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スッタニパータ340に関して

中村 元訳「ブッダのことば」 340 戒律の規定を奉じて、五つの感覚を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。 「切に世を厭い嫌う者となれ。」の真意の解説を希望します。ブッダの思想に通じている方の教説を希望します。 よろしくお願いします。

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  • magga
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回答No.1

sono-higurashiさま、こんにちは。 私の見解を述べたいと思います。 戒律は執着から離れ煩悩から離れ、慈悲喜→捨へいざなうための危機管理マニュアルだと感じています。 それをして日常生活の中の執着から離れ、感覚や身体に対する執着・誤解を拭い去るように。 <<「切に世を厭い嫌う者となれ。」>> このように言うほどに我々の「好ましい・欲しい」と言う執着は強いものなのでしょう。そこまでの思いをもって初めてはなれられるほどに執着を保っている。 煩悩の火に焼かれることのないように。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

sono-higurashi
質問者

お礼

>>このように言うほどに我々の「好ましい・欲しい」と言う執着は強いものなのでしょう。そこまでの思いをもって初めてはなれられるほどに執着を保っている。 なるほど、これで文意が通じます。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

その他の回答 (1)

  • mmky
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回答No.2

「切に世を厭い嫌う者となれ。」の真意の解説 ですか。釈尊(仏陀)の真の悟りを知る必要がありますね。単に肉体の執着の原因を遠ざけろといっているのではないですね。 釈尊(仏陀)の真の悟りとは、「人間は本来霊であり永遠に生き続ける存在である。従って生老病死など本来はないのである。しかし修行目的のみの理由で肉体生命をもつのである。ところが肉体を持つと肉体が自分だと思って多くの勘違いを起こす。」というものですね。 だから肉体を通じて見る世界は仮の世界である。これを一言で中国語翻訳では「諸法無我」といってるのですね。ここでの法「だるま」は物や事象を意味してます。「諸法無我」は「切に世を厭い嫌う者となれ。」と同じ意味ですね。これは修行僧への一点語ですから、まず修行僧にこの世や肉体の自分から離れよという意味のみで、この世や肉体の自分を否定してるわけではないのですね。あの世が真の世界でこの世は仮の世界という逆転の見方をすれば理解できるでしょう。

sono-higurashi
質問者

お礼

>>釈尊(仏陀)の真の悟りを知る必要がありますね。 これでは私に分かる道理がないのが判ります。実際、これに続く説明も折角ですが理解できませんでした。 有り難うございました。また、適当な折があればよろしくお願いします。

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