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スッタニパータのゴータマ批判

 コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

みんなの回答

回答No.33

独り言です。 阿摩羅識(a-mala-vijnana)、 この言葉をよく知っているな~……。 mala・・・dust, dirt, etc. a-mala・・・clean, pure, etc. vijnana・・・knowledge, wisdom, etc. まっ、うるさいことを言わなければ、  阿摩羅識=如来蔵、自性清浄心 と言えなくもないけれど・・・。 ですが、 無垢(a-mala)がつこうが、識は識、迷いの《こころ》の段階。 智(prajna)、般若とは、明確に区別しなければならない。 以上、重箱のスミツツキでした。 サンスクリット表記では、音をあらわす記号をつけていませんので、そこのところヨロシクです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《識》となれば この世の二つのものごと・特に相い対立する二つの事項があることを前提している。これら双対などを分ける。  アーラヤ識だって 善悪などの二項対立をふくむと思われます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.32

いえ、非思考の庭が概念ではないことは知っています。ただ、ここでは説明するためにそう述べたに過ぎません。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。説明につかれました。  ご回答をありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.31

うーん、、仰る(あ)(い)(う)では、ペテン師とまでは言えない気がします。ただ、経典などでなされている説明が理解できないので不穏になっている、という印象を受けました。また、非思考の庭から通じる非知の神を形而上学的最高普遍の概念として提示されているようですが、それも有象無象の中の一つの見解に過ぎません。どちらの思想が優れているとかそういう問題では無いように思いました。 あとは、煩悩の解釈ですが、本能に基づいた心の動揺を鎮めるべきか否かで見解がわかれているようですが、涅槃寂静の場合には、それは鎮まっているのでしょう。このことは抑えておいた方がいいように思います。 そして、如来蔵とは阿摩羅識のことかと思いますが、これが非思考の庭と等価の概念と捉えて良いものかどうか。 検証が必要でしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 非思考の庭から通じる非知の神を形而上学的最高普遍の概念として提示されているようですが  ☆ ここで 《形而上学・概念》というのは 思考の問題です。  非思考の庭なる信仰動態には 《神を じっさいにはその名を 受け容れている》という内容があります。(無い神を受け容れていると言っても 同じです)。その神を説明するためには 思考の問題であり経験事象である人間の言葉を用いています。ただそれだけのことです。  ですから 言葉は 補助線です。  いちいち形而上学を展開しているわけではありません。  言葉は それ自体で確かに概念と成り得ますが 言葉で説明したからと言って 神を概念であると言っているわけではありません。仮りの代理表現として 《絶対・無限など》という言葉≒概念でも説明しています。  もっとげんみつに言えば 《最高》ということは 比較の問題です。思考の問題です。これを超えているのでなければ 神とは言いません。  この基本について 何度も述べ続けます。  ですから この神なるナゾの想定は なるほど経験存在たる人間がおこなっているものに過ぎませんが その想定内容は 経験世界を超えていると言っているのですから その点を受け留めて話し合いをすすめるのでなければ 話は始まりません。  見解としては  ★ それも有象無象の中の一つの見解に過ぎません。  ☆ ということであるかも知れませんが その想定内容は どんな見解を持って来ても それと通底しているものです。  【Q:神 信仰および宗教についての一般理論】   趣旨説明欄および BA とのやり取りを参照していただけるとさいわいです。  ★ どちらの思想が優れているとかそういう問題では無いように思いました。  ☆ これは 《非経験の場なる 神》についての――想定ではなく――さらにくわしい補助線としての説明において どの見解・どの思想が 説得力に富むかという問題です。  あるいは言いかえるなら 《非経験の場なる神を それぞれの名前で受け容れたというその人の心なる非思考の庭 この信仰動態にあって どのようなヒラメキないし観想を得ているか? それをどのように経験思考にも理解できるように表現したか?》という思想次元の問題です。  《神および信仰についての一般理論》に 例外はありません。それほど普遍内容を持った理論です。  ★ 涅槃寂静の場合には、それ(=《煩悩= 本能に基づいた心の動揺》)は鎮まっているのでしょう。このことは抑えておいた方がいいように思います。  ☆ 心は――というよりも身と心とは・つまり精神=身体は―― いかなる事態にあっても 汚されることはありません。⇒【Q:《非思考の庭(信仰)》は 誰からも 汚され得ない。】  煩悩≒無明≒渇愛と言っても それらは 大海の表面に立つさざ波です。つまり 精神のもんだいではなく その場の一時的なウゴキとしての心理のもんだいです。  よって この本能にからんだ心の動揺としての煩悩とそしてそれから自由な状態としての涅槃寂静というオシエ これは 何の意味もない。という見解です。  ★ そして、如来蔵とは阿摩羅識のことかと思いますが  ☆ 《識》ではないでしょうね。  《非経験の場 なる神》を受け容れたときわが心に成る《非思考の庭》 これは もともと生まれつきの自然本性に 神の霊としてやどると見るわけです。これも 想定です。  この《神の霊》が アートマン=アン‐アートマン=ブッダター=タターガタ・ガルバ=ルーアハ=プネウマ=スピリトゥス=たましいのことです。    ★ うーん、、仰る(あ)(い)(う)では、ペテン師とまでは言えない気がします。  ☆ ここまで説明して来た結果の評価のようですから それとして受け留めなければならないことと思います。  【Q:ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ】  【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3454478.html   ○ これは すでに名前が noname#80116 となっていますが かつてわたしがもうけた質問です。ブディズムにかんしての初めての問いでした。  そこでは まだブディズムやゴータマに一縷ののぞみを持っていました。そのような視点からかなり突っ込んだ問い求めを 回答者の方々とともに出来たかと思っています。  《ペテン師とは言えない》という判断をくだした場合には 何が俟っているか? そういう問題をあぶり出しているかと考えます。  まぁ ここまで説明して来て 分からんという答えをもらうのであれば むしろ本望だと思ったほうがよいのかも知れません。というのが しょうじきな反応です。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.30

