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スッタニパータのゴータマ批判

a_honaの回答

  • a_hona
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回答No.27

覚りはあるのか?という疑問の方が、覚りの内容は覚った人にしかわからない、という説明に先行するように思えます。 分かる人にしか分からない事は、覚りに限らずたくさんあります。しかしだからと言って、それらのことが無いということはできません。自分にはわからないというだけの話です。 だから、ブッダの言うことは分からない、それだけの話のような気がします。 覚りというものがあるという話だが、それは自分にはわからない、そういうことなのだと思います。 一方で、覚りはきっとある、と思ってそれを目指す人があるのも事実です。 ただ、覚りというものへの対応の違いであって、釈尊の言葉に穴を探し出そうとする態度は、一体どのような対応に属するのか、と思います。 おそらく、覚りの存在を認める立場ではあるが、釈尊の覚りは認めないという対応なのでしょう。 スレッド全体を見渡しましたが、ブラジュロンヌさんの憤りは、分かる人にしか分からない、覚りというものの性質に対するそれであり、釈尊の言葉に対する憤りではないように思われます。 法華経のシャーリプトラにしても、再三問い、それで得た答えが、こういう時に覚る、覚りとはこう言うものだ、という説明だけでありました。それは何故かと言うと、覚りが体験であるからでは無いでしょうか。体験である故に口伝できるものではなく、他者と共有することが出来ない。ただ覚った人だけがその実像を知っている。 例えば本物の恐怖を知るのはそれを味わった人だけであるように、ニルヴァーナを知る人はそれを味わった人だけ、というようなことだと私は思います。 因みに私は、覚りというものはあるんだろうな、と思っています。しかしそれを目指すかと言えば、微妙です。何か、自分にとって最高のものを、最善のものを目指すとして、それが仮に普通のものだったとしても、結果、覚ればそれが覚りだったのであり、覚らなければそれは覚りではなかったと、結果論に落ち着くものだと思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 覚りはあるのか?という疑問の方が、覚りの内容は覚った人にしかわからない、という説明に先行するように思えます。  ☆ それは 一たん誰かが おれはさとったと言ったあとに そのさとりとは何か? さとりなんてあるのか? という問いを持つということではないのですか?  めざめた(ブッダ)と誰かが言った。それは 眠っていて目が覚めたという日常生活におけるふつうのコトとは別に あたかもその意味から比喩の用法をつくった。それは 人間の知恵や判断力などをふくむ人格全体としての境地などの意味に拡大解釈してこの言葉を使った。  それは どういうことか? と人びとは問う。それに対して   覚りの内容は覚った人にしかわからない  という答えが返って来た。つまり ゴータマ・マジックです。  ★ 分かる人にしか分からない事は、覚りに限らずたくさんあります。しかしだからと言って、それらのことが無いということはできません。自分にはわからないというだけの話です。  ☆ それは むしろ人間という存在が―― 一般的に言えばおのおの自由意志によって生きているからにはその自由選択の軌跡がそれぞれの主観として違って来るからには―― 《分かる人にしか分からない》と捉えられるのではありませんか?  ところが アン‐アートマンを説いたあと そのことの意味をけっきょく自分でも理解が行き届かず じつは アートマンなる霊我と同じことを言っていると分かったであろうときにも 何もあらためなかった。軌道修正はしなかった。(おそらく メンツが立たないと思ったのであろう)。そういった失態を見せている本人にあっては  ★ 自分にはわからないというだけの話です。  ☆ というより そうではなく 《自分にも分かっていない》。ということになるとしか考えられないのです。一般論ではないのです。あくまでいまは ゴータマ論なのです。  ★ 一方で、覚りはきっとある、と思ってそれを目指す人があるのも事実です。  ☆ 誰も それを否定してはいないでしょう。二千年という時間をかけても 親鸞よりほかの人は それが分からない。親鸞にしても ゴータマとは違う内容である。――そういう実際問題です いまは。  ★ ただ、覚りというものへの対応の違いであって、釈尊の言葉に穴を探し出そうとする態度は、一体どのような対応に属するのか、と思います。  ☆ この判断には すでに敢えて言えばどちらの側に就くかをめぐる政治的な立ち場が表明されています。  穴があるかどうかを確かめることをも含む問いとしての《さとりとは何か? そんなものはあるのか?》は 決して《粗探し》を目的とした問い求めではありません。  つまりその問い求めに対してすでに《釈尊の言葉に穴を探し出そうとする態度》という規定をするのなら 《粗探しは やめろ》という政治的な意図がふくまれています。  なぜやめなければならないのですか? すでにゴータマ・マジックが どういうわけか 人びとに迎え入れられている情況がある。