• 締切済み

スッタニパータのゴータマ批判

 コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

みんなの回答

回答No.13

こんばんはです。 △ 家を捨てるでもなく捨てないでもなく 住所を定めずにさまようでもなく彷徨わないでもなく 村の中で親交を結ぶことのないわけではなくあるわけでもない聖者 ◇これは大乗。しかし、ゴータマを起源にして、仏伝で告げるゴータマさんの教説の問題点や弊害などを克服しようとして、大乗の運動は起きたわけですよね。大乗はその発展形態の一つなのですから、それでいいのではないですか。仏教の内部で解決している、克服されている、と考えるべきなのでは。 ☆あるいはしかも ゴータマ自身の中道なる思想も ひとつの《教義》であるのではないか? ◇教義でよ、オシエですよ。詰まるところ、これは《八正道》ですもの。 ☆教義によって清らかになると言っているではないか? ・・・・ ◇教義などを学習し、それを知ることによっては、清らかにはならないでしょう。 それを理解し、実際に実践し、ヨーガなどによって、心が次第次第に浄化(?)されてゆくのであって、そして、心の平安が得られるんですよ。 ゴータマさんは、このことまで否定していないと思いますよ。 ☆☆ てめえが 《論争を挑んでいる》のではないか? ◇そんな無茶なことをおっしゃらないですくださいよ(苦笑い)。 文殊が維摩に「不二の法門とは何ですか?」と質問し、 維摩は何も答えない。 そして、 何も答えないというかたちで《不二の法門》を説いた。 これじゃ~、わからない。 答えに窮し、押し黙っているとしか見えない。 「みごとだ。みごとだ。さらに文字や言語も存在しない。これが真に不二の法門に入ることである」 by 文殊 なんてことは、文殊でもなければ、わかりこっこないです。 マーガンディヤが質問したから、 ゴータマさんは答えているわけでしょう。 このことをもって《論争を挑んでいる》というのは、あんまりなんじゃないですか。 ☆☆ この対話でマーガンディヤが 納得したというのは ゴータマもしくはこの編集者の独り善がりな見解である。 ◇確か、マーガンディヤは、この後、奥さんとともに出家しています。 一人残された美女のマーガンディヤの娘さんは、おじさんに引き取られ、そして、王様と結婚したはず。 例の《マーガンディヤ事件》のお話は、その後日談として作られたんですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ これは大乗。  ☆ もし ゴータマからさらにその思想の発展形態を持って来て補わなければ完結しないということであれば 《この上なき智慧のさとりを 誰もに先んじて 得た》という宣言は むなしいです。  スッタニパータの中では 欠陥思想だということでよろしいですか?  ◇ 教義ですよ、オシエですよ。詰まるところ、これは《八正道》ですもの。  ☆ ですから 論理は ぼろぼろであると言わねばなりません。    ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  教義などを学習し、それを知ることによっては、清らかにはならないでしょう。  それを理解し、実際に実践し、ヨーガなどによって、心が次第次第に浄化(?)されてゆくのであって、そして、心の平安が得られるんですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうなんですね。でしたら その《さとり ないし 心の平安》とは どういう中身なのか? これを説明すべきだと考えられます。万能細胞の存在までを しっかりと公表し説明すべきです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  「みごとだ。みごとだ。さらに文字や言語も存在しない。これが真に不二の法門に入ることである」 by 文殊  なんてことは、文殊でもなければ、わかりこっこないです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが 言わずと知れたゴータマ・マジックです。この伝家の宝刀を出せば たいていは イチコロであったのかも知れません。あるいは 例の《唯仏与仏》も アールマイティーです。いままで 大抵の人にとってはです。  ただし わたしのようなチンピラには 通用しません。永遠のペテンなるテクニック。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  マーガンディヤが質問したから、  ゴータマさんは答えているわけでしょう。  このことをもって《論争を挑んでいる》というのは、あんまりなんじゃないですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あれっ。そうでしたっけ。娘を嫁にどうかというところからだったですかね。  でも たとえ受け身であったとしても やはり《論争をいどむことはしない》というのが 聖者のあり方だと言っていると思いますよ。  ひとこと 《批判はする》と言えばよいのです。  ◇ 確か、マーガンディヤは、この後、奥さんとともに出家しています。  ☆ その話も 娘マーガンディヤーの後日譚と同じように 付け足しではないかと勘繰りますが もしほんとうだったとしたら それでも問題は残ります。  すなわち 問題は そのときどのように納得したか? です。それが書いてない。つまり いまこうやってわたしが批判しているような論理の破綻があるのだから そのことについて マーガンディヤでなくても誰でもいいから 追究して結論を明らかにすべきだと考えます。  というより すでに論理は破綻しています。水掛け論と言いますか あとから・あとから相手の議論に対して さらに何らかの別の論理でもよいから持ち出して 覆いかぶせる。こういうディベートのやり取りになってしまっているに過ぎません。このマーガンディヤの章にしてもです。無意味です。  もし中道がその思想なら 中道だとひとこと言えば 済みます。そういう欠陥思想だと考えざるを得ません。もっとも このスッタニパータでは 勝負をしないということであれば それは もう議論はそこまでですが。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.12

