《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも存在しないと見るのか?

このQ&Aのポイント
  • 《空(シューニャター)》とは、ひとの自由意志をも存在しないと見るの問いについての考察です。
  • 龍樹の空観によれば、存在する・存在しないというのは相対的なものであり、現象がある・ないという意味に用いられます。
  • また、龍樹は関係性によって現象が成り立っていると説き、人間の自由意志はその関係性の一部であると考えています。
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《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも

 【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか?  ・ これが 問いです。  【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。  【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。  【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。  【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。  ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。      ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  § 2.2.2. 龍樹の空観  (あ) 龍樹は、   ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている  ことを論証している。   * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか?  (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、   ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている  ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。   * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか?  (う) さらに、   ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない  ことを明かしている。   * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。     つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか?    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。   * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。  (え) これを以て、   ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である  と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。   * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。  (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。   * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・  (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。   * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。  (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。   * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

質問者が選んだベストアンサー

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  • a_hona
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回答No.11

なるほどそういうことでしたらば、と思い再回答します。ただし、私の理解するところの空観による説明であることを断っておきます。 まず、空観においては、一切を透徹したような知の閃きのような感覚を得ます。その時、世界の事物の一切は、生じることもなく滅することもないと知り、同時に二項対立の概念を克服し、全一なるものを知覚します。また、全一なるものもまた空であることを見て、無一物とも言うべき言葉を超えた識見を得ます。 さて、この時には、自由を獲得したという確かな感覚があって、束縛を脱するということを感覚すると同時に、空観もまた一つの見方に過ぎないことを知ります。こうして空から自由になった時に、自由を行使する私というものが現れます。従って、その私は空を行使しており、空にとらわれず、空を超えています。 空観において、自由を行使する私は確かにある、と言って良いでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうしますと その結局にあるわが存在の状態は    自由意志の最大限の自由を享受している  となりそうですね。それは 万々歳ですね。想像力の勝利ですね。  と受け取った上で 元も子もないようなことを言ってみましょうか。  《有無を超え 生死を突き抜け 善悪の彼岸に到り 全一なるものを知覚し さらにこれを突き抜け 無一物を捉え 空にとらわれず空を超えた》境地 これは ひと言で《非思考の庭》と言ってみては ダメですか?   シューニャター   ブッダター    一切衆生 悉有仏性   自性清浄心   梵我一如   神の霊のやどる身と心   煩悩即菩提   娑婆即寂光土   無住処涅槃   自未得度先度他 なる自由の実行  すなわち  ★ こうして空から自由になった時に、自由を行使する私というものが現れます。  ☆ という大航海の果てを ただちに――なぜなら 即身成仏ないし即得往生において―― 一瞬において成就する。と言ってみては 信号無視の交通違反になりますか?  というより すでにわれわれは皆がおのおおの成就しているからこそ こうやってさとりや空観をめぐり やり取りをしている。と言っちゃっちゃ フライイングでしょうか? 飛躍し過ぎでしょうか?  おしまいからものごとを始めては ダメですか? それが空観なのでは?

その他の回答 (12)

  • a_hona
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回答No.13

先ほどの回答を非思考の庭に一つで表すのも構いませんが、それだと空観について何も語ってないことになります。云々して語ったのはそういうわけで、やはり語る後と前とでは違うということでしょうか。 終わりから始める、アマテラスにも、、という趣旨でしたらば、私の回答は少し道違いだったかもわかりません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 先ほどの回答を非思考の庭に一つで表すのも構いませんが、それだと空観について何も語ってないことになります。云々して語ったのはそういうわけで、やはり語る後と前とでは違うということでしょうか。  ☆ そうですね。問題は 空観とそして〔日本人ブディストの言葉ですが〕即身成仏や即得往生といった成仏観との兼ね合いから わたしは 《過程》を《一瞬》として捉えたい。こういう問題提起でした。  色即是空の 即是とは そういうふうに《間を置かない》という意味合いが その《空観》じたいにあるのではないか? という意味での問題提起でもあります。  その上で ではその《間を置かない》かたちで成った境位から見たまさに世界の空観は どうであるのか? という問いには あなたの説明が生きるものと思うのです。  ★ 終わりから始める、アマテラスにも、、という趣旨でしたらば、私の回答は少し道違いだったかもわかりません。  ☆ 百尺竿頭一歩を進めると取ってくださいませ。