まず、もう少し端的に、三つのパターンを示していただけたらと思います。それが一番、理解につながると思います。 次に、 一つ、煩悩とは、本能に基づく心の動揺を指すと、私は聴いたことがあります。煩悩を制する故に、炎が消えると表現するのは何もマジックではないと思います。 また、私はコマーシャルでもいいと思います。分かりやすくて。安寧、静けさである、と言う所の何が問題でしょうか。それをコマーシャルと比喩して陳腐なものととるか、そのままの意味としてとるかは受け取る側の問題であるように思います。別に専売特許を言っているのではありません。 また、アンアートマンとアートマンが非思考の庭において結局同じというのはどういうことでしょう。非思考の庭とはブラジュロンヌさんの独自の表現であり信仰論です。信仰失くしてそれは成り立たなかったと思います。そして、釈尊の経典には非思考の庭に類する言葉はないかと思います。仏教では、我、アートマンの代わりに、諸仏の請願が宿ると言われます。要するにただ無我で何もないのではないということです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ まず、もう少し端的に、三つのパターンを示していただけたらと思います。それが一番、理解につながると思います。  ☆ これは 理論的ではないのですが。つまり 三つに限ることもないであろうし それぞれがきちんとつながっているとも思えない。それで前回の説明では気が引けたのだと思います。  ☆☆ (No.24お礼欄) ~~~~~~~~~~~  (あ) すべてが 外形的な・輪郭としての説明に終始しています。  (い) 中身は どうかと問うと それは 《この上なき至福の境地であって 言葉には尽くせない。ただブッダと成った者だけが知っていて 互いによく分かり合える》という説明を繰り出す。(唯仏与仏)。  (う) あとは 《さとりとは何か?――苦からの解脱である。 / 苦とは何か?――さとりを得るのを妨げるものである》という説明もあります。  ――だいたい この三つが ゴータマ・マジックの手口です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これらと 前回の説明とを合わせて捉えてもらえればよいとは考えるのですが どうでしょう。  ★ 一つ、煩悩とは、本能に基づく心の動揺を指すと、私は聴いたことがあります。煩悩を制する故に、炎が消えると表現するのは何もマジックではないと思います。  ☆ 食欲は 水を飲めば数日満たさなくても持つとか。睡眠欲は 二週間満たさなくても持つとか。性欲は 一生満たさなくても済むとか。  《本能に基づく心の動揺》は 決して思うようにしたいと思う《苦》なのではないと考えます。  これが煩悩だとすると その煩悩を制する必要は何もない。こう考えます。  ここらあたりから違っていますね。見解が。  ★ また、私はコマーシャルでもいいと思います。  ☆ わるいと言っているのではありません。誰もが知っているという意味です。ブディズムの専売特許ではないのだから デカイ顔をするなという意味です。    ★ 分かりやすくて。安寧、静けさである、と言う所の何が問題でしょうか。それをコマーシャルと比喩して陳腐なものととるか、そのままの意味としてとるかは受け取る側の問題であるように思います。別に専売特許を言っているのではありません。  ☆ 専売特許だと 言わず語らずにけっきょく言っているはずです。そうでなければ いちいち独自のオシエに出して来る必要はありません。  ★ また、アンアートマンとアートマンが非思考の庭において結局同じというのはどういうことでしょう。  ☆ 《非知= 非経験の場》は 人間が思考や想像によって成ったものではありません。きらいと言ってもくだらんと言っても つまらんものだと言おうとそんなものはないと言おうと その《神》は痛くも痒くもありません。それが 神です。ナゾゆえに 霊とも言います。  すなわち この神は有ると言っても無いと言っても その霊は同じことです。そういう想定なのです。有神論=無神論となります。どちらも同じく信仰です。  ★ 非思考の庭とはブラジュロンヌさんの独自の表現であり信仰論です。信仰失くしてそれは成り立たなかったと思います。そして、釈尊の経典には非思考の庭に類する言葉はないかと思います。仏教では、我、アートマンの代わりに、諸仏の請願が宿ると言われます。要するにただ無我で何もないのではないということです。  ☆ ブラフマニズムのアートマンは まったくそのまま《非知= 非経験の場= 神= 神の霊= 霊我》のことです。これをわが心に受け容れるなら 心に《非思考の庭》が成ります。これが 信仰という動態です。  そのことが ゴータマには分からなかったという意味です。  後世のブディストには 分かった。それを ブラフマニズムの言葉としてのアートマンとは言えなかった。ゴータマに顔を立てて 別の言葉を使った。タターガタ・ガルバ(如来蔵)もしくはブッダター(仏性)です。  また 《自性清浄心》との照らし合わせが 課題となります。探究すべきことです。  ブッダターとは アートマンと同じく 神の霊のことです。無い神もしくは無い霊と呼び替えても 同じことです。  No.21お礼欄の図式を見てみてください。

