ブッダのスッタニパータ788、789の読み方は?

このQ&Aのポイント
  • スッタニパータ788、789についてのブッダの考え方を要約します。
  • 788では、ブッダは最上で無病の清らかな人を見ることを智慧として認識しています。
  • 一方、789では、偏見のある人が他の方法によっても清められることはないとしています。
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スッタニパータ788、789の読み方は?

中村 元訳「ブッダのことば」 788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。 789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。 790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。 此処で言う「見解」に対して、巻末に[註]があります。 ・諸々の英訳者は、viewと訳している。 ・ 諸宗教や哲学の「教義」を意味する。 さて、質問です。 質問1 788に該当する人をブッダは肯定しているのですか、否定しているのですか。ブッダが「見解」をどう評価しているのかが分かりません。 読解力のせいか、翻訳上の苦渋が原因で多少は表現に無理があるのか、私には790まで一連の文言が矛盾せず、かつ国語の上から不自然ではない解釈が思い浮かびません。肯定している場合は790と整合しないし、否定している場合は789が誤りとまでは言いませんが手を入れたくなる程度に不自然な文章だと感じてしまいます。 質問2 念のためにお訊きします。789の「人は智識によって苦しみを捨て得る」をブッダは肯定していますか、否定していますか。 よろしくお願いします。

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  • anris
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回答No.1

結論から言いますと、790のみ肯定で、788、789は否定です。 788は、「こういう人がいる」というたとえ話で、 789は、「もしも788の言うとおりであるとすれば、こうではないか?」という否定的投げかけ。 790は、結論。「本当の真実とは、こういうものだよ」 という流れですね。 簡単に訳しますと、 788:聖人とは、あれがいい、これがいい、と頭で考えて答えを出す 人であると、理解する(人がいる) 789:しかし、考えて聖人になれるのならば、ほかの方法でも、聖人になれるのではないか?そんなアホなことを言う人を「偏見ある人」という。 790:真の聖人(正しい道を行く)にはひとつの方法を除いて(正しい道)、考えたり、学んだり、禁欲生活を送ったりしてなれるものではない。(ひとつの方法でしか聖人になれない) 聖人は、禍や福(順境や逆境)に心を奪われることもなく、 自分という小さいものを捨て、 生きている限り悪の原因も、善の原因もつくることがない。 というのが790までの解釈です。 なぜ、善の原因まで、つくることがないのか、とも、疑問が残るかも知れませんが、それは、続きを読みまた、質問してください。 今回は788から790までの質問内容に関する解釈と回答です。 まとめ、仏陀は788の見解を「悪」として否定しています。 >否定している場合は789が誤りとまでは言いませんが手を入れたくなる程度に不自然な文章だと感じてしまいます。 上記に記載したように、「788のようなひとがいるなら、789のような人がいてもおかしくないだろう。しかし、事実は790だ。」といっているので、 私自身は違和感を覚えないのですが、 どうでしょうか?きっと質問者さんは、感覚が鋭いのかもしれませんね。 少しでもお役に立てばうれしいです。

sono-higurashi
質問者

お礼

全面的によく分かりました。疑問の生じた経緯を記して、お礼とします。 790は読み間違えようがありません。よって論理の上から788は否定されている理屈になります。また、790に頼らず788単独で読んでも、これは否定されるべき態度だろうと見当が付きます。ここまではよいとして、この場合、789が素直に読めませんでした。 というのは、789の「このように語る人」の「この」とは何かということに帰着されます。現況だと789の中で探すのが自然でしょうから 「もしも人が見解によって~清められることになるであろう。」・・・(*)これ全体を指すのでしょう。ところが私には(*)ではなく、788の 「人が全く清らかになるのは見解による」・・・・・・・・・・・・・・・・・・(+)こちらと読めます。それには789という番号を削除して788と一体化しないとならないような気がします。 (*)であるのか(+)であるのか、この辺の言語感覚の違いを手短に、しかも精確に伝える能力をもたないので深入りはしません。この感覚は仮定が誤っているときの推論を、どう評価するのかといったことも関係しているのだと思います。 また、788を否定していると考えると789の「この」は(*)になり788と789の関係は自然になります。しかし、790と矛盾してしまいます。そんな訳でご相談しました。 有り難うございました。またの折があればよろしくお願いします。本日午前中にどなた様からも新たな寄稿がないときは当方の都合次第で締め切ります。

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