>「そうですか。優秀ですね。」 いえ、パソコンに関しては、全てはテクニカルな問題です。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。苦手でして。  FlashPlayer もヴァージョンアップせよと言うんですけれど 何だか マッカフィーに巻き上げられるのではないかとおそれるもので。  ご投稿をありがとう。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.11

bragelonne様、どうも。 >「このように神もしくは神の霊は 呼び名が違っても みな同じです。神が 人間の思考や想像によって その存在が変わるわけがありません。変わったら それは 人間の考え想像した産物でしかありません。おもちゃの神です。」 「OSからドライバーから、全部1から、やり直したら、同じパソコンなのにパフォーマンスが上がった」 は、あるようです。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。優秀ですね。  ご回答をありがとうございます。  でも 神は まったく変わりないと見るべきでしょうね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.10

bragelonne様、こんにちは。 「怒り」や、「愛欲」は、「旧い皮」なんですね。 なかなか、そこまでは。 「患者に対して求めることが、医者から見ても「それは大変だろう」という」 >「アン・インストール」 パソコンの用語ですが、OSやドライバーをアン・インストールしたら大事でしょうが、 例えば、ゲームなどをアン・インストールしたら、教育ママは大喜びかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・OSやドライバーをアン・インストールしたら大事でしょうが、・・・  ☆ けっきょく《非経験の場――神のことですが――》をアンインストールしたとしても それは仮りに言って《無い神》としての神であるしかないわけです。神が神であることに変わりはありません。呼び方が違ってくるだけです。  すなわち   アートマン(霊我):《有る神:ブラフマン》   ↓   アン‐アートマン(無我):《無い神》   ↓   ブッダター(仏性):《有る神:アミターバ・ブッダ》  このように神もしくは神の霊は 呼び名が違っても みな同じです。神が 人間の思考や想像によって その存在が変わるわけがありません。変わったら それは 人間の考え想像した産物でしかありません。おもちゃの神です。  ★ 「怒り」や、「愛欲」は、「旧い皮」なんですね。 / なかなか、そこまでは。  ☆ いえ。これは ゴータマが考えて表現している言葉です。それが 妥当であるかどうかは われわれが判断するところです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.9