  • a_hona
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回答No.29

では、もう一度頼みますが、マジックと言われる所の三つのパターンを端的に示していただけますでしょうか。正直申し上げまして、何処がマジックになっているのか理解出来ないでいます。例えば、涅槃寂静は体験しなければ分からないであろうと思います。では、涅槃寂静と言う所の何処がマジックなのか、私には理解できないのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ では、涅槃寂静と言う所の何処がマジックなのか、  ☆ じつは ニルワーナについては おもに呼吸法によるからだの管理のようなことだと説明されている場合があります。    ですがこれは 《体験しなければ分からない》分野であるかと思われますので ここではそうではなく 境地の問題を 一般的に表現して説明したオシエを取り上げます。  ▲ (ヰキぺ:涅槃寂静) ~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83%E5%AF%82%E9%9D%99  (ねはんじゃくじょう)は、   (あ) 仏教用語で、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。  § 概説  (い) 諸行無常・諸法無我の事実を自覚することが、この涅槃寂静のすがたである。  (う) 無常と無我とを自覚してそれによる生活を行うことこそ、煩悩をまったく寂滅することのできた安住の境地であるとする。『大般涅槃経』においては、この娑婆世界の無常・無我を離れたところに、真の「常楽我浄」があるとする。  (え) 無常の真実に目覚めないもの、無我の事実をしらないで自己をつかまえているものの刹那を追い求めている生活も、無常や無我を身にしみて知りながら、それを知ることによってかえってよりどころを失って、よりどころとしての常住や自我を追い求めて苦悩している生活も、いずれも煩悩による苦の生活である。それを克服して、いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、それこそ悟りであるというのが、涅槃寂静印の示すものである。  (お) 仏教本来の意味からすると、涅槃とはいっさいのとらわれ、しかも、いわれなきとらわれ(辺見)から解放された絶対自由の境地である。  (か) これは、縁起の法に生かされて生きている私たちが、互いに相依相関の関係にあることの自覚であり、積極的な利他活動として転回されなくてはならない。この意味で、この涅槃寂静は仏教が他の教えと異なるものとして法印といわれるのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (か)は 一般的な常識に属すると見ます。  世界のものごとには すべて因縁があってその結果があると言っており あるいは 存在という存在は この時空間において――また人間は この社会という場において―― 互いに自然的なまた社会的な関係性を持つ。つまりは 共生性において生きている。――と言っているのだと捉えます。  《他の教えを異なる》と書いていますが その意味は分かりません。  (お)は 理念です。《絶対自由の境地》という点においてです。  因果関係を超えており いっさいの対立する概念ないしその事態から自由である。というのは 理念として分かりますが じっさいの人間の境地としては ただ輪郭をなぞっただけだと見ます。  あるいは 歴史という歴史のいっさいの因果関係について知っているなどという人間はいない。よって 外形的な説明をしたに過ぎないと捉えます。(これも ゴータマ・マジックのひとつです)。  (い) 諸行無常・諸法無我の事実を自覚することが、この涅槃寂静のすがたである。  これは どうでしょうか?  諸行無常とは いっさいのものごとは 移ろいゆかざるを得ないと言っています。朽ちないものはないと。  これも ふつうの常識であると言わざるを得ないと考えます。  諸法無我。これは アン‐アートマンの問題として すでにるる説明していると思うのですが どうでしょう?  神の霊のやどる非思考の庭としてのアートマンであるなら それを否定してアン‐アートマンと言っても けっきょく同じことだということ。ゴータマはこれを知らなかった。  まま 《我執を離れよ》といった意味で使ったとかいうことも聞きますが それなら ごくふつうの大人が用いる説教であるに過ぎません。  ゴータマは 身分制にその基盤を置くことをも特徴とするブラフマニズムを批判して この諸法無我説を言い出したのではないかと思われますが その理論的な内容は けっきょく定まらなかったと見られます。  その中身を説明せよと求められたときには 言葉を濁す。つまりは その無我の境地は ブッダになった者にしか分からないというマジックを使う。  (う) 無常と無我とを自覚してそれによる生活を行うことこそ、煩悩をまったく寂滅することのできた安住の境地であるとする。  ☆ そしてそのあと 《煩悩とは何か?》に対しては 《無常と無我とを知らない状態》だとか《涅槃寂静に到るのを妨げる身と心とのはたらき》とか答える。これも マジックです。⇒(え)。〔この(え)は 少々分かりづらい文章ですが〕。  (え)(その後半) それ(煩悩)を克服して、いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、それこそ悟りであるというのが、涅槃寂静印の示すものである。  ☆ これも 単なる外形的な説明であり よく言っても理念であると見ます。《自由・平等・友愛》という旗印と同じことだと見ます。  (あ) ・・・静やかな安らぎの境地(寂静)  ☆ これなどは コマーシャルでも言っていると思います。  どうでしょう。

  • a_hona
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回答No.28

仏教の全てが哲学で語れるわけではないでしょう。それを哲学哲学となにをそれほどムキになるのかが私にはわかりません。世の中には有象無象、様々な思想が溢れています。仏教の一部もその一つです。二千年の栄光などどうでもいいです。問題は、コーヒーブレイクと言っているにもかかわらず、ブラジュロンヌさんが平静さを欠いていて感情的になっている点だと思います。それではいくら批判しても、ただのやっかみとしか見られないかもしれませんよ? 私は釈尊の弁護をしているのではありません。ブラジュロンヌさんの姿勢を問うてみただけです。そこまでいうのであるなら、阿呆だとかそういった余計な言葉を排して純粋に哲学を唱えて見せてください。

