、それは本人は否定する。  まあ、その辺は、日常生活に差し障りの無い範囲であれば、  本人が(人知れず)苦悩しているということであって、  「トラワレ」とか「気付き」といったことで本人がラクになることがあれば、と考える?のが、  精神医学では「放置できない」となるのでしょうか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このご議論でいちばん問題となるところは すでにくりなるさんは 精神医学における理論がそのまま妥当であるとみとめた上で 話をしている。そのことです。  まちがっているかも知れないぢゃないですか。  特にいま問題にしているのは ムイシキなる独立した領域があるという前提――これはすでに根拠がないと指摘されています―― そしてムイシキなる領域におけるトラウマなる症状が不治なのだと推測されているという知見。これも 問題です。  ブディズムでは そのような症状を呈していてもその心的現象は 実体がなく仮りの縁起としての現象であるに過ぎない。と諸法無我説ないし空観は言っているわけです。  ですから 《我・われ》とは何かを問うのであれば ああぢゃこうぢゃの観念論ではなく その空観あたりの問題を取り上げて欲しい。こういった物言いを秘めた質問であります。」 いえいえ、私も(特に日本の精神医学については、)懐疑的なところもあります。 少なくとも、フロイトに諸手で賛成しているわけでは、ありません。 (向こうから押し掛け(教科書!)のようにやってきて?「放置できない」と、 挙句、「自分たちの納得出来るようでなければ、承知しない」とかで結局投薬とか、でしょう) 私としては、投薬などに拠らない、個々の抱える(抱えてしまった)「原因」に即した解決のあり方が望ましいと思っていますが。(投薬も「緊急避難」的に使用される限りにおいては、無価値ではないと思いますが、「常用」を前提にするのは、単なる「(症状の)抑え込み」ではないかなと思います。)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  精神分析が さだまった学説ではないと少しはみとめる方向でお考えを述べておられるようで ひとまづ安心し ありがたいと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  そうでしたか。  一つ、確認するとすれば「ゴータマは、教祖ではない(とは、限らない)」ということでしょうか。  (仏教も、いろいろ)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。微妙なのですが 少なくともタテマエとしては ゴータマ・ブッダが《教祖》なんでしょうね。ゴータマ氏よりも偉いひとはいないと見なしていることでしょう。(日蓮の場合は 別であるようです。ゴータマよりもさらに久遠のブッダであると宣言しているようです)。  ですから ここでは無我説を むしろその中身が何であるかがはっきりしない(はっきりさせていない)《さとり》の問題に引きつれて行く場合が おおきな問題を起こしている。と考えます。  ★ いえいえ、私も(特に日本の精神医学については、)懐疑的なところもあります。  ☆ あぁ そうでしたか。それは 失礼しました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  少なくとも、フロイトに諸手で賛成しているわけでは、ありません。  (向こうから押し掛け(教科書!)のようにやってきて?「放置できない」と、  挙句、「自分たちの納得出来るようでなければ、承知しない」とかで結局投薬とか、でしょう)  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。専門的に議論できなくて残念ですが その《教科書》どおりに行くとは限らない。これを言い続けて行く必要があるかと考えます。  つまり専門的な議論よりも前に 《無我説》による《世の中の心的現象は 仮りの現象であって 実体はなく変化しうるということ》 この理論についてきちんと向き合って研究することは 大事であると思います。少なくとも そういう問題提起が出来るはずです。  ★ 私としては、投薬などに拠らない、個々の抱える(抱えてしまった)「原因」に即した解決のあり方が望ましいと思っていますが。(投薬も「緊急避難」的に使用される限りにおいては、無価値ではないと思いますが、「常用」を前提にするのは、単なる「(症状の)抑え込み」ではないかなと思います。)  ☆ ええ。わたしも素人ながら そういう方向をねがっています。

  • kurinal
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回答No.10

こんばんは。お礼をありがとうございます。 >「ただしここでいま《人権侵害》と言っているのは あたかも自分の意見を相手に押しつけるその態度のことを言っているようです。  これは ひとつに理由をしっかりと述べているなら 押しつけにはならないこと。  もうひとつに 相手の見解の内容がいっそうすぐれているときに 押しつけだと感じる場合があると思われること。  つまり これらふたつの場合には じっさいには人権侵害にはならないのだと考えられますが いかがでしょうか。」 あらためるべき、事由(態度?姿勢?・・・方法?)と、あらためるために必要なやり方、が、判れば、あらためる(ことが、可能になる)でしょう。(気付き) >「たとえば 身近な例として エディプス・コンプレックスあるいはもっと通俗に言ってマザコンやファザコンなどは 本人がそうではないと否定しても そこで精神分析のほうから返って来る返答は ムイシキなるトラウマであるゆえにこそ本人は否定するのですよ ということなのです。  