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なからざるべからず~その2~

OKATの回答

  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.5

 前回は理論で解決しようとして失敗したので、今回は用例をあげて説明します。  青空文庫は、明治初期から昭和40年くらいまでの文章を収録しています。そこで検索をかけました。「ざるべからず」にヒットしたものは下に書いたものです。(検索の5ページまで) 井上円了 「西航日録」 、天堂 山川丙三郎訳 「神曲」、福沢諭吉 「学問のすすめ」 、福沢諭吉 「学校の説」 、福沢諭吉 「中津留別の書」、山路愛山 「信仰個条なかるべからず」 、福沢諭吉 「文明教育論」 、正岡子規 「病牀譫語」、福沢諭吉 「日本男子論」 、北村透谷 「情熱」 、芥川龍之介 「小説作法十則 」、内藤湖南 「學變臆説」、福沢諭吉 「教育の事」、芥川龍之介 「文部省の仮名遣改定案について」 、内村鑑三 「ネルソン伝に序す」 、竹越三叉 「深憂大患」、北村透谷 「漫罵」 、北村透谷 「賤事業弁」、佐野友三郎 「学校教育における図書館の利用」 、堺利彦 「婦人の天職」、津田左右吉 「史論の流行」、正岡子規 「従軍紀事」 、福沢諭吉 「読倫理教科書」、福沢諭吉 「瘠我慢の説」、新渡戸稲造 「教育の最大目的」 、竹越三叉 「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」、堺利彦 「貧を記す」、北村透谷 「各人心宮内の秘宮」、室生犀星 「抒情小曲集」、福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」 、北村透谷 「実行的道徳」、大町桂月 「久地の梅林」、田中正造 「非常歎願書」、木下尚江 「鉱毒飛沫」 、日野強 「新疆所感」 、泉鏡花「愛と婚姻」、新渡戸稲造 「我が教育の欠陥」、山路愛山 「英雄論」、北村透谷 「復讐・戦争・自殺」、喜田貞吉 『「特殊部落研究号」発刊の辞』、堺利彦 「面白き二個の広告」、芥川龍之介 「大久保湖州」 、井上円了 「妖怪学」、太宰治 『「地球圖」序』、北村透谷 「人生の意義」、大町桂月 「房州紀行」、山路愛山 「透谷全集を読む」、井上円了 「甲州郡内妖怪事件取り調べ報告」、北村透谷 「主のつとめ」 、登張竹風 「美的生活論とニイチエ」 、北村透谷 「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、北村透谷 「内部生命論」、高山樗牛 「美的生活を論ず」、大町桂月 「秋の筑波山」、福沢諭吉 「学者安心論」、大町桂月 「層雲峡より大雪山へ」、福沢諭吉 「学問の独立」、井上円了 「欧米各国 政教日記」、  これらのなかで、問題の「なからざるべからず」を含んだものは、すでにご承知の三つと新たに判明したものも含めると四つ、それに伝聞的なものを含めても五つに過ぎません。前回「常套的」と言ったのは何も知らずいっていたことになります。 ○少しは文字の心得も<なから>ざるべからずといえども  「文明教育論」 福沢諭吉 ○奉儒の国は子孫<なから>ざるべからずと命ずるに因れり 「愛と婚姻」 泉鏡花 ○およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるもの<なから>ざるべからず。 「一夕」 永井荷風 ○ もし、あるいはコックリに向かって未来のことをたずぬるときは、単に想像または推察によるよりほかなし。ゆえにその応答、事実に合せざること<なから>ざるべからず。 「妖怪玄談」  井上円了   (この例はもう一つ難解ですね。「合せざることなからざるべからず」)  別のサイトで、山折哲男が紹介された伊藤博文の言葉「立憲政治の前提として宗教<なから>ざるべからず」を足しても5つしかありません。検索を広げていけば別の例に行き当たるかも知れませんが、その可能性は薄いと感じています。  本来、「ざるべからず」を後に従えるのは「動詞」が圧倒的に多く、中でも「言わざるべからず」「~せざるべからず」が多いのですがそれに合わせて動詞だけで8~9割を占めていると思います。それに次ぐのが「助動詞」(使役の「しめ」、断定の「なる・たる」他)ですが、「形容詞」は非常に少なく、「なし」以外にはつぎのあげるものです。    さてまた、子を教うるの道は、学問手習はもちろんなれども、習うより慣るるの教、大なるものなれば、父母の行状<正しから>ざるべからず。「中津留別の書」 福沢諭吉(この例は重要) ということで、もし形容詞の「なし」を使うなら次のように本来は「なかるべからず」の形をとります。 男子に二女を娶めとるの権あらば、婦人にも二夫を私わたくしするの理<なかる>べからず。 「中津留別の書」 福沢諭吉 深山に蹈入る旅客<なかる>べからざるが如くに、真理に蹈迷ふ思想家も<なかる>べからず。「各人心宮内の秘宮」 北村透谷  ところが、紛らわしい例も出てきます。  すでに独立国たる以上は、宗教また西洋と<異なら>ざるべからず。請う、みよ、西洋諸国一般にヤソ教国と称するも、各国みなその宗派を異にして一種固有の宗教あるを。わが国、なんぞあえてその固有の宗教を変ずるを要せんや     「欧米各国 政教日記」 井上円了  この「異なる」は動詞で別段否定的要素を持ちません。ところが「異ならざるべからず」とあると一瞬戸惑います。 「異なる」=違う+ざる=打消+べからず=当然の打消 「異なる」の二重否定で、結論は「異なる」の肯定。これは変だ。文意は違わないと言いたかったのではないのか。この人の場合、二重否定という強調法を意識するあまりの錯覚とみられるが、当時この文に対して誰も批判をしなかったのだろうか。ということは、筆者も読者もただの動詞の強調法と受けとったと考えられます。(事実只のの動詞です)  同じ論法で行けば、「なからざるべからず」も「父母の行状<正しから>ざるべからず」の例と同じく、只の形容詞の二重否定と考えて不思議ではありません。     結論は「三重否定」など誰も意識せず、誰も批判する人がなかった時代だから成り立った語法でしょう。 ついでで申し訳ありませんが、「正しいかる事は永久に正しいからざるべからず」(岩波茂雄)というのが見つかりましたので、付け加えておきます。勿論ここの話題に関係ありません。

