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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章)

スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章

このQ&Aのポイント
  • ドータカさんが仙人に質問し、仙人が答える対話が描かれています。
  • 仙人は賢明であり、自己の安らぎを学ぶようにとアドバイスします。
  • また、仙人は疑惑から解放されるようにドータカを導くと説明します。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.17

 こんばんは nyanko編 (スッタニパータ改)  「センセーイ、センセーイ! このことをわたくしに教えてくださ~い。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びま~す。」  釈尊「この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。そなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」  「センセーイ わたしはその最上の安らぎを受けて歓喜しま~す。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えま~す!」  釈尊「上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」  そこで、いきなり結論なのですが、 > このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか?  いわゆる「自己啓発」本の”まえがき(序章)”ならば、よくできていると思います。  ですが、知りたいのは、本編かと思われます。 第一章 ニルヴァーナとは? 第二章 安らぎを得る方法 たった3分で安らぎを! ・ ・ ・  ですが、[スッタニパータにおいて]これらが具体的に示されていないところに問題があるのだと思います。  このため、[哲学的]知性は感ぜられない。これが小見でございます。  どうも失礼致しましたm(_ _)m

bragelonne
質問者

お礼

 いやぁ じつに言いたいところを 簡潔にこれ以上やさしくは語れないと思えるほど しかも全体として――つまり その対話が まだ入口であり前書きでしかないゆえ 本論へとどう展開されて行くかをも含めて全体として―― 明らかにしてもらっています。  ご回答をありがとうございます。  いや もう言うことなしです。  じっさい 本編はそうなるはずです。  ★ ~~~~~~~~~~~  第一章 ニルヴァーナとは?  第二章 安らぎを得る方法 たった3分で安らぎを!  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《執着・離れる・やすらぎ》の鍵語は 明らかにされたわけですから あとは どうすればよいか(第二章)とそしてそうすれば どういう状態になるのか(第一章)が説明されれば 完結です。  すでにほかのところで取り上げましたが 《執着→離れる→離れようとすることへの執着→離れる→・・・》という堂々めぐりの問題もあります。つまり 《執着を離れる》と意識した途端にその意識から離れなければならない。という意志行為を始めた途端に それ自体からも離れなければならない。・・・・という問題です。  ですから このドータカの質問としてまとめられたひとくだりは 序論であって まだ本論には入っていない。と言わねばならないはずです。  ★ このため、[哲学的]知性は感ぜられない。  ☆ と質問者も思います。ありがとうございました。

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その他の回答 (32)

回答No.33

すこし付け足し。 仏教を少しでも齧ったことのある人間が、 《唯仏与仏》 という魔法のワードを耳にすると、 「なるほど」 となってしまうんですわ。 これが刷り込まれているというか、何かわかったような気になってしまう。 私のような(オシエについて)疑い深い人間でも、 「《唯仏与仏》ね~。言葉では説明できませんし、そうかも知れませんね~」 となってしまう。 巧妙な魔術師の作る《幻・maya・マーヤ》にも似た《ことば》なんですよ。 まっ、私の場合、 「で、お前はその仏なんか?」 と続くのですが(笑い)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 《唯仏与仏》  ☆ とも違った立ち位置からものを言っているとも読めるんです。すなわち:  ◆ 私自身は体現などしてはいませんがイメージとして理解できますのでわかるのですね。  まぁ こういうものなんですかねぇ 世の中は。理屈はなんとでもつけられるっていう。  哲学の泣き所?    いや 分かりません。まだまだ これからです。

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回答No.32

例の《ゴーダマ・マジック》ですよ。 禅の坊さんとかが、 何だかわからない、奇妙奇天烈なことをおっしゃって、 相手を混乱させる、煙にまく・・・。 そして最後は《唯仏与仏》で結ぶ。 なら、最初から語るな!! 実は、  語る→騙(かた)る か? 「いまだそのサトリは《相対(相待)の世界》にある」と言えばいいのに・・・。 そうすれば、「《絶対(絶待)とは何か?」という建設的で踏み込んだ議論ができる。

bragelonne
質問者

お礼

 そうなんですけれど。・・・  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  つまり もうすでに長年の――ただし このところ空白の関係だったのですが――経過があります。  それを思うと 自分の不甲斐なさも手伝って 何だかかたちのない怒りが起こります。  とにもかくにも 一刻も早く  ◇ 建設的で踏み込んだ議論ができる。  ☆ ようにと祈りつつ 願います。  ありがとうございます。