これぢゃ 話にならないのです。  なぜなら ムイシキは ひとには分からないところでそのチカラがはたらいているというのですから 否定も肯定も何もなく そもそもその仮説が妥当かどうか自体が検証し得ないことになっているのだからです。  これも インチキでありペテンです。」 「トラウマ(PTSD)」とあったので、そちらを念頭にしておりましたが、 「コンプレックス」となると、 >「本人がそうではないと否定しても そこで精神分析のほうから返って来る返答は ムイシキなるトラウマであるゆえにこそ本人は否定するのですよ ということなのです。」 そうですか。「ムイシキなるトラウマ」ですか。 「「コンプレックスの当事者」が、自身の問題を否定する」というのは、結構あるのではないでしょうか。 「トラワレ」とか「気付き」ということが、連想されましたが、 ・・・あるいは本人が、「そんな問題は無いんだよ」という認識で(周囲も)済んでいれば、 それはそれでハッピーなんでしょうか? それは多分、「ムイシキ」というよりも、問題(露見)への「ヨクアツ」 「無いということにしておこう」ということではないでしょうか。 つまり、「問題がある」ということは本人も実は承知している。 実はあるのに「無い」とするので、無理が生じる。 (PTSDの場合には、大き過ぎる衝撃から自分を守るために、 「忘却」というプロセスが働くようですが、「同じような状況・場面」に遭遇した時に、 (それが実は安全な場合にも、)思い出してしまって、苦悩する) 「ヨクアツ」している事実について本人に訊けば、それは本人は否定する。 まあ、その辺は、日常生活に差し障りの無い範囲であれば、 本人が(人知れず)苦悩しているということであって、 「トラワレ」とか「気付き」といったことで本人がラクになることがあれば、と考える?のが、 精神医学では「放置できない」となるのでしょうか

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  ★ あらためるべき、事由(態度?姿勢?・・・方法?)と、あらためるために必要なやり方、が、判れば、あらためる(ことが、可能になる)でしょう。(気付き)  ☆ ということですが そしてそれはそうだとわたしも思いますが もっとかんたんにすすめて行けるのではないかとも考えます。  すなわち 互いに分からないところは 相手に自由にたずねればよい。これですが どうでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  「「コンプレックスの当事者」が、自身の問題を否定する」というのは、結構あるのではないでしょうか。  「トラワレ」とか「気付き」ということが、連想されましたが、  ・・・あるいは本人が、「そんな問題は無いんだよ」という認識で(周囲も)済んでいれば、  それはそれでハッピーなんでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ だいたいおっしゃるようなこと(つまり問題)があるのだとわたしも考えます。  自分では コンプレックスなどはないですよと返答すると 相手(つまり精神分析屋さん)のほうは 《じつはトラウマやそれにもとづくコンプレックスの場合には たいていご自分では否定するもんなんですよ》とたたみかけて来るのです。すなわち 何の根拠もなしに。です。  ★ 「そんな問題は無いんだよ」という認識で(周囲も)済んでいれば  ☆ というふうに行かない・行かせないのが 精神分析のやり方なのだとうたがっています。  ★ それは多分、「ムイシキ」というよりも、問題(露見)への「ヨクアツ」 / 「無いということにしておこう」ということではないでしょうか。  ☆ それは広い世界ですから そういう場合もあるかも知れません。あるのでしょう。ですけれども この《ヨクアツ》は 精神分析のほうから勝手に前もって決めつけているというのが 実情ではないのでしょうか。イヂ汚いのだと思いますよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  (PTSDの場合には、大き過ぎる衝撃から自分を守るために、 「忘却」というプロセスが働くようですが、「同じような状況・場面」に遭遇した時に、 (それが実は安全な場合にも、)思い出してしまって、苦悩する)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから なるほどそういう場合もあるはずです。症状をかかえていて それをみとめる場合と まだみとめないでいる場合とがあるはずです。  問題は 勝手に決めつける場合があることと そしてここでのキモは そのようなPTSDのような症状の場合にしても もし諸法無我なる仮説にしたがうなら それは決して治らないものではなく それだけではなくその症状すらが 仮りの心的現象であるしかない。ということ。  これを この質問は問うています。  もう少し楽屋裏を示しますと こうです。  すなわち 《無我》説におけるこの《我・われ》とは何ぞや? という質問が出されていますが この〔わたしの〕質問は たとえばこのように精神分析が唱えるトラウマといった仮説について無我説が何を言っているのか? どのように扱おうとしている理論なのか? といったかたちで問うのでないなら ほとんど意味がない。こういう問題を暗に言おうとしたものです。  《無我》説について ああぢゃこうぢゃといろんな回答が寄せられていますが 何の意味もないということ。観念論をみなさんがつらねているだけだ。と言おうとしています。  