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龍樹が「中論」で説いている縁起とは、因果関係と相依相関関係のどちらなのでしょうか
私は仏教の縁起思想に興味を持ち、さまざまな書物を読んできました。 その中で私は、龍樹の「中論」で説かれている縁起思想というのは、相依相関関係を指していると理解してきました。 ところが、縁起とは因果関係のみを説いているという学説があるというではありませんか。 私が龍樹の「中論」を読んでいる限りでは、相依相関関係を説いているとしか思えない記述があり、とても因果関係に限定できるとは思えません。 いったいどういうことなのでしょうか。私はすっかり混乱してしまいました。 どなたか仏教哲学にお詳しい方がいらっしゃれば解説よろしくお願いします。
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龍樹の意図する『中論』の基本的なスタンスは、部派仏教の間で支配的な縁起観というものを否定して、お釈迦さんの本来の縁起観を取り戻そうとすることにありました。 部派仏教の縁起観を否定するというのは2つの意味があって、1つは、流転し輪廻する人間のあり方を説明するような理解、つまり「時間的な生起の関係」という説明を否定して、よく引き合いに出される「浄と不浄」の例のような、相依関係を表わすものとして縁起を捉えなおしたこと。そして2点目は、ものごとに自性を求める立場を明確に否定したところに縁起を位置づけたことです。 『中論』を読むためには、この2点目も必ず同時に押さえておく必要があります。そうでないと、ただでさえ宇井伯寿先生以降、縁起といえば「ものごとがお互い依存しながら成立している相互関係」とされているわが国では、縁起が単に空間論的なはなしに思われてしまって、後の中国の華厳で言う法界縁起の思想とあまり差がなくなってしまうからです。 龍樹の縁起理解はもちろん法界縁起と重なるところがあります。しかし、大事なことですが、彼の主眼はあくまでも、有部などのように実体に固執する立場では因果関係も論理的関係も成り立たない、ということの主張にありました。関係一般というのは本体を持たないものの間にしか成り立たない。つまりこの世の一切は無自性なのですが、その故にこそもろもろの現象が成り立つ、それが本来の縁起なのだ、と言っているわけです。 我を考察した章もありますが、運動や燃焼、認識を論じた章などは、このことを言いたいがためにくどくどと論を尽くしているわけです。ですから『中論』の内容を、空間的な問題に限ってはいけないのはもちろんのこと、単に相互依存関係を説く書物だ、と言って済ませてしまってはいけないと思います。 ところで、この質問自体が前の質問で名の挙がった松本史朗氏の主張に接して生まれたのではないか、という気がしますが、どうでしょうか。一応その前提で付言しておきますと、松本氏は確かに十二支因縁を挙げながら、縁起説を時間的因果関係で理解することの重要性を盛んに主張しています。ただ、氏は別に他のいろいろな縁起の理解を否定しているわけではありませんし、否定できるわけもありません。 氏の立論の根本にあるのは、仏教の成立時点に目を向けた時に仏教を仏教たらしめる根本的な思想の核は何だろうか、という問題意識ですから、根底に無明や渇愛をおくとなると、その縁起理解というものは時間的な因果関係を抜きにしてはたちゆかない、というところに力点がおかれるわけです。 『中論』は有名なだけに、内容を知らずに自分勝手な想像を書く人も大勢いて、げんなりさせられることが多々ありますね。回答しておきながらこう書くのもなんですが、あまりこういうところの回答を期待せずに、ちゃんとした書物をとにかく読み込んでみることです。
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- mmky
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参考までに 龍樹の考えた縁起が相依相関関係が強いだけのことで、因果関係の縁起を否定しているわけじゃないんですよね。 空(諦)と縁起という場合は相依相関関係が主体で、単に縁起という場合は因果関係が主体ということでしょう。 縁起は空間的に捉えるか時間的に捉えるかの違いで表現が異なりますがどちらもあるわけですね。 特に、龍樹は二諦に更に一諦を追加して、中庸を説いてますから空間的な縁起、つまり相互依存関係になってるわけですね。 仏教の悟りはダイヤモンドのように多面的ですので全て飲み込まないと理解できないところがあるんですね。
お礼
なるほど、中論の縁起は因果関係も相互依存関係も幅広く含んだ縁起を説いてあり、竜樹のの真の目的は有部の「実体」の否定にあったということですか。了解しました。竜樹の縁起というのが、因果関係か相互依存関係の二者択一でないかと悩んでいましたので、これで納得しました。 >>ところで、この質問自体が前の質問で名の挙がった松本史朗氏の主張に接して生まれたのではないか、という気がしますが、どうでしょうか。一応その前提で付言しておきますと、松本氏は確かに十二支因縁を挙げながら、縁起説を時間的因果関係で理解することの重要性を盛んに主張しています。ただ、氏は別に他のいろいろな縁起の理解を否定しているわけではありませんし、否定できるわけもありません。 はい、まさしく松本史朗氏の説に触発されてこの質問をしました。氏の著書を読んでいると、「縁起を相互依存と理解するのは間違えている」とはっきり指摘されていたように思えます。私の誤解かもしれませんが、そのあたりの事情をご存知でしたら、よろしくお願いします。(ここの回答をあてにしてはいけないということはわかっていますが、neilさんの回答を読んでいて疑問がわいてきたので、質問させていただきます。)