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noname#195588
noname#195588
回答No.31

これまた紛らわしいですが 中山元の訳で。村ではなくて山です。 カントです。 とりあえず、カントの引用は引用で。 今日は誤字が多くてなんですが。

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回答No.30

ちょいとお邪魔します。 『老子』の本文中に、《虚無》という言葉は一度も使われていません。 ですから、中村元の話は??? 善については、 ──────────── 第八章 上善は水のごとし。水は万物を善く利し、しかも争わず。衆人の悪(にく)むところにおる。ゆえに、道にちかし。・・・ ──────────── 『老子』においてもっとも重要なタームは《道・tao》です。 ☆▼ 虚無とは、主観神性の深遠に呑みこまれ、人格を滅却することによって、この深淵において神性とひとつになったと感じる意識である。 ◇第一章に 「無心無欲にしてもってその妙を観る・・・」 とあるので、そう解釈できないこともないのでしょうが、 《虚無》は意識ではない。 そのような意識の状態を《虚無》というのならば、わからないこともないのですが、 『老子』本文中で《虚無》という言葉が使われていないのですから、これは拡大解釈でしょうね。 としゃしゃり出て、すぐに逃げる!!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ひとりごとです。    もうちょっとでカントにだまされるとこだった。  カントって意外と――東洋の思想については でしょうか―― うっかりがあるんですね。  老子≒虚無。これに騙されるとこだった。  そう  ◇ 《虚無》は意識ではない。  ☆ 《意識》って言っているところから ダメ。あたまの中の観念にとどまる。  ありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 話はちがいますが えむえむけいわいさんの議論を見ましたか?  これは じんるいの連帯責任ではないのでしょうか?  逝かれポンチ状態。  そして ぼーずの責任も重い。

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noname#195588
noname#195588
回答No.29

さすがにスルーでかまいません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 誤:主観神性の深淵に呑み込まれ、 正:主観が神性の深淵に呑み込まれ、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これで大丈夫なはずです。 今日は疲れているのだろう。 連続投稿すみませんでした。

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noname#195588
noname#195588
回答No.28

また誤字・脱字です。 誤: 主観神性の深遠に呑みこまれ 正: 主観が神性の深遠に呑みこまれ ついでに、ヘーゲルを読んだことがないので、なにもいえませんが 「理性的なものが現実的であり、現実的なものが理性的なものである」 カントが理性を批判をしているのに、理性的なものが現実的なのだろうか。 哲学史の勉強がしたいところです。 そうしないと、ニーチェを信じているとかいってくる セルフなんとかさんに、また読んだこともないくせにと言われてしまうか。 彼の好きそうなニヒリズム全開の話になっているが、元気にしているかねえ。 またやってこられても私は困るけれど。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▼ 「理性的なものが現実的であり、現実的なものが理性的なものである」  ☆ 《自由》は・そして われの自由となんぢの自由とがひとしいという《平等》は 理性的なものであり 歴史を見れば・またおおむね個人の歴史を見れば やがて 現実的なものであると成る。  現実的なものは 理性的なものなのである。

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noname#195588
noname#195588
回答No.27

誤字ありました。紛らわしいので訂正です。 誤:ここの文章が出てくるのは、老子ですけれど 正:ここの文章に出てくるのは、老子ですけれど

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどりくん えむえむけいわいさんの議論を見たか?  多少の慈悲を持ち合わせていたなら 何とかするのが 人間ってものぢゃないのかい?  先にこちらへ応答しました。ご回答をありがとうございます。

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noname#195588
noname#195588
回答No.26