こんにちは。 ───────── ◇ どちらの極端の立場をとらない、その中(中道)をいく。 ☆ とは言えないでしょうね。 ───────── マーガンディアのこの部分は、  ○論争の超越  ○中道 の文脈で語られることが多いので、これに従い、そして、わたしなりの解釈、味付けを加えました。 この部分は、  ○バラモン的苦行主義とヴェーダに基づく知(識)至上主義  ○六師外道にみられる業否定論(運命論、修行否定論など)と快楽主義 との対比でとらえるべきなのかもしれませんね。 こちらの方が筋がいいのかもしれない・・・。 バラモン階級に属するマーガンディアは、 「そんなことを誰が言っているのか? ヴェーダなどに、そんな教えはあるのか?」 と論拠を求めていますので。 で、ゴータマさんは、 「ねえよ。だから、俺が言ってるんだ」 とつながる。 そして、俺の話がばかばかしく見えるのは、 ~~~~~~~~ 841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。 http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm ~~~~~~~~ とつながっていく。 そして、 その両方の極端に基づく偏見を捨てちまえ!! と言いたいのでは、ないでしょうか。 ☆☆☆☆☆☆ これは、独り言なのですけれど、 この時代の論争というのは、結構、命がけなんですよ。 論争に負けると、弟子は離れますし、場合によっては、負けた人は勝った人の弟子にならなければなりません。そうなれば、授業料や寄付という形で、多くの財産を巻き上げられたりします。 公開討論会などでは、勝者は、多額の賞金や賞品をもらえたりと、 論争自体が世俗的利益に基づいていたりするので。 そして、勝った人は勝ったで、負けた人から命を狙われたりもします。 だから、 勝った人は、受け取るものを受け取ると、そそくさと逃げる(笑い)。 たしか、 ヤージュニャヴァルキアは、公開討論会で、論争をする前に、賞品の牛千頭を盗み出して逃げようとした(笑い)。 見つかって、未遂で終わりましたが・・・。 そうしたことに対する批判もあるのかもしれませんね、 この章段は。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ▲ (スッタニパータ) 844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。  ☆ だったら このように《ブラフマニズム》にさからう内容のオシエを説くこともあるまいに。――というのは 軽いジャブとしての揚げ足取りですが。  揚げ足取りを もうひとつ。《村の中で親交を結ぶことのない聖者》であるゴータマは なぜ このマーガンディヤと話をするのか?  ◇ その両方の極端に基づく偏見を捨てちまえ!! / と言いたいのでは、ないでしょうか。  ☆ だったら たとえば次のくだりも あらためなければならない。  ▲ 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者  △ 家を捨てるでもなく捨てないでもなく 住所を定めずにさまようでもなく彷徨わないでもなく 村の中で親交を結ぶことのないわけではなくあるわけでもない聖者    というふうに表現しなくてはならない。  ▲ 839 ・・・それら(教義や学問 戒律や道徳)を捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  △ それらを捨て去るでもなく捨て去らないでもなく 固執することなくでもなくあるでもなく、こだわることなくでもなくあるでもなく、平安であってというわけでもなくそうでないというわけでもなく、迷いの生存を願ってはならぬと一方で言う反面では 願ってはならぬとも言わない。(これが内心の平安である。と言ってもよいが それひとつにこだわることもない。)」  ▲ 841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。  ☆ ここで 《あなた(マーガンディヤ)はこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない》からと言って もう一方の極にある意見・すなわち《内心の平安》に想いを致す意見こそが ただしいと言うのも おかしい。《中道》を説いていない。  いや 内心の平安について想いをいだくでもなく・抱かないでもないのが 聖者だというのなら 《839》で 《・・・平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)》などという説き方をするのは おかしい。矛盾している。  あるいはしかも ゴータマ自身の中道なる思想も ひとつの《教義》であるのではないか? 《教義を捨て去っていない》ではないか? 教義によって清らかになると言っているではないか? ・・・・  ▲ 843 ・・・『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。  ☆ てめえが 《論争を挑んでいる》のではないか?  ▲ 847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。  ☆ この対話でマーガンディヤが 納得したというのは ゴータマもしくはこの編集者の独り善がりな見解である。納得していないなら 《想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく》という人びとの中に ゴータマも入っている。  《衝突している》と言わなくてはならない。《批判》とは そういうものです。卵の殻を破らなければ 目玉焼きは出来ない。  ▲ 843 またかれら(バラモン⇒ゴータマ)は『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?  ☆ と言っても そのように批判をおこなっている。おまえの考えは 間違っていると言って論争をいどんでいる。:  ▲ 841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。  ☆ こんな幼稚な論理による議論のどこが 智慧でありさとりであるのか? と言わねばならないはずです。  単なる水掛け論に過ぎないでしょう。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.8