  • a_hona
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回答No.12

追記です。 先ほどの回答における「私」の拡大解釈が、正しいかどうかは分かりません。 無一物においては私というものもまた世界とは不可分であり、主客一体のものとして認識されます。言ってしまえば、かつての規定に縛られた私など無いとさえ言えます。そんな私が自由を行使するというのですから、この世界観においては、私の権限がかなり広いものであることは想像されます。それが正しいかどうかが、私には分かりません。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ そんな私が自由を行使するというのですから、この世界観においては、私の権限がかなり広いものであることは想像されます。  ☆ これはすなわち:  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~  (か) これ(《現象面》)を人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。   * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。  (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。    * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《人間独自の概念化や言語を使用》した結果でしょうね。《人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関して 〔それは〕仮に施設したものであるとする》ようなのですから。この思考と想像力の勝利でしょうね。  そうして 直前のご回答でのやり取りでは  ★ 無一物においては私というものもまた世界とは不可分であり、主客一体のものとして認識されます。  ☆ なる境地が いま・ここにおいて・ほかならぬ《わたし》にあって すでに・すでに 成っている。成っているだけではなく すでにその自由を享受している。と言ってみました。  それは ただただ 過去の歴史のカザリ≒シガラミに譲歩して 一方的に腕づくでは その自由を行使していないというだけのことである。  われわれは おのおのすでに 自由である。  スサノヲだけが なぜ自由か?   アマテラス族にも 自由を味わわせてやりたい。ではないですか。  ゴータマの神格化とは言わずその尊厳を盾にする議論は 非常に訛ってしまったアマテラス普遍語の方言でしかありません。イカレポンチの状態に落ち入っています。不自由です。  アマテラス普遍語方言をすら使用し得ないメチャクチャスサノヲ人間語をしかしゃべることのできない韓国語や漢語の人びとがいます。その人という存在には道をゆづりますが その議論の内容には譲歩せず 自由にそのマチガイを指摘し批判し この自由を互いに共に享受していけるよう すすみたい。ではないですか。

  • a_hona
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回答No.10

ブラジェロンヌさんの要請に応えるのには、空はとりあえず横においておいたほうがいいのかもしれません。 実際に行為は、人生の変遷を形作っている実質的な事柄で、言葉では表しきれない現実の実在ですから。 そういう意味で、ブラジェロンヌさんのように、行為に対し特別な意味を見出そうとすることは共感できることです。 観念の世界を超えた存在である行を、どのように捉えるのか、私も興味あるところです。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  実際に行為は、人生の変遷を形作っている実質的な事柄で、言葉では表しきれない現実の実在ですから。 そういう意味で、ブラジェロンヌさんのように、行為に対し特別な意味を見出そうとすることは共感できることです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ありがとうございます。  わたしの思いと考えをあらためてかかげます。  ☆☆(No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~  ここでは 色受想行識のうち 行そしてなかんづく意志行為 これは ほかの現象=仮象の中でも ひときわ《目立つ》コトなのではないか? また 目立つようなコトでなければ 社会は あたかもトコロテンのごとく推し出されるままに生活がなされているに過ぎなくなり あたかもビリヤードのごとく何ものかにつつかれてこそあっちへ行ったりこっちへ来たりして生きていることになりはすまいか?  こういう危惧があります。縁起としてのただの依存関係で済ませるなら そうなる感覚が起こります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ということは  ★ 空はとりあえず横においておいた  ☆ かたちではなく やはり 《空》観において 意志自由は どのように捉えられているのか? これが 知りたいところだとなると思います。  これについては わたしは知りませんので ここからは ブディズムの思想としてどうなるか おそわりたいと思っています。    ★ 観念の世界を超えた存在である行を、どのように捉えるのか、私も興味あるところです。  ☆ つまりこれは 人間の意志行為は それを受け取った場合には 受け取った側が責任をもって何らかの自分の意志行為をもってこたえるものだと考えられます。そういう意味で 観念であるにとどまらず実在的なコトだと捉えられるのだと思います。  そう言えば いちいちブディズムにこだわることもないのですかねぇ。そう言えば そういう考え方もあり得ますね。  あぁ でも そのときブディズムとして《空》観は 自由意志をどう捉えているか これは ひとつの主題であり問題であると考えられますね。

