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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章)

スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章

このQ&Aのポイント
  • ドータカさんが仙人に質問し、仙人が答える対話が描かれています。
  • 仙人は賢明であり、自己の安らぎを学ぶようにとアドバイスします。
  • また、仙人は疑惑から解放されるようにドータカを導くと説明します。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.17

 こんばんは nyanko編 (スッタニパータ改)  「センセーイ、センセーイ! このことをわたくしに教えてくださ~い。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びま~す。」  釈尊「この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。そなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」  「センセーイ わたしはその最上の安らぎを受けて歓喜しま~す。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えま~す!」  釈尊「上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」  そこで、いきなり結論なのですが、 > このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか?  いわゆる「自己啓発」本の”まえがき(序章)”ならば、よくできていると思います。  ですが、知りたいのは、本編かと思われます。 第一章 ニルヴァーナとは? 第二章 安らぎを得る方法 たった3分で安らぎを! ・ ・ ・  ですが、[スッタニパータにおいて]これらが具体的に示されていないところに問題があるのだと思います。  このため、[哲学的]知性は感ぜられない。これが小見でございます。  どうも失礼致しましたm(_ _)m

bragelonne
質問者

お礼

 いやぁ じつに言いたいところを 簡潔にこれ以上やさしくは語れないと思えるほど しかも全体として――つまり その対話が まだ入口であり前書きでしかないゆえ 本論へとどう展開されて行くかをも含めて全体として―― 明らかにしてもらっています。  ご回答をありがとうございます。  いや もう言うことなしです。  じっさい 本編はそうなるはずです。  ★ ~~~~~~~~~~~  第一章 ニルヴァーナとは?  第二章 安らぎを得る方法 たった3分で安らぎを!  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《執着・離れる・やすらぎ》の鍵語は 明らかにされたわけですから あとは どうすればよいか(第二章)とそしてそうすれば どういう状態になるのか(第一章)が説明されれば 完結です。  すでにほかのところで取り上げましたが 《執着→離れる→離れようとすることへの執着→離れる→・・・》という堂々めぐりの問題もあります。つまり 《執着を離れる》と意識した途端にその意識から離れなければならない。という意志行為を始めた途端に それ自体からも離れなければならない。・・・・という問題です。  ですから このドータカの質問としてまとめられたひとくだりは 序論であって まだ本論には入っていない。と言わねばならないはずです。  ★ このため、[哲学的]知性は感ぜられない。  ☆ と質問者も思います。ありがとうございました。

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その他の回答 (32)

  • kurinal
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回答No.23

>「ふつうの人間にとっては どうしても乗り越えることのむつかしいものとして説かれているということ。  ――ここに 批判の的があります。」 それは、 「愛する」ということが「技術」であって、 「誰でも簡単に出来る」というものではない、とした、 西洋人と、同じでは。 (・・・患者に「乗り越えろ!」と言いながら、 「酷だな」と医者自身が思っている。 そんなのもあるんです、ようです。)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「愛する」ということが「技術」であって、 / 「誰でも簡単に出来る」というものではない  ☆ 《技術》とは どういうことを言うのか?   あるいは 《「誰でも簡単に出来る」というものではない》という判断は おそらく《〈出来ない〉とは言っていない》のではないでしょうか?  というのは 一般に《神の愛・アガペー》さえもが 人間にとっての愛についても ときとして実現できないとは言い切っていないかたちで言われたりするからです。  それにくらべて ゴータマの《生は苦である》説や《煩悩からの解脱》説については その扱い方が違っている。と思われます。  ひとつに この《苦や煩悩からの解脱》は それを出来ない人びとがいる――すなわち 六道輪廻を繰り返すということ――と説かれます。  もうひとつに その解脱は おれ(=ゴータマ)の説くオシエによらなければ可能ではないという意味合いで説かれている。  つまり ここに批判の的があります。  ただし ゴータマのあと マハーヤーナ―を自称した《ブディスト》たちは 例の《ブッダター(仏性)》をあらたに説き これが一切衆生 悉有仏性と言って 《解脱》の推進力であると宣言しました。  ですから  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  (・・・患者に「乗り越えろ!」と言いながら、  「酷だな」と医者自身が思っている。  そんなのもあるんです、ようです。)  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というような事態については もう見方を変えています。  われわれ人間には ブッダに成るためのチカラとしてブッダターが誰もに生まれつきやどる。ゆえに そのブッダに成ることは それぞれの人間にまかせられている。いちいち《医者》がいて 面倒を見るかたちではない。(先輩が アドバイスをするのは 別でしょうが)。――こう説き直しました。  それなら 別です。批判は 別です。つまり ここでの批判は ゴータマその人の思想に対するものです。それに限ります。  狭い。中身がない。(中身が無いという点は 後世のマハーヤーナ―・ブディズムについても――親鸞をのぞいて――当てはまります)。