要するに、苦しみの生存を終わらせるのが仏陀の教えであり方向性でありますが、対しブラジュロンヌさんは、生存は輝かしいものでありえるはずだという見解を抱いているゆえに、仏陀の教えと相容れないのだと思います。ただ違う方向を向いているに過ぎ無いのではないかと思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 そうなんですが 批判の論点は ちがいます。  まづは ご回答をありがとうございます。  基本的には 《おれはほかの誰も知らないさとりを得たのだと言っておきながら その中身を明らかにし得なかった》ではないか? ととがめています。  この質問では――すでに議論し終えたところなのですが 確認または覚え書きのために―― スッタニパータの具体的な文章を取り上げています。それらに対して こういう批判が成り立つはずだという点を問うています。    それから  ★ 生存は輝かしいものでありえるはずだという見解  ☆ についてですが これは ねむりねこさんに詳しくはお聞きしたほうがいいのですが 要するに 《自性清浄心》を説いたとか説かなかったとかとも言います。  ▲ (ヰキぺ:自性清浄) ~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84  パーリ増支部に、    「比丘たちよ、この心は光り輝いている。    ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」  とある(いわゆる心性本浄説)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから 《生が苦》だという最初のボタンのかけ方が 問題なのではないでしょうか?  《外からのさまたげ(客塵煩悩)》だというのなら いいわけなのです。大したことではないと言えます。われに還ればよい。  《生が 根本的な生存欲(無明≒煩悩≒渇愛)をやどす存在としてあるからには おれの説くさとりに拠らなければ 解脱できない。そういう苦だ》とのたまわったから 問題がこじれて来ている。――のではないですか?  つまり  ★ 違う方向を向いている  ☆ のでは決してなくて 同じ方向を向いているはずなのに このヤローは さとりの説明を出し惜しみしている。もしくは ほんとうにさとりを知らない。つまり ペテンである。――となりませんか?  ★ 苦しみの生存を終わらせ  ☆ たタメシはありません。ゴータマの阿呆! と一度は言わずして われわれはあたらしい次の一歩を踏み出し得ないのではないか? こういう思いです。  すでにゴータマの説法を卒業し より高い境地にある人も ゴータマ・マジックに罹った人びとのその病いを癒すことが 当面の課題なのではないか? です。  (この問題もしくはツトメは すでにおこなって来ましたが このところまたゴータマ病と思われる投稿が目立って来ていました。ので いまのこの仕儀になっています)。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.7

何度か投稿したが、お礼で色々と急所を突いてきたね。 かみしめてみるよ。 おそらく私の不真面目に遊ぶ姿勢が問題だろう。

bragelonne
質問者

お礼

 いや それほどしっかりとは把握できていないかも分かりません。もしそうだとしたら 悪しからずというふうにお願いします。  ご回答をありがとうございます。  ブレイクタイムにてご容赦を。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.6

>  ★ 忠犬ハチ公  ☆ って? もしそうなら その《忠実さ》がどういう中身であるのか? それを考えてみるとよい。と言ってやればよいのではないか。それは イカレポンチなる状態であるのだよと。 これに関してはこんな感じで指摘した。 無の悟りこそ真実であるゆえ、自らの信仰を滅し、釈迦の信仰を理解する事で無そのものとなる。 実のところ、理解するのは自らの信仰で、釈迦を理解してもどうしょうもない。 無意味の「無」だよ。 こんな感じの脅しをしてみたんだがね。 こうすると猿どもは無に恐怖を抱きとうざかろうとする。 実のところ人間たるもの、恐れを抱かず、果敢に理解しようとしてこそ、そんな理解しようとする自らを理解したと言えるんだ。 これを現代でなしえるなら、仏陀でなく仮面ライダーだよ。 それは死の悟りであり、悪の勇者である必要があるんだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★★(回答No.3) ちょっとは誉めてやらないと、忠犬ハチ公は納得しないよ。  ☆ 《忠犬ハチ公》をもオドシてみたので もう《誉めてはやらない》ということですか?  《批判》は 《誉めること》と同じ姿勢でいるはずですよ。こちらがですが。と思ってるんですがねぇ。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.5