  • a_hona
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回答No.9

誤字訂正です。 偏在→遍在

bragelonne
質問者

お礼

 承知しました。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.8

> ただし この場合の表現にはいまひとつ引っかかりました。  ★ 色々の物事から自由になるための空  ☆ という表現の仕方です。なぜなら それだと《空》は ひとつの観念――《識》?――であり 《識即是空》といった《即》の意味合いがうすれてしまうように感じられます。  すべてが《空》だというとき その《空》をみちびく《空なる観念 ないし思索》があるような印象を持ちます。 < そうですね、一切を空じた時に、最後には空だけが残ると言われます。しかしその空もまた空である、と言う結びで、空じることが完成します。ですから、識としての空もまた空であると見ることで、識即是空が通ることになります。  ***   > 《色受想行識》――つまり《行》を 自由意志のほかにも広い意味での人間の行為を表わすものとして――の海において 海中か海面かを知らず どこかに気骨のある何ものかが存在している。これが 自由意志であり 人間の意志行為なのだという一点を なお問いたい。と思うのです。 < 行為に関して、ソリッドな質感を求められていると解釈いたしました。ソリッドな質感があるゆえに、ぶつかったり反発したりもすると。 しかしながら、それに対する意見は、如何に堅固な性質を持ったものでも、それは空によって支えられている、と言う表現となります。例えばここで言う空とは、西洋でいうところのエーテルのようなものです。波はそれを伝える媒体を必要とします。媒体がなければ波は存在できないのです。同じように、万物が存在するための背後に、エーテルがあると仮定します。そのような偏在としての空が、ソリッドな自由意志をともなった行為を支えているゆえに、その行為が他の行為と干渉したり、あるいは独立して存在したりできる、と言えます。    *** > 結び目とは 互いに相手の思惟や行為に対して ゆづったり反対したりするその意志行為のことです。凸凹していますし ガクンガクンと互いにぶつかったりするその気骨です。 < 故に、凹凸していたりぶつかったりしているその様のままで、それらは空であるということができます。  *** あくまで私の空の理解であり、伝統的な仏教観による空解釈や、空っぽという意味での空とは異なる解説となったでしょうか。 また、繰り返しになりますが、空とは無いということではなく、空としてあるということと受け止められた方が、ストレートな空の理解に繋がりやすいかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ★ そうですね、一切を空じた時に、最後には空だけが残ると言われます。  ☆ あっ そうなのですか? そういう解釈は 知りませんでした。  いや。でも おかしいようにも思えます。だって いっさいが空だと言っているとき 《空》は 空ではないのですか?  あっ。次に説明がありました。  ★ しかしその空もまた空である、と言う結びで、空じることが完成します。  ☆ えっ。そうすると いわば二段階ということですね。ううーむ。一挙に《空》だと言ってしまっては ダメなんですかねぇ。  ★ ですから、識としての空もまた空であると見ることで、識即是空が通ることになります。  ☆ ううーん。まだ 感覚としては 二段ロケットにはなじめないですね。  ★ 行為に関して、ソリッドな質感を求められていると解釈いたしました。ソリッドな質感があるゆえに、ぶつかったり反発したりもすると。  ☆ そうです。そのとおりです。でないと 世の中の顔は のっぺらぼうになるのではないかとおそれます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかしながら、それに対する意見は、如何に堅固な性質を持ったものでも、それは空によって支えられている、と言う表現となります。例えばここで言う空とは、西洋でいうところのエーテルのようなものです。波はそれを伝える媒体を必要とします。媒体がなければ波は存在できないのです。同じように、万物が存在するための背後に、エーテルがあると仮定します。そのような偏在としての空が、ソリッドな自由意志をともなった行為を支えているゆえに、その行為が他の行為と干渉したり、あるいは独立して存在したりできる、と言えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ええ。それは いいのです。つまり 色受想行識と空との関係は いいのです。おおよそ誰にとっても 同じ見解でしょう。現象が仮象であるといった内容として。  そうではなく・その上で ここでは 色受想行識のうち 行そしてなかんづく意志行為 これは ほかの現象=仮象の中でも ひときわ《目立つ》コトなのではないか? また 目立つようなコトでなければ 社会は あたかもトコロテンのごとく推し出されるままに生活がなされているに過ぎなくなり あたかもビリヤードのごとく何ものかにつつかれてこそあっちへ行ったりこっちへ来たりして生きていることになりはすまいか?  こういう危惧があります。縁起としてのただの依存関係で済ませるなら そうなる感覚が起こります。  ★ 故に、凹凸していたりぶつかったりしているその様のままで、それらは空であるということができます。  ☆ ええ。この認識内容に不満はありません。しかもその上で このゴツゴツ感は 意志行為の帯びているシルシであるのではないか? です。  やっぱり 意志行為は 或る種の仕方で特別なコトとして見たい。こういうワガママですが。