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 万物の終焉の三つの概念 人間の認識能力との関係において、万物の終焉という概念は三つに分類することができよう。 中略 二 神秘的な、すなわち超自然的な万物の終焉。これは終焉させる原因にかかわるものである。人間はこの終焉の原因については、 まったく理解することができないのである。 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 カント 中山元 訳 光文社古典新訳文庫 124ページ 神秘的な終焉の概念 こうして瞑想的な人間は神秘主義に陥るのである(理性は内在的な使用、すなわち実践的な使用に満足せずに、超越的な使用に走りたがる。それが理性の秘密である)。 この場合には理性は、みずからの本性についても、みずから意図することについても理解することがないので、感性的な世界に住みながら叡智の世界にも属する人間は、 この世界にとどまるべきであるにもかかわらず、その限界を超えて妄想するのである。 虚無を最高善とみなす老子の奇怪な体系はこうして生まれたのである。虚無とは、主観神性の深遠に呑みこまれ、人格を滅却することによって、この深淵において神性と ひとつになったと感じる意識である。 このような状態に入ろうとして、中国の哲人たちは暗い部屋に閉じこもり、眼を閉じて、その虚無なるものを思考し、感得しようとするのである。ここから汎神論(チベットやその他の民族の汎神論)と、汎神論を形而上学的に崇高なものとすることによって形成されたスピノザの哲学が生まれたのである。 どちらの理論も、人間の霊魂は神性から生まれたものであり、最終的には神性のうちに吸収されるという古代から伝えられた流出論に近いものである。 このような思想は、人間が最後に訪れる永遠の静寂を享受できるようになることを目指したものであり、これが彼らの考える万物の聖なる終焉なのである。 これは同時に、知性が消滅し、すべての思考そのものも終焉するという概念なのである。 130ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 放っておかれているので、 まあ、反応が無くてもいいのですが ここの文章が出てくるのは、老子ですけれど、 いわゆるニルヴァーナともいえるでしょうね。 たんに死ぬのではなくて、 消滅を望む。虚無を望むのですから。 ブラジュロンヌさんが、スッタニパータを知性が感じられないと評するのは、 知性や思考も消滅するからということになるかもですね。 虚無を最高善とするというのは、 悪は存在しないという思想と対立するでしょうし、 だからエクソシストのほうに投稿しようかと思ったけど、 ニルヴァーナのほうにしようかと。 しかし、なんというか汎神論の結果として虚無が出てくるなら ニルヴァーナというのはアニミズムの結論みたいなものなのだろうか。 火を吹き消す。 火はアグニのことだとすれば、思いっきりヴェーダを批判していると思っていたのに、 火はやがて消えて終わりということだろうか。 とりあえず、神秘主義者は虚無だとよくいいますよ、ということを引用文で示しておかないと マーヤーとか、世界は幻影とかいっても、なんのことだとなるので面倒ですか引用しておきました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▼ この場合には理性は、みずからの本性についても、みずから意図することについても理解することがない  ☆ この《この場合》というのは   ▼ 瞑想的な人間は神秘主義に陥るのである(理性は内在的な使用、すなわち実践的な使用に満足せずに、超越的な使用に走りたがる。それが理性の秘密である)。  ☆ という場合に限定して言っているのかなぁ。そうだろうなぁ。  つまり 理性がみづからの本性について みづからが意図することについては 理解しているはずだから。  あるいはつまり 意志は 何を意志しているか 何を実行しようとしているか これについて知っているから。  ▼ 感性的な世界に住みながら叡智の世界にも属する人間は、 / この世界にとどまるべきであるにもかかわらず、その限界を超えて妄想するのである。  ☆ ここが おかしい。そういうおかしい場合もあるけれど それは放っておけばよい。  そうではなく ちょうどヘーゲルが言うように《無限なものと有限のものとの矛盾 この矛盾に対してみづからの存在を――生きることを――持ちこたえることが出来るのが 人格ないしおのれの〈固有のとき〉の高さである》と カントに言ってやればよいのではないか。  ナーガールジュナも言うように 決していま・ここから――真理をといもとめる場合にも・真理を問い求める場合にこそ―― 離れていかない。  なぜなら 非経験の場は わが心なる非思考の庭に受け容れられてあたかも動態となるというかのように いま・ここなるわれをつらぬいて けっきょく世界大にひろがっているのだから 何もそのナゾをこちらから迎えに行く必要がないわけです。  ▼ この世界にとどまるべきであるにもかかわらず  ☆ とまでは言っているのだから 批判するのはおかしい?   ぢゃあ 《妄想》の問題などは 捨てなさい。  ▼ 虚無を最高善とみなす老子の奇怪な体系はこうして生まれたのである。  ☆ だから 捨てなさいって言ったぢゃん。理性のとどく範囲で おのれの脳の小宇宙の境界にまでたどりついたからと言って どうしてそれが《最高善》になるのだ? そうなると言うのなら 《奇怪な体系》になるけれど 老子は ほんとうにそう言ったのか?  ▼ 虚無とは、主観神性の深遠に呑みこまれ、人格を滅却することによって、この深淵において神性とひとつになったと感じる意識である。  ☆ こんなことは どうでもよろしい。ただの観念のおあそび。  ▼ ここから汎神論(チベットやその他の民族の汎神論)と、汎神論を形而上学的に崇高なものとすることによって形成されたスピノザの哲学が生まれたのである。  ☆ へええ そうかい。スピノザ 泣くんぢゃないの?  ▼ どちらの理論も、人間の霊魂は神性から生まれたものであり、最終的には神性のうちに吸収されるという古代から伝えられた流出論に近いものである。  ☆ こんなことを観念による推理で言っちゃってしまっても どうってことはない。あたまの体操にすらなるかどうか。《神性》をまづ定義しなくっちゃ。――あっ 定義していますか。それは 失礼しました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いわゆるニルヴァーナともいえるでしょうね。  たんに死ぬのではなくて、  消滅を望む。虚無を望むのですから。    ブラジュロンヌさんが、スッタニパータを知性が感じられないと評するのは、  知性や思考も消滅するからということになるかもですね。  虚無を最高善とするというのは、  悪は存在しないという思想と対立するでしょうし、  だからエクソシストのほうに投稿しようかと思ったけど、  ニルヴァーナのほうにしようかと。  しかし、なんというか汎神論の結果として虚無が出てくるなら  ニルヴァーナというのはアニミズムの結論みたいなものなのだろうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。ツッコミが成功したかに見えたけれど ダメだと思います。  いちばんの問題は  ★ 虚無を最高善とする  ☆ というところでしょうね。これは なるほど一見すると  ★ 悪は存在しないという思想と対立するでしょう   ☆ というふうに見えるけれども そうはならないですね。  問題は 《虚無を最高善とする》のが 人間だからです。人間の知解力や意志による経験行為でしかないからです。  人間の思惟にあってボヌム・スンムムというのは ただの観念です。想像力のなせるわざであり その産物としての観念です。これを超えていません。  至高善は 想定によらなければ 定義したことにはならないでしょう。人間がそのチカラによって規定しても 何にもならない。  ゆえに  ★ 悪は存在しないという思想と対立する  ☆ ことは けっきょくあり得ない。  もしそのように人間の持てる理性一般のチカラによる規定でしかないとすれば  ★ しかし、なんというか汎神論の結果として虚無が出てくるなら / ニルヴァーナというのはアニミズムの結論みたいなものなのだろうか。  ☆ というひとつの結論にたどりつくと言っても おかしくはないでしょう。つまりそのときというのは ヨーガなどによるからだの修行をもふくめて 《人間のチカラによる知解と規定》という範囲にとどまる。    だから ここでわづかに逃げ道が用意されているとも言えます。秘義・奥義ないしそれを実践する秘儀としてのサクラメント これが 逃れ道です。《人間の理性を超えた場にたどりついている。ただし もうそれを言葉では表わしえない》という桃源郷なる《長征》の旅に出るっていう寸法です。いってらっしゃあーい。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.25