tklreldmgadfgas
質問者

お礼

OKATさん、ご参加&追加の詳細説明ありがとうございます。 回答いただいた後、私も例文を再度読みこみましたところ、私の上の質問文の見解が少し変わりました。 まずはそれを説明します。 例文で特に注目したのが、前回質問スレNo5でkine-oreさんに解説いただいた、福沢諭吉の「なかるべからず」25箇所「なからざるベべからず」1箇所という指摘、それと井上円了の例文です。 まず、諭吉の方ですが、「なからざるべからず」唯一の使用箇所はこうです。 「もとより智能を発育するには、少しは文字の心得もなからざるべからずといえども、…」 これと例の25箇所を比べると、こちらの方は押しが弱い文脈で用いられているということがわかります。絶対に~だ、というような断定ではなく、「少しは~」という言い方です。 次に、井上円了ですが、「なからざるべからず」が1箇所、同じニュアンスをあらわすのに「往々~ある(あり)」で表現している箇所が2箇所あります。 「未来のことをたずぬるときは、単に想像または推察によるよりほかなし。ゆえにその応答、事実に合せざることなからざるべからず。」(妖怪玄談) 「しかれども、想像および推察は往々事実に合せざることあるをもって、…」(妖怪学) 「しかして、その想するところのもの、往々事実に合せざることあり、…」(妖怪玄談) これも諭吉の場合と同様で、押しの弱さを保った押しの文脈です。 これらの例文から「なからざるべからず」の機能を推定しました。 「ないことはない」と2重否定し、それを強調している、という機能です。 ただし、その強調は、「ないことはない」を表す2重否定部分に込められたニュアンスにより、押しの弱さの強調にもなれば、肯定の強調にもなりうる、というものです。 そして、文法ですが、これは2通り推定しました。 1.「なからざる」で2重否定、それを「べからず」で強調。これは、繰り返しによる強調だと推測しています。つまり、「ないことはない、ないことはないんだ」という意味を出しているのではないかということです。「なからざる」が「ないことは”ない”」を、「べからず」が「ないことは”ない”んだ」の意味を担当していることになります。(繰り返しによる強調という意味では前回スレの「ないじゃないか」による裏付けも期待できます。) 2.前回スレでおなじみの「ざる」で2重否定を強調。 そして、私はこの2通りの推定のうち、1つ目を目下最も支持しています。 なぜなら、2つ目の「ざる」強調説には依然しっくりこない部分がありまして、 1.ある部分(この場合2重否定)を強調するのにわざわざ表現の中間に強調語を入れていること。しかもそれが終止形(連体形?)となっていること。さらに前回hakobuluさんの指摘「なから」という未然形に接続する形である点、も未解決のような気が。。 2.「ざる」が具体的に何をどういう風に強調しているのかという説明がしにくいこと。既出の解説では「なから」という「なし」を強調しているとするか、もしくは「ざる」はとにかく強調表現だからどこに入れてどう使ってもそれでOK、という風に説明するのが関の山だからです。 以上が今の、改善された、私の解釈です。 ところで、この解釈を使えば、「異ならざるべからず」も説明可能です。

tklreldmgadfgas
質問者

補足

>正しいかる事は永久に正しいからざるべからず これは…… 含蓄と突っ込みどころが幾重にも含まれていそうで触るのも恐れ多いような気がします

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