  • a_hona
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回答No.7

むしろ、色々の物事から自由になるための空、という理解でよいのではないでしょうか。すなわちあるやないといった事柄からも自由ということで、自由意志などないというのでなく、あるといって、自由意志を束縛するのでもない、こんな感じではないかと。龍樹の論理については勉強不足なので答えられませんが、問いαについてはこのようです。どうでしょうか。あるかないかではなく、自由意志は自由意志であると、言い切った方が分かりやすいでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 あ_ほなさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ むしろ、色々の物事から自由になるための空、という理解でよいのではないでしょうか。すなわちあるやないといった事柄からも自由ということで  ☆ つまり 有る無しを超えるということですよね。あるいは言いかえると 因果関係を超えるというようなことだと思います。善悪の彼岸とも言いますね。それは 誰しもがのぞむところだと思います。  ただし この場合の表現にはいまひとつ引っかかりました。  ★ 色々の物事から自由になるための空  ☆ という表現の仕方です。なぜなら それだと《空》は ひとつの観念――《識》?――であり 《識即是空》といった《即》の意味合いがうすれてしまうように感じられます。  すべてが《空》だというとき その《空》をみちびく《空なる観念 ないし思索》があるような印象を持ちます。  それから  ★ 自由意志などないというのでなく、あるといって、自由意志を束縛するのでもない、こんな感じではないかと。  ☆ これにも 精確さを期さなければならない点が潜むように思います。  《自由意志》は――《行》?として―― ある。現象として ある。このことは もう分かっています。《空即是行》ですから。  ただ その現象としてのあり方が 《意志自由》という問題は ほかの《色受想・識》のあり方とは ちょっと違う。かも知れないということを 問うています。  《色受想行識》――つまり《行》を 自由意志のほかにも広い意味での人間の行為を表わすものとして――の海において 海中か海面かを知らず どこかに気骨のある何ものかが存在している。これが 自由意志であり 人間の意志行為なのだという一点を なお問いたい。と思うのです。  早い話が 意志自由がなければ 海の中も表面も のっぺらぼうになる。のではないだろうか。  縁起共生と言ったとしても その具体的なあり方は いわば相互の依存関係――網を織り成す線のつながりのみ――から成ると言ったことになるかと思うからです。結び目がない。  結び目とは 互いに相手の思惟や行為に対して ゆづったり反対したりするその意志行為のことです。凸凹していますし ガクンガクンと互いにぶつかったりするその気骨です。  社会がすべておだやかでなめらかな意志行為の関係錯綜から成るとすれば もう言うこと無いでしょうけれど。  こんな感じになりました。  その社会的自然 ないし 自然的社会も 互いの意志行為の寄り集まりにおいてその結果として成るのでしょうから 放っておいて成る。と見てよいものかどうなのか? ・・・

回答No.6

 現象そのものを、空と表現したんだと受け止めています。  現象は、動態。  動態、としての「自由意志」  「自由意志」は動態現象。  動態現象としては“在る・存在する”  でも、時の経過がその時の「形?」を消してしまう。  あるいは、変化。  だから、実体とは云えない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ だから、実体とは云えない。  ☆ この認識は 普遍です。  ブラフマニズムにおいて 宇宙の主宰神ブラフマン(梵)やそのミクロコスモスとしての人間における霊我アートマン(我)について それらが――《梵我一如》として――《何ものにも拠ることなく ひとりある存在としての 実体》であると言うとき それは あくまで《想定》です。  つまり 誰も 一般的に言って神ないしその霊が 《実体》であると思い込んだりそう吹聴したりしているわけではありません。(間違って そうしている場合は あります)。  ですから 五蘊のいづれもが 実体ではないということを《空》と言って示している。このことは すでに 共通の了解事項です。  問題は ただし 趣旨説明に取り上げたようにたとえば龍樹の場合には その《実体ではなく 単なる現象である》というとき 自由意志についての取り扱いがはっきりしない。ということにあります。  《行》のことですが まづこれが 現象であることに問題はありません。  これが しかし《縁起現象としてのものごと》の中から 人間の行為をさらに取り出した場合 この行為・なかんづく意志行為もが たとえば《色》としての形だけの縁起関係の海の中に埋もれて行ってしまうのか? これを そうではないのではないかと言って問うています。  網が つなぎの線だけで成り立ったかたちの・言わばのっぺらぼうの世界としての縁起関係〔その錯綜〕なのか。それとも そうではなく つなぎの線は 一つひとつそこに結び目があって この結節点が――縁起関係の結節点が―― あたかも人でありそれは 人の自由意志として成り立っているのではないか? という問いです。  色受想行識の社会的な関係錯綜する縁起の場 ここに《行》≒意志自由だけは あたま一つぶんほど上に乗り出して その〔現象としてのながら〕存在をアピールしている。のではないか?  龍樹あるいは ほかのブディストのあいだで ここらへんのことは どう考えられているのか? ぜひお聞きしたいと考えました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  動態現象としては“在る・存在する”  でも、時の経過がその時の「形?」を消してしまう。  あるいは、変化。  ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 《時の経過》を いまは忘れてください。このいま起こっている縁起現象について捉えてみてください。その関係構造に 拳のごときつなぎ目(結び目)が それとして――決してのっぺらぼうの世界にするのではないかたちで―― その存在をアピールしているのではないか?   