人びとはほとんど皆が この無我説をむしろ《さとり》の問題のほうへ引っ張って行ってその問題をあいまいにしてほくそ笑んでいるゴータマ氏のそのヰルスによるインフルエンザに罹ってしまっている。こう言いたいための質問です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「ヨクアツ」している事実について本人に訊けば、それは本人は否定する。  まあ、その辺は、日常生活に差し障りの無い範囲であれば、  本人が(人知れず)苦悩しているということであって、  「トラワレ」とか「気付き」といったことで本人がラクになることがあれば、と考える?のが、  精神医学では「放置できない」となるのでしょうか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このご議論でいちばん問題となるところは すでにくりなるさんは 精神医学における理論がそのまま妥当であるとみとめた上で 話をしている。そのことです。  まちがっているかも知れないぢゃないですか。  特にいま問題にしているのは ムイシキなる独立した領域があるという前提――これはすでに根拠がないと指摘されています―― そしてムイシキなる領域におけるトラウマなる症状が不治なのだと推測されているという知見。これも 問題です。  ブディズムでは そのような症状を呈していてもその心的現象は 実体がなく仮りの縁起としての現象であるに過ぎない。と諸法無我説ないし空観は言っているわけです。  ですから 《我・われ》とは何かを問うのであれば ああぢゃこうぢゃの観念論ではなく その空観あたりの問題を取り上げて欲しい。こういった物言いを秘めた質問であります。  

noname#207067
noname#207067
回答No.9

~~~~~~~~~~~~~ そもそも、ナーガールジュナが経量部の「心相続(citta-saṃtāna)」という概念を知っていたことは『中論』XVII-9からも明らかであり、そこではそれが反論者の主張とされているのであるから、彼が経量部の説を採用することはありえない。 古代世界における学派・宗派の成立と<異>意識の形成 VAADA Virtual Ancient Arguments on Difference and Affinity http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/vaada/newsletter05.html ~~~~~~~~~~~~ yas tasmāc cittasaṃtānaś cetaso ’bhipravartate | tataḥ phalam ṛte cittāt sa ca nābhipravartate ||9|| 如是從初心 心法相續生 從是而有果 離心無相續 | sems kyi rgyun ni gaṅ yin pa | | sems las mṅon par ’byuṅ bar ’gyur | | de las ’bras bu (7)sems lta źig | med na de yaṅ ’byuṅ mi ’gyur | The continuum of mind clearly emerges from mind, and from that fruits. If there were no mind, they too would not emerge. Mūlamadhyamakakārikā Chapter XVII: Karmaphalaparīkṣā https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=record&vid=27&mid=119738 ~~~~~~~~~~~~~~~ そうだとすると、 ウィキペディアの仏教のページの因果論とか書いた人は、 経量部の思想を元に輪廻を説明したということだろうか。 面倒な話。

bragelonne
質問者

お礼

 ▼ 輪廻  ☆ は 転生つまり生まれ変わりのことを言うなら 論外です。  主体はなくて《心相続》がありうると言い張るのは ご勝手にどうぞと答えておけば済む話でしょう。  経典や教義がどうかには 質問者はかかわりません。  そこから トラウマについてどう扱うかを明らかにしないなら 取り扱いません。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

(トラウマ) >「そうですか。それは 知りませんでした。てっきり《治らない》状態だと 精神分析では言っていると思っていました。」 だから、「危機を脱した(もう、怖れることは無い)」ということが、重要です。 (「あらゆる攻撃は「SOS」」)

bragelonne
質問者

お礼

 あらためまして あたらしい年 おめでとうございます。    No.6で 失念しました。  ご回答をありがとうございます。  ううーん。いまひとつよく分からないのですが つまり《ほんとうに 治らないとは言っていないか》がひとつ。  もしそうなら 《危機を脱した》というよりは 初めから大きな危機ではないと言っていてもよい気がします。  たとえば 身近な例として エディプス・コンプレックスあるいはもっと通俗に言ってマザコンやファザコンなどは 本人がそうではないと否定しても そこで精神分析のほうから返って来る返答は ムイシキなるトラウマであるゆえにこそ本人は否定するのですよ ということなのです。  これぢゃ 話にならないのです。  なぜなら ムイシキは ひとには分からないところでそのチカラがはたらいているというのですから 否定も肯定も何もなく そもそもその仮説が妥当かどうか自体が検証し得ないことになっているのだからです。  これも インチキでありペテンです。    というふうに少なくともいまの時点では思っています。という問題提起になるかと思います。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