>ということであれば つかぬことをうかがいますが そのニルワーナなる心のでしょうか あるいは 身心ともなる人間存在のでしょうか の状態とは いったい何であるか? どういうことなのか? をみなさんに何とか言葉で伝えようというお心つもりはないですか ○そうですね。涅槃寂静の境地の体現を目指して、皆努力したのですね。例えば、空海はその名前の由来のとおり、瞑想中に金星が口に入るほど巨大になり、その時、自身が体験した空と海を見て空海と名乗ったのですね。道元禅師も同じようなことを言っていますね。スッタニパータ的に言えば,仙人か尊者ですね。でもね、この悟りも釈尊の涅槃寂静の境地から比べれば低いですね。何故なら空と海、つまり、上と下と中央であるご自身がいまだ存在しているからですね。これをも離れるということは、宇宙ボールぐらいにならないといけませんね。釈尊の涅槃寂静の境地は、それぐらいのことなんですよ。私自身は体現などしてはいませんがイメージとして理解できますのでわかるのですね。内と外の逆転がイメージできればということですね。例えば、体育館の中に立っているあなたが、体育館はこのようなものだと感じることから離れて、体育館になればどのようにあなたが見えるかを感じることが出来るかということですね。釈尊の教えは非常に高度な哲学なんですね。内と外、二重否定など哲学としても高度過ぎるのかもしれません。でも、2500年前でもそれを理解した者はいたということは現代よりはるかに進んでいたんじゃないでしょうか。 それから、四苦「生老病死」の生は生きる苦しみと捉えているものが多いですけど、生きる中に四苦があるのですから、同じことを2度繰り返すような哲学者はいませんね。へっぽこな者なら季語を2度使ったりしますけどね。この「生」は「生まれる苦しみ」のことですね。十月十日も暗い腹の中にいるのですから恐怖ですね。だから、生まれた時に「おぎゃ」と泣くのですね。 要は、釈尊の教えを読むときは、あらゆる自身の束縛を解いて、釈尊の教えが正しいとして、それを自身がどのように捉えれば、同じ結論に至るかを考えるしかないのです。それ以外の答えは意味のないものにしかならないということなのです。それゆえ、知識に基づく解釈は道を外すのですね。 追伸まで