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.5

>この説明を読んで理解すること はて? 貴方は私の答を理解したのでしたっけか? 人にだけに理解を求めるのはどうでしょう?

bragelonne
質問者

お礼

 回答を寄せた質問をまちがえたということですか?

回答No.4

 本来の意味する処の「空」から離れて、  母体から生まれ出た心は母体を通してすべて繋がっていると思うので、ジャングルジムのような世界が「人間精神」だと受け止めました。  ブラジュロンヌさんのリングはこの娑婆世界なので、仏教の取り上げる所の“空”から離れないといけないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりません。残念ながら。  ★ 本来の意味する処の「空」から離れて、  ☆ 《本来の意味》では 自由意志≒《行》は 空だというとき それは 現象としても ないということなのでしょうか? これが お聞きしたいことです。  ご回答をありがとうございます。

回答No.3

 「空」の捉え方で考えが決まると思います。  私の場合は、いま現にここにあっても、時とともに変化して、その姿かたちがなくなってしまう、という“現実”のことと受け止めています。  だから“わたくし心”はこの身と共に“死”によって消滅してしまうと思うので「自由意志」は当然消滅することになります。  ※・現象は変化している、と云う事を「空」と表現したんだと思います。  「絶対」とはそれらを存在させている“あるもの”のことと、受け止めているのであえて言えば“あるもの”は「空」自体をも“存在”させていると云うことです。  

bragelonne
質問者

お礼

 ○ 死んだら 自由意志も消える。  それは そうでしょう。――まづは ご回答をありがとうございます。    ★ ※・現象は変化している、と云う事を「空」と表現したんだと思います。  ☆ まぁ 諸行無常 と言うには言いますが。  つまり・ですから 生きているときに 《自由意志》というもの・たぶん《色受想行識》の内の《行》のことだと思いますが これは やはり《空》であって そのあとその《空即是行》となるとき どう捉えるのか? これが 問いです。  現象が起きていても つねに《空》であると見ているのか? です。   それと言うのも 網があって そこには つなぐ線が張り巡らされています。このとき あるのは 線だけなのか? それとも 線は 網の目のところに必ず 結び目があるはずだ。だから この結節点は ないがしろには出来ないはずだ。――というタトエによって 自由意志もある。  つまり 人間の生きる社会も 網を織り成す線という関係(縁起の連関)だけで成るのではなく 関係を成り立たせる人間という主体がいる。その主体が主体たることは 自由意志による。こういう物言いも含まれています。

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     1. ここはすべて タトエと想像の問題です。  2. ちなみにタトエではない問いとして 重力が空間のユガミだと言うとき 時間はどのようになっているのですか?  3. 重力が仮りに人間の意志だとすると 社会という時空間は 人間の意志行為が錯綜して形作られており そのときユガミを生じている。と言えるか?  4. シガラミによる制約――あるいは分かりやすく言えば 社会力学じょう有力な勢力による脅しによって行動の自由が制約されること―― これが ユガミか?  5. 重力があるということは 一義的に空間にユガミが生じるということであるとすれば 社会力学じょうも 人間関係の時空間におけるユガミは 人間に意志がはたらくからには 避け得ない経験則であるのか?  6. これは 自由意志の存在を明かしているだろうか?  7. なぜなら 《オドシ》というような意志を たとえ必然的な成り行きだと見るとしても それでよいとは誰も思っていない。オドシなる意志行為がよいとは誰も考えていない。――というような思弁としてだけだとしてもの意志自由が 人間にはもともと自然本性においてそなわっている。と言えるか?  8. ということは 人間の意志には 好ましい(または中立の)内容としてのハタラキと好ましくないオドシとしてのハタラキとがあると帰結しうるか?  9. オドシなる意志を発揮するのも 自由意志としての意志行為ということか?  10. 重力は 中立か? それとも 初めから世界が決定されていてその中で重力も 決定されているチカラであるに過ぎないのか?