B大兄、あけましておめでとうございます。 >「一方通行が 元凶ではないですか?  そちらからだけの・あるいはこちらからだけの呼びかけのかたちが まづいのではないですか?  よろしくお願いします。」 了解! 私も、人権を侵害しないよう、尽力しましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 それはよかった。ご回答をありがとうございます。  こちらも注意してまいります。  ただしここでいま《人権侵害》と言っているのは あたかも自分の意見を相手に押しつけるその態度のことを言っているようです。  これは ひとつに理由をしっかりと述べているなら 押しつけにはならないこと。  もうひとつに 相手の見解の内容がいっそうすぐれているときに 押しつけだと感じる場合があると思われること。  つまり これらふたつの場合には じっさいには人権侵害にはならないのだと考えられますが いかがでしょうか。

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  • ブッダ vs フロイト

     諸法無我の説によれば トラウマは    ( a ) 《永続しないし    すべて空観のもとに縁起として起こる仮りの現象であり     それ自体の本性(自性)は無い》  と見ることになると思われます。  つまり    ( b ) 心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。  と見ることになる。  これで よろしいでしょうか?  参考資料:  ▲(ヰキぺ:無我) ~~~~~~~~  § 初期仏教  『スッタニパータ』などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。それらによれば、「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではない(諸法無我(パーリ語:sabbe-dhammaa-anattaa सब्बे धम्मा अनत्ता)と観察し、これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。  § 大乗仏教  ・・・無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の阿含経に説かれる縁起説であり、ゴータマ・ブッダ本来の仏教を取り戻すものであった。  このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、無我説からより発展した空の思想が完成した。  龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。  ● (ヰキぺ:心的外傷) ~~~~~~~  § 心的外傷(しんてきがいしょう)とは、  外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す。  外傷体験 (traumatic experience) ともいう。  これが精神に異常な状態を引き起こすとPTSDとなる。  § 概念  典型的な心的外傷の原因は、幼児虐待や児童虐待を含む虐待、強姦、戦争、犯罪や事故、いじめ、暴力、アカハラ、パワハラ、セクハラを含む悲惨な出来事、実の親によるDV、大規模な自然災害などである。  重度の心的外傷(トラウマ)によりPTSDなどの精神疾患が生じた場合は、精神療法(心理療法)や薬物療法などの治療が有効である。  症例の目安としては(成人であっても)幼児還り現象が見られる事がある。これは保護を求めるSOS信号として罹患者から発せられるが、時に夜驚症の反応を交えるため、対応には慎重さが要求される。軽度の場合はヒステリー状態が短発的に継続発生(間を置いて寄せ返す波の様に)するのが平均の状態ではあるが、社会生活を営む上で若干の弊害がある為、専門的治療が必要な場合も有りうる。  全く治療せずに罹患者を放置した場合、自傷行動を含む危険行為を行う場合もある。仮に放置状況が継続しうる環境に患者が居ても、本人自身による回復迄の時間と費用は対数規模になる為、治療優先の判断が必要と思われる。  ~~~~~~~~~~~~~   もし たたき台としてなら  ( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。  この命題を掲げますが これらの事態について納得のゆく説明をおしえてください。いろんな観点からのお考えをお寄せください。

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     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

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  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • 《自性清浄心》と《聖なる甘え》