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  • kurinal
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回答No.22

「煩悩がある。」 それだけでも、多分偉大な、知性と思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ですから もし《苦》でも同じことですが この苦や煩悩が ふつうの人間にとっては どうしても乗り越えることのむつかしいものとして説かれているということ。  ――ここに 批判の的があります。  そういうふうにほとんど絶対的なほど強い煩悩があるというのなら こんどは それは知性がない。あるいは 知性がゆがんでいるのではないか。という物言いです。

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  • kurinal
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回答No.21

煩悩は、あるでしょ

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  1. 初めに煩悩ありきというとき それが 人間はほとんど克服するのがむつかしいというふうに説明すると思われます。煩悩も 相対的なものだと言って欲しい。  2. 煩悩から自由になるというとき 煩悩を消したというよりは まだ煩悩はあるのだけれど それに左右されないことを言っている。    つまり   ★ 煩悩は、あるでしょ  ☆ ええ。そのとおりです。

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  • kurinal
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回答No.20

>「そうですよ。同じことだとおもいますが。    なお何か気になるところがありますか?」 ちょっと、、、違う気がする、、、なあ(笑)。 「煩悩あり→煩悩から自由になる」 たぶん(笑)これは、真理を知らなくても、 さとりうんぬんでなくても、 可能なのではないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  「煩悩あり→煩悩から自由になる」  たぶん(笑)これは、真理を知らなくても、  さとりうんぬんでなくても、  可能なのではないですか。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから もともとは そういう意味のことを言おうとしているわけです。  ふつうに出来ること あるいは ふつうに人びとがしていること をわざわざ《理法》としてまたそのめざす状態をニルワーナとして オシエとしている。そんな必要はないではないかと。  また 《はじめに 煩悩ありき》ということを強調しすぎるのではないかと。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.19

こんにちは。 >「《真理を知る》なら 《煩悩から自由になる》。これが 当たり前です。《真理を知る》ということが さとりを得るということであり さとりを得たのなら 煩悩から解放されている。」 なるほど。 「煩悩あり」→「煩悩が無ければ、OK!」じゃ、なかったのかな。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。Kさま。ご回答をありがとうございます。  そうですよ。同じことだとおもいますが。    なお何か気になるところがありますか?

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.18

B様、こんにちは。 >「ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう」 この辺でしょうか。 あろいは、 >「伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ」 でしょうか。 ・・・それらは、「知性」を目的としたものだったのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・それらは、「知性」を目的としたものだったのでしょうか?  ☆ 《知性を目的としていない》ゆえ そこには《知性は感じられない》のは当たり前だというご見解でしょうか?  まぁ いづれにしましても 前者は 当たり前のことを述べています。  《真理を知る》なら 《煩悩から自由になる》。これが 当たり前です。《真理を知る》ということが さとりを得るということであり さとりを得たのなら 煩悩から解放されている。  後者は つねに言うことは《予告編》であるという問題です。《本編》がいつになっても 説かれない。どこまで行っても 序論が説かれるだけというありさまです。輪郭は明らかにされるけれども その中身はついぞ描かれません。  《最高の理法を説き明かそう。さすれば さとりを得るであろう》。――これの繰り返しのみです。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.16

追伸 実は私も、昔は周りの人全てが言うなれば善知識であると考えていた頃があり、それで幸せでした。おめでたい考えと言えばそれまでですが、案外それでいいのかもしれませんね。 ところで仏教には、衆生は病める菩薩であるという見方があります。 関係しているのかもしれません。 もちろんブラジェロンヌさん的には、病んでなど居ないとなるのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ そうですか。それでよい・それがよいとわたしは思いますが。  ★ ~~~~~~~~~~~  ところで仏教には、衆生は病める菩薩であるという見方があります。  関係しているのかもしれません。  もちろんブラジェロンヌさん的には、病んでなど居ないとなるのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いま世の中で病んでいる人びとの半分は 心理的に〔なのであるにもかかわらず 大きな重荷がのしかかってそういう圧力としての心理的に〕お休みを必要とするようなかたちであると思います。  言いかえると やがて世界のここかしこで踊りが展開されるとき その半分の人びとは ただちに直ると思います。《王の敵のこころで 国ひとは倒れる》がごとく踊り出すとき いろんな《どんでん返し》が現われるものと思っています。  ちなみに《地涌の菩薩》も湧き出てくるかも知れません。(法華経)。