bragelonne
質問者

お礼

 あ_ほなさん 怒らせてしまいましたか。まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 仏教の全てが哲学で語れるわけではないでしょう。  ☆ ほんの少し分かる部分において その言っていることは とんちんかんであり じつに自己矛盾を起こしていますよというささやかな批判をおこなっています。  ★ それを哲学哲学となにをそれほどムキになるのかが私にはわかりません。  ☆ その哲学で分かった部分については これ以後永遠に 手間暇をかける必要がないと思えば これほどの自由はないと思いますよ。ムキになるわけです。  ★ 世の中には有象無象、様々な思想が溢れています。仏教の一部もその一つです。二千年の栄光などどうでもいいです。  ☆ と言えるまでに批判が行き届いたと思うと 思えば遠くに来たもんだという感慨があります。  ★ 問題は、コーヒーブレイクと言っているにもかかわらず、ブラジュロンヌさんが平静さを欠いていて感情的になっている点だと思います。  ☆ 《ムキになっている》ことと《平静さを欠いている》こととは 別だと思います。  《感情的になる》ほど わたしは 理性が冴えて よく推論にかがやきが増すことがあります。  《コーヒーブレイクと言っているにもかかわらず》の点については 言葉をうらぎってしまいました。ひとえに あやまります。ごめんなさい。  (わざとそうしたのではなく そうではなく ことの成り行きにおいてそうせざるを得なかったという事実認識はありますが)。  (途中で そのような裏切りをすることになりますが とコトワリを入れるべきでした。反省します)。  ★ それではいくら批判しても、ただのやっかみとしか見られないかもしれませんよ?  ☆ そうですか。まだ 批判は成功していませんか。困ったものですね。  ★ 私は釈尊の弁護をしているのではありません。  ☆ そうなんですか。たとえば 《釈尊》という呼び方をするだけでも 弁護の側にいると捉えました。そうではないのですか。  ★ ブラジュロンヌさんの姿勢を問うてみただけです。そこまでいうのであるなら、阿呆だとかそういった余計な言葉を排して純粋に哲学を唱えて見せてください。  ☆ 哲学も 《境地》の問題をあつかうと思うのです。理論のほかにです。  理論をめぐる議論では 《阿呆》と言ったりしませんが そうではなく 理論やオシエをめぐって 自己矛盾を平気で語っておりそのまま最後までこれを見直さなかったという態度にかんしては 阿呆であると言うのが ふさわしいと考えます。  それに 相手側は この宗教家なる人間を神格化するまでになっています。それについて 目を覚まさせるためには 阿呆という表現が やはりふさわしい。こういう判断のもとに使っています。  刺激のつよい表現で 閉じられた心をこじあけようとしています。ショック療法です。ひらかれた心になることも 大事なことです。  いえ ショック療法には到らないですね。その手前で鳴らせた目覚まし時計です。  ☆☆ (No.27お礼欄) ~~~~~~~~   ★ それは何故かと言うと、覚りが体験であるからでは無いでしょうか。   ☆ この反論が ゴータマ・マジックでしかないと言っています。唯仏与仏の《論理》です。これまでに何億何兆回もこのマジック論理の前に あたらまじめなたましいが道をあやまったか。人生を棒に振ったか。その罪作りに あなたは加担しているのですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この批判について 《ただのやっかみ》だと規定するのは 少しひどすぎませんか?  ゴータマ・マジックの三つの武器について 反批判はまだ聞いていません。《やっかみ》といったレッテル貼りだけだと思います。ちょっとひどすぎます。

