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スッタニパータのゴータマ批判

NemurinekoNyaの回答

回答No.24

ゴータマ・仏陀が説いたとされる教えが問題なのですか、 説法や教導の方法が問題だと言っているのですか、 それとも、 ゴーダマ個人やその人格を否定しているのですか? わたしは、ゴータマ・仏陀は、かれの説いた教えという文脈の中で語られるべきだと考えますが。 そして、 bragelonneさんの《非思考・非経験》なる考え方は、すでに仏典の中に存在し、仏典という形で公開されています、 と言っています。 説法や教導の方法については、 ゴータマがいた時代的、社会的背景を無視して語ることはできません。 現代の日本のように、誰しも文字が読めるわけでもなく、初等、中等教育などを受けているわけでもありません。 こうした事情を無視し、古代インドがあたかも現代日本のような状況であったかのようなことを前提にし、語るのはいかがなのでしょうか。 文字を読めない、知識もない、呪術的な迷妄に囚われている人に、その理解力をまったく無視し、これこそが真実なのだと、理解の及ばないことを説くのは現実的な対処法ではなく、その意味において、無責任と断罪されて仕方がないでしょう。そして、大切なのは、その人の置かれている今の状況でしょう。 ☆☆ そんなことは あたりまえです。 ◇本当に当たり前のことですか。 この《あたりまえ》は、bragelonneさんにとっての《あたりまえ》なのではないのですか。 わたしが知る限り、 ゴータマが実在した古代インドの社会において、このことは当たり前のことではありませんよ。 ウパニシャッドなどでは、 アートマンは、起きているときは、心臓の奥底にひそみ、夜、心臓を抜け出す小人・プルシャであるなんて語られていますよ。 バラモン有力学派の一つ、サーンキヤは、プラクリティとプルシャの二元論。アートマン・プルシャは、プラクリティを起源にする物質によってとらえられている。しかし、独存し、我々とは無関係。人の覚性、理性ともいうべき《ブッディ・buddhi》は物質原理ともいうべきプラクリティから展開する、といっています。 また、《梵我一如》などといった秘説・秘教(?)は、師から弟子へのみ、しかも優秀な弟子にのみ伝えられるもので、公開の教えではありませんよ。関係者以外の部外者には決して漏らしてはいけない。 どうして、こうしたことを無視するのですか? また、現代においても、 観念としての神や教義で語られる神をもって神とする人は、非常に多いですよ。 こうしたことは、けっして、《あたりまえ》や《あたりまえのこと》ではないのではないでしょうか。 ☆☆☆☆☆☆ 『スッタニパータ』は、出家しちゃった人に述べた教えです。 それも、パーリ語聖典の中の、ごくごく一部のオシエ。 「木を見て、森を見ない」ってことになっていませんか。 ───────── 133  わたしは、子〔の死〕の憂い悲しみによって、苦悩し、放心の者となり、想いが離れた者として、〔世に有った〕。わたしは、裸で、さらには、髪を振り乱して、そこかしこを渡り歩いた。 134  道々の塵芥場[ごみすてば]において、墓場において、そして、諸々の道において、飢えと渇きに引き渡された者として、三年のあいだ、〔わたしは〕歩んだ。 135  しかして、〔わたしは〕ミティラ(地名)の城市へと赴いた善き至達者(ブッダ)を見た——調御されざる者たちの調御者を——何ものも恐れない正覚者(ブッダ)を。 136  〔わたしは〕自らの心を得て(正気を取り戻して)、〔覚者を〕敬拝して、近坐した。彼は、ゴータマ(ブッダ)は、慈しみ〔の思い〕によって、わたしに法(教え)を示した。 137  彼の法(教え)を聞いて、〔わたしは、家から〕家なきへと出家した。教師(ブッダ)の言葉に専念する者となり、〔わたしは〕至福の境地を実証した。 138  一切の憂いは断たれ、捨てられ、これを終極としている。それあるがゆえに、諸々の憂いの生起があるとして、〔迷いの生存の〕諸々の根拠は、わたしによって、まさに、知り尽くされた。  ヴァーシッティーは〔語った〕。 http://web.archive.org/web/20080125104108/http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20070519.html#%E3%82%89%E3%81%B9%E3%82%8B ───────── 『テーリーガータ』 ゴータマさんを知る人の、こんな《生の声》がありますよ。 ───────── 217  繊細[ひよわ]な者たちは、〔自らの〕喉を掻き、諸々の毒を喰う。死児が〔身体の〕中に止まっている者たちは、両者(母子)ともども、災厄を経験する。 218  身重[みおも]の〔わたし〕は、〔道を〕行きつつ、死んだ夫を、道に見た。