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  • a_hona
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回答No.15

お礼ありがとうございます。 最初のボタンの掛け違い、つまり、生存は苦であるという見解にやはり批判が集中しているのだなと見受けました。 それはもっともなことだと私も思います。しかし、四門出遊の話もありますし、ブッダにとってはやはり生存は苦であったのでしょう。それに、我々も、どのような思想を持っていても病気になれば苦しいし、他の生き物をとって食べねばならないし、考え込めば考えこむほど、ただ、生存がやすらぎであると認識するのは難しいと思われます。 むしろ、ブラジュロンヌさんは、どのように考えて、生存の安楽を見ているのか知りたいです。共生の思想ですか?それとも非思考の庭でしょうか。 わたしは、一切皆空、一切皆無と見て安楽と見ているのですが。 また、神々との対話、サンユッタ・ニカーヤという経典にはこうもあります。 傍らに立って、その神は、尊師のもとで、次の詩句をとなえた。 「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。 青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。 死についてのこの恐ろしさに注視して、 安楽をもたらす善行をなせ」 〔尊師いわく、――〕 「時は過ぎ去り、〔昼〕夜は移り行く。 青春の美しさは、次第に〔われらを〕捨てて行く。 死についてのこの恐ろしさに注視して、 世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ」 世間の利欲を捨てて、静けさを目指せとあります。ブラジェロンヌさんのいう共生の思想などはおそらく意に介していないと考えられるのです。出家の道を選んだその事実は、大きなことだと思いますし、両者に横たわる思想の溝としては、深いものがあると思います。 あと、真理が全てにおいて全てである、の意味について、補足をいただけると助かります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ並行して問い求める道で 中村元の翻訳にけちがつけられましたので 少し見てみたいと思いました。  けっきょくところどころ活用や語どうしのつながりが分かりづらくて往生しましたが 推測を交えて分かった範囲では さほど問題はないと見ました。さらに精確を期すことができればよいと考えます。(つまり 添削等をお願いしておきます)。  ほんの少しだけです。   ▼ (Suttanipāta 5. Pārāyanavaggo)   http://epalitipitaka.appspot.com/canon/sutta/khuddaka/suttanip%C4%81ta/p%C4%81r%C4%81yanavaggo  ▼ 5. Pārāyanavaggo  ◆ 第5 彼岸にいたる道の章  ● 5. The Chapter on the Way to the Far Shore  5. Dhotaka-manava-puccha  <6、学生ドータカの質問>  Dhotaka's Questions  ▼ 1067. ~~~~~~~~~~~~~~~  ‘‘Pucchāmi taṃ bhagavā brūhi me taṃ, (iccāyasmā dhotako)  Vācābhikaṅkhāmi mahesi tuyhaṃ;  Tava sutvāna nigghosaṃ, sikkhe nibbānamattano’’.  ◆(中村元訳) 1061 ~~~~~~~~~~~~~~~~   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  ドーカン(ドータカ)さんがたずねた、  「先生! わたくしはあなたにおたずねします。  このことをわたくしに説いてください。  偉大な仙人さま。  わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。  あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」  ● (英訳)1067 ~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://epalitipitaka.appspot.com/canon/sutta/khuddaka/suttanip%C4%81ta/p%C4%81r%C4%81yanavaggo/en_US/%E1%B9%ACh%C4%81nissaro%20Bhikkhu  [Dhotaka:] I ask you, O Blessed One. Please tell me.  I hope for your words, Great Seer.  Having heard your pronouncement, I'll train for my own Unbinding.  ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  お尋ねします(Pucchāmi) それを(taṃ) とうとき方( bhagavā)  語れ( brūhi) われに( me ) それを(taṃ),  〔と( iti- )やって来(āya-)て(-smā)(⇒iccāyasmā) [述べた] ドータカは( dhotako)〕  ことば(Vācā- )で(-bhi-)願います(kaṅkhāmi) 大いなる(maha-)仙人( -isi )(⇒ mahesi) あなたに( tuyhaṃ);  あなたの(Tava) 聞い( su- )て(-tvāna) おうわさを( nigghosaṃ),  学びたい(sikkhe) ニルワーナを( nibbānam-) みづからの( -attano)’’  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▼ 1068. ~~~~~~~~~~~~~~~~  ‘‘Tenahātappaṃ karohi, (dhotakāti bhagavā) idheva nipako sato;  Ito sutvāna nigghosaṃ, sikkhe nibbānamattano’’.  ◆ 1062 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   師(ブッダ)が答えた、  「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、  よく気をつけて、熱心につとめよ。  この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」  ● 1068. ~~~~~~~~~~~~~~~~~  [The Buddha:] In that case, be ardent — astute & mindful right here.  Then, having heard my pronouncement, train for your own Unbinding.  ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しからば(Tena-hi-) 熱心さを(-ātappaṃ ) 成せ(karohi),  〔ドータカよ(dhotaka- )と(-iti) とうとき人は( bhagavā)[答えた〕〕  この世界に( idha- )〔あれ〕  ごとく( -iva )(⇒idheva) かしこい者(nipako)思いのゆきとどいた者( sato);  これより(Ito) 聞い( su- )て(-tvāna) うわさ(声)を( nigghosaṃ),  まなべ(sikkhe ) ニルワーナを(nibbānam) おのれの(attano)’’  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  補足欄にて お応えします。