  • ひとの意志は モノに還元されるか?

     ここでは 自然科学の知識を勝手にイメージとして捉え その情報にもとづき勝手に――それでも――人間と社会とにかんして考えようとするものです。        *  まづ次が そのイメージをひろげた仮説です。        社会主体としての人間の・殊に《わたし》の力を想定し さらに四つの力を仮想してみる。もちろんまったくの空想です。   1.重力 :《 〈わたし〉 の社会的な力》   2.電磁相互作用 :《 〈わたし〉 の超現実》=《 幻想 〔としての意識〕》   3.強い相互作用 :《根源的な 〈わたし〉 》   4.弱い相互作用 :《とにかく〈わたし〉というもの》  これらの人間の力つまり 自己の基体である物質の運動についての意識としての人間の力は 物質としては広い意味の《光》が媒介するものである。  いまわかりやすいように そして基本的にもそうであるように 男と女に対する関係を例にとって考えるのがよい。  第二の《〈わたし〉の超現実》というのは いわゆる光が 視覚などによって起こす電磁相互作用としての力である。  男と女のあいだに 電磁場(電気的・磁力的な作用の場)が形成されるのである。これは 《幻想》的であり 幻想としての現実である。  幻想というのは 相互作用がはたらいても それはまだむしろ場の成立であって 何も起こっていないのに 何か起こったと錯覚したり さらには何か確かに作用が起こったときそれは 自分に都合のよいように別の作用が起こったのだと錯覚するか もしくは 何もまだ起こっていないのだと強引に主張するか そのような場合が 多いからである。  このとき これらは 特に意識しなくとも 第四の力の《とにかく〈わたし〉というもの》をとおして そしてそれは 光の仲間としてのウィークボソンによって媒介されるところの弱い相互作用となって まづは始められていたものであろう。つまり 後でそのような結果として捉えられるものであろう。(何でもないことのほうが 印象や影響が強かったりする場合がある)。  これら二つないし三つの力を要約すると 男と女とは それぞれ《とにかく〈わたし〉》をとおして まづ接触し 何らかのかたちで 《根源的な〈わたし〉》を意識し始め それぞれが《わたしの超現実》という場を夢見始めるに到る。  《根源的》というのは ここでは かの相手とのかかわりにおいてとにかくこのワタシという存在を意識し自覚し始めるといった事態を言っている。  《弱い相互作用――自由な電子が飛び廻ってのように――》において互いに接触し 《強い相互作用》を働かせる。(ただしまだ 事の始まりとして 互いの自己紹介の程度までではある)。そして次に《電磁相互作用》がはたらいたなら 相互認識の場あるいは付き合いの形が 成立する。  第三の《根源的な〈わたし〉》というのは さらに進めば自己の同一性にとどまろうとする――言いかえると この場合 相手を選ぼうとする――力であり いわば自己の凝縮というような自己確認の作用である。  これは 《糊の粒子(グルーオン)》とよばれるものによって媒介される強い相互作用に属する。もちろん 人それぞれにであり 単純に人それぞれにである限りにおいて人は 独立主観である。この意味で 根源的なと名づける。  以上これらの三つが 大きくは同じ場でむしろ同じ力の三態として はたらいている。独立主観が 孤立しているわけではなく 他の独立主観と 接触したり相互依存的であって 不都合はない。この力は 三態という範囲において もしくは 正負の向きなどを含めたいろんな関係のあり方として それを愛(つまり 愛情と嫌悪をふくむ)とよぶのにも 不都合はない。  最後に 第一の《〈わたし〉の社会的な――時には公共的な――力》が重力であり 表現として万有引力(?)である。  主体の社会的な意味での重さとは 意志のことであり これを同じく 愛(自治・自己経営)と呼ぶのに不都合はないであろう。  男女の関係としては その夫婦一組としての社会的な職務(つまり家族としてのふつうの社会生活)にかかわった力の問題にあたっている。  婚姻は 第二の電磁相互作用の場 これが 婚姻関係〔の場〕として新たに確立したときの力の過程である。それは 重力の作用つまり自由意志によるかと思われる。  婚姻に限らず 一般に人びとの連帯が成立するのは やはり 万有引力に比されるべき人間の意志によるのであって 或る主題の科学的な知解や 或る問題の解決へ向けての運動として考えられる。  けれども 個人の二角関係のうちの 男女の対(ツイ)関係における婚姻という結びつきは 四つの力が統一的にはたらいているかも知れない。         *  1. 意志よりほかの・自然本性としてそなわる精神の能力――すなわち 記憶および知解――は あんがい生物物理学的なモノに還元されるのかも知れない。ひとの身(およびそこにおける意識)とそして自然および社会としての環界とは むしろ相互に通底しているかも知れない。  2. けれど 意志は 四つのチカラの内 ほかの三つの相互作用とは 或る意味で異質であることとかかわっているかのように 特殊である。と考えられる。  3. それは もし社会のいわゆるクウキやシガラミなどといった人間関係によってことごとく影響を受け ほとんどその内容に〔おのれの意志が〕従ったとしても そうだとしても この人間の意志というのは そのようにいやいや従ったのだいうことを知っているという特徴を持つ。からである。  4. このような自由意志の特徴というのは 一般に基本として 《ゆづる》という行為である。あるいは 関係として捉えて 《ゆづりあい》という社会行為である。  5. かんたんながら 以上を踏まえて言ってこう問います。      ○ ひとの意志は モノに還元されるか?  なお仮説としてかかげた見方は 次の質問でもあつかいました。そこでのやり取りを参照していただけるかと思います。   【Q:《アース力》は 慈悲なるチカラだ。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7834459.html