A3だよ。 私はおおむね(遊んでもいるが)あなたがお礼で語った様な考え方で試行しているよ。 彼らに考えてみろと言っても、彼らは自己の主体性がない無我だよ。(おめでとう) 信仰に到達してこそ自己を自覚できるとするならばそれがない。 それで自分の考えがない。 そんな生きる屍に、十二分に無の悟りを教えたがいまだに理解していないようだ。 多分日本に限らす西洋のキリスト教徒なども似たようなものだろう。 最後の審判から派生したアセンションと言うオカルト話は滅びの宴そのものだ。 古代インドでは自己を自覚すると人間の中でも特別に仏陀だったのだろう。 その惨憺たるサル踊りを強引に結論付けるに救いを願うのがまず間違いだろう。 ところで、私は無の悟りを理解した自らの誉れをどうどうと世に問うつもりだ。 それは金がついて回るだろうから商売っ気があるんだよ。 親孝行をしてからそれでも金が余ったら全て遊ぶ金だ。 金のかからない親孝行ならずいぶんしているが現金決済も手続き上必要なんでね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  金儲けをけなすつもりは もともとないし どう考えてもないけれど するてえと 何かい? つまり 《生ける屍》をボコボコ殴って カネがはいるってわけかい?  まぁ いいけれど そのサル踊りを銭儲けの手蔓にするってえのも 何なんだろうねぇ。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.4

kazamidoriさん、こんばんは。 ゴータマさんの本名は、わからないんですよ。 仏伝が正しければ、 ゴータマさんのお父さんの名前は、浄《飯》王・suddhodana。 その兄弟には、白《飯》、甘露《飯》などがおりまして、ご《飯》が名前についている。 なのに、ゴータマさんには、《飯》の文字がついていない。ご《飯》をあらわす《odana》がついていない。 また、成就した者をあらわす、シッダッターやシッダールタが名というのも変。 これは、成道後の敬称と考えるのが自然でしょうね。 Buddaと同じです。 さらに、 ゴータマさんの子供は、ラーフラ(rAhula)で、障碍を意味する単語、もしくは、悪魔の名前です。 普通の感覚では、我が子にこのような名前はつけないでしょうし、 ゴータマさんにとって、我が子・ラーフラは出家の障碍、だから、ラーフラと名づけたのだという話は、あまりにもうますぎます。 といったふうに、 ゴータマさんの出自に関する仏伝の記述は、非常に奇妙なんですよ。 釈迦族の祖先は、リグヴェーダにその名が記されている、イクシュヴァーク・iksvAku王(Pali:オッカーカ・okkAka。漢訳:甘庶王)であるなんて大嘘に決まっています。 ちゃんちゃらおかしくて、とても信じられません。 理由はわかりませんが、 ある理由のために、ゴータマさんの本名は伏せられ、そして、忘れ去られた、 あるいは、 意図的に削除された、 とわたしは考えています。 聖者であり、大変尊いお方だったので、 本名を口にするのは恐れ多く、 そうこうしているうちに、本名が忘れされたのかもしれませんが・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  やっぱり《出家》というのは おかしいと感じます。古代インドでは出来たのかも知れませんが。  現代でも 暑いところでは出来ているのかも知れませんが。  要するに 一文無しになるのではなく 乞食になるということを意味します。このことが 社会生活における智慧のさとりに到るとは 思いたくないですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • スッタニパータ788、789の読み方は?