bragelonne
質問者

補足

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  最初のボタンの掛け違い、つまり、生存は苦であるという見解にやはり批判が集中しているのだなと見受けました。  それはもっともなことだと私も思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづこの見解は それほどは揺らがないと思います。  ★ しかし、四門出遊の話もありますし、ブッダにとってはやはり生存は苦であったのでしょう。それに、我々も、どのような思想を持っていても病気になれば苦しいし、他の生き物をとって食べねばならないし、考え込めば考えこむほど、ただ、生存がやすらぎであると認識するのは難しいと思われます。  ☆ 問題は 老病死のほかに 生をも苦であると見なすのならば それでもよいとしたなら あくまで相対的な重さなのだとことわっておいてくれればよいわけです。  あたかも 生こそが 根本的な人間の欲であって これから人間は解放され得ないほどだというその重さを 強調しすぎである。でしょう。  それに さとりとなれば 何も苦からその消滅した楽へ移るのだというような見方をするよりも そうではなくやはり対立する二項に振りまわされることなく その場でナゾのアートマン電磁場としてのチカラに頼ってもよいはずだと見ます。  おそらくその結果は 苦を引き受けるという姿勢が現われるはずです。  苦を引き受けることが 生きることの糧である・パンであるといった行き方が出て来るはずです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  むしろ、ブラジュロンヌさんは、どのように考えて、生存の安楽を見ているのか知りたいです。共生の思想ですか? それとも非思考の庭でしょうか。  わたしは、一切皆空、一切皆無と見て安楽と見ているのですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おそらく苦楽を突き抜けるんでしょうね。できるはずです。もしアートマンが 電磁場のごとくはたらくならば。  ▼ 安楽をもたらす善行をなせ  ▼ 世間の利欲を捨てて、静けさをめざせ  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  世間の利欲を捨てて、静けさを目指せとあります。ブラジェロンヌさんのいう共生の思想などはおそらく意に介していないと考えられるのです。出家の道を選んだその事実は、大きなことだと思いますし、両者に横たわる思想の溝としては、深いものがあると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから 単純に論理的にこれにこたえるのならば 苦楽や善悪や利害関係やシガラミや何やかやを突き抜けるんでしょうね。在家ですから。  ★ あと、真理が全てにおいて全てである、の意味について、補足をいただけると助かります。  ☆ これは 聖書からのくだりです。  ▽ (コリント前書 15:26~28) ~~~~~~~  26: ・・・最後の敵として、死が滅ぼされます。  27: 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。   すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。  28: すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから勝手にわたしが 《真理がすべてにおいてすべてである状態》と言っています。    理論上から言えば    ・ 世界の因果関係を超えている。縁起の経験法則からも自由である。  ・ 世界のすべての因果関係について知っている。  ・ それは あたかも十字架上にはりつけになったキリスト・イエスが〔あたかも〕特異点であるかのごとく 世界史から自由な存在となった。  ・ この真理は きみたちを自由にする。と言われる。  と考えられるかたちです。実際にはわれわれには その時その場で必要な知恵と知解があたえられるものと考えます。  もしふるい話を持ち出して 仮りに迫害を受けるといった情況を考えるならば そのような切羽詰まった場合にも けっきょく何を成すか・何をその相手に告げるかなどなどについては 神の霊がヒラメキをつうじておしえてくれるはずです。必要なだけ知恵と知解能力が発揮されます。  たとえばこのように真理がハタラキを現わすときには いささか古臭く物騒な話を持ち出すなら:  ▽ (詩編 45:6) ~~~~~~~~~~  あなたの矢は鋭く、  王の敵のただ中に飛び  諸国の民はあなたの足もとに倒れる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ というような場面が まだ前史を生きることが残っているかぎりで 現われないとも限らない。  要するに まだなおワタシに立ち戻らない部分を残す場合には こういったふうにたぶん踊り出すのだと思われます。この踊りが見られるようになれば おもしろいと思います。  ちょっとまとまりのわるい恰好になったかも。ですが。