  • 本格小説と自由意志について

     (α) ルーテル( Martin Luther )に《奴隷意志》の議論があるようです。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ルターは《人間の意志 voluntas hominis 》が《奴隷的で囚われたもの serva et captiva 》であると主張するが それは人は外からの《強制 coactio 》によって 嫌々ながら何かを意志するという意味ではない。意志が意志であるためには そこに自発性がなんらかなければならない。奴隷的であると言うのは 人間の意志が悪へと向かい 善に向かうことのない状態にある という意味においてである。  (清水哲郎:ルター in 伊藤博明編『哲学の歴史 第四巻 ルネサンス』2007)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (β) これゆえ 文学において《本格小説》と称する行き方は あたかもみづからの意志をいわば中立として 作者でありつつも観察者の立ち場に徹して物語を編んでいく――と言うのでしょうか?    これが問いです。  (γ) わたしの考えは   ▲ 奴隷的であると言うのは 人間の意志が悪へと向かい 善に向かうことのない状態にある という意味においてである。  ☆ というまでに突き詰めては考えていません。仮りに《悪へと向か》うかどうかは別としうるならば別として単純に言って人間の意志がそのままでは《善に向かうことのない状態にある》としますと それでも その認識に伴なうへりくだりをとおしてゆくゆくはかえって自由意志が建てられて行く――こう見とおしています。  ですから結論づけるなら  (δ) 中立の観察者の立ち場に立てなくてもよい。そうではなく 《作者》はあってよい。主観が顔を出してよい。この主観のうちに建てられて行く自由意志に沿って 物語を編む ないし 自己表現を推し進めて行く これでよい。たとえ挟雑物が交じって来ても 基本の歩みを歩み( basis )としてあたかも悪とともに進んでよい。  ☆ こう考えます。《あたかも悪(または 毒麦)とともに》というのは 社会にあって自分を含めた人びととともにという意味です。  (ε) ちなみに ルーテルはたとえばこう考えたようです。  ▲ われわれの行為なしに恩恵と信が注ぎ込まれ それが注ぎ込まれたうえで行為が生じる。(『ハイデルベルク討論』=前掲・清水)  ☆ 前半すなわち《われわれの行為なしに恩恵と信が注ぎ込まれ》というところが 《私心をあたかも蒸発させ観察者であることをつらぬく》につながると思われます。わたくしは 後半の部分つまり《恩恵と信が注ぎ込まれたうえで行為が生じる》のほうに重きを置きたい――こう思います。かえって自由意志が建てられるという希望です。  これは 一文の全体として つながった過程であることに間違いはないでしょう。  やや不案内のところがあると思いますが 自由なご見解をおしえてください。

  • 《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?