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 宇宙ボールぐらいにならないといけませんね。釈尊の涅槃寂静の境地は、それぐらいのことなんですよ。  ☆ えっ? そんな程度なんですか。おどろいたなぁ。ちっちゃい。ちっちゃい。だって親鸞は 無限ですよ。無限。     この経験世界を超えているという意味です。《非経験の場》。  《宇宙ぼーる》ぐらいで 何か言ったことになるのですか? ひゃあぁ こりゃぁおったまげた。道理でくだらんことばっかり言っているのですね。これは 納得。  ★ 私自身は体現などしてはいませんがイメージとして理解できますのでわかるのですね。  ☆ なあんだ。わたしは 体験していますし 体現していますよ。道理で 話が合わないわけだ。なっとく。  ★ 内と外の逆転がイメージできればということですね。  ☆ だから 低い。浅い。  非経験の場は 内と外とを超えているのです。よって 遍在です。あったりまえぢゃないですか。こんないろはのイすらを知らないのですね。あぁ 《イメージできる》だけってことなんですね。それぢゃ 無理でしょうね。  ★ 釈尊の教えは非常に高度な哲学なんですね。  ☆ これは ペテン師の常套文句ですね。中身がないから 輪郭だけを立派そうに言うわけです。  《高度な》わけないから 高度だというわけです。  わたしを見てください。バカ丸出しで こうやって 誰にも対等に自由に話をしています。相当高度な知恵の持ち主だからです。自由自在 臨機応変。なんでもごされ。ペテン師に見えるほどの言い回しで言うのが 高度なところ。  好対照ですね。    ★ この「生」は「生まれる苦しみ」のことですね。  ☆ あいた口がふさがらないというのは このことですね。、めちゃくちゃああああああああ!  もう説明をするのも 力が入りません。どこか参考文献で確認してください。  ★ 十月十日も暗い腹の中にいるのですから恐怖ですね。だから、生まれた時に「おぎゃ」と泣くのですね。  ☆ 笑う気力も出ません。    ★ 要は、釈尊の教えを読むときは、あらゆる自身の束縛を解いて、釈尊の教えが正しいとして、それを自身がどのように捉えれば、同じ結論に至るかを考えるしかないのです。それ以外の答えは意味のないものにしかならないということなのです。それゆえ、知識に基づく解釈は道を外すのですね。  ☆ まぁ 素人だからということで ゆるされるんでしょうね。わるいことは言いません。外へ出かけて よそへ言って いまのようなことは言わないほうが いいですよ。お笑い種になってしまいます。二千年のあざわらいの種になってしまう。  老婆心ながら。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.24

○ドータカ尊者は、釈尊に、生きながら自身で涅槃を体現したいので、涅槃の境地を問うたわけですね。 釈尊は、自身が涅槃を体験したので、それを話したわけですね。 それが、 1068 師は答えた、  「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。 ですが、この簡単な答えでドータカ尊者は涅槃への道に気づいたのですから並みの尊者じゃないですね。読んでも何やら理解できないのは当然のことですね。 生きて涅槃に入るわけですから執着を完全になくさないように、「妄執をいだくな」と言っていますね。執着を完全になくすと「死体」になって死んで涅槃に入ってしまいますので、妄執はだめだが、生きる執着までは否定していないですね。 「上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、」この部分はむつかしいですね。ここが涅槃の境地の味噌の部分ですね。 さて、ドータカ尊者も仙人とも呼ばれる程の修行をされたお方ですから、即座に「上と下と横と中央」の意味を理解されたのでしょう。これ十字架の形をしているのですね。この十字架の意味は時間と空間の交わるところの自分を表しているんですよ。空間というのは悟りの上下、時間というのは過去・現在・未来のことですね。つまり、仙人が目指す全てのもの、知識は執着の対象であり、それを超えたところに涅槃の静寂があるといっているのですね。 この問答はそれだけのことなのです。それ以上でも以下でもありませんね。 なぜなら、その涅槃に到達した者は釈尊しかいないからですね。 しかし、修行者に対して究極の目標として涅槃寂静とは何かを後世に残したわけですね。 それだけのことかと。普通人には読むだけ無駄なのかもしれませんね。参考までに