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回答No.14

おはようございます。 《三明》でもめているようですね。 というわけで、真宗さんのHPから説明を拝借。 ─────────  仏の持つ三種の智慧の力。神通力。愚痴の闇を破るから三明という。 (1) 宿住智証明(しゅくじゅうちしょうみょう)(宿命通)。衆生(しゅじょう)の過去世の相を明らかに知る智慧。 (2) 死生智証明(ししょうちしょうみょう)(天眼通)。未来の衆生の死生の相を明らかに知る智慧。 (3) 漏尽智証明(ろじんちしょうみょう)(漏尽通)。真理を明らかに証知して、漏(ろ)(煩悩(ぼんのう))を断滅する智慧。 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E6%98%8E ───────── わたしの知る三明の定義もこれとほぼ同様。 それで、これらの《超能力》はヨーガの副産物として得られる。 ───《ヨーガ》というのがポイント。つまり、ここまでなら、バラモン教さんのヨーガでも獲得できちゃうかも─── Wikipediaの六神通には、《四念処》によって獲得できる、と書いてある。 つまり、・・・・・・・。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E9%80%9A すこししゃしゃり出て、すぐに引っ込む。 ではでは。 六神通は http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%85%AD%E7%A5%9E%E9%80%9A がわかりやすいかと。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  さほど問題はないように見られます。  六神通の《漏尽通》の説明は やはりいただけませんね。  ▼ (ヰキダルマ:六神通) ~~~~~~~~     (6) 漏尽通(ろじんつう)。煩悩(ぼんのう)を滅尽させる智慧。  六通のうち前の五は凡夫(ぼんぶ)にも得られるが、第六の漏尽通は聖者(しょうじゃ)のみが得るといわれる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おそらく では聖者とは何か? という問いには 《漏尽通》を得た人という答えが返ってくるという寸法だと予想されます。  ◇ ヨーガ  ☆ は その運動じたい 問題ないのでしょうが 例の秘儀たるサクラメントとして用いられると その説明を求める者にとっては 困ると思います。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.13

因みに私の聴いた三種の明知とは次です。wikiでは頼りないので転載します。 【三種の明知】 覚りの境地に至った時、直ちに次の3つの智(三種の明知)を生じます。 (1) 漏尽通 自分が、間違いなく覚りの境地に至ったのだということを如実に知ることを漏尽通と言います。 それは例えば、自分が赤色が分かるようになったとき確かにすべての赤色が間違いなく分かることを如実に知るようなものです。 (2) 宿命通 自分にとっての善知識が誰であったのかを如実に知ることを宿命通と言います。 つまり、自分が覚りの境地に至る際に認知した「法の句」が、誰が放ったものであったかということについてはっきりと思いだし、その人とは確かな宿命(因縁)があったのだと後追いで知るのです。 (3) 天眼通 自分にとって、目を背けるべき対象がまったく無くなったことを実感することを天眼通と言います。 すなわち、人々(衆生)は、好き嫌いの想いがあるゆえにすべての対象物を公平・平等に見ることができずにいますが、覚りの境地に至った人は好き嫌いの想いが消滅するゆえに、すべてのものを公平・平等に、毛嫌いすることなく見つめることができるのです。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  あっ これは 《六神通》の中の三つですね。  ■ (1) 漏尽通: 自分が、間違いなく覚りの境地に至ったのだということを如実に知ることを漏尽通と言います。  ☆ ですから 批判のみをつづりますが もしそうなら《共生のために必要におうじて得られるところの・ブッダターのはたらきによるヒラメキをとおしての知恵と知解》が それだと言っています。さとりの一端として具体的に例示し得る事態です。  《如実に知った》その内容とは いったい何であるぞいな? と初めから問い返しつづけています。  堂々巡りであるということを 《さとりを得た》人が知らないのかい? と言ってやらねばなりません。  ということは 例のサクラメントの罠に落ち入る仕儀になります。  ■ (2) 宿命通: 自分にとっての善知識が誰であったのかを如実に知ることを宿命通と言います。  ☆ こういうことを言うのは 一見 納得がいくように見えて その考えは浅はかであると分かります。  きわめて重要な内容を言っているようなのですが それでも この見方は甘い。  すなわち ブッダターのやどる自然本性の持ち主たるわれわれは 人に対して分け隔てをしないのです。    言いかえると すべての人がわれにとって隣人であり もしそうだとすれば《善知識》であるとなります。  善知識であるとは思わなかったとしたら それは おのれの目が曇っていて見る目がなかっただけのことであるかも知れないからです。  われわれ人間は その時その場におうじてまた相手の状態に応じて必要なだけの知恵と知識とを――むろん 自分も努力して考え得ようとしているのですが それとともに・その努力をも超えて―― あたえられる。と捉えたほうが 自然である。  そういうひらかれた見方をなぜ出来ないのか? おのれの成道こそが 一番だという思い込みがわざわいの元なのではないか?  ■ (3) 天眼通: 自分にとって、目を背けるべき対象がまったく無くなったことを実感することを天眼通と言います。   ☆ ヰキぺでは   ・宿命通:自分の過去世(前世)を知る力。   ・天眼通:他人の過去世(前世)を知る力。  ですね。よく分かりませんが 情報が錯綜しているようです。こちらについては 《過去における精神の軌跡は知る必要があるときがある》けれど 《過去世(前世)を知る》などということはそのこと自体があり得ないと述べました。  いまのあたらしい説明では  ■ すなわち、人々(衆生)は、好き嫌いの想いがあるゆえにすべての対象物を公平・平等に見ることができずにいますが、覚りの境地に至った人は好き嫌いの想いが消滅するゆえに、すべてのものを公平・平等に、毛嫌いすることなく見つめることができるのです。  ☆ ということだそうです。  ひとつ修正しておいて差しあげましょう。  □ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしは 他人に対して好き嫌いがあります。感情を丸出しにして怒ることもあります。(恨みやねたみなどの感情は 起きて来たとき なぜそうなのかについて考え原因・理由を着きとめたあとは 放っておきます)。  ですが これらの感情に流されず その影響もほとんどないかたちで この人あの人の区別なく基本はその思想を相手として 自由に批評・批判しつつ 話し合いを持ちます。  むしろ批判すべきを批判するときには 怒りを感じるからこそ―― 一般的に言っても感性をつうじてこそ――おのれの思想をよく捉えこれを自己表現することが出来る。感情を抑えたり消したりしたら おのれの心の声は 聞こえなくなるというくらい 感性は大事であるはずなのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ■ すべてのものを公平・平等に、毛嫌いすることなく見つめることができるのです。  ☆ 何を寝ぼけたことを言っているか。  《毛嫌いすること》は 誰にでもあります。それに左右されなければよいはずです。  《すべてのものを公平・平等に みつめる》。いま【Q:自分と鉛筆が同じとはどういう意味ですか?】という質問が出ています。これは たぶん苫米地英人が言っていることで その中身はまさにこの《すべてのものを公平・平等に みつめる》ことらしいです。  《鉛筆》などモノは 極端であって別としたほうがよい。あとの有情というのか衆生というのかについては そうだという見方が一般だと思われますが それは ただの想像の世界における想念でありあるいは理念であるに過ぎない。  この経験世界にあっては ふたりがいるとすれば 必ず順序がありどちらかが先になる。そういう意味では 《公平・平等》は 機械的な数量的なものではダメなのだ。これも分かりきったことです。  ■ 覚りの境地に至った人は好き嫌いの想いが消滅するゆえに  ☆ だって! そんなことはありません。  ゴータマは最後の旅路で アーナンダに対してかれがゴータマ自身の思うような内容としては振る舞わなかったのことに対して 怒っています。あるいは うらんでいます。(長寿を生きられないとゴータマが言ったその言葉について いえいえ そうではなくさらに長生きをしてくださいとアーナンダが言うべきであったと悔やみつつ アーナンダへの恨み節をつぶやいたらしい)。  小学校の学芸会をやっているのではないのだから 哲学については もっと練りに練ってから 最終の結論を出すべきでしょう。  ■ 覚りの境地に至った人は好き嫌いの想いが消滅する  ☆ ことはありません。怒るときは正真正銘で怒るのです 人間は。(そのスサノヲ人間語にもとづき ただし 自己表現は アマテラス普遍語で語る。これが 黄金の方程式です)。  人びとは ゴータマもしくはブディズムがなくては 生きて行けない。のだろうか? あぁ なさけなや。

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     スッタニパータの一節から 次のゴータマ氏の受け答えではまづい。と異議をとなえます。  ▲ (スッタニパータ:<7、学生ウバシーヴァの質問>) ~~~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1069  ウバシーヴァさんがたずねた、   「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」  1070  師(ブッダ)は言われた、   「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」  1071  ウバシーヴァさんがいった、   「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」  1072  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」  1073   「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」  1074  師が答えた、   「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」  1075   「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」  1076  師は答えた、   「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1)  《論議》は――哲学としてならば――続きます。一般にボディサトワなる者は つねに衆生に説明を成す義務があります。(説教というよりはです)。  (2) 問題は 《ニルワーナ(火が滅びてしまっている状態)――法身? 報身?――》と応身(生身のからだ)とが 人間存在として両立・共存することにあるはずです。人はみなブッダであるなら。この上なくとうとい知恵のさとりを得たというのなら。  (3) 同じことで言えば 《滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない》状態は いま・ここなるワタシの内に――非在として――あるのであって 言わば無限と有限とが両立・共存している。  (4) じじつゴータマは その生身のからだで いまこのことを語っているではないか? それを説明しないのは ペテンである。すでに成道を終えたと言ったあとに このザマでは インチキである。  これを問います。

  • スッタニパータのゴータマ批判

     コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

  • ブッダの性愛観は 間違っていませんか?

      ひとまとまりとなった次の発言をめぐって問います。  ▲ (スッタニパータ§§814-823) ~~~~~~~~~~~~  814  長老ティッサ・メッテーヤがいった、   ──きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの    教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。  815  師(ブッダ)は答えた、   ――メッテーヤよ、性の交わりに耽る者は教えを失い、邪まである。    これはかれのうちにある卑しいことがらである。  816  かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、    車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを卑しい凡夫    と呼ぶ。  817  かってかれのもっていた名誉と名声とはすべて失われる。このこと    を見て、性の交わりを断つことを学べ。  818  かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、貧困者のように考えこむ。    このような人は、他人のとどろく名声を聞いて恥ぢいってしまう。  819  そうして他人に詰(なじ)られたときには刃(悪行)をつくり、    虚言に陥る。これがかれの大きな難所である。  820  独身をまもっていたときには一般に智者と認められていた人が、    ついで性の交わりに耽ったために、愚者のように悩まされている。  821  聖者はこの世で前後にこの患難のあることを知り、堅く独身をま    もり、性の交わりに耽ってはならない。  822  (俗事から)離れることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のこ    とがらである。(しかし)これだけで自分が最上の者だと考えてはなら    ない。かれは安らぎに近づいているだけなのである。  823  聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて行い、流れを    渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛された生ける者どもはかれ    を羨むのである。  と。  (中村元訳:ブッダのことば――スッタニパータ―― 第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテーヤ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  疑問点です。  1. 説くべき理論は 一般の人間関係についてであり 両性のニ角関係については その特定の対(つい)関係に入るときの対話(口説き)のあり方までである。  つまりその中身をまづ別にしてそれでも 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか?  2. 断り書きです。ブッダの性愛観はその中身も間違っているように考えます。ただしそれは (1)の考えによれば 無記とすることが正解だと見ます。  つまり 回答の中で触れてもらってもかまいませんが そしてそれなりに応答するつもりでいますが そこに焦点を当てようとは思っていません。

  • スッタニパータ340に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 340 戒律の規定を奉じて、五つの感覚を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。 「切に世を厭い嫌う者となれ。」の真意の解説を希望します。ブッダの思想に通じている方の教説を希望します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータの第一人者

    ご存命の方で、スッタニパータの第一人者っていますか?

  • スッタニパータ788、789の読み方は?

    中村 元訳「ブッダのことば」 788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。 789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。 790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。 此処で言う「見解」に対して、巻末に[註]があります。 ・諸々の英訳者は、viewと訳している。 ・ 諸宗教や哲学の「教義」を意味する。 さて、質問です。 質問1 788に該当する人をブッダは肯定しているのですか、否定しているのですか。ブッダが「見解」をどう評価しているのかが分かりません。 読解力のせいか、翻訳上の苦渋が原因で多少は表現に無理があるのか、私には790まで一連の文言が矛盾せず、かつ国語の上から不自然ではない解釈が思い浮かびません。肯定している場合は790と整合しないし、否定している場合は789が誤りとまでは言いませんが手を入れたくなる程度に不自然な文章だと感じてしまいます。 質問2 念のためにお訊きします。789の「人は智識によって苦しみを捨て得る」をブッダは肯定していますか、否定していますか。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ805に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。 これは誰に対する説教とも書いてありません。「在家にとどまっていてはならない。」、これは誰への呼びかけですか。四章六節「老い」の一部ですから、家督を子息に譲った後の隠居への呼び掛けかも知れません。しかし、ここばかりでなくスッタニパータ全体に流れる雰囲気から判断して、釈尊は年齢に関わらず出家に勝る修行はないと説いているとみてよいのだと思います。 しかし、これはねずみ講と同じ構造ですから、こんな矛盾した教説はありません。出家者が増えれば功徳を積む側の人間がいなくなってしまい乞食が成立しなくなり破綻してしまいます。こういう無茶な理論は必ず改良される筈です。ブッダの教えと大乗仏教との間に、在家のまま自らの修行によって解脱を計る道を説いた人なり教典があってよさそうに思いますが実際はどうなのでしょうか。ブッダの後は一気に大乗仏教に飛んでしまうのですか。門外漢の直感としては中間的な教説があると推測します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ235に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は本来の生存に執著することなく、種子をほろぼし、それが成長することを欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が〈つどい〉のうちに存する。この真理によって幸せであれ。 今日では結婚しても自らの意思によって子を成さない男女も、非婚の男女も珍しくないでしょう。私の観るところ、これらの男女はスッタニパータ235でいう賢者の条件の一つを満たしていると判断します。さて、この判断はブッダの考えに適っていますか。何処かに考え違いがありますか。ブッダの思想に通じている方の説教を希望します。 よろしくお願いします。

  • 『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図

     よろしくお願いします。  久しぶりに『スッタニパータ』が読みたくなって、岩波版の中村元師訳や、その他の方の訳や解説をいろいろ読んでいて思ったのですが、『スッタニパータ』五章のとくに「序」と「結語」の扱いが悪い気がするんです。  例えば、羽矢辰夫師の『スッタニパータ さわやかに、生きる、死ぬ』においては、議論の中心はもう一つの最古層四章に集中していてますし、五章に関しては「四章を通して読んだ五章」のような印象を受けます。また、テラーワーダの立場からの学術的な翻訳として正田大観師の『世尊よ、あなたに尋ねます 波羅延経精読』においては「テキスト編集者」という言葉は出てきますが、「ちなみに、今回私たちが取り上げるテキストは、スッタニパータ第五章のすべてではなく、もともと存在したはずの波羅延経に該当すると見られる部分」とあって、「テキスト編集者」の意図が最も反映されているであろう「序」と「結語」は触れていません。  まぁ、理由としては、五章は『スッタニパータ』のなかでも最古層とされる部分ではありますが、「序」と「結語」の部分は『チュッラ・ニッデーサ』などの比較検討の研究において後代に付け加えられた部分といわれているからなんでしょう。  しかし、それでは正田師の言うところの「テキスト編集者」の意図は読み取れないように思います。「釈尊の直の言葉」を重要視することはもちろん大切なんですが、それを「伝えようとしてきた人たちの意図」も同じくらい大切だと私は考えます。  で、ここで質問なんですが『スッタニパータ』第五章の編纂者は、「序」と「結語」を通して、何を伝えたかったと思いますか? 私は「序」いわゆる問題提起と「結語」いわゆる結論を説け加えるということは二つの意図を想定できるのではないかと思います。 (1)内容の強調、もともとあった経文のどこかをより強調するため、そこに注意が向くようにうながすための (2)新しい視点の提起、従来の読み方ではなく、新しい視点から五章を読むため いまは、こんなことを考えています。 どうぞ、皆様のご意見を教えてください。また、『スッタニパータ』五章の内容の研究において、「序」や「結語」に注目をした研究や、編纂者の意図を考察する研究等々があったら教えてください。

  • この世でたった1人の女の子について

    こんな相談をするのは初めてなのですが 最後まで読んでいただければうれしいです。 ぼくは中学校の頃に一目惚れした 女の子がいました。 しかし当時のぼくは集団嫌がらせを受けたり 友達が本当に一人もいない環境で (後に思春期うつ病を発症します)大変でした。 なのでその子に話しかけることすら できませんでした。 そして高校になって別の高校へ行き、 もう会ったり話したりはできなくなりました。 ですが、今思っても当時とはかわらず もうこの世ではその女の子にしか 恋愛感情をもてないというぐらい 強い執着心があります。 万人が可愛いとはいわない顔だとは思いますが ぼくはその女の子の顔が完璧にタイプで 声も体も才能も全てぼくの理想通りなのです。 再度いいますが、もうこの世には その子しか恋愛感情をもてない 気がするのです。 中学校の卒業アルバムで その子の声や笑顔が蘇ってきます。 なんだかこの文章を書いていて 自分が「気持ち悪い存在」なのでは・・・! と、少し不安になってきました。 こんなぼくはこれから どうすればいいのでしょうか。 なにかアドバイスでもあれば 是非お願いします。 ここまで読んでいただき ありがとうございました。

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