     (1) たとえば《地球家族》という言葉を 耳にしました。   これは 表題の意味内容とかかわっているのでしょうか?  (2) 《宇宙は 自己の補完である》とは どういう意味でしょうか?  (3) 質問者には 次のような意味のほかは 分かりません。   (あ) ヒトは 宇宙の中に存在する。   (い) その人という存在があたかも小宇宙と呼ばれるような宇宙の縮図を成している〔という主観想像的な見方が出来るかも知れない〕。   (う) その存在という存在は 相対的なものであるから 互いに関係しあっている。  (4) すなわち 前項の(う)については そこからさらに次のように考えられます。   (え) ただしその相互の存在関係は 互いに依存しあう側面すらあっても ヒトの場合は――つまり社会的なあくまで関係性としてある存在であっても―― その自然本性として中核を成す自由意志が 一人ひとりに〔相対的な〕独立性を持って発揮されるからには その意味での《独立性》をも同時に持つ。と考えられる。  (仮りに複数の人間による共同でひとつの意志があるとしても それが発揮されるのは 個々の人間それぞれによってに限られる)。     (お) つまり そのとき 《補完》というのは そぐわない。と考えられる。   (か) すなわち ひとりの人間として《わたしがわたしである》ことは あたかも――あたかもです あたかも――《独り満ち足りている》かのごとくその相対的で関係性の内にありながらの独立性・自立性を持ち得る。  (5) それとも  ここで《補完》という場合には 容易には知り得ないもっと深い意味があるのでしょうか?  よろしくどうぞ。

  • 神と人間における自由意志の一体性&分離性について

    難しいタイトルですが、言い換えると、もしあるとするならば、 神と人間の意志の境界は一体どこにあるのか?と言う質問です。 例えば先日にクリスチャンとして洗礼の証しを書き記したのですが、果たしてこれが 自分の意志のみによって書かれたのか、それともどこかで何らかの神の意志が働いて いるのか、ふと疑問に思ったのです。自分と神様の思いはどこで線引きをすれば良い のか、その境目を見極めたく思っています。 ちなみに今のところ私は、洗礼の証しは自己と神の共同著作のように考えています。 また神様と人間は本質的には一体な存在でありながらも、物質が大勢を占めている この世において、ある相対的な分離が起こっているのではないかとも考えています。 更に言うと、これに関する質問を自分がよく通う教会の牧師にも尋ねてみたところ、 明確な返答を頂けませんでした。なので、極めて難問であることは間違いないです。 読者の皆さんは、どう思われますか? かなり返答の難易度を上げたかもしれませんが、個別に思うことで構いませんので、 何かご意見がありましたらお気軽にお返事よろしくお願いします。

  • 不確定性原理と自由意志 運命

    不確定性原理っていうものは決定論を完全に否定できてますか? 不確定性原理と自由意志との関連性は何ですか? 不確定性原理って人間が観測不可能なので不確定って言ってるだけで、実際にはある法則があるんじゃないですか? 無から有はできませんよね?原因なしで結果があるってのはおかしい気がします。 例えばAとBになる確率が半々だとして、Aになったとします。 じゃあ、何故Aになったの?という問いに対して、そこだけ空白になってしまいますよね。 自由意思存在の正否は、「未来が観測可能か」か、はたまた「未来は観測不可能であるか」か、このふたつだけに依存しているとしたら、 実際には決まってるかもしれないけど(いや、決まってるんだと思います)、自分たちが観測できないだけってことになるじゃないですか。 行動っていうのは その人の脳の構造(性質)と外界からの情報の受信で化学反応を起こし、起きるものだと思うんですけど、 それは自由に起こしたものではなくて、法則に従った=決定された ものですよね? 脳の化学反応によって起きる意思決定は物理法則に従ってますよね・・? 僕は自分の脳の性質にしたがって思考をしていますし、行動も明らかに周りの出来事や情報に左右されているのを日常で実感しています。 原因なしの行動はありえません。 ないとすれば、人間の思考だけこの世の法則を無視した非科学的なものになってしまいます。 全ての事柄は原因=結果=必然なんじゃないですか? 人々は自由ではなく縛られた中で、その行動の原因や要因を認識していないので自由のように錯覚しているだけのような気がします。 そもそも自由意志の定義って何ですか? 質問がたくさんあってすいません 物理学は全く分からないので、数式や専門的な言葉は分かりませが、よろしくお願いします。

  • 全部決まっている?【運命・必然・偶然・自由意志】

    人間の判断が全て刺激に対する反射とするならば、自由意志というものは存在せず、「自分で決めた」ということがあり得ないのではないでしょうか? もし、そうだとすれば「人生で何が起こるかは、何も決めることができない。全て偶然。」になるのでは? 何も決めることができない、ということは「全て決まっている」と言えてしまうのでは? といったことを考えました。 実際のところ、どうなんでしょう??? 当方、哲学が専門という訳ではないので、まったく見当はずれのことを言っているのかもしれませんが・・・。もし、このような問題を扱っている書籍などもありましたら教えてください。