     (α) 生まれつき《清浄心》であるとすれば そしてこれを《仏性》と呼んでしかもそれもあくまで経験事象であるとすれば 特別の修行を必要とすることなくふつうの勤勉な社会生活によってこの《自性清浄心》は 実現しうるし回復しうる。のではないか?  (α‐1) 特別のおこないを必要としないという意味を表わそうとして言うとすれば それは《聖なる甘え》において得られるのではないか?   (α‐2)  この世のシガラミによって清浄心がよごれて来ているとするなら そのつど余計な判断を中断して静かに世界の中に置かれたおのれを見つめるとき・つまり《エポケー》をおこなうとき そのシガラミはただ縁起によって起こるものとして空であり もともとの清浄心じたいも仮りの姿として空であると見られるようになる。ただ これだけのことではないのか?  (α‐3) 《白紙還元》あるいは《われにかえる》と言うだけで済むのではないかと問うたのであるが エポケーということを持ち出さずとも 日本語にはちょうどいい具合いに《甘え》という言葉もある。  (α‐4) シガラミにかかわる相手や社会力学上有力な派閥や組織に甘えるのではなく――そういうかたちのエポケーがあるとしたらそれは 思考停止によって動物状態になることであろうから そうではなく―― まづこの経験世界を こんどは赤子の状態になって 超えることである。(因果関係から自由な状態になるという意味である)。  (α‐5) つまりは 非経験の場としての神(または 無い神)を対象として・つまり非対象として わが心の《非思考の庭》において 《聖なる甘え》を持つ。これだけで済むことではないか?    (α‐6) 念仏称名は そのあと感謝の心からするものである。事前においては 関係ない。(絶対他力ということで 甘えと通じるかと思い この事項もつけ加えたい)。  ☆ かなり飛躍した議論であり また 粗い議論のままですが 以上のように問います。        *   ▲(ヰキぺ:自性清浄)  ~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84  §1 自性清浄(じしょうしょうじょう、prakrti-prabhasvara、prakrti-visuddhi)は、  ( a ) 自性として(本来、生まれつき)清浄なことを意味する言葉。  ( b ) 仏典では多くの場合、心について言われる。  §2. 概要  ( c ) パーリ増支部に、       「比丘たちよ、この心は光り輝いている。      ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」   とある(いわゆる心性本浄説)。  ( d ) 光り輝いている(光浄、清浄)とは白紙のような状態と解される。  ( e ) 自性として、には本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている。  ( f ) そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。  ( g ) 唯識説は瑜伽行によって心が離垢することを重視し、自性清浄と併せて「離垢清浄」を並べ、さらに「所縁清浄」(仏の法すなわち教説の清浄性)、「道清浄」(修行道の無漏性)と併せて、「四種清浄」という。この場合、自性清浄は真如、法界を意味する。  ( h ) 尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。  ( i ) 大乗仏教はすべてこれを承認する。  ( j ) ただし、『般若経』は清浄を「空」の意味に解し、広く法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。  ( k ) これに対し、如来蔵系の理論では、自性清浄心を如来蔵、仏性の名で、如来の法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性と呼んでいる。  ( l ) また、『大乗起信論』はこれを本覚とも呼ぶ。  ~~~~~~~~~~~  (β) 《自性》について これを あくまで経験事象として見るか〔( j )〕 または非経験の場として想定するか〔( k )〕のふたつの見方に分かれるようである。  (β‐1) 上の(α)の仮説は 自性が単なる経験事象であるとしても成り立つとするものである。  (β‐2) 《白紙還元》と言ってもおそらく複雑かつ微妙だろうと思われる。つまりは 清浄心に還るとかそれを回復すると言っても 子どもに成りきった状態で生きるのではないであろうから そうではなく おそらく白紙還元によって いまのシガラミを空と見るというその境地を築くことなのだと考えられる。つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。  (β‐3) げんみつで細かい議論があるかと思われますが あとは 互いのやり取りの中で明らかにし得たらよいと考えます。  よろしくどうぞ。

  • 《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

    仏教についてです。  はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。 →無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。 (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。 中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。 もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。 このような出で立ちですが よろしくお願い致します。