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スッタニパータのゴータマ批判

NemurinekoNyaの回答

回答No.9

こんにちは。 ───────── ◇ どちらの極端の立場をとらない、その中(中道)をいく。 ☆ とは言えないでしょうね。 ───────── マーガンディアのこの部分は、  ○論争の超越  ○中道 の文脈で語られることが多いので、これに従い、そして、わたしなりの解釈、味付けを加えました。 この部分は、  ○バラモン的苦行主義とヴェーダに基づく知(識)至上主義  ○六師外道にみられる業否定論(運命論、修行否定論など)と快楽主義 との対比でとらえるべきなのかもしれませんね。 こちらの方が筋がいいのかもしれない・・・。 バラモン階級に属するマーガンディアは、 「そんなことを誰が言っているのか? ヴェーダなどに、そんな教えはあるのか?」 と論拠を求めていますので。 で、ゴータマさんは、 「ねえよ。だから、俺が言ってるんだ」 とつながる。 そして、俺の話がばかばかしく見えるのは、 ~~~~~~~~ 841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。 http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm ~~~~~~~~ とつながっていく。 そして、 その両方の極端に基づく偏見を捨てちまえ!! と言いたいのでは、ないでしょうか。 ☆☆☆☆☆☆ これは、独り言なのですけれど、 この時代の論争というのは、結構、命がけなんですよ。 論争に負けると、弟子は離れますし、場合によっては、負けた人は勝った人の弟子にならなければなりません。そうなれば、授業料や寄付という形で、多くの財産を巻き上げられたりします。 公開討論会などでは、勝者は、多額の賞金や賞品をもらえたりと、 論争自体が世俗的利益に基づいていたりするので。 そして、勝った人は勝ったで、負けた人から命を狙われたりもします。 だから、 勝った人は、受け取るものを受け取ると、そそくさと逃げる(笑い)。 たしか、 ヤージュニャヴァルキアは、公開討論会で、論争をする前に、賞品の牛千頭を盗み出して逃げようとした(笑い)。 見つかって、未遂で終わりましたが・・・。 そうしたことに対する批判もあるのかもしれませんね、 この章段は。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ▲ (スッタニパータ) 844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。  ☆ だったら このように《ブラフマニズム》にさからう内容のオシエを説くこともあるまいに。――というのは 軽いジャブとしての揚げ足取りですが。  揚げ足取りを もうひとつ。《村の中で親交を結ぶことのない聖者》であるゴータマは なぜ このマーガンディヤと話をするのか?  ◇ その両方の極端に基づく偏見を捨てちまえ!! / と言いたいのでは、ないでしょうか。  ☆ だったら たとえば次のくだりも あらためなければならない。  ▲ 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者  △ 家を捨てるでもなく捨てないでもなく 住所を定めずにさまようでもなく彷徨わないでもなく 村の中で親交を結ぶことのないわけではなくあるわけでもない聖者    というふうに表現しなくてはならない。  ▲ 839 ・・・それら(教義や学問 戒律や道徳)を捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  △ それらを捨て去るでもなく捨て去らないでもなく 固執することなくでもなくあるでもなく、こだわることなくでもなくあるでもなく、平安であってというわけでもなくそうでないというわけでもなく、迷いの生存を願ってはならぬと一方で言う反面では 願ってはならぬとも言わない。(これが内心の平安である。と言ってもよいが それひとつにこだわることもない。)」  ▲ 841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。  ☆ ここで 《あなた(マーガンディヤ)はこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない》からと言って もう一方の極にある意見・すなわち《内心の平安》に想いを致す意見こそが ただしいと言うのも おかしい。《中道》を説いていない。  いや 内心の平安について想いをいだくでもなく・抱かないでもないのが 聖者だというのなら 《839》で 《・・・平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)》などという説き方をするのは おかしい。矛盾している。  あるいはしかも ゴータマ自身の中道なる思想も ひとつの《教義》であるのではないか? 《教義を捨て去っていない》ではないか? 教義によって清らかになると言っているではないか? ・・・・  ▲ 843 ・・・『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。  ☆ てめえが 《論争を挑んでいる》のではないか?  ▲ 847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。  ☆ この対話でマーガンディヤが 納得したというのは ゴータマもしくはこの編集者の独り善がりな見解である。納得していないなら 《想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく》という人びとの中に ゴータマも入っている。  《衝突している》と言わなくてはならない。《批判》とは そういうものです。卵の殻を破らなければ 目玉焼きは出来ない。  ▲ 843 またかれら(バラモン⇒ゴータマ)は『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?  ☆ と言っても そのように批判をおこなっている。おまえの考えは 間違っていると言って論争をいどんでいる。:  ▲ 841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。  ☆ こんな幼稚な論理による議論のどこが 智慧でありさとりであるのか? と言わねばならないはずです。  単なる水掛け論に過ぎないでしょう。

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