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ゴータマ弁護ないしスッタニパータ擁護のご回答内容です。  いくつか疑問があります。  1.  ★ この簡単な答えでドータカ尊者は涅槃への道に気づいたのですから並みの尊者じゃないですね。読んでも何やら理解できないのは当然のことですね。  ☆ ということは このスッタニパータの編集者は 知らないということでしょうか? ドータカさんがさとりをどのように得たのか またその内容は何かについて 知らない。けれど 伝えられたままいわば実況中継をおこなった。  ――こういう理解をするのが 読者一般であるということでしょうか?  2.  分かる人は分かる。分からない者は 分からない。ということですね。  つまり ゴータマ氏もドータカ氏も ほかの人たちに――たとえ分からなくても――さとりの中身を言葉で伝えるという手間暇はかけなかった。そうはしなかった。  けれども たとえただちに分からなくても言葉で表わしておいてくれたら あとで分かるようになる場合もあります。でも そういう親切心は起こさなかった。ということでよいでしょうか?  3.   ★ 妄執はだめだが、生きる執着までは否定していないですね。  ☆ だとしますと 例の四苦つまりその内の《生なる苦》については 解せなくなります。なんで生が苦であると言ったのか?  《生きる執着》こそが 生が苦であることの原因であり けっきょくそれが無明≒煩悩≒渇愛であると説いたのではなかったのですか? まさか二枚舌ではないと思うのですが。  4.  ★ ドータカ尊者も仙人とも呼ばれる程の修行をされたお方ですから  ☆ この章で質問をしているのは マナワと呼ばれるおそらくバラモンたちです。中には ピンギヤさんは老人であるようですが けれどもマナワという言葉は 若い青年を意味するようです。ドータカさんも ゴータマの噂を聞いて初めてやって来たということですから まだ若い人であったと推測されるのですが どうでしょう?  5.  ★ 即座に「上と下と横と中央」の意味を理解されたのでしょう。これ十字架の形をしているのですね。この十字架の意味は時間と空間の交わるところの自分を表しているんですよ。  ☆ そうは なかなか考えられないのではないでしょうか。  要するに世界のすべてのものごとというくらいの意味ではないのですか? あらゆる事象というほどの意味なのでは?  6.  ★ つまり、仙人が目指す全てのもの、知識は執着の対象であり、それを超えたところに涅槃の静寂があるといっているのですね。  ☆ いいえ。たとえば ナーガールジュナによれば 《真理》は この世のもろもろの事柄・ささいな物事を離れてはあり得ないという意味のことを言っています。煩悩即菩提です。娑婆即常寂光土です。即身成仏 即得往生です。なぜなら 一切衆生にブッダターがやどるゆえ。  《執着》がどうのこうのと言いだすことがマチガイなのです。ゴータマの欠陥です。明らかな事実です。    7.  ★ この問答はそれだけのことなのです。それ以上でも以下でもありませんね。 / なぜなら、その涅槃に到達した者は釈尊しかいないからですね。  ☆ ぢゃあ そう言うえむえむけいわいさんは そのゴータマの程度のニルワーナには到達しておられるわけですね。唯仏与仏とも言いますから そうでなければ理解することが出来ないと考えられます。  ということであれば つかぬことをうかがいますが そのニルワーナなる心のでしょうか あるいは 身心ともなる人間存在のでしょうか の状態とは いったい何であるか? どういうことなのか? をみなさんに何とか言葉で伝えようというお心つもりはないですか?  思うに ブッダなる境地にあれば 相手が理解できないとしても 先ほども言いましたがあとになってその言葉による説明があれば 何度もそれを読んで 何とか知ることが出来るようになるかも知れません。そういう意味で 成道の中身を 公開・公表するというお考えはありませんか?  8.  ★ しかし、修行者に対して究極の目標として涅槃寂静とは何かを後世に残したわけですね。 / それだけのことかと。普通人には読むだけ無駄なのかもしれませんね。参考までに  ☆ あぁ。やっぱし 尋常でない人たちも こちらがお尋ねするだけ無駄だったようです。