ゆえに その情況を否定することになることは しなさんなと言っているわけですが 常識がつねにただしいと あなたはどうして言えますか?   波風を立てるな! という心つもりがあると思われますが それは 何故ですか? つまり ひょっとしたら何もない万能細胞発見宣言であるかも知れないのです。たとえ信頼し信用していても その中身は どういうことなんだ? と尋ねます。問い求めます。  つまり この上なき知恵のさとりを得たという成道宣言をしたのは 誰ですか? そのような宣言をしオシエを説いたということは もしそれが スッカラカンの中身だったら どうなりますか? それこそ 世間に要らぬ波風を立てていることではないのですか?   ゴータマが 初めに世間にさからって波風を立てたのです。哲学は これをとことん追究します。二千年もそうしているぢゃありませんか。一番弟子のシャーリプトラにしても ゴータマに信義をつくしてこの問い求めを死ぬまでおこなった。つまり 二千年は要らないのであって このシャーリプトラの態度・振る舞いにおいてすべてが語られることになった。それを明らかにする作業は 哲学のしごとです。  この真理の尋究というつとめを ただただ世間のジョウシキなる立ち場から踏みつぶそうとする態度は 《一体どのような対応に属するのか、と思います》。  ★ おそらく、覚りの存在を認める立場ではあるが、釈尊の覚りは認めないという対応なのでしょう。  ☆ 少し違います。《ゴータマの思想は 支離滅裂であり ペテンである》という対応です。それを顕揚するのは 阿呆であるという結論です。哲学ではないという意味です。  ★ それは何故かと言うと、覚りが体験であるからでは無いでしょうか。  ☆ この反論が ゴータマ・マジックでしかないと言っています。唯仏与仏の《論理》です。これまでに何億何兆回もこのマジック論理の前に あたらまじめなたましいが道をあやまったか。人生を棒に振ったか。その罪作りに あなたは加担しているのですよ。  ★ 体験である故に口伝できるものではなく、他者と共有することが出来ない。ただ覚った人だけがその実像を知っている。  ☆ と言わせるのは いったい何なんだ? といちど心を落ち着けてみづからに問うてみるとよい。そのオールマイティの《化城》論理が 人びとの DNA にまで浸みこんでいる。ただただ条件反射として 口をついて出て来る。だけの状態です。ゴータマ・ロボットです。  ★ 例えば本物の恐怖を知るのはそれを味わった人だけであるように、ニルヴァーナを知る人はそれを味わった人だけ、というようなことだと私は思います。  ☆ ここは 哲学カテです。シュウキョウの時間ではありません。そんなことは 勝手にやってくれというのは 話の大前提です。たとえ未体験者であっても 真理の徒は そこに何があるのか。見るべきものは何か? と問い求めます。  ぢゃあ こう受け留めてください。哲学という問い求めによっても分からない部分は 体験して分かっている人びとにすべてゆだねます。その代わり 哲学として分かる部分については よいものはよしとし 間違っているところはマチガイだと言う。こういう仕事をおこなっているのだと理解してください。  というのは まったくふつうの探究なはずです。それに反論を 同じ化城論理で繰り返し繰り返し突っ込んでくるのは ただ白旗を挙げるのがいやだと言っているだけではないのですか?  ★ 因みに私は、覚りというものはあるんだろうな、と思っています。しかしそれを目指すかと言えば、微妙です。何か、自分にとって最高のものを、最善のものを目指すとして、それが仮に普通のものだったとしても、結果、覚ればそれが覚りだったのであり、覚らなければそれは覚りではなかったと、結果論に落ち着くものだと思っています。  ☆ わるいが あたりまえです。小学生でも知っている。しかもそれを いまここに出して来るというのは 何とか目先をズラシ 論旨をすれ違わせ 世間のジョウシキを どういうわけか守ろうとしている。に過ぎません。二千年の《栄光》がくづれるのを見るのは しのびないですか?  あ_ほなさん 目覚めてください。

bragelonne
質問者

補足

 あるいは こういうことですか。  つまり ぶらじゅろんぬなどと名乗るどこの馬の骨だか分からないヤローが あのゴータマ・シッダッタなる神さんのオシエを負かしてしまった。そんなことがあるものか。これは悪夢だ。――でしょうか。  シャーリプトラがすでに ゴータマをあたたかく見守っていたし その姿勢の内にしかるべき批判をもおこなっていた。  また さとりの中身については 親鸞が《義無きを以って義とす》と明らかにしている。  わたしはこれらを確認しただけ。その背景としての・もしくは基礎としての神観ないし信仰論は わたしの仕事になります。(と言っても すべてはアウグスティヌスの請け売り。ローマ教会批判など アウグスティヌスに逆らっているところも多くありますが そのみなもとは このアウレリウスです。さらにその思想のみなもとは 信仰の問題だと思います。そしてそれは 普遍的なものであり 万人にとって共通であるとさえ思っています)。

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