〔子を〕出産して、わたしは、自らの家に至り得なかった。 219  二子は命を終え、哀れな女の夫も、道で死んだ。母と父と兄弟は、ひとつの火葬の薪のなかで焼かれた(同時に荼毘された)。 220  滅亡した家系の哀れな女よ、おまえは、無量の苦しみを経験した。そして、おまえは、幾多数千の生のあいだ、涙を流した。 221  しかしてまた、〔わたしは〕それを、墓場の中で見た——子たちの肉が喰われたのを。家の者を失い、全ての者に難じられ、夫が死んだ〔わたし〕であるが、〔ついに〕不死〔の境地〕に到達した。 222  不死に至る、八つの支分からなる聖なる道(八正道)は、わたしによって修められた。涅槃〔の境地〕は実証され、わたしは、法(真理)の鏡を見た。 223  わたしは、〔貪欲の〕矢を折り、〔生の〕重荷を置いた者として、〔世に〕存している。わたしによって、為すべきことは為された。心が善く解脱したキサー・ゴータミー長老尼は、この〔詩偈〕を語った。 http://web.archive.org/web/20080125104108/http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20070519.html#%E3%82%89%E3%81%B9%E3%82%8B ───────── こんな《肉声》もあります。 彼女らが、ゴータマさんにマインド・コントロールされているのかどうかの判断は、お任せします。 そして、 実在したゴータマさんは、社会から見捨てられた、まったく顧みられなかった、最下層のこうした女性さえ見捨てず、受け入れ、教えを説き、導こうとした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答ををありがとうございます。  ◇ bragelonneさんの《非思考・非経験》なる考え方は、すでに仏典の中に存在し、仏典という形で公開されています、  ☆ これは たとえば アン‐アートマンなる説は 無梵無我一如という無神論の形態として けっきょく梵我一如なる信仰の類型に同じであると――その見方だけを取り出してよく解釈すれば――解釈することが出来ると わたしも捉えていますし すでに何度も言って来ています。  ただし 後世のブディストはいざ知らず ゴータマという人は そのことについて何にも知らなかったとも見ています。  信仰の形態として捉え得ていれば そのアン‐アートマンは けっきょくアートマンと同じ《非思考の庭なるチカラ つまり 神の霊》だと分かったはずであり そのことを説明していたはずだからです。  アン‐アートマンとアートマンとは どう同じでどう違うのか? これについて 何も分かっていなかった。つまりは このひとつの主題にかんがみても ゴータマ説は 支離滅裂である。と帰結されます。  そしてこの問題は  ◇ ゴータマがいた時代的、社会的背景を無視して語ることはできません。  ☆ ということとは 何も関係しません。ブラフマニズムがすでに このアートマン説を出しているのですから。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  ウパニシャッドなどでは、  アートマンは、起きているときは、心臓の奥底にひそみ、夜、心臓を抜け出す小人・プルシャであるなんて語られていますよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 基本は 《非思考》なはずです。  ▲ (ヰキぺ:アートマン) ~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3  § 1 概要  最も内側 (Inner most)を意味する〔* これはマチガイだと思われる。《息》の意だと思われる〕 サンスクリット語の Atma を語源としており、アートマンは個の中心にあり認識をするものである。それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。  § 2 ウパニシャッド  初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。その属性を「…である」と定義することはできないという。したがって、「…である」ものではない。    また、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)。  ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この最後尾の一文が 経験事象にもかかわるものとして説明されたアートマンであるということだと思います。  古代人の思考形式として 《非経験の場》から派生して 経験事象にも成るといった捉え方はしているようです。  ほかの説明では 基本としてあくまで非思考・非知の問題だと捉えられています。  ▲ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~~~  137  彼の法(教え)を聞いて・・・〔わたしは〕至福の境地を実証した。  138  一切の憂いは断たれ、捨てられ、これを終極としている。それあるがゆえに、諸々の憂いの生起があるとして、〔迷いの生存の〕諸々の根拠は、わたしによって、まさに、知り尽くされた(*)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という境地とは どういう中身なのですか? と問うています。言うだけなら 誰でも言えます。  (あ) すべてが 外形的な・輪郭としての説明に終始しています。  (い) 中身は どうかと問うと それは 《この上なき至福の境地であって 言葉には尽くせない。ただブッダと成った者だけが知っていて 互いによく分かり合える》という説明を繰り出す。  (う) あとは 《さとりとは何か?――苦から解脱である。苦とは何か?――さとりを得るのを妨げるものである》という説明もあります。  ――だいたい この三つが ゴータマ・マジックの手口です。    ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~   221 〔わたしは〕、・・・〔ついに〕不死〔の境地〕に到達した。  222  不死に至る、八つの支分からなる聖なる道(八正道)は、わたしによって修められた。涅槃〔の境地〕は実証され、わたしは、法(真理)の鏡を見た。  223  わたしは、〔貪欲の〕矢を折り、〔生の〕重荷を置いた者として、〔世に〕存している。わたしによって、為すべきことは為された。心が善く解脱したキサー・ゴータミー長老尼は、この〔詩偈〕を語った。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち すべては (あ) 外形的な説明です。  ▲  不死〔の境地〕に到達した / 八正道は、修められた / 涅槃〔の境地〕は実証され、法(真理)の鏡を見た / 心が善く解脱した  ☆ 中で  ▲ 223 〔貪欲の〕矢を折り  ☆ は 心のじっさいの状態を示していると言えば言えます。中身の問題です。  ただし ひとつには 《わたしは むさぼらない》と言葉で言おうと思えば誰でも言えます。  ひとつに 《むさぼるなかれ》を実行し切ったひとは 一人としていないと見たほうが 妥当であるでしょう。  ◇ 最下層のこうした女性さえ見捨てず、受け入れ、教えを説き、導こうとした。  ☆ から その理論には見るべきものがあるとは成りません。実験ノートは 白紙だったと知りました。それでも おれはさとったぞと言ったもん勝ちという情況が どういうわけか 展開された。よほどの山師だったと慮られます。  *(註) 《138: それあるがゆえに、諸々の憂いの生起があるとして、〔迷いの生存の〕諸々の根拠は、わたしによって、まさに、知り尽くされた》:  この命題をめぐって 注釈をおぎないます。  すなわち No.14で 《さとりの中身の問題》についての答えをわたしは例示しました。  ☆☆ (No.14お礼欄) 《真理がすべてにおいてすべてである状態》を ブッダであることとすれば よいでしょう。  ☆ このとき触れなかったのですが その《真理がすべてにおいて真理である状態》とは たしかにこの《138》のような命題としても 説明することができます。  すなわち   ☆☆(No.14お礼欄) そのとき・その場の人びとそれぞれの心について知っているならば / あのとき・あの場で あいつは これこれと言ったが それは あれそれの事情があったんだと分かれば   ☆ というふうな内容としてのみ説明していますが これを純理論的に述べるなら確かに:  ○ 世界のすべての事象についてその因果関係が分かること であるとか  ○ この世の因果関係をいっさい超えている。よって 有無や善悪や聖俗・正邪・義不義などなどのような二項対立の状態から自由である。  というふうに言おうと思えば言えるということになります。  ですが これでは 現実的ではありません。生身の人間にこういう知恵や知解能力が実現しているとは 思えません。(理念としては 言えます)。その意味で 取り上げませんでした。  ところが ここでこの《138》には それと似たような命題が出されています。要するに この世の《因縁起》をすべて把握しているといった人間の知性および境地として言われています。  結論として これは 外形的な説明である。と捉えます。  ですから さとりの内容としては 人間が互いにその心が分かって 意志疎通に妨げとなるような滞りが少ない状態 これを――依然として――ひとつの答えとします。

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