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     スッタニパータの一節から 次のゴータマ氏の受け答えではまづい。と異議をとなえます。  ▲ (スッタニパータ:<7、学生ウバシーヴァの質問>) ~~~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1069  ウバシーヴァさんがたずねた、   「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」  1070  師(ブッダ)は言われた、   「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」  1071  ウバシーヴァさんがいった、   「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」  1072  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」  1073   「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」  1074  師が答えた、   「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」  1075   「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」  1076  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1)  《論議》は――哲学としてならば――続きます。一般にボディサトワなる者は つねに衆生に説明を成す義務があります。(説教というよりはです)。  (2) 問題は 《ニルワーナ(火が滅びてしまっている状態)――法身? 報身?――》と応身(生身のからだ)とが 人間存在として両立・共存することにあるはずです。人はみなブッダであるなら。この上なくとうとい知恵のさとりを得たというのなら。  (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。  (4) じじつゴータマは その生身のからだで いまこのことを語っているではないか? それを説明しないのは ペテンである。すでに成道を終えたと言ったあとに このザマでは インチキである。  これを問います。

  • スッタニパータのゴータマ批判

     コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

  • ブッダの性愛観は 間違っていませんか?

      ひとまとまりとなった次の発言をめぐって問います。  ▲ (スッタニパータ§§814-823) ~~~~~~~~~~~~  814  長老ティッサ・メッテーヤがいった、   ──きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの    教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。  815  師(ブッダ)は答えた、   ――メッテーヤよ、性の交わりに耽る者は教えを失い、邪まである。    これはかれのうちにある卑しいことがらである。  816  かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、    車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを卑しい凡夫    と呼ぶ。  817  かってかれのもっていた名誉と名声とはすべて失われる。このこと    を見て、性の交わりを断つことを学べ。  818  かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、貧困者のように考えこむ。    このような人は、他人のとどろく名声を聞いて恥ぢいってしまう。  819  そうして他人に詰(なじ)られたときには刃(悪行)をつくり、    虚言に陥る。これがかれの大きな難所である。  820  独身をまもっていたときには一般に智者と認められていた人が、    ついで性の交わりに耽ったために、愚者のように悩まされている。  821  聖者はこの世で前後にこの患難のあることを知り、堅く独身をま    もり、性の交わりに耽ってはならない。  822  (俗事から)離れることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のこ    とがらである。(しかし)これだけで自分が最上の者だと考えてはなら    ない。かれは安らぎに近づいているだけなのである。  823  聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて行い、流れを    渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛された生ける者どもはかれ    を羨むのである。  と。  (中村元訳:ブッダのことば――スッタニパータ―― 第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテーヤ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  疑問点です。  1. 説くべき理論は 一般の人間関係についてであり 両性のニ角関係については その特定の対(つい)関係に入るときの対話(口説き)のあり方までである。  つまりその中身をまづ別にしてそれでも 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか?  2. 断り書きです。ブッダの性愛観はその中身も間違っているように考えます。ただしそれは (1)の考えによれば 無記とすることが正解だと見ます。  つまり 回答の中で触れてもらってもかまいませんが そしてそれなりに応答するつもりでいますが そこに焦点を当てようとは思っていません。

  • スッタニパータ340に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 340 戒律の規定を奉じて、五つの感覚を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。 「切に世を厭い嫌う者となれ。」の真意の解説を希望します。ブッダの思想に通じている方の教説を希望します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータの第一人者

    ご存命の方で、スッタニパータの第一人者っていますか?

  • スッタニパータ788、789の読み方は?

    中村 元訳「ブッダのことば」 788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。 789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。 790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。 此処で言う「見解」に対して、巻末に[註]があります。 ・諸々の英訳者は、viewと訳している。 ・ 諸宗教や哲学の「教義」を意味する。 さて、質問です。 質問1 788に該当する人をブッダは肯定しているのですか、否定しているのですか。ブッダが「見解」をどう評価しているのかが分かりません。 読解力のせいか、翻訳上の苦渋が原因で多少は表現に無理があるのか、私には790まで一連の文言が矛盾せず、かつ国語の上から不自然ではない解釈が思い浮かびません。肯定している場合は790と整合しないし、否定している場合は789が誤りとまでは言いませんが手を入れたくなる程度に不自然な文章だと感じてしまいます。 質問2 念のためにお訊きします。789の「人は智識によって苦しみを捨て得る」をブッダは肯定していますか、否定していますか。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ805に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。 これは誰に対する説教とも書いてありません。「在家にとどまっていてはならない。」、これは誰への呼びかけですか。四章六節「老い」の一部ですから、家督を子息に譲った後の隠居への呼び掛けかも知れません。しかし、ここばかりでなくスッタニパータ全体に流れる雰囲気から判断して、釈尊は年齢に関わらず出家に勝る修行はないと説いているとみてよいのだと思います。 しかし、これはねずみ講と同じ構造ですから、こんな矛盾した教説はありません。出家者が増えれば功徳を積む側の人間がいなくなってしまい乞食が成立しなくなり破綻してしまいます。こういう無茶な理論は必ず改良される筈です。ブッダの教えと大乗仏教との間に、在家のまま自らの修行によって解脱を計る道を説いた人なり教典があってよさそうに思いますが実際はどうなのでしょうか。ブッダの後は一気に大乗仏教に飛んでしまうのですか。門外漢の直感としては中間的な教説があると推測します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ235に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は本来の生存に執著することなく、種子をほろぼし、それが成長することを欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が〈つどい〉のうちに存する。この真理によって幸せであれ。 今日では結婚しても自らの意思によって子を成さない男女も、非婚の男女も珍しくないでしょう。私の観るところ、これらの男女はスッタニパータ235でいう賢者の条件の一つを満たしていると判断します。さて、この判断はブッダの考えに適っていますか。何処かに考え違いがありますか。ブッダの思想に通じている方の説教を希望します。 よろしくお願いします。