  • a_hona
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回答No.27

覚りはあるのか?という疑問の方が、覚りの内容は覚った人にしかわからない、という説明に先行するように思えます。 分かる人にしか分からない事は、覚りに限らずたくさんあります。しかしだからと言って、それらのことが無いということはできません。自分にはわからないというだけの話です。 だから、ブッダの言うことは分からない、それだけの話のような気がします。 覚りというものがあるという話だが、それは自分にはわからない、そういうことなのだと思います。 一方で、覚りはきっとある、と思ってそれを目指す人があるのも事実です。 ただ、覚りというものへの対応の違いであって、釈尊の言葉に穴を探し出そうとする態度は、一体どのような対応に属するのか、と思います。 おそらく、覚りの存在を認める立場ではあるが、釈尊の覚りは認めないという対応なのでしょう。 スレッド全体を見渡しましたが、ブラジュロンヌさんの憤りは、分かる人にしか分からない、覚りというものの性質に対するそれであり、釈尊の言葉に対する憤りではないように思われます。 法華経のシャーリプトラにしても、再三問い、それで得た答えが、こういう時に覚る、覚りとはこう言うものだ、という説明だけでありました。それは何故かと言うと、覚りが体験であるからでは無いでしょうか。体験である故に口伝できるものではなく、他者と共有することが出来ない。ただ覚った人だけがその実像を知っている。 例えば本物の恐怖を知るのはそれを味わった人だけであるように、ニルヴァーナを知る人はそれを味わった人だけ、というようなことだと私は思います。 因みに私は、覚りというものはあるんだろうな、と思っています。しかしそれを目指すかと言えば、微妙です。何か、自分にとって最高のものを、最善のものを目指すとして、それが仮に普通のものだったとしても、結果、覚ればそれが覚りだったのであり、覚らなければそれは覚りではなかったと、結果論に落ち着くものだと思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 覚りはあるのか?という疑問の方が、覚りの内容は覚った人にしかわからない、という説明に先行するように思えます。  ☆ それは 一たん誰かが おれはさとったと言ったあとに そのさとりとは何か? さとりなんてあるのか? という問いを持つということではないのですか?  めざめた(ブッダ)と誰かが言った。それは 眠っていて目が覚めたという日常生活におけるふつうのコトとは別に あたかもその意味から比喩の用法をつくった。それは 人間の知恵や判断力などをふくむ人格全体としての境地などの意味に拡大解釈してこの言葉を使った。  それは どういうことか? と人びとは問う。それに対して   覚りの内容は覚った人にしかわからない  という答えが返って来た。つまり ゴータマ・マジックです。  ★ 分かる人にしか分からない事は、覚りに限らずたくさんあります。しかしだからと言って、それらのことが無いということはできません。自分にはわからないというだけの話です。  ☆ それは むしろ人間という存在が―― 一般的に言えばおのおの自由意志によって生きているからにはその自由選択の軌跡がそれぞれの主観として違って来るからには―― 《分かる人にしか分からない》と捉えられるのではありませんか?  ところが アン‐アートマンを説いたあと そのことの意味をけっきょく自分でも理解が行き届かず じつは アートマンなる霊我と同じことを言っていると分かったであろうときにも 何もあらためなかった。軌道修正はしなかった。(おそらく メンツが立たないと思ったのであろう)。そういった失態を見せている本人にあっては  ★ 自分にはわからないというだけの話です。  ☆ というより そうではなく 《自分にも分かっていない》。ということになるとしか考えられないのです。一般論ではないのです。あくまでいまは ゴータマ論なのです。  ★ 一方で、覚りはきっとある、と思ってそれを目指す人があるのも事実です。  ☆ 誰も それを否定してはいないでしょう。二千年という時間をかけても 親鸞よりほかの人は それが分からない。親鸞にしても ゴータマとは違う内容である。――そういう実際問題です いまは。  ★ ただ、覚りというものへの対応の違いであって、釈尊の言葉に穴を探し出そうとする態度は、一体どのような対応に属するのか、と思います。  ☆ この判断には すでに敢えて言えばどちらの側に就くかをめぐる政治的な立ち場が表明されています。  穴があるかどうかを確かめることをも含む問いとしての《さとりとは何か? そんなものはあるのか?》は 決して《粗探し》を目的とした問い求めではありません。  つまりその問い求めに対してすでに《釈尊の言葉に穴を探し出そうとする態度》という規定をするのなら 《粗探しは やめろ》という政治的な意図がふくまれています。  なぜやめなければならないのですか? すでにゴータマ・マジックが どういうわけか 人びとに迎え入れられている情況がある。ゆえに その情況を否定することになることは しなさんなと言っているわけですが 常識がつねにただしいと あなたはどうして言えますか?   波風を立てるな! という心つもりがあると思われますが それは 何故ですか? つまり ひょっとしたら何もない万能細胞発見宣言であるかも知れないのです。たとえ信頼し信用していても その中身は どういうことなんだ? と尋ねます。問い求めます。  つまり この上なき知恵のさとりを得たという成道宣言をしたのは 誰ですか? そのような宣言をしオシエを説いたということは もしそれが スッカラカンの中身だったら どうなりますか? それこそ 世間に要らぬ波風を立てていることではないのですか?   ゴータマが 初めに世間にさからって波風を立てたのです。哲学は これをとことん追究します。二千年もそうしているぢゃありませんか。一番弟子のシャーリプトラにしても ゴータマに信義をつくしてこの問い求めを死ぬまでおこなった。つまり 二千年は要らないのであって このシャーリプトラの態度・振る舞いにおいてすべてが語られることになった。それを明らかにする作業は 哲学のしごとです。  この真理の尋究というつとめを ただただ世間のジョウシキなる立ち場から踏みつぶそうとする態度は 《一体どのような対応に属するのか、と思います》。  ★ おそらく、覚りの存在を認める立場ではあるが、釈尊の覚りは認めないという対応なのでしょう。  ☆ 少し違います。《ゴータマの思想は 支離滅裂であり ペテンである》という対応です。それを顕揚するのは 阿呆であるという結論です。哲学ではないという意味です。  ★ それは何故かと言うと、覚りが体験であるからでは無いでしょうか。  ☆ この反論が ゴータマ・マジックでしかないと言っています。唯仏与仏の《論理》です。これまでに何億何兆回もこのマジック論理の前に あたらまじめなたましいが道をあやまったか。人生を棒に振ったか。その罪作りに あなたは加担しているのですよ。  ★ 体験である故に口伝できるものではなく、他者と共有することが出来ない。ただ覚った人だけがその実像を知っている。  ☆ と言わせるのは いったい何なんだ? といちど心を落ち着けてみづからに問うてみるとよい。そのオールマイティの《化城》論理が 人びとの DNA にまで浸みこんでいる。ただただ条件反射として 口をついて出て来る。だけの状態です。ゴータマ・ロボットです。  ★ 例えば本物の恐怖を知るのはそれを味わった人だけであるように、ニルヴァーナを知る人はそれを味わった人だけ、というようなことだと私は思います。  ☆ ここは 哲学カテです。シュウキョウの時間ではありません。そんなことは 勝手にやってくれというのは 話の大前提です。たとえ未体験者であっても 真理の徒は そこに何があるのか。見るべきものは何か? と問い求めます。  ぢゃあ こう受け留めてください。哲学という問い求めによっても分からない部分は 体験して分かっている人びとにすべてゆだねます。その代わり 哲学として分かる部分については よいものはよしとし 間違っているところはマチガイだと言う。こういう仕事をおこなっているのだと理解してください。  というのは まったくふつうの探究なはずです。それに反論を 同じ化城論理で繰り返し繰り返し突っ込んでくるのは ただ白旗を挙げるのがいやだと言っているだけではないのですか?  ★ 因みに私は、覚りというものはあるんだろうな、と思っています。しかしそれを目指すかと言えば、微妙です。何か、自分にとって最高のものを、最善のものを目指すとして、それが仮に普通のものだったとしても、結果、覚ればそれが覚りだったのであり、覚らなければそれは覚りではなかったと、結果論に落ち着くものだと思っています。  ☆ わるいが あたりまえです。小学生でも知っている。しかもそれを いまここに出して来るというのは 何とか目先をズラシ 論旨をすれ違わせ 世間のジョウシキを どういうわけか守ろうとしている。に過ぎません。二千年の《栄光》がくづれるのを見るのは しのびないですか?  あ_ほなさん 目覚めてください。

bragelonne
質問者

補足

 あるいは こういうことですか。  つまり ぶらじゅろんぬなどと名乗るどこの馬の骨だか分からないヤローが あのゴータマ・シッダッタなる神さんのオシエを負かしてしまった。そんなことがあるものか。これは悪夢だ。――でしょうか。  シャーリプトラがすでに ゴータマをあたたかく見守っていたし その姿勢の内にしかるべき批判をもおこなっていた。  また さとりの中身については 親鸞が《義無きを以って義とす》と明らかにしている。  わたしはこれらを確認しただけ。その背景としての・もしくは基礎としての神観ないし信仰論は わたしの仕事になります。(と言っても すべてはアウグスティヌスの請け売り。ローマ教会批判など アウグスティヌスに逆らっているところも多くありますが そのみなもとは このアウレリウスです。さらにその思想のみなもとは 信仰の問題だと思います。そしてそれは 普遍的なものであり 万人にとって共通であるとさえ思っています)。