    中村 元訳「ブッダのことば」 788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。 789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。 790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。 此処で言う「見解」に対して、巻末に[註]があります。 ・諸々の英訳者は、viewと訳している。 ・ 諸宗教や哲学の「教義」を意味する。 さて、質問です。 質問1 788に該当する人をブッダは肯定しているのですか、否定しているのですか。ブッダが「見解」をどう評価しているのかが分かりません。 読解力のせいか、翻訳上の苦渋が原因で多少は表現に無理があるのか、私には790まで一連の文言が矛盾せず、かつ国語の上から不自然ではない解釈が思い浮かびません。肯定している場合は790と整合しないし、否定している場合は789が誤りとまでは言いませんが手を入れたくなる程度に不自然な文章だと感じてしまいます。 質問2 念のためにお訊きします。789の「人は智識によって苦しみを捨て得る」をブッダは肯定していますか、否定していますか。 よろしくお願いします。

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • (スッタニパータ) ゴータマ・シッダッタが「仏」であることを示す章句は?

    読み落としと読み間違いが心配ですが、私の記憶ではスッタニパータのゴータマ・シッダッタは「人間」であって、「仏」とは読めませんでした。スッタニパータより新しい経典の記述を根拠とすることなしに、スッタニパータにはゴータマ・シッダッタが「仏」であると認識すべき章句がありますか。あれば章句の番号を挙げて下さると有り難いです。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ235に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は本来の生存に執著することなく、種子をほろぼし、それが成長することを欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が〈つどい〉のうちに存する。この真理によって幸せであれ。 今日では結婚しても自らの意思によって子を成さない男女も、非婚の男女も珍しくないでしょう。私の観るところ、これらの男女はスッタニパータ235でいう賢者の条件の一つを満たしていると判断します。さて、この判断はブッダの考えに適っていますか。何処かに考え違いがありますか。ブッダの思想に通じている方の説教を希望します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ805に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。 これは誰に対する説教とも書いてありません。「在家にとどまっていてはならない。」、これは誰への呼びかけですか。四章六節「老い」の一部ですから、家督を子息に譲った後の隠居への呼び掛けかも知れません。しかし、ここばかりでなくスッタニパータ全体に流れる雰囲気から判断して、釈尊は年齢に関わらず出家に勝る修行はないと説いているとみてよいのだと思います。 しかし、これはねずみ講と同じ構造ですから、こんな矛盾した教説はありません。出家者が増えれば功徳を積む側の人間がいなくなってしまい乞食が成立しなくなり破綻してしまいます。こういう無茶な理論は必ず改良される筈です。ブッダの教えと大乗仏教との間に、在家のまま自らの修行によって解脱を計る道を説いた人なり教典があってよさそうに思いますが実際はどうなのでしょうか。ブッダの後は一気に大乗仏教に飛んでしまうのですか。門外漢の直感としては中間的な教説があると推測します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ340に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 340 戒律の規定を奉じて、五つの感覚を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。 「切に世を厭い嫌う者となれ。」の真意の解説を希望します。ブッダの思想に通じている方の教説を希望します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータの第一人者

    ご存命の方で、スッタニパータの第一人者っていますか?

  • ゴータマは、解脱者のなのか?

    仏教の開祖・《ゴータマ》さんは、《解脱者》なのかどうか? ゴータマさん出家の動機が、《生・老・病・死》という《四苦》の克服であったことは、 多くの仏伝の伝えるところです。 しかし、 ゴータマさんは、 《老》い、《病》気になり、その病気がもとで《死》亡しています。 実際問題として、四苦を克服していない!! はてはて、 これはどうしたことか??? という疑問が、 数日前、わたしの頭に浮かびました。 1 ゴータマさんは、《苦》を克服、超克できたのか? 2 《解脱》は何からの解脱であったのか? 3 ゴータマさんは、本当に《解脱者》であったのか? 4 成道後のゴータマさんに、《煩悩・klesa》はあったのか? 教えてください。 よろしくお願いします。 大乗的な観点、南伝上座部的観点、原始仏教的な観点、 スピリチュアルからのアプローチ、 わたしの《ゴータマさん論》、《ゴータマ観》、 「仏教の説く《苦・duhka》とは」 などなど、 この質問に多少なりとも縁のある回答ならば、 大歓迎です。 よろしくお願いします(ペコリ)。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?