  • 『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図

     よろしくお願いします。  久しぶりに『スッタニパータ』が読みたくなって、岩波版の中村元師訳や、その他の方の訳や解説をいろいろ読んでいて思ったのですが、『スッタニパータ』五章のとくに「序」と「結語」の扱いが悪い気がするんです。  例えば、羽矢辰夫師の『スッタニパータ さわやかに、生きる、死ぬ』においては、議論の中心はもう一つの最古層四章に集中していてますし、五章に関しては「四章を通して読んだ五章」のような印象を受けます。また、テラーワーダの立場からの学術的な翻訳として正田大観師の『世尊よ、あなたに尋ねます 波羅延経精読』においては「テキスト編集者」という言葉は出てきますが、「ちなみに、今回私たちが取り上げるテキストは、スッタニパータ第五章のすべてではなく、もともと存在したはずの波羅延経に該当すると見られる部分」とあって、「テキスト編集者」の意図が最も反映されているであろう「序」と「結語」は触れていません。  まぁ、理由としては、五章は『スッタニパータ』のなかでも最古層とされる部分ではありますが、「序」と「結語」の部分は『チュッラ・ニッデーサ』などの比較検討の研究において後代に付け加えられた部分といわれているからなんでしょう。  しかし、それでは正田師の言うところの「テキスト編集者」の意図は読み取れないように思います。「釈尊の直の言葉」を重要視することはもちろん大切なんですが、それを「伝えようとしてきた人たちの意図」も同じくらい大切だと私は考えます。  で、ここで質問なんですが『スッタニパータ』第五章の編纂者は、「序」と「結語」を通して、何を伝えたかったと思いますか? 私は「序」いわゆる問題提起と「結語」いわゆる結論を説け加えるということは二つの意図を想定できるのではないかと思います。 (1)内容の強調、もともとあった経文のどこかをより強調するため、そこに注意が向くようにうながすための (2)新しい視点の提起、従来の読み方ではなく、新しい視点から五章を読むため いまは、こんなことを考えています。 どうぞ、皆様のご意見を教えてください。また、『スッタニパータ』五章の内容の研究において、「序」や「結語」に注目をした研究や、編纂者の意図を考察する研究等々があったら教えてください。

  • この世でたった1人の女の子について

    こんな相談をするのは初めてなのですが 最後まで読んでいただければうれしいです。 ぼくは中学校の頃に一目惚れした 女の子がいました。 しかし当時のぼくは集団嫌がらせを受けたり 友達が本当に一人もいない環境で (後に思春期うつ病を発症します)大変でした。 なのでその子に話しかけることすら できませんでした。 そして高校になって別の高校へ行き、 もう会ったり話したりはできなくなりました。 ですが、今思っても当時とはかわらず もうこの世ではその女の子にしか 恋愛感情をもてないというぐらい 強い執着心があります。 万人が可愛いとはいわない顔だとは思いますが ぼくはその女の子の顔が完璧にタイプで 声も体も才能も全てぼくの理想通りなのです。 再度いいますが、もうこの世には その子しか恋愛感情をもてない 気がするのです。 中学校の卒業アルバムで その子の声や笑顔が蘇ってきます。 なんだかこの文章を書いていて 自分が「気持ち悪い存在」なのでは・・・! と、少し不安になってきました。 こんなぼくはこれから どうすればいいのでしょうか。 なにかアドバイスでもあれば 是非お願いします。 ここまで読んでいただき ありがとうございました。