noname#195588
noname#195588
回答No.26

先ほどの回答で使用した辞典は ~~~~~~~~~~~~~~~~~ パーリ仏教辞典 仏のことば註―パラマッタ・ジョーティカー―付篇 パーリ聖典スッタ・ニパータ註 索引・辞典 村上真完 / 及川真介著 564ページ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ です。 koliya Koḷiya と両方あります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Koḷiya m. npr.< Koḷa コーリヤ族(人)〔釈尊の生母Māyā夫人の生まれた家系の人、一族〕 パーリ仏教辞典 仏のことば註―パラマッタ・ジョーティカー―付篇 パーリ聖典スッタ・ニパータ註 索引・辞典 村上真完 / 及川真介著 565ページ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  バスには乗っていますが。 

noname#195588
noname#195588
回答No.25

どうでもいいことなので スルーでかまいません。 koliyaはそういえばこのままだと 男性名詞で、 koliyaputtaも 「コーリヤ国の女(むすめ)の子」 には、ならない思って koliyaを辞書で引くと ~~~~~~~~~~~~~~~ m. npr. コーリヤ族〔釈尊の母Māyā夫人の出た家系〕 ~~~~~~~~~~~ とあって やっぱり女性形にする必要があると思ったんですが koliyaの女性形はなんでしょうか?わかりません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  老婆心ながら。  辞書のサイトを明示されるとよいと思います。  Maagandiya の女性形が Maagandiyaa らしい。関係ないかなぁ。

回答No.24

ゴータマ・仏陀が説いたとされる教えが問題なのですか、 説法や教導の方法が問題だと言っているのですか、 それとも、 ゴーダマ個人やその人格を否定しているのですか? わたしは、ゴータマ・仏陀は、かれの説いた教えという文脈の中で語られるべきだと考えますが。 そして、 bragelonneさんの《非思考・非経験》なる考え方は、すでに仏典の中に存在し、仏典という形で公開されています、 と言っています。 説法や教導の方法については、 ゴータマがいた時代的、社会的背景を無視して語ることはできません。 現代の日本のように、誰しも文字が読めるわけでもなく、初等、中等教育などを受けているわけでもありません。 こうした事情を無視し、古代インドがあたかも現代日本のような状況であったかのようなことを前提にし、語るのはいかがなのでしょうか。 文字を読めない、知識もない、呪術的な迷妄に囚われている人に、その理解力をまったく無視し、これこそが真実なのだと、理解の及ばないことを説くのは現実的な対処法ではなく、その意味において、無責任と断罪されて仕方がないでしょう。そして、大切なのは、その人の置かれている今の状況でしょう。 ☆☆ そんなことは あたりまえです。 ◇本当に当たり前のことですか。 この《あたりまえ》は、bragelonneさんにとっての《あたりまえ》なのではないのですか。 わたしが知る限り、 ゴータマが実在した古代インドの社会において、このことは当たり前のことではありませんよ。 ウパニシャッドなどでは、 アートマンは、起きているときは、心臓の奥底にひそみ、夜、心臓を抜け出す小人・プルシャであるなんて語られていますよ。 バラモン有力学派の一つ、サーンキヤは、プラクリティとプルシャの二元論。アートマン・プルシャは、プラクリティを起源にする物質によってとらえられている。しかし、独存し、我々とは無関係。人の覚性、理性ともいうべき《ブッディ・buddhi》は物質原理ともいうべきプラクリティから展開する、といっています。 また、《梵我一如》などといった秘説・秘教(?)は、師から弟子へのみ、しかも優秀な弟子にのみ伝えられるもので、公開の教えではありませんよ。関係者以外の部外者には決して漏らしてはいけない。 どうして、こうしたことを無視するのですか? また、現代においても、 観念としての神や教義で語られる神をもって神とする人は、非常に多いですよ。 こうしたことは、けっして、《あたりまえ》や《あたりまえのこと》ではないのではないでしょうか。 ☆☆☆☆☆☆ 『スッタニパータ』は、出家しちゃった人に述べた教えです。 それも、パーリ語聖典の中の、ごくごく一部のオシエ。 「木を見て、森を見ない」ってことになっていませんか。 ───────── 133  わたしは、子〔の死〕の憂い悲しみによって、苦悩し、放心の者となり、想いが離れた者として、〔世に有った〕。わたしは、裸で、さらには、髪を振り乱して、そこかしこを渡り歩いた。 134  道々の塵芥場[ごみすてば]において、墓場において、そして、諸々の道において、飢えと渇きに引き渡された者として、三年のあいだ、〔わたしは〕歩んだ。 135  しかして、〔わたしは〕ミティラ(地名)の城市へと赴いた善き至達者(ブッダ)を見た——調御されざる者たちの調御者を——何ものも恐れない正覚者(ブッダ)を。 136  〔わたしは〕自らの心を得て(正気を取り戻して)、〔覚者を〕敬拝して、近坐した。彼は、ゴータマ(ブッダ)は、慈しみ〔の思い〕によって、わたしに法(教え)を示した。 137  彼の法(教え)を聞いて、〔わたしは、家から〕家なきへと出家した。教師(ブッダ)の言葉に専念する者となり、〔わたしは〕至福の境地を実証した。 138  一切の憂いは断たれ、捨てられ、これを終極としている。それあるがゆえに、諸々の憂いの生起があるとして、〔迷いの生存の〕諸々の根拠は、わたしによって、まさに、知り尽くされた。  ヴァーシッティーは〔語った〕。 http://web.archive.org/web/20080125104108/http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20070519.html#%E3%82%89%E3%81%B9%E3%82%8B ───────── 『テーリーガータ』 ゴータマさんを知る人の、こんな《生の声》がありますよ。 ───────── 217  繊細[ひよわ]な者たちは、〔自らの〕喉を掻き、諸々の毒を喰う。死児が〔身体の〕中に止まっている者たちは、両者(母子)ともども、災厄を経験する。 218  身重[みおも]の〔わたし〕は、〔道を〕行きつつ、死んだ夫を、道に見た。〔子を〕出産して、わたしは、自らの家に至り得なかった。 219  二子は命を終え、哀れな女の夫も、道で死んだ。母と父と兄弟は、ひとつの火葬の薪のなかで焼かれた(同時に荼毘された)。 220  滅亡した家系の哀れな女よ、おまえは、無量の苦しみを経験した。そして、おまえは、幾多数千の生のあいだ、涙を流した。 221  しかしてまた、〔わたしは〕それを、墓場の中で見た——子たちの肉が喰われたのを。家の者を失い、全ての者に難じられ、夫が死んだ〔わたし〕であるが、〔ついに〕不死〔の境地〕に到達した。 222  不死に至る、八つの支分からなる聖なる道(八正道)は、わたしによって修められた。涅槃〔の境地〕は実証され、わたしは、法(真理)の鏡を見た。 223  わたしは、〔貪欲の〕矢を折り、〔生の〕重荷を置いた者として、〔世に〕存している。わたしによって、為すべきことは為された。心が善く解脱したキサー・ゴータミー長老尼は、この〔詩偈〕を語った。 http://web.archive.org/web/20080125104108/http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20070519.html#%E3%82%89%E3%81%B9%E3%82%8B ───────── こんな《肉声》もあります。 彼女らが、ゴータマさんにマインド・コントロールされているのかどうかの判断は、お任せします。 そして、 実在したゴータマさんは、社会から見捨てられた、まったく顧みられなかった、最下層のこうした女性さえ見捨てず、受け入れ、教えを説き、導こうとした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答ををありがとうございます。  ◇ bragelonneさんの《非思考・非経験》なる考え方は、すでに仏典の中に存在し、仏典という形で公開されています、  ☆ これは たとえば アン‐アートマンなる説は 無梵無我一如という無神論の形態として けっきょく梵我一如なる信仰の類型に同じであると――その見方だけを取り出してよく解釈すれば――解釈することが出来ると わたしも捉えていますし すでに何度も言って来ています。  ただし 後世のブディストはいざ知らず ゴータマという人は そのことについて何にも知らなかったとも見ています。  信仰の形態として捉え得ていれば そのアン‐アートマンは けっきょくアートマンと同じ《非思考の庭なるチカラ つまり 神の霊》だと分かったはずであり そのことを説明していたはずだからです。  アン‐アートマンとアートマンとは どう同じでどう違うのか? これについて 何も分かっていなかった。つまりは このひとつの主題にかんがみても ゴータマ説は 支離滅裂である。と帰結されます。  そしてこの問題は  ◇ ゴータマがいた時代的、社会的背景を無視して語ることはできません。  ☆ ということとは 何も関係しません。ブラフマニズムがすでに このアートマン説を出しているのですから。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  ウパニシャッドなどでは、  アートマンは、起きているときは、心臓の奥底にひそみ、夜、心臓を抜け出す小人・プルシャであるなんて語られていますよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 基本は 《非思考》なはずです。  ▲ (ヰキぺ:アートマン) ~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3  § 1 概要  最も内側 (Inner most)を意味する〔* これはマチガイだと思われる。《息》の意だと思われる〕 サンスクリット語の Atma を語源としており、アートマンは個の中心にあり認識をするものである。それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。  § 2 ウパニシャッド  初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。その属性を「…である」と定義することはできないという。したがって、「…である」ものではない。    また、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)。  ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この最後尾の一文が 経験事象にもかかわるものとして説明されたアートマンであるということだと思います。  古代人の思考形式として 《非経験の場》から派生して 経験事象にも成るといった捉え方はしているようです。  ほかの説明では 基本としてあくまで非思考・非知の問題だと捉えられています。  ▲ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~~~  137  彼の法(教え)を聞いて・・・〔わたしは〕至福の境地を実証した。  138  一切の憂いは断たれ、捨てられ、これを終極としている。それあるがゆえに、諸々の憂いの生起があるとして、〔迷いの生存の〕諸々の根拠は、わたしによって、まさに、知り尽くされた(*)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という境地とは どういう中身なのですか? と問うています。言うだけなら 誰でも言えます。  (あ) すべてが 外形的な・輪郭としての説明に終始しています。  (い) 中身は どうかと問うと それは 《この上なき至福の境地であって 言葉には尽くせない。ただブッダと成った者だけが知っていて 互いによく分かり合える》という説明を繰り出す。  (う) あとは 《さとりとは何か?――苦から解脱である。苦とは何か?――さとりを得るのを妨げるものである》という説明もあります。  ――だいたい この三つが ゴータマ・マジックの手口です。    ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~   221 〔わたしは〕、・・・〔ついに〕不死〔の境地〕に到達した。  222  不死に至る、八つの支分からなる聖なる道(八正道)は、わたしによって修められた。涅槃〔の境地〕は実証され、わたしは、法(真理)の鏡を見た。  223  わたしは、〔貪欲の〕矢を折り、〔生の〕重荷を置いた者として、〔世に〕存している。わたしによって、為すべきことは為された。心が善く解脱したキサー・ゴータミー長老尼は、この〔詩偈〕を語った。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち すべては (あ) 外形的な説明です。  ▲  不死〔の境地〕に到達した / 八正道は、修められた / 涅槃〔の境地〕は実証され、法(真理)の鏡を見た / 心が善く解脱した  ☆ 中で  ▲ 223 〔貪欲の〕矢を折り  ☆ は 心のじっさいの状態を示していると言えば言えます。中身の問題です。  ただし ひとつには 《わたしは むさぼらない》と言葉で言おうと思えば誰でも言えます。  ひとつに 《むさぼるなかれ》を実行し切ったひとは 一人としていないと見たほうが 妥当であるでしょう。  ◇ 最下層のこうした女性さえ見捨てず、受け入れ、教えを説き、導こうとした。  ☆ から その理論には見るべきものがあるとは成りません。実験ノートは 白紙だったと知りました。それでも おれはさとったぞと言ったもん勝ちという情況が どういうわけか 展開された。よほどの山師だったと慮られます。  *(註) 《138: それあるがゆえに、諸々の憂いの生起があるとして、〔迷いの生存の〕諸々の根拠は、わたしによって、まさに、知り尽くされた》:  この命題をめぐって 注釈をおぎないます。  すなわち No.14で 《さとりの中身の問題》についての答えをわたしは例示しました。  ☆☆ (No.14お礼欄) 《真理がすべてにおいてすべてである状態》を ブッダであることとすれば よいでしょう。  ☆ このとき触れなかったのですが その《真理がすべてにおいて真理である状態》とは たしかにこの《138》のような命題としても 説明することができます。  すなわち   ☆☆(No.14お礼欄) そのとき・その場の人びとそれぞれの心について知っているならば / あのとき・あの場で あいつは これこれと言ったが それは あれそれの事情があったんだと分かれば   ☆ というふうな内容としてのみ説明していますが これを純理論的に述べるなら確かに:  ○ 世界のすべての事象についてその因果関係が分かること であるとか  ○ この世の因果関係をいっさい超えている。よって 有無や善悪や聖俗・正邪・義不義などなどのような二項対立の状態から自由である。  というふうに言おうと思えば言えるということになります。  ですが これでは 現実的ではありません。生身の人間にこういう知恵や知解能力が実現しているとは 思えません。(理念としては 言えます)。その意味で 取り上げませんでした。  ところが ここでこの《138》には それと似たような命題が出されています。要するに この世の《因縁起》をすべて把握しているといった人間の知性および境地として言われています。  結論として これは 外形的な説明である。と捉えます。  ですから さとりの内容としては 人間が互いにその心が分かって 意志疎通に妨げとなるような滞りが少ない状態 これを――依然として――ひとつの答えとします。

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     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • (スッタニパータ) ゴータマ・シッダッタが「仏」であることを示す章句は?

    読み落としと読み間違いが心配ですが、私の記憶ではスッタニパータのゴータマ・シッダッタは「人間」であって、「仏」とは読めませんでした。スッタニパータより新しい経典の記述を根拠とすることなしに、スッタニパータにはゴータマ・シッダッタが「仏」であると認識すべき章句がありますか。あれば章句の番号を挙げて下さると有り難いです。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ340に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 340 戒律の規定を奉じて、五つの感覚を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。 「切に世を厭い嫌う者となれ。」の真意の解説を希望します。ブッダの思想に通じている方の教説を希望します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータの第一人者

    ご存命の方で、スッタニパータの第一人者っていますか?

  • スッタニパータ805に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。 これは誰に対する説教とも書いてありません。「在家にとどまっていてはならない。」、これは誰への呼びかけですか。四章六節「老い」の一部ですから、家督を子息に譲った後の隠居への呼び掛けかも知れません。しかし、ここばかりでなくスッタニパータ全体に流れる雰囲気から判断して、釈尊は年齢に関わらず出家に勝る修行はないと説いているとみてよいのだと思います。 しかし、これはねずみ講と同じ構造ですから、こんな矛盾した教説はありません。出家者が増えれば功徳を積む側の人間がいなくなってしまい乞食が成立しなくなり破綻してしまいます。こういう無茶な理論は必ず改良される筈です。ブッダの教えと大乗仏教との間に、在家のまま自らの修行によって解脱を計る道を説いた人なり教典があってよさそうに思いますが実際はどうなのでしょうか。ブッダの後は一気に大乗仏教に飛んでしまうのですか。門外漢の直感としては中間的な教説があると推測します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ235に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は本来の生存に執著することなく、種子をほろぼし、それが成長することを欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が〈つどい〉のうちに存する。この真理によって幸せであれ。 今日では結婚しても自らの意思によって子を成さない男女も、非婚の男女も珍しくないでしょう。私の観るところ、これらの男女はスッタニパータ235でいう賢者の条件の一つを満たしていると判断します。さて、この判断はブッダの考えに適っていますか。何処かに考え違いがありますか。ブッダの思想に通じている方の説教を希望します。 よろしくお願いします。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • ゴータマは、解脱者のなのか?

    仏教の開祖・《ゴータマ》さんは、《解脱者》なのかどうか? ゴータマさん出家の動機が、《生・老・病・死》という《四苦》の克服であったことは、 多くの仏伝の伝えるところです。 しかし、 ゴータマさんは、 《老》い、《病》気になり、その病気がもとで《死》亡しています。 実際問題として、四苦を克服していない!! はてはて、 これはどうしたことか??? という疑問が、 数日前、わたしの頭に浮かびました。 1 ゴータマさんは、《苦》を克服、超克できたのか? 2 《解脱》は何からの解脱であったのか? 3 ゴータマさんは、本当に《解脱者》であったのか? 4 成道後のゴータマさんに、《煩悩・klesa》はあったのか? 教えてください。 よろしくお願いします。 大乗的な観点、南伝上座部的観点、原始仏教的な観点、 スピリチュアルからのアプローチ、 わたしの《ゴータマさん論》、《ゴータマ観》、 「仏教の説く《苦・duhka》とは」 などなど、 この質問に多少なりとも縁のある回答ならば、 大歓迎です。 よろしくお